ノルウェー南東大学のグレン・ディーセン教授のYouTube番組に、フランス陸軍予備役将校であり、元フランス国防省のアナリスト、2015年から2022年までドンバス地域で欧州安全保障協力機構(OSCE)の監視員を務めた経験を持つ、ブノワ・パレ氏が登壇した。
欧州安全保障協力機構(OSCE)は、ミンスク合意の履行を監視する「唯一の国際機関」として、ウクライナ特別監視団(OSCE SMM)を現地に派遣し、停戦・重火器撤収・人道状況などを監視し、日報を出している組織である。その報告書は、以下で閲覧できる。
パレ氏は、「中立」であることが求められるOSCEの職員として、ウクライナ紛争が勃発するまで、ドンバス紛争の続く現地にいた。ミンスク合意の履行を監視する立場のOSCEの職員でなければ知り得ない重要な情報を、ディーセン教授のYouTube番組で、1時間50分近くにわたって語っている。非常に貴重な証言である。
パレ氏は、『スプートニク』の記事を通じて、イヴァン・カチャノフスキー教授の研究と出会い、西側諸国が作り上げた「ユーロ・マイダン革命」の「物語」とは、まったく異なる見方をするようになった経緯を説明した。
ウクライナ人であるイヴァン・カチャノフスキー(Ivan Katchanovski)氏は、ウクライナからカナダへ移住し、2014年10月、オタワ大学政治学部ウクライナ研究科で論文(題名未確認)を発表し、同年、続けてアルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所主催の国際会議「国境交渉:クリミア、ヨーロッパ、ウクライナの経験比較(Negotiating Borders: Comparing the Experience of Crimea, Europe and Ukraine)」を発表した。
パレ氏がここで言及しているのは、前者の論文だと推察される。
カチャノフスキー教授は、2015年にはサンフランシスコで開催されたアメリカ政治学会年次総会で、「ウクライナのマイダン広場における『狙撃兵による虐殺』」を発表するなど、ウクライナのマイダン・クーデターの実態について、詳しく検証を行なっている。
カチャノフスキー教授の研究は、2023年に『マイダン虐殺裁判と調査の暴露~ウクライナ・ロシア戦争と関係への影響』として出版された。
- The “Snipers’ Massacre” on the Maidan in Ukraine(Conference: Annual Meeting of American Political Science Association at San Francisco)
IWJが全訳した、タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳シリーズの第6回で、訳註としてカチャノフスキー教授の研究を紹介している。
また、ウクライナ人であるカチャノフスキー教授を、Wikipediaでは、わざわざ「ロシア人」と虚偽の記述をして、いかにも信頼性のない人物としていたことを、岩上安身による在野研究者・嶋崎史崇氏へのインタビューで指摘した。
ブノワ・パレ:OSCE監視員がウクライナ戦争の嘘を暴く
グレン・ディーセン
2025年8月31日
ブノワ・パレ氏は、フランス陸軍予備役将校であり、元フランス国防省のアナリスト。また、2015年から2022年までドンバス地域で欧州安全保障協力機構(OSCE)の監視員を務めた経験を持つ。
ウクライナからカナダへ移住した、オタワ大学のイヴァン・カチャノフスキー教授の研究に出会い、「ユーロマイダン革命」が西側の作り上げた「物語」であることに気づいた!!
グレン・ディーセン教授(以下、ディーセン教授と略す)「皆さん、こんにちは。
ようこそお戻りくださいました。本日は、フランス陸軍予備役将校であり、元フランス国防省顧問であるブノワ・パレ氏をお迎えしています。本日の議論において最も重要な点は、2015年から2022年にかけてドンバス地域でOSCEの監視員を務められていた、ということです。
また、この件についての著書も執筆されています。
この番組へようこそ」
ブノワ・パレ氏(以下、パレ氏と略す)「ありがとうございます。お招きいただき感謝します。
一点だけ補足すると、私はフランス国防省の顧問ではなく、アナリストでした」
ディーセン教授「アナリストだったのですね」
パレ氏「そうです」
ディーセン教授「なるほど。あなたの著書のタイトルは『ウクライナで監視員として見たこと』とあり、副題には『メディアの物語(narrative)から遠く離れて』と書かれています。これは非常に興味深いと思いました。というのも、この戦争は、2つのレベルで戦われているように思えるからです。
1つは、もちろん現場での戦争であり、NATOが多大な役割を果たしています。そしてもう1つは物語の戦争です。物語を伝えることによって政策を形作るだけでなく、時には政策を固定化してしまうことがあります。
ですから、これは非常に興味深い観点だと思いました。
あなたのOSCE(欧州安全保障協力機構)の観察内容も、非常に興味深いと思います。
なぜなら、この戦争は挑発された(provoked)ものなのか、されなかったもの(unprovoked)なのか? NATOの動機は何か? 我々は、本当にウクライナを思いやる博愛的な意図だけで動いているのか? それとも、ウクライナを代理として利用しているのか? という問いに直結するからです。
しかし、まずは、より一般的な質問から始めたいと思います。
2014年に、ウクライナの(ビクトル・)ヤヌコヴィッチ大統領が失脚したあと、ロシアが介入してクリミアを併合し、同時にドンバスでの紛争が始まりました。現地の人々は、(ヤヌコヴィッチ政権を転覆した)そのような動きに抵抗しているように見えました。
ドンバスでの初期の数年間を、あなたはどのように経験したのでしょうか?」
パレ氏「初期の数年間を、どのように経験したか、ですね?
私がドンバスに派遣されたのは、2015年7月でした。それ以前は、私は基本的にニュースメディアから情報を得ていました。当時は、SNSに依存していませんでした。まだ、それほど発達していなかったから。私は、主流新聞を読み、テレビのプライムタイムのニュースを視聴していました。
これらの情報は、いわゆる『物語』を形成していました。ヤヌコヴィッチ大統領は、『親ロシア派で深刻に腐敗』しており、『欧州連合との貿易協定締結を拒否することで、ウクライナ国民の利益に反する行動を取った』人物として描かれていました。さらに、彼は平和的なデモ参加者に対して、警察に発砲を命じたと非難されていました。
これが、当時、西側諸国に流布されていた『物語』でした。
しかし、私が実際にウクライナに赴き、OSCEの任務に就いてから、紛争の最初に何が本当に起こったのか、理解が変わっていきました。
きっかけは、ある記事、『スプートニク』で見つけた記事でした。このロシアメディアは、『プロパガンダの塊で読むべきではない』と言われていました。しかし、OSCEの任務では、中立性を保つことが求められていたので、アクセスが許可されていました。
毎朝、メンバー全員に、プレスダイジェストが配布されていました。これらはウクライナだけでなく、ロシアやウクライナの分離主義地域の情報源も網羅し、西側メディアの一部も含まれていました。それらは、基本的に国別に分類されていました。ウクライナ、次に非政府支配地域(ドンバス)、ロシア、そして世界のその他の地域、といった具合でした。
そのダイジェストで、私は『スプートニク』の記事を発見しました。そこには、オタワ大学で教鞭を執るウクライナ人教授、イヴァン・カチャノフスキーの研究が紹介されていました。
この記事を見つけた時、私にとってそれはゲームチェンジャーでした。この記事がきっかけで、私は実際にこのイヴァン・カチャノフスキーの論文全体をダウンロードしたのです。その論文のタイトルは、おそらく『捏造された虐殺の起源』か『捏造された虐殺の分析』といった類のものでした。(中略)
彼(カチャノフスキー教授)の結論はこうでした。2014年2月18日と19日に銃撃されたデモ参加者の大半は、実際には野党勢力、主に『スヴォボダ』と『右派セクター』が占拠した建物から撃たれていた、というものです。
『スヴォボダ(全ウクライナ連合「自由」)』は、ウクライナ情勢をよく知る人々には、ネオナチ思想を持つ生粋の極右政党として知られています。
そして、『右派セクター』は、比較的新しい団体ですが、基本的に暴力的な要素で構成されていました。彼らは非常に早い段階から、(マイダン広場の)バリケード上で、躊躇なく暴力を行使していました。
私達が伝えられていた『マイダン虐殺』に関する物語(※)が、現実と一致していないことを発見した時、最初は恐ろしくて、論文全体を読む勇気がありませんでした」
(※)2014年に起きた、民主的に選出されたヤヌコヴィッチ大統領の政権を転覆したクーデターは、「マイダン革命」「尊厳革命」「市民革命」であるという「物語」が流布されていた。これは自然発生的な物語ではなく、プロパガンダである。
パレ氏「ある時、友人を介して、主流メディアの記者と会う機会を得ました。これは非公式の接触でした。許可なくジャーナリストと話すことは、禁じられていましたから。
私達がジャーナリストに伝えることのできる内容は、厳しく管理されていました。仮に話すとしても、言える内容は厳しく制限されており、基本的には本部に誘導して、『OSCEが収集した情報はこれです』とだけ伝えるように言われていました。
ともあれ、私は彼とこの『オフレコ』の会談をしました。そして、会談の終わりに、私は彼に、『ところで、イワン・カチャノフスキーという人物の論文について、聞いたことはありますか?』とたずねました。
彼は、『いいえ、知らない』と答えました。私は論文の内容を簡単に説明し、『著名なジャーナリストであるあなたなら、この件を掘り下げて真実性を検証する興味はないですか?」と勧めました。すると、彼は2秒ほど沈黙し、こう答えました。「いや、それはあまりにも多くのことを変えてしまう」。これが、彼の返事でした。
彼は、フランスで、ウクライナ情勢をカバーするトップ・ジャーナリストの一人でした。つまりこの人物の発言は、他の報道機関の基準となるようなものでした。彼だけではありませんが、フランスには数人しか、彼のような影響力を持つ人物はいませんでした。
そのわずか数人が、フランス全体のメディアに影響力を及ぼしていました。その人物は、追及しないことを選びました。
その瞬間、私は、主流メディアに期待するものは何もないと悟ったのです。彼らから、真実が明らかになることはないと。
そこで私は、この論文の信頼性について、自ら判断を下さねばならないと確信しました。時間を見つけては――当時はあまり時間がありませんでしたが――、ついに72ページに及ぶ論文を読みきり、論文で引用されていた動画も視聴しました。約2時間の動画でした。
最初は、すべてロシア語やウクライナ語で字幕がなかったので、これらの動画を分析できないと思いました。ところが、カチャノフスキー教授自身がこれらの動画を英語に訳し、字幕を付けてくれていました。それで、私は初めて理解できるようになりました。
私は、信頼できるOSCEの同僚に『このドキュメンタリーの5~10分を見て、正しく翻訳されているか確認してほしい』と頼みました。その結果、翻訳は正確だと確認されました。よって私は、この論文を信頼できる研究と判断しました。
これは、ウクライナ戦争の開始についての、私達の認識を根本から変えるものです。
なぜなら、一部の人々は、この戦争が『2022年2月に始まった』と考えていますが、実際には2014年2月に、マイダンで始まったからです。ここで最初の血が流されました。その後の、現在に至るまでのすべては、そこで始まったのです。
その後の出来事は、論理的に説明できることの連鎖です。デモ隊に対する『偽旗作戦』は、ヤヌコヴィッチを重大な犯罪で告発する口実となり、大スキャンダルへと発展していきました。彼(ヤヌコヴィッチ)は、命の危険を感じて、国外へ逃亡しました。そして、彼の後任が(大統領に)就きました。
それから、ウクライナの親ロシア派住民の居住する、主にドンバスですが――ドンバスだけではなく――、オデッサやハルキウ、ドニプロといった主要都市でも、デモがあったことは、周知の事実です。
ウクライナの東部と南部で、圧倒的支持を得て選出された親ロシア派の大統領(ヤヌコヴィッチ)が、当時すでに人々から『クーデター』と認識されていたような形で交代させられたという事実が、大きな混乱を引き起こしました。
この混乱は、2014年4月に暫定ウクライナ政府が開始した対テロ作戦への反動として生じ、それがドンバス戦争に発展したのです。つまり、これらは一連の出来事の連鎖なのです。
ドンバス戦争は、終わることはありませんでした。ミンスク合意があったにもかかわらず。
ご存知の通り、ミンスク合意はドンバス戦争を解決することを目的としていましたが、ミンスク合意は履行されませんでした。それは、主にウクライナ側の理由によるものです。
ミンスク合意の核心は、国(ウクライナ)から分離したドンバス地域に自治権を付与することにありました。しかし、ウクライナ議会は、法的に認める憲法改正案の採決を、実際には行いませんでした。それこそが、ミンスク合意の他のすべての要素の鍵だったのです。もし、ドンバスに法的な地位が与えられなければ、その他すべては、空虚な殻にすぎませんでした。合意は成立していなかったのです。
OSCEミッション内部で活動した経験からいえるのは、ウクライナ政府がミンスク合意を履行する意思をまったく持っていなかったのは明白だった、ということです。この意思の欠如を示す事例は、実際、数多く存在します。そしてある時点でロシアは、『ミンスク合意は死んだ』と考えるようになったのです。
さらに、2021年1月に(米国で)バイデン大統領が就任すると、ウクライナは急速に過激化しました。ゼレンスキー政権は、まさにロシアを挑発し、怒らせ、最終的に今日の戦争へと導くことを意図したと思われるような、一連の措置を講じました。
2021年の出来事を分析すると、当時の米政権とウクライナ政府がともに協議し、『ロシアを挑発できるあらゆる手段』をリストアップしたように見えます。この件については、私の著書『ウクライナで見たもの』で、詳細に記述しました。より深く知りたい方は、そちらを参照ください。私にとって、これが最終的な経緯であることは、きわめて明白です。残念ながら、これが現在の状況へとつながっているのです」
2014年「ある時点で何かが変わった」! メディアは皆論調をあわせて真実を報じなくなった! ドンバスでは毎日のように、ジャーナリストや「新政権に忠実ではない人々」の行方不明事件が続き、「切迫した劇的な状況」にあった!
ディーセン教授「それにしても興味深いのは、2014年のある時期を境に、メディアの論調が変化したことです。
というのも、当時の大手メディア――『CNN』や『ガーディアン』など――の報道、記事、映像を振り返ると、ドンバスの人々が、キエフでのクーデターの正統性を認めていなかったことが、報じられています。さらに、キエフの政権が(ドンバスの人々に対して)きわめて残酷な対応を取ったという内容が、多く含まれています。
つまり、この地域(ドンバス)で親族や隣人を殺害された人々の証言が、数多く報道されており、彼らはポロシェンコ(新大統領)に対して、殺戮をやめるように懇願していました。
ジャーナリスト達は、『彼らは本当にドンバスを阻害している。この残虐な攻撃の後、ドンバスはもはやウクライナの一部でありたいとは思わなくなるかもしれない』と指摘していたのです。
私が言いたいのは、こうしたメディア報道が存在していた、ということです。ファシスト的な集団を取り上げた報道もあり、『なぜ我々は、彼らに資金を提供しているのか?』という疑問の声もありました。
ドンバスになだれ込んできた彼ら(ファシスト的な集団、ネオナチ)の多くは、非常に過激な義勇兵の集団で、ウクライナ西部の出身者でした。彼らにとってドンバスは、ほぼ外国の領域でした。
『BBC』や『ガーディアン』などでは、クーデターへの米国の関与、ロシアの懸念、ファシスト的な要素やドンバスでの殺害だけでなく、NATOの進出の可能性についても、議論されていました。
こうしたすべてのことは、今や『ロシアのプロパガンダ』とレッテルを貼られていますが、当時は(西側の)メディアで報じられていたのです。それらはすべて、2014年に洗い流され、今では(メディアは)ほぼ同じ論調にあわせて行進しているようなありさまです。実に驚くべきことです」
(※)ディーセン教授の言う通り、2014年のユーロマイダン・クーデター当時の西側報道は、虚実の入りまじる西側メディアであっても、ウクライナのネオナチをウクライナ政府が野放しにし、ロシア語話者とみるや、暴力をふるい、殺戮を行っていたことを報じていた。
日本を含め西側のメディアは口をつぐんでいるが、岩上安身とIWJは、はっきりと記憶しており、当時、記録も残している。
(※)また、『天使の並木道~ウクライナ人がウクライナ人をジェノサイドし続けた8年間の記録 2014~2022』(ヒカルランド、2024年10月)という本を編集・上梓した、黒龍會・アジア新聞社会長の田中健之(たなか たけゆき)氏には、岩上安身が、当時のドンバスにおける状況をインタビューしている。
ディーセン教授「しかし、あなたは、現在起きていることをもたらしたこれらの出来事について、誰も関心を持とうとする者はいなかった、と言いました。それを知ることは、あまりにも大きく現状を変えてしまうからです。
ウクライナにおける米国や、おそらくはNATO側の動きを、あなたはどのように見ていましたか?
行方不明事件に関する証拠が、山積みになっていましたね。キエフの新政権に忠実でないかもしれない一般市民が、姿を消したままになっています。人々は、無名の集団墓地に埋められました。
お聞きしたいのは、あなたはこうした一連の出来事を、どう見ていたのでしょうか? そして、『(我々が言うところの)ウクライナ人を支援するために』現地にいた西側諸国の反応を、どうとらえていたのでしょうか?」
パレ氏「ええ、おっしゃる通りです。たしかに、『CNN』のような一部の西側メディアは、ドンバス情勢について、正直な報道をしていた時期がありました。
2014年には、『CNN』の報道を少なくとも2編、見ました。1編はドネツク市、もう1編はルガンスク市に関するもので、ウクライナ軍の砲撃について、正直に伝えていました。
しかし、ある時点で、何かが変わったのです。
同じ時期、米国上院でさえ、アゾフ大隊――後に大隊の規模を超えたため連隊と改称した――への、いかなる支援も禁止していました。実は、この決定が撤回されたのは、つい最近です。現在、米国政府がアゾフを支援することは、合法化されています。つまり、その間に何かが変わったのです。
さて、ご質問に戻りますと、――私がドンバスに到着してからわずか数週間後、私はある地元ジャーナリストへのインタビューをしないかと提案されました。
そのジャーナリストは、自分自身が義勇兵大隊に拉致され、3日間拷問と屈辱を受け、最終的には書類送付を要求され、脅迫された経緯を説明しました。
尋問の間、彼はほとんどずっと頭に袋をかぶせられ、ほとんど裸で数日間椅子に縛り付けられていました。彼は自分が耐えなければならなかった拷問のすべてを語ろうとはしませんでした。おそらく、その一部は性的な性質のものだったからだろうと思います。この種の事件では、よくあることなので。
とにかく、その尋問の終わりに、彼はまだ頭に袋をかぶせられたまま、武器を持たされました。そして彼らは、『よし、これで武器にお前の指紋が付いた。言われた通りにしなければ、我々はお前をテロリストとして起訴する証拠を作るぞ』と言ったのです。
そしてその日、彼は解放されました。要するに、『解放してやるが、これからは我々の言う通りにするんだ。俺達の指示通りに書け』というわけです。これが、彼に対して行われたことでした。
インタビューの後、私は当時の上司に話しました。『実は、君が今やっていることは…、ほんの数ヶ月前にここにいたあなたの同僚達が、数十件にのぼる失踪事件の調査に関与してやっていたことと同じだ』。
つまり、人々が路上や自宅、車から突然、バラクラバ(※目出し帽のような覆面)を着た正体不明の人物に連れ去られれる――そうした事件です。犯人が誰なのか、何もわかりませんでした。
だから、家族はパニック状態で、OSCEの拠点に助けを求めに来きました。というのは、彼らにとって、彼らを救うことができるのは、国際機関だけだったからです。彼らは、地元の警察を信用していませんでした。つまり、当時の状況は…、どう言えばいいのか…、非常に劇的で、切迫していたのです。
ほぼ毎日、あるいは2、3日に一度は、誰かが『親族が行方不明になった』と、(OSCEの)拠点に助けを求めて訪れていました。この状態は、何ヶ月も続きました」
(※)当時、一時的に一部のメディア、ジャーナリストらが、我々IWJが2014年時点から報じ、その後もスタンスを一切変えていない報道と、同じ姿勢の報道を行っていた。
しかし、すぐに、デマだらけのプロパガンダに変わっていき、今もその状態が続いている。現在、大学生くらいの若い人だと、マスメディアだけを見ていたら、もう真実が何か、わからなくなっていることだろう。
当時、西側の主要メディアによると、ロシア軍は何回も国境を超えてウクライナ側に進軍していたことになっている。しかし、おそらくは米軍が提供したと思われるコンボイの車列の衛星写真が掲載されたそれらの記事は、ロシア側からの人道支援物資であることが動画で明らかにされると、西側の追跡記事は、訂正もなく、消えてゆくのである。
権力の圧力を受けて、真実を報じないだけでなく、まったくニセ情報のプロパガンダが行われていることを、当時、衝撃を受けながらも、確信した。
そして、そうしたプロパガンダの状況は変わらないまま、8年後の2022年に、ロシア軍が実際に部隊を投入した。この時まで、断続的にウォッチングし続けてきたIWJは、挑発を受けて、ついにロシアが武力介入せざるをえなくなったと理解し、西側のプロパガンダとは違う、しかしより真実に近い事実を報じた。
それに対して、多くの誹謗中傷が寄せられた。あるいは、プロパガンダにまどわされてしまった支持者の方々が、離れていった。その時点で、いちいち反論することは控えてきたが、我々は、そうした真実にもとづかない誹謗中傷を決して忘れていない。
ただ、真実を追っていたジャーナリストが、ウクライナ国内のドンバス現地で、ウクライナ側から、このような残酷な拷問にあわされていたことまでは、知りえなかった。
胸の痛くなるような話だが、こうした脅迫の事実があったからこそ、ジャーナリスト達は沈黙せざるをえなくなったのである。
あるいは、プロパガンダに乗っかった自称「ジャーナリスト」だけが、ウクライナ現地で便宜まではかってもらって、アゾフの司令官まで取材できたりしてきたのである。
2014年当時、OSCE上層部もNATO上層部も米国大使も、口をそろえてドンバスの分離主義者を「ならず者の一味」とみなし、地元住民の失踪問題にまったく取り合わなかった!
パレ氏「ある時点で同僚達は、(ドンバス地方で相次いでいた失踪事件の)調査を開始することを決めました。その結果、作成された報告書を私は読みましたが、見事なプロフェッショナルな成果物でした。
約10ページに及ぶ報告書は、当時の出来事をまとめたもので、事実と解釈がきわめて厳密に区別されていました。私はこの報告書の大部分を、私の著書で引用しています。
しかし残念ながら、私の同僚――本部に勤務していた人物――から明かされたところによれば、OSCEミッション(※ウクライナ特別監視ミッション、SMM)は、この報告書にもとづいた行動を何も起こさなかったのです。
何年も後になって――『ああ、その報告書のことは知っているよ。でも何もなされなかったんだ。ただ棚に置かれて無視されたんだ』と言われました。それが現実でした。(OSCEの)指揮系統の上層部には、この現実を見たくない人間がいたのです。
先ほども触れましたが、当時、私の同僚の1人が、我々の拠点を訪問した米国大使(※)と実際に面会する機会を得ました。
大使は『人権侵害に関する事例はありますか?』と質問しました。しかし、私の同僚が、私が今述べたような拉致事件の話を始めると、大使はそれがウクライナにとって不利な事実であると気づき、途端に、完全に興味を失った様子で『OK、次の話題へ』と言ったのです。
大使は明らかに興味を失い、同僚の話を遮って、別の人に質問をしたと思います。
つまり、こうした話にまったく関心がないことを、あからさまに示したのです」
(※)2014年当時の駐ウクライナ米国大使は、ジェフリー・R・パイアット(Geoffrey R. Pyatt、在任:2013年7月30日~2016年8月18日)。2014年2月4日に行われたヴィクトリア・ヌーランド国務次官補(当時)との、ウクライナのクーデター政権の人事に関する会話がYouTubeにリークされた。
また、パイアット大使(当時)は、『ヴォイス・オブ・アメリカ』のインタビューで、ドンバスの武装集団について「一部の集団には大規模な混乱を引き起こし、キエフ政府のバランスを崩そうとする意図があるようだ」「ウクライナの新たな民主政権の成功を阻止することを意図しているようにしか思えない」と述べている。
ドンバスの「分離派」については、「ウクライナ東部の都市には、最新鋭の狙撃銃や、グレネードランチャーを備えたロシア製自動機関銃など、ロシア製の武器で重武装した人々」がいて、「彼らの行動がさらなる暴力を誘発するリスク」があると述べている。
パイアットは、2014年のロシアによるクリミアとウクライナ東部への侵攻に対する米国の対応におけるリーダーシップが認められ、国務省からロバート・フラジャー記念賞を受賞した。その後、駐ギリシャ米国大使(2016-2022)、エネルギー資源担当の国務次官(2022-2025)を務めた。
2025年1月20日、バイデン政権からトランプ政権に移行した際に、国務省における任期を終えた。現在は、McLarty Associatesのエネルギーおよび重要鉱物担当のシニアマネージングディレクターを務めている。
しかし、パイアットは、国際的な影響力を失ったわけではない。2022年には、日本に次世代原子炉の小型モジュール炉の共同開発を求め、対露制裁でロシア産天然ガスが不足する中、日本への米国産LNGの供給を約束した。これはロシア産ガスの市場を米国産ガスが奪い取る措置を意味する。対露制裁でロシア産原油の輸入が困難になった2024年3月には、ベネズエラに対する制裁を緩和すると述べた。
- Geoffrey R. Pyatt(U.S.Department of State)