【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳!(第7回)ユーロマイダン・クーデターがすべての始まり!「マイダンの血なまぐさい展開がなければ、我々は(ウクライナに)指一本触れることさえ考えなかったのです」(プーチン大統領) 2025.1.16

記事公開日:2025.1.16 テキスト
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(文・IWJ編集部)

 昨年中から継続的にお届けしているタッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳(第7回)を、今年もその続きをお届けします。

 この歴史的インタビューは、ロシアと米国の関係史について、一方の当事国であるプーチン大統領の非常に貴重な証言を含んでいます。

 ここで語られた問題は、ウクライナ紛争だけでなく、現在の世界の問題の本質を考える上で、大きなヒントになります。

 第7回では、プーチン大統領が、現在のウクライナ紛争の本質を、端的に語っています。

 日本を始めとする西側大手メディアの情報操作の一つは、この問題の歴史の意図的な忘却にあります。

 少なくとも、この紛争は、2014年のユーロマイダン・クーデターと、その後のドンバス戦争から始まっています。

 「2014年に戦争を始めたのは、彼ら(ウクライナ)です。我々の目標は、この戦争を止めることです。そして、我々は、2022年にこの戦争を始めたわけではありません。これはそれを止めるための試みです」。

 これはプーチン大統領の言葉ですが、客観的に正しい認識であると思われます。

 さらに、この第7回のインタビューで、プーチン大統領は、ウクライナがソ連崩壊後、自らのアイデンティティを模索したときに、ヒトラーに協力した偽りの英雄達の上に、アイデンティティを構築するという間違いを行ったという、現代のウクライナという国家を考える上で、決定的に重要な点を指摘しています。

 これは、米国や、日本を含む、西側諸国が喧伝するように、ウクライナが、自由や民主主義に依拠して国家建設を進めたのではなく、ナチズムに依拠して建設された国家だということです。

 この現実を直視せず、この現実を糊塗してきたのが、西側の大手メディアです。

 インタビュー翻訳の第1回は、以下から御覧になれます。

※タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20240210#idx-2
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/53197#idx-2

 インタビュー翻訳の第2回は、以下から御覧になれます。

 インタビュー翻訳の第3回は、以下から御覧になれます。

 インタビュー翻訳の第4回は、以下から御覧になれます。

 インタビュー翻訳の第5回は、以下から御覧になれます。

 インタビュー第6回は、以下から御覧になれます。


タッカー氏「現在の紛争が始まる8年前のことですね。きっかけは何だったのですか? これをやらなければと思った瞬間は、なんだったのですか?」

プーチン大統領「当初、紛争を引き起こしたのは、ウクライナのクーデターでした。ところで、当時、ドイツ、ポーランド、フランスの欧州3ヶ国の代表は、ヤヌコビッチ政権と野党の間で調印された合意の保証人になっていました。彼らは、保証人として署名したのです。

 にもかかわらず、野党はクーデターを起こし、これらの国々は、平和的解決の保証人であったことを覚えていないふりをしました。平和的解決の保証人であったことを、忘れたふりをしたのです。そして、誰もそのことを覚えていません。

 米国は、野党と政権、そして保証国3ヶ国との間の合意について何も知らなかったのでしょうか。彼らは、この状況全体を、政治的な場に戻す代わりに、クーデターを支持しました。

 ヤヌコビッチ大統領は、すべての条件に同意し、早期選挙を行う用意がありました。誰もがそれを知っていました。

 では、なぜクーデターが起きたのか? なぜ犠牲者が出たのか? なぜクリミアを脅すのか? なぜドンバスで、作戦を開始するのか? 私には理解できません。それこそが、誤算なのです。

 CIAは、クーデターを完成させるために仕事をしました。国務副長官の一人(※注1)が、多額の費用がかかったと言ったと思います。ほぼ50億ドルです」

プーチン大統領「しかし、政治的ミスは、とてつもなく大きかった。なぜそんなことをしなければならなかったのか? クリミアを失うことなく、犠牲者を出すことなく、軍事行動を起こすことなく、すべて合法的に行うことができたはずです。マイダンの血なまぐさい展開がなければ、我々は指一本触れることさえ考えなかったのです。

 というのも、我々は、ソビエト連邦崩壊後、国境は旧ソビエト連邦共和国の国境に沿うべきだという事実に同意したからです。

 私達はそれに同意しましたが、NATOの拡大には同意しませんでしたし、さらにウクライナがNATOに加盟することにも同意しませんでした。何十年もの間、私達はあれもするな、これもするなと言い続けてきました。

 何が今回の事態を引き起こしたのか? まず、ウクライナの現指導部は、ドンバスの平和的解決計画が打ち出された2014年のミンスクでの出来事の後、ご存じのように、調印されたミンスク合意(※注2)を履行しないと宣言しました」

プーチン大統領「ウクライナの現指導部、外務大臣、その他すべての高官、そして当時の大統領自身が、ミンスク合意については、好ましいものは何もないと言ったのです。言い換えれば、彼らは履行するつもりなどなかったのです。

 1年半前、ドイツとフランスの前指導者達は、ミンスク合意に確かに署名したが、それを履行するつもりはなく、単に我々を鼻であしらっただけだと、全世界に公然と言い放ったのです(※注3)」

タッカー氏「誰かに相談しましたか? 米国大統領と国務長官に対して、もしウクライナを、NATO軍を使って軍事化し続けるならば、状況は悪化し、我々は行動を起こす、と言いましたか?」

プーチン大統領「我々は、このことについて、いつも話していました。我々は、米国と欧州諸国の指導者達に、こうした動きを直ちに止めるよう求めました。ミンスク合意を履行するためにです。しかし、率直に言って、どうすればいいのかわかりませんでした。

 しかし、私はそれ(ミンスク合意)を実行に移す準備はできていました。この合意は、ウクライナにとって複雑なものでした。ドンバス自治領の独立という要素も、多く含まれていました。それは事実です。

 しかし、私は絶対の自信を持っていました。そして今、私はあなたにこう言います。正直に言うと、我々がドンバスの住民を説得し、彼らをウクライナ国家に戻すために一生懸命働くことができれば、傷は徐々に癒えていくと思います(※注4)」

プーチン大統領「この領土の一部が共通の社会環境に再統合され、年金や社会的給付が再び支払われるようになれば、すべてのピースが徐々に収まるでしょう。

 いや、誰もそんなことは望んでいなかったのです。誰もが、軍事力のみによる解決を望んでいました。しかし、我々は、そうさせるわけにはいかなかった。そして状況は、ウクライナ側が『いいえ、我々は、(和解のために)何もしません』と宣言するところまで進展しました。

 彼らも、軍事行動の準備を始めました。2014年に戦争を始めたのは、彼らです。我々の目標は、この戦争を止めることです。そして、我々は、2022年にこの戦争を始めたわけではありません。これは、それを止めるための試みです」

タッカー氏「もう止めましたか? 目的は達成されましたか?」

プーチン大統領「いや、我々はまだ目的を達成していません。

 これは、あらゆる種類のネオナチ運動の禁止を意味します。

 これは、今年初め(※注5)に、イスタンブールで終了した交渉プロセスで議論した問題のひとつでした。

 そして、イスタンブールでの交渉プロセスは、我々主導ではなかったのです。

 特に、欧州諸国から、最終的な文書調印のための条件整備が、必要だと言われたからです。フランスやドイツの私のカウンターパートは、彼ら(ウクライナ)が銃を突きつけられて、条約に署名することなど想像できるかと言いました。軍隊を、キエフから撤退させるべきだと。

 私は、わかったと答えました。

 我々は、キエフから軍を撤退させました(※注6)。

 我々が、キエフから軍を撤退させるとすぐに、ウクライナの交渉担当者達は、イスタンブールで合意したことをすべてゴミ箱に捨て、米国とヨーロッパの衛星国の助けを借りて、長期にわたる武力衝突に備えました。そうして事態は進展し、現在に至っているのです」

タッカー氏「無知ですみません。脱ナチス化とは、何ですか? どういう意味ですか?」

プーチン大統領「今、私が話したいと思ったのは、そのことです。非常に重要な問題です。ウクライナは独立後、欧米のアナリストが言うようにアイデンティティを模索し始めたのです。

 直観主義者達は、結局、かつてヒトラーに協力した、偽りの英雄達の上に、アイデンティティを構築する以外に思いつくものはなかったのです。

 19世紀初頭、ウクライナの独立と主権を主張する論者が登場したとき、彼らは独立したウクライナが、ロシアと非常に良好な関係を築くはずだと想定していたことはすでに述べました。

 しかし、歴史的な経緯から、その領土はポーランド・リトアニア連邦の一部でした。ポーランドでは、ウクライナ人は迫害され、残酷な仕打ちを受けました。彼らのアイデンティティを破壊しようとする試みもあったのです。

 これらすべてが、人々の記憶に残りました。第2次世界大戦が勃発すると、この極めて民族主義的なエリートの一部は、ヒトラーが自分達に自由をもたらしてくれると信じてヒトラーに協力しました。

 ドイツ軍、それもSS隊は、ヒトラーの協力者達に、ポーランド人とユダヤ人を絶滅させるという最も汚い仕事をさせました。それゆえ、ポーランド人とユダヤ人とロシア人に対する残虐な虐殺が行われたのです。

 これを指揮したのは、よく知られた人物、バンデラ(※注7)とシュヘヴィチ(※注8)です。(ウクライナの民族主義者達によって)国民的英雄に祭り上げられたのは、その人達でした。それが問題なのです。

 ナショナリズムやネオ・ナチズムは、他の国にも存在すると、私達は常に言われています。しかし、私達はそれを根絶やしにします。そして他の国々は、それらと戦っています。

 しかし、ウクライナはそうではないのです。ウクライナでは、こうした人々が国民的英雄にされています。その人達の記念碑が建てられています。彼らは、旗に掲げられているのです。

 ナチス・ドイツのように、松明を持って歩く群衆が、彼らの名前を叫びます。ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人を絶滅させた人々です。この習慣を止め、この考え方が広がるのを、防ぐ必要があります。

 私は、ウクライナ人はひとつのロシア民族の一部だと言います。

 ウクライナ人は、いや、我々は別の民族だと言います。

 いいでしょう。彼らが、自分達を別の民族だと考えるなら、そうする権利があります。

 しかし、それが、ナチズム、ナチスのイデオロギーにもとづくものであってはならないのです」

(※注1)この国務副長官の一人とは、ヴィクトリア・ヌーランド氏。
 ヌーランド氏は、2013年12月13日のアメリカ・ウクライナ基金会議で、次のように、「民主的なウクライナを実現するために」、50億ドル以上投資してきたと明言している。
 「ウクライナが1991年に独立して以来、米国はウクライナ人が民主的なスキルと制度を築き、市民の参加と良い統治を促進するのを支援してきました。
 これらはすべて、ウクライナがヨーロッパの目標を達成するための前提条件です。
 我々はこれらの目標を支援し、安全で繁栄し民主的なウクライナを実現するために、50億ドル以上を投資してきました」。

(※注2)ミンスク合意とは、ウクライナ東部での紛争(ドンバス戦争)を解決し、平和を実現することを目的とした一連の合意を指す。
 2014年9月5日、ベラルーシの首都ミンスクでウクライナ、ロシア、親ロシア派武装勢力、OSCE(欧州安全保障協力機構)の代表が参加して合意されたミンスク合意Iと、2015年2月12日、フランス、ドイツ、ロシア、ウクライナの4か国(ノルマンディー形式)による調停のもと、より詳細な和平プロセスを規定したミンスク合意IIがある。
 2023年2月9日付『シュピーゲル』でのインタビューの中で、ゼレンスキー氏は、プーチン大統領と2019年に初めて会談(フランス、ドイツ、ロシア、ウクライナからなる紛争解決のための「ノルマンディ・フォーマット」において)した際に、「ミンスク合意は遂行できないし、遂行する予定もない」と述べたと語っている。

(※注3)2022年12月、ドイツのメルケル前首相は、「2014年のミンスク合意は、ウクライナに時間を与えるためのものであり、その間にウクライナ軍の増強を図るものであった」と独紙『ディー・ツァイト』のインタビューで発言した。
 フランスのオランド前大統領も、メルケル氏の発言を認めており、地政学的な状況は、ウクライナにとって有利ではなく、西側諸国が時間稼ぎをして、NATOにより、ウクライナに対ロシア戦の戦闘準備をする時間的な猶予を与えるためだった。
 ウクライナのポロシェンコ前大統領は、英テレビ局『BBC』のドキュメンタリー番組に出演したなかで、ドンバスでの紛争を解決するために2015年に調印されたミンスク合意(ミンスク2)によって、ウクライナは8年間にわたり、軍隊、経済、そして「世界的な親ウクライナ・反プーチン連合」を構築することができたと述べている。

(※注4)プーチン大統領が具体的にどのようにドンバス住民を説得し、ウクライナへ戻そうとしていたかについて、『週刊読書人』、2023年9月29日号に、岩上安身のインタビューでお馴染みの松里公孝東大大学院教授のインタビュー証言がある。
松里氏「プーチンは、ドンバスの分離派に対して、『分離は認めない。当面、ミンスク合意を飲め。最終的にはウクライナに戻れ。さもなくば助けないぞ』と引導を渡したのです。
 言語政策についても同様で、人民共和国指導層は、『ウクライナ語はもうこりごりです。ドンバスの児童のほとんどはロシア語話者なのだから、学校教育はロシア語一本でいきたいです』と提案したのに、ロシア指導部が『だめだ。ロシア語、ウクライナ語のバイリンガルで行け』とバイリンガル政策を押し付けたのです」(『週刊読書人』2023年9月29日号)

(※注5)ロシア語では、「昨年(2023年)の初めに」となっている。実際には、2022年の4月のことで、このとき、犯行主体をロシア軍と決めつけるブチャ事件の報道が行われ、さらに、そのタイミングを待っていたかのように、4月7日の英国のボリス・ジョンソン首相(当時)の介入によって終了した。

(※注6)キエフからのロシア軍の撤退を、当時、米国のブリンケン国務長官は、「戦略的な敗北」だと指摘していた。日本の『朝日新聞』を含む多くの西側メディアも、このブリンケン国務長官の発言を無批判に報じた。
 この結果、キエフからのロシア軍の撤退は、「ロシアの敗北」として世界に広まった。
 しかし、これは、ロシアによるイスタンブール合意の履行であり、この西側メディアの言論は嘘だった。この嘘は、ロシアを「敗者」に見せかけるための罠であり、情報操作でもあった。

(※注7)ステパーン・バンデラ(1909-1959)に関する知識は、ウィキペディア日本語版では、情報操作が行われている。
 バンデラが、ナチスに協力して、ポーランド人やユダヤ人、ロシア人の虐殺を指揮した記述は、まったく書かれていない。これは、バンデラとは何者かを知るには不十分である。以下は、ウィキペディアの記述から。
 「ウクライナ民族主義運動のリーダーであり、その生涯をウクライナ独立に捧げたバンデラは、ドイツがウクライナ独立を支持してくれるとの期待から独ソ戦でドイツ側を支持したが、1941年6月30日にバンデラはウクライナ国家再生宣言したことで逮捕・強制収容所送りにされて以降はナチスとソ連の両方から迫害されることになる」。
 「バンデラはウクライナ国家再生宣言を執筆し、宣言は1941年6月30日にドイツ軍に占領されたリヴィウでヤロスラフ・ステツコによって読み上げられた。
しかしドイツはこの宣言を認めず、バンデラは7月5日にドイツ占領当局によって軟禁された後にザクセンハウゼン強制収容所に送られた。その出来事によってウクライナにおける対ソ対独双方と戦う象徴となった」。
 自らナチスの一部であることを示すために、ナチスのシンボルを掲げ、ナチス・ドイツに帯同して東進し、行く先々で、ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人などに対するポグロム(大量虐殺)を指揮したバンデラは、ウクライナにおけるナチス以外の何者でもない。
 そのバンデラを、特に西ウクライナのガリツィアでは、ウクライナ民族主義の英雄として、バンデラを悲劇の英雄であるかのように描いている。
 これは、歪んだ情報操作である。

(※注8)ロマン・シュヘヴィチ(1907年6月30日―1950年3月5日)は、ウクライナの民族主義者であり、第二次世界大戦中にウクライナ独立を求めて、ソ連と戦ったウクライナ反乱軍(UPA)の軍事指導者。
 また、ナチス・ドイツとも関わりを持ち、1941年初頭にナハティガル大隊の指揮官を務め、1941年から1942年にかけてドイツの補助警察部隊シュッツマンスハフト201大隊の大尉として活動した。
 シュヘヴィチは、ポーランド人に対する虐殺行為の一部に関与しており、ガリツィアとヴォルィーニでの数万人に及ぶポーランド民間人の虐殺における加害者の一人だった。
 彼がヴォルィーニにおけるポーランド人虐殺にどの程度直接的な責任を持つかは明確ではないが、少なくともある時期から、これを容認し、東ガリツィアでの虐殺を指揮していたとされている。

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