【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳!(第4回)プーチン氏もオルバン首相も同じ民族同士の感情的つながりを重視! NATOは軍産の意図に沿って現実をゆがめてきた! 2024.10.15

記事公開日:2024.10.15 テキスト
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(文・IWJ編集部)

 タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの仮訳・粗訳(第4回)をお届けまします。

 第4回のインタビュー仮訳・粗訳では、現在でも東欧の敏感な領土問題となっているトランシルバニア地方に対するハンガリー人の感情と、国連憲章や国際法を無視し、違反して、単独の判断でユーゴスラビア空爆を行ったNATO軍事組織のダブルスタンダードが語られます。

 マスメディアではしばしば急進右派扱いされているハンガリーのビクトル・オルバン首相の政策の根底に、トランシルバニア地方など、第一次大戦後のトリアノン条約(1920年)によって領土を割譲され、国外に住むことを強要された同民族のハンガリー人に対する感情的なつながりを重視する姿勢があることが見えてきます。

 これを「民族ナショナリズム」として否定的に見るだけでいいのか。国境をまたいだ同民族同士の間の自然な感情的なつながりを理解する必要があるのではないかと思われます。

 オルバン首相は、NATOについても、その本来の性格は防衛組織だとしており、平和を作るための本来の役割に戻るべきだと主張しています。国際法や国連憲章に違反したユーゴスラビア空爆を行ったNATOが、それとまったく同じ論理で、ウクライナへ軍事侵攻したロシアを批判する大合唱を、今も続けていることの欺瞞性は、繰り返し問題にしなければならないでしょう。

 故・安部晋三元総理は、2022年5月、英『エコノミスト』誌のインタビューで、以下のように述べていました。

 「彼(プーチン大統領)は権力を信じると同時に、現実主義者でもあると思います。理想を追い求めるタイプでもなければ、思想のために犠牲を払うタイプでもない。

 侵攻前、ウクライナを包囲していた時なら、(戦争を回避することは)可能だったかもしれない。ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領に、自国はNATOに加盟しないと約束させるか、東部の2つの飛び地に高度な自治権を認めさせれば、戦争を回避できたかもしれない」。

 ロシアのプーチン大統領と、ハンガリーのオルバン首相に、共通するのは、領土拡張を目的に行動すると西側では喧伝されながら、実は、そこに住んでいる同民族との感情的なつながりを重視して、行動している点です。

 地政学的な覇権を志向しているのは、喧伝されているロシアではなく、むしろ、軍産複合体の意図に沿って東方拡大してきた米国・NATOの方だったということが、NATOによるユーゴスラビア空爆から、はっきりと見えてきます。

 特に、注目されるのが、「付属文書B(Annex B)」の存在です。

 ユーゴスラビア政府が和平交渉の合意文章に調印しなかったのは、和平交渉の期限切れ直前に米国が提出した「付属文書B」の存在がありました。

 その内容は、「コソボのみならずユーゴスラビア全域でNATO軍が展開・訓練できるよう認め、なおかつ治外法権を認めよ」という、NATO軍による事実上のユーゴスラビア占領を意味するようなものであったのです。

 この「付属文書B」こそ、NATOが主として米国の軍産複合体の意図に沿って軍事活動を拡大させてきたことを証明するものです。

 非常に狡猾なのは、NATO自らの軍事拡大主義の隠蔽の仕方です。

 この「付属文書B」の存在は、ユーゴスラビア空爆が終わった後に公表された文書であり、それまでは、隠されていました。米国・NATOは、実は米国の覇権の拡大にために、偽りの正義の味方を演出していたのです。

 ロシアは、ウクライナ国内で迫害を受けているロシア系住民との感情的なつながりをベースに、外交を行い、らちがあかなくなって、軍事行動をとるに至りました。これまでは、「同一民族の保護を口実にして」領土の拡張を、もくろんでいる、というふうにゆがんだ見方をされてきました。

 このゆがんだ解釈が出てくるのは、軍産複合体の意図に沿ってNATOの東方拡大を進めてきたNATO自身が、支配領域の拡大という意図をもっており、ロシアと同様だろうと、鏡の中に映った自分自身の姿を、ロシアに重ねあわせて理解しようとしているからに他なりません。

 第3回からは、仮訳・粗訳の対象のテキストを、英語通訳による英語版トランスクリプトを中心としながら、東京都市大学の青山貞一名誉教授によるロシア語からの翻訳とロシア語原文を適宜参照しています。

 インタビュー仮訳・粗訳の第1回は、以下から御覧になれます。

※タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!(日刊IWJガイド、2024年2月10日)
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20240210#idx-2
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/53197#idx-2

 インタビュー仮訳・粗訳の第2回は、以下から御覧になれます。

 なお、第2回では、河川の右岸・左岸は、下流に向かって左側を左岸、右側を右岸とする考え方が正しいのですが、上流に向かって左岸・右岸をとらえたために、注16と注17で間違った記述になってしまいました。お詫びして訂正します(現在、IWJサイトに掲載している記事は、修正済みです)。

誤)そして32年後、ポーランドとの間に、彼らが恒久平和と呼んだ講和条約が結ばれました。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川左岸全体(訳注16)がロシアに渡ったのです。そしてドニエプル川右岸一帯(訳注17)は、ポーランドに残りました。エカチェリーナ2世の統治の下、ロシアは南部と西部を含むすべての歴史的な土地を取り戻し、これは(ロシア)革命まで続きました」。

(訳注16)(訳注17)ドニエプル川左岸全体は、トランスクリプトでは、「the whole left bank of Dnieper」となっている。ドニエプル川右岸一帯は、「the whole right bank of Dnieper」となっている。
 通訳の英語も、確認したところ、このとおりに通訳している。通常、ロシア領となったのは、北極を北にしてドニエプル川を見た場合、右岸全域であり、ポーランドに残ったのは、ドニエプル川の左岸である。

 考えられるのは、モスクワから見て、黒海方向を基準として、左右の位置づけを逆に考えたという可能性がある。これ以前にも、プーチン大統領が、ドンバス地方を「西ウクライナ」と述べた点を考慮すると、この可能性は高い。もう一つの可能性は、単純な通訳の間違いだが、これは考えにくい。

正)そして32年後、ポーランドとの間に、彼らが恒久平和と呼んだ講和条約が結ばれました。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川左岸全体がロシアに渡ったのです。そしてドニエプル川右岸一帯は、ポーランドに残りました。エカチェリーナ2世の統治の下、ロシアは南部と西部を含むすべての歴史的な土地を取り戻し、これは(ロシア)革命まで続きました」。

 インタビュー仮訳・粗訳の第3回は、以下から御覧になれます。

 以下から第4回インタビュー仮訳・粗訳となります。


プーチン大統領「さらに、とても興味深い話を紹介したいと思います。話は逸れますが、個人的な話です。

 80年代の初め頃、私は車で、(自分の住んでいた)レニングラード(当時。ソ連邦崩壊直前から名称をロシア革命以前に戻して、サンクトペテルブルグとした)からキエフを経由して、ソ連を横断するドライブ旅行に出かけました。キエフに立ち寄り、西ウクライナへ向かいました。ベレゴヴォイという町に行きましたが、そこの町や村の名前はすべてロシア語と、私には理解できない言語のハンガリー語で書かれていました。

 ウクライナ語ではなく、ロシア語とハンガリー語だったのです。どこかの村を車で走っていると、家の横に座っている男達がいて、黒いスリーピースのスーツを着て、黒いシリンダーハットをかぶっていました。彼らは何かのエンターティナーですか? と尋ねると、彼らはエンターティナーではなく、ハンガリー人だと言われました。

 ここで彼らは、何をしているのですかと、私は聞きました。どういう意味かと聞かれました。ここは彼らの土地だ。彼らはここに住んでいると。

 1980年代の、ソ連時代のことです。彼らはハンガリー語、ハンガリー人の名前、民族衣装すべてを守っていました。彼らはハンガリー人であり、自分達をハンガリー人だと思っているのです(訳注1)。そしてもちろん、今、侵害があった場合…」

(訳注1)プーチン氏が見て、話した「ハンガリー人」とは、マジャル人(マジャール人とも呼ばれる)と考えられる。
 ハンガリー語で「ハンガリー」もしくは「ハンガリー人」を指すのは「Magyar(マジャル)」である。現在のハンガリーの国民の86%以上は、マジャル人である。彼らは、およそ1000年間にわたり存在したハンガリー王国の主要民族であった。
 現代のマジャル人の総人口は、約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)のマジャル人が居住している。
 第一次世界大戦当時、ハンガリーは、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリアの属国)として敗北を喫し、オーストリアからの独立を果たした。1920年6月4日に、ハンガリーと連合国との間で結ばれたトリアノン条約による苛酷な領土分割の結果、ハンガリーは、面積で72%、人口で64%を失い、多くのマジャル人が周辺諸国の少数民族として取り残された。
 その内訳は、ルーマニアのトランシルバニア地方の大部分とワラキア地方の一部をあわせての144万人をはじめ、スロバキアの52万人、セルビアのヴォイヴォディナ自治州に29万人、ウクライナおよびロシアの17万人、オーストリアの4万人、クロアチアの1万6000人、チェコの1万5000人、そしてスロベニアの1万人となっている。また、マジャル人を祖先にもつ民族集団は、世界の様々な地域(例えば米国に140万人)に居住しているが、ハンガリー語及びハンガリーの文化や伝統を現在も保持している人々は少数である。
 かつて、マジャル人はアジア系とされたが、現在ではそう断定できないとされる。マジャル人の起源は複雑であり、ヨーロッパおよびアジアの多様な遺伝的要素が混在していると考えられている。
 また、「ハンガリー」の語源で一般に認められるのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグル (Onogur) という語で、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人が、マジャル人7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
参照:
マジャル人(Wikipedia)
マジャール人(世界史の窓)
ハンガリー(Wikipedia)

タッカー氏「そういうことになると思います。そういうことは、よくありました。多くの国がトランシルバニアに憤慨している(訳注2)のは、あなたもご存知の通りです。しかし、多くの国々は、20世紀の戦争や1000年前の戦争で引き直された国境に不満を感じています」

(訳注2)かつてハンガリーの統治下にあったルーマニア領トランシルバニアには、現在180万のハンガリー人が居住している。チャウシェスク政権下(1965年~1989年)では、強制的なルーマニア化政策がとられた。国内の約1万2000の村のうち7000ヶ所をなくし、大規模な農工業センターにするという、1988年の農村大改造計画によって、大量の難民がハンガリーに流入し、両国関係は極度に悪化した。
 89年12月、トランシルバニアの地方都市ティミショアラで発生したハンガリー系住民の反政府デモが引き金となり、チャウシェスク政権は崩壊した。
 ルーマニア新政府は、少数民族の権利の回復、農村大改造計画の中止を発表し、情勢と両国関係は好転した。
 しかし、民主化に伴うエスノナショナリズム(民族ナショナリズム)の先鋭化から、90年3月ルーマニア、ハンガリー両系住民が、トランシルバニア地方の都市、トゥルグ・ムレシュで衝突し、死傷者多数を出す事件が起った。
 96年、ルーマニアとハンガリーは、現状国境線の尊重、ルーマニア国内でのハンガリー系住民の権利保護をうたった友好善隣条約に調印し、「歴史的和解」を実現した。
 しかし、その後も、トランシルバニアの帰属をめぐるハンガリーとルーマニア間の潜在的領土問題は、現実には継続していると言える。
 例えば2021年、ハンガリー大統領のアーデル・ヤーノシュ氏は、ロシアのクリミア併合を、第一次世界大戦後にハンガリーが国土を奪われたことになぞらえて正当化し、ルーマニアの政治家から強い非難を浴びている。
 ハンガリーのオルバン首相は、(その3)の訳注12、13で述べたように、外国のハンガリー系住民への支援を強力に進めている。
 トランシルバニア地方で開かれる、毎年恒例のハンガリー文化フェスティバルで、2023年、オルバン氏は「トランシルバニアと(その東部の)セーケイ地方が、ルーマニアの領土であると主張したことは一度もない」と発言した。
 トランシルバニアがルーマニアに属さない可能性があるとする発言に、観客は歓声を送った。しかし、会場外では、ルーマニアの民族主義者の一団が抗議活動を行っており、ルーマニアの憲兵隊がフェスティバル参加者と彼らを隔離していた。
 オルバン首相のこうした挑発的言動は、ルーマニア政府の怒りを買い、ハンガリー大使を召喚するに至った。
 タッカー氏の発言「多くの国がトランシルバニアに憤慨」の具体的対象は明確ではないが、こうした一連の領土的問題に関するものと考えられる。
参照:
トランシルバニア問題(コトバンク、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
ハンガリー大統領、クリミア併合をトランシルバニアと比較したことで非難を浴びる(Transylvania Now、2021年8月26日)
トランシルバニアの脅威:ビクトル・オルバンが隣国ルーマニアで問題を引き起こす理由(HAARETZ、2023年10月4日)

タッカー氏「しかし、あなたがこのケースを公にしたのは、2年前の2月のことです。そして、今日私がうかがった話では、あなたはNATOにおける西側からの物理的脅威、潜在的な核の脅威を感じたと、非常に長く説明しています。それがあなたをつき動かしたのです。これで、あなたの発言に対する、公正な理解になるでしょうか?」

プーチン大統領「私の長いスピーチが、おそらくインタビューのジャンルから外れているであろうことは承知しています。だから最初に、真面目な話をするのか、それともショーをするのか、と聞いたんです。あなたは真面目な話をすると言った。だから少し我慢してください。

 ソビエト・ウクライナが成立したところまで来ています。そして1991年、ソビエト連邦が崩壊し、ロシアがウクライナに惜しみなく与えていたすべてのものを、ソビエト連邦が(ウクライナは、ではないか?)持ち帰りました(訳注3)。今日のインタビューの非常に重要なポイントに差し掛かりました」

(訳注3)ロシア語版から翻訳した青山貞一東京都市大名誉教授の翻訳では、「ウクライナがロシアからの贈り物として『主人の肩から』受け取ったものはすべて持ち帰った」となっている(実際には、ウクライナに配備していた核兵器は全てロシアに持ち去られた)。
 この箇所の大意は変わらないが、プーチン大統領のロシア語を、通訳を介さずに記載したと思われるInoSMIのロシア語には、「с барского плеча(主人の肩から)」という表現がはっきりと入っている。
 プーチン大統領の気持ちとしては、ロシアがウクライナの主人であり、ソ連時代には、その主人からウクライナは贈り物を受け取っていたというニュアンスがある。英語通訳では、この2国間の上下関係の意識が消えている。青山名誉教授の訳は、大事なニュアンスを拾いあげていると思われる。

タッカー氏「ありがとうございます」

プーチン大統領「結局のところ、ソ連の崩壊は事実上、ロシアの指導部によって引き起こされました。当時のロシア指導部が何に導かれていたのかは理解できませんが、すべてがうまくいくと考える理由がいくつかあったのでしょう。

 第一に、当時のロシア指導部は、ロシアとウクライナの関係の基本は、実は共通言語であると信じていたのではないでしょうか。

 ウクライナでは、人口の90%以上がロシア語を話していました。家族の絆、現地の3分の1の人が、何らかの家族や友情の絆を持っていました。共通の文化、共通の歴史、最後に、共通の信仰、何世紀にもわたる単一国家としての共存、深く相互に結びついた経済。

 これらすべてが、非常に基本的なものでした。これらすべての要素が相まって、私達の良好な関係は、必然的なものとなっています。

 2点目は、非常に重要なことです。アメリカ国民として、そして視聴者の皆さんに、このことを聞いていただきたい。

 旧ロシア指導部は、ソビエト連邦は消滅し、したがって、もはやイデオロギー的な分断線は存在しないと思い込んでいました。

 ロシアは、ソビエト連邦の崩壊に自発的かつ積極的に同意し、それがいわゆる文明国である西側諸国から協力と協調への誘いとして理解されるとさえ、信じていました。それこそが、ロシアが米国からも、いわゆる『文明化された』集団的な西側諸国全体(訳注4)からも、期待されていたことなのです」

(訳注4)英語通訳は、「this so-called collective West as a whole」(いわゆる集団的な西側諸国全体)と通訳している。しかし、ロシア語から翻訳した青山名誉教授は、「(すでに引用符で囲んだ)『文明化された西側諸国』」と翻訳している。
 ロシア語では、― уже в кавычках― “цивилизованным Западом”(―すでに引用符で囲まれた―「文明化された西側諸国」)となっている。プーチン大統領は、明らかに、皮肉を込めて、「文明化された」と形容したのだと思われる。この皮肉なニュアンスが、英語通訳からは消えている。ここではロシア語にある皮肉なニュアンスを復活させた。
 タッカー・カールソン氏のサイトでは「by the so-called civilized West」となっている。(Russia even agreed voluntarily and proactively to the collapse of the Soviet Union, and believed that this would be understood by the so-called civilized West as an invitation for cooperation and association.)

プーチン大統領「ドイツにも、社会民主党の大物政治家であるエゴン・バール(訳注5)をはじめとする賢い人々がいました。

 彼は、ソ連崩壊の寸前、ソ連指導部との個人的な対話の中で、ヨーロッパに安全保障システムを確立すべきだと主張していました。統一ドイツには援助を与え、米国、カナダ、ロシア、その他の中欧諸国を含む新しいシステムも構築すべきだが、NATOは拡大する必要はない。彼はそう言ったのです」

(訳注5)エゴン・バール(Egon Karlheinz Bahr、1922年3月18日 – 2015年8月19日)は、ドイツの政治家(ドイツ社会民主党所属)、経済協力大臣(1974年-1976年)。テューリンゲン州生まれ。
 ヴィリー・ブラント首相(当時)の側近として、東西ドイツの分断克服のアイデアとして「接近による変革」を提唱し、東西ドイツ基本条約交渉をはじめとするソ連、東ドイツ、ポーランドとの関係正常化を目指した「東方外交」において主導的な役割を担ったことで知られる。
参照:
Egon Bahr(Wikipedia)

プーチン大統領「NATOが拡大すれば、すべてが冷戦時代と同じになり、ロシアの国境に近づくだけです。それだけです。彼は賢明な老人でしたが、誰も耳を貸しませんでした。

 実際、彼は一度だけ怒ったことがあります。私の言うことを聞かないなら、モスクワには二度と足を踏み入れることはないと。すべてが彼の言ったとおりになりました(訳注6)」

(訳注6)ロシア語から翻訳した青山名誉教授の翻訳と英語通訳では、ニュアンスがまったく異なっている。
 青山名誉教授は「祖父は賢かった。誰も彼の言うことを聞かなかった。さらに、彼はどういうわけか怒った。この会話は私達のアーカイブにもある。もし彼が言うなら、もしあなたが私の言うことを聞かないなら、私は二度とモスクワには来ない。ソ連指導部に怒っている。彼は正しかった、すべては彼の言ったとおりに起こった。」としている。
 英語通訳は、エゴン・バールが怒った相手が、ドイツ人あるいは西側諸国の指導者達と読める。しかし、西側諸国の指導者に対して怒ったとして、「2度とモスクワへはいかない」という言葉が意味をもつだろうか。それに対して、青山訳では、ソ連指導部に怒っている。NATOの東方拡大を行ったのは、西側なので、英語訳の方が、筋が通っているが、ロシア語版では、エゴン・バールとソ連指導部との会話の記録が残っているとまで述べている。ここは、ロシア語原文も確かめたが、青山名誉教授の訳した通りになっており、意味がわかりにくい箇所である。
 ひとつ考えられることは、彼が「ソ連指導部」に対してこの発言をした、ということは、西側が1ミリもNATOの東方拡大をしないと約束している時期であること、その時に、プーチン氏の言葉を借りれば、「ソ連が崩壊すれば、西側との間の分断線がなくなり、文明国である西側から、協力と協調への誘いとして理解されるとさえ信じていた」、当時のソ連指導部(ゴルバチョフ政権と、その後のエリツィン政権を含むと思われる)の見通しの甘さ、お人よし加減に、怒った、という仮説である。
 西側をよく知るエゴン・バール氏は、「東方外交」を進める知恵があっただけに、その後、西側が、ロシアのもつ意外なまでの「お人よし」ぶりに気づき、つけ込むだろう、だから無防備にソ連を解体して、NATOの東方拡大はしない、などという嘘(まさしく嘘となった)を信じてはいけない、と怒ったのではないか。プーチン自身も、エゴン・バール氏本人ではないので、真意はわからないかもしれないが。
 2016年、プーチン大統領がエゴン・バール氏について語った独紙『ビルト』のインタビューを『TASS』が紹介している。プーチン大統領は、「NATOの体制は完全に変わるべきであり、冷戦の時代は過去のものになるべきだ」と主張したバール氏の先見の明を称えた。
 プーチン大統領は、1990年に行われたドイツ・ソ連首脳会談の機密文書を示し、「欧州はNATOに加盟すべきではなかった」「(バール氏が言う通り)中央ヨーロッパ全体が、東ドイツの有無にかかわらず、ソ連と米国の参加を得て、別の連合体を形成するべきだった」「ヨーロッパ全体を統合する、もっと一般的な何かが確立されるべきだったのだ」のに、現実には、NATOの東方への拡大が継続され、バール氏の主張したような(あるいはゴルバチョフ氏が提唱した「ヨーロッパ共通の家」のような)新たな体制に変わることはなかったと述べている。
 プーチン大統領は、「我々は最初の一歩からすべてを間違え、欧州の分裂を克服できなかった。ベルリンの壁は25年前に崩壊したが、欧州の分裂は解決されず、目に見えない壁は単に東側に移設されただけだ」と述べたと2016年1月11日付『TASS』が報じている。
参照:
Cold War era’s stereotypes provide for NATO’s eastward expansion — Putin(TASS、2016年1月11日)

タッカー氏「もちろん、それは実現した。あなたも何度もおっしゃっていますよね。それは正しい指摘だと思います。米国の多くの人は、ソ連が崩壊して冷戦が終結すれば、ロシアと米国との関係はうまくいくと考えていた。

 しかし、なぜこうなったと考えるか。あなたは、西側諸国が強いロシアを恐れているということ以外、説明していない。しかし、西側諸国があまり恐れていないように見える強い中国がいる。ロシアについてどう考え、何が政策立案者達にロシアを倒さなければならないと確信させたのでしょうか」

プーチン大統領「西側諸国は、強いロシアを恐れる以上に、強い中国を恐れています。ロシアは1億5千万人の人口を獲得しているが、中国は15億人の人口を抱えています。かつてはそれ以上でしたが、中国にとっては、それで十分なのです。

 かつてビスマルク(訳注7)が言ったように、潜在能力が最も重要です。中国の潜在力は非常に大きい。購買力平価でも、経済規模でも、中国は現在、世界最大の経済大国です。すでにかなり前に米国を追い抜き、急成長を遂げています」

(訳注7)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(1815年~1898年)は、ドイツ(プロイセンおよびドイツ帝国)の政治家。
 プロイセン王国首相、北ドイツ連邦首相、ドイツ帝国宰相を歴任した。ドイツ帝国の初代宰相を務めたドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相」の異名を持つ。
 プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身で、代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、軍制改革を断行して、ドイツ統一戦争に乗り出した。1867年の普墺戦争の勝利で、北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で、南ドイツ諸国も取り込んだ統一ドイツ国家「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」を樹立した。
 プロイセン首相に加えてドイツ帝国宰相も兼務し、1890年に失脚するまでドイツを指導した。
 ドイツ帝国宰相として、東方問題、アフリカ分割などで列強の利害を調整しながら、巧みなビスマルク外交を展開した。外交では一貫してフランスの孤立化を進めるために、ロシア、オーストリアとの提携を進めた。
 卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築したが、次第に行きづまり、新皇帝ヴィルヘルム2世と対立し、1890年に辞任した。
 内政では、文化闘争、社会主義者鎮圧法、カトリック抑圧などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。
参照:
オットー・フォン・ビスマルク(Wikipedia)

ビスマルク(世界史の窓)

プーチン大統領「誰が誰を恐れているか、という話はやめましょう。そんな言葉で論じるのは、やめましょう。

 そして、1991年以降、ロシアが『文明国』(訳注8)の兄弟の家族に迎えられると期待したとき、そのようなことは何も起こらなかったという事実に触れましょう。

 あなた(もしくはあなた達)は、私達をだましたのです。私があなたと言ったのは、個人的な意味ではありません。もちろん米国のことです。NATOは東方には拡大しないという約束でした。しかし、それは5回も起こりました(訳注9)。拡張の波は、5回あったのです。我々は、それをすべて容認しました」

(訳注8)英語の通訳は、文明国(civilized nations)としている。青山訳では、「文明人」となっており、かぎかっこに入っている。InoSMIロシア語版の原文は、”цивилизованных народов”(「文明国あるいは文明化された民族」)となっており、これが一種の皮肉であることを示している。

(訳注9)大西洋条約機構(NATO)は、1949年に12ヶ国の創設メンバー国で結成された後、1952年にギリシャとトルコ(第1次拡大)、1955年に西ドイツ(第2次)、1982年にスペイン(第3次)が加盟して拡大した。
 米国が「NATOは東方には拡大しないという約束」をしたとされる、1990年のドイツ再統合以降に行われたNATO拡大は、以下である。第10次のスウェーデン加盟で、計32ヶ国となっている。
 1999年3月12日(第4次):チェコ、ハンガリー、ポーランド
 2004年3月29日(第5次):ブルガリア、エストニア、 ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア、スロベニア
 2009年4月1日(第6次):アルバニア、クロアチア
 2017年6月5日(第7次):モンテネグロ
 2020年3月27日(第8次):北マケドニア
 2023年4月4日(第9次):フィンランド
 2024年3月7日(第10次):スウェーデン
 ドイツ再統合から、タッカー・カールソン氏のプーチン大統領インタビューが行われた2024年2月6日までのNATO拡大は、6回ということになる。プーチン氏の勘違いか、数え方が異なるかは不明。
参照:
北大西洋条約機構の拡大(Wikipedia)

プーチン大統領「我々は、彼らを説得しようとしていました。(NATOの東方拡大を)やめてくれ、と。私達は今、あなた方と同じようにブルジョア(訳注10)です。我々は市場経済であり、共産党の力はありません」

(訳注10)ここでの「ブルジョア」は、金持ちと言いたいのでなく、ロシアはブルジョアを否定しない、ソ連のようなプロレタリアート独裁の国ではないという意味。

プーチン大統領「交渉しましょう。さらに、私は以前にも、このことを公言したことがあります。私達の間に、ある溝ができ始めたときがありました。その前に、エリツィンが米国に来ました。彼が議会で演説し、良い言葉を述べたことを覚えています。

 米国に神のご加護を、と言ったのです。彼が言ったことはすべて、我々を受け入れてほしいというシグナルだったのです。その前のユーゴスラビアの情勢を思い出してください。エリツィンは称賛を浴びました。ユーゴスラビアの動きが始まるとすぐに、彼はセルビア人を支持する声を上げました(訳注11)」

(訳注11)1992年3月、ボスニア=ヘルツェゴヴィナが、ユーゴスラビア連邦からの独立宣言をしたことにより、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ紛争ないしボスニア内戦が勃発した。これは、1991年に始まったユーゴスラビア内戦の過程で、スロベニア・クロアチア・マケドニアに続く独立宣言だった。
 しかし、ボスニア=ヘルツェゴヴィナには、その領域内にセルビア人・クロアチア人・ムスリム(イスラム教徒)の3民族があり、その勢力が拮抗していたため、独立をめぐって深刻な対立が生じた。クロアチア人・ムスリムが共に独立を主張したのに対し、セルビア人は強く反発して、セルビア共和国の支援を求めた。
 内戦は、ECが1992年4月にボスニア=ヘルツェゴヴィナの独立を承認したことから本格化した。独立を認めないセルビアは、モンテネグロと共に、新ユーゴスラビア連邦を結成した。
 ボスニア=ヘルツェゴヴィナでは、上記3民族が居住区を分けることができないほど混在していたため、その対立は非常に深刻になり、「民族浄化」と称して、互いに隣り合う他民族の排除を実力で行い、犠牲者が増えていった。
 国際世論は、セルビアのミロシェヴィッチ政権のみを侵略者と見なし、また、残虐行為がセルビア側の行為と報道され、「セルビア悪玉論」が出来上がったが、現在ではムスリム側にも同じような犯罪があったことが明らかになっている。
 内戦にはNATOが本格的に介入し、1995年8月~9月にセルビア人勢力に激しい空爆を加えたため、セルビア人側が停戦に応じ、米国のクリントン政権の仲介で、12月に和平合意が成立、一応和平が実現した。
 その合意によってボスニア=ヘルツェゴヴィナは、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦とセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の2国家連合体として存続し、分裂を免れたが、現在も多くの問題を抱える。
 当時、冷戦終結後、最大の紛争であるボスニア内戦に対して、国際連合は国連保護軍を派遣すると同時に、さまざまな和平案を提案した。国際社会では「セルビア悪玉論」が主流となっていたが、主要国の足並みは揃わなかった。
 独伊などはいち早くクロアチアを承認し、セルビアを悪者視したが、英仏はセルビアに自重を求めながらも同情的だった。
 セルビアと歴史的関係の深いロシア(エリツィン政権)は、明確なセルビア支持であったが、国内経済再建優先の必要から、米国との対決も避けなければならなかった。
 その米国(G.H.W.ブッシュ(父)政権と次のクリントン政権)は、人道的立場からの問題早期解決に指導力を発揮すべしという国内世論に押され、セルビアの残虐行為、侵略を非難するスタンスが強かった。
 サウジアラビアやトルコなどイスラム諸国は当然ムスリムを支援したので、米国は湾岸戦争で悪化したイスラム圏との関係をこれ以上こじらせるわけにはいかないという面もあった。
参照:
ボスニア内戦(世界史の窓)
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(Wikipedia)

プーチン大統領「そして私達も、セルビア人擁護の声を上げずにはいられませんでした。そこで複雑なプロセスが進行していたことは、理解していました。しかし、ロシアは、セルビア人支持の声を上げずにはいられなかったのです。

 なぜなら、セルビア人もまた、正教の文化などを持つ、特別で私達に近い民族だからです。何世代にもわたって、多くの苦しみを味わってきた国なのですから。

 まあ、それはともかく。重要なのは、エリツィンが支持を表明したことです。米国は何をしましたか? 国際法と国連憲章に違反して、ベオグラード空爆を開始しました(訳注12)。瓶の中の妖精を出したのは米国だったのです」

(訳注12)長らく、ユーゴスラビア連邦の中心であるセルビア共和国内の自治州となっていたコソボでは、独立を目ざすアルバニア系住民と、独立を認めないセルビア当局の争いが続いていた。
 特に1980~90年代のコソボを巡る紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体のきっかけとなった。
 この「コソボ紛争」末期の1999年3月~6月に、米国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国が、アルバニア人の人権擁護を理由に、ユーゴスラビアに空爆(コソボ空爆)を行なったが、この空爆は、国連安全保障理事会の決議を経ておらず、国際世論の批判を受けた。
 空爆は、ユーゴスラビア連邦共和国およびセルビア共和国の首都であるベオグラードや、コソボ、モンテネグロの軍事施設に限定された攻撃であったはずのものが、NATOは、セルビア系による民族浄化などの不法行為を根拠に、ユーゴスラビア全域を攻撃の対象とするようになった。
 「コソボ空爆」において、セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領の妻であるミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。
 これらへの攻撃の一部は、国際法、特にジュネーヴ条約に違反するものではないかとの批判が出た。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、攻撃は合法であると押し切った。
 また、この空爆は、そもそもユーゴスラビアが和平交渉において、合意文章に調印しなかったために起きたものだが、ユーゴ政府が調印しなかった理由として、和平交渉の期限切れ直前に米国が提出した付属文書B(Annex B)の存在がある。
 その内容は、「コソボのみならずユーゴスラビア全域でNATO軍が展開・訓練できるよう認め、なおかつ治外法権を認めよ」という、NATO軍による事実上のユーゴスラビア占領支配を意味するようなものであった。
 空爆終了後、この付属文書Bの存在が公表され、ドイツなどではメディアに公開されなかったことが問題視された。
参照:
コソボ紛争(コトバンク、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
コソボ紛争(Wikipedia)
アライド・フォース作戦(Wikipedia)

プーチン大統領「さらに、ロシアが抗議し、憤りを表明したとき、何が語られましたか? 国連憲章と国際法は時代遅れになったと。今では誰もが国際法を引き合いに出しますが、当時はすべてが時代遅れだと言い始めたのです。すべてを変えなければならないと(訳注13)」

(訳注13)NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。NATOは国際連合安全保障理事会による裏付けのないまま攻撃を行った。これは、ユーゴスラビアと親しい関係にある常任理事国の中国やロシアの反対を無視した空爆であった。
 ロシアは、ユーゴスラビアに対する軍事行動を正当化するような決議には、拒否権を行使するとしていた。
 NATOは、国連安全保障理事会による同意のないままでの軍事行動を、「国際的な人道危機」を理由に正当化しようとした。
 また、NATO憲章では、NATOは加盟国の防衛のための組織であるとされていたにもかかわらず、この場合、NATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃を行ったことも、批判の対象となった。
 こうした批判に対し、NATOは、バルカン半島の不安定はNATO加盟国への直接の脅威であると主張し、そのためこの軍事作戦はNATO憲章上、認められるものであると強弁した。この時、バルカン半島の不安定によって直接の脅威を受けるとされる国はギリシャであった。
 国際連合の憲章は、国連安全保障理事会での決議を必要とする一部の例外を除いて、他の独立国への軍事侵攻を禁じている。この問題は、ロシアによって、国連安全保障理事会に持ち込まれた。その決議案では、特に、「このような一方的な武力行使は、国際連合憲章への重大な違反にあたる」とした。中国、ナミビア、ロシアが決議案に賛成、その他の国々は反対し、決議案は否決された。
 1999年4月29日、ユーゴスラビアは、ハーグにある国際司法裁判所で、NATO加盟諸国(ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ポルトガル、スペイン、米国)を相手に訴えを起こした。裁判所は、紛争当時、ユーゴスラビアが国連の加盟国ではないために、この訴えについての判断を避けた。
参照:
コソボ紛争(Wikipedia)

プーチン大統領「確かに、パワーバランスが変化した今、変えなければならないものもあります。それは事実ですが、このような形でではありません。エリツィンはすぐに泥の中に引きずり込まれ、アルコール依存症、何も理解していない、何も知らない、と非難されました。彼は、すべてを理解していましたよ」

(第5回に続く)

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