【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳!(第2回)つまみ食いの翻訳では絶対にわからないプーチンインタビューの内容! 冒頭から、ロシア・ウクライナ史の仰天の講義! 2024.2.13

記事公開日:2024.2.13 テキスト
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(文・IWJ編集部)

 IWJ代表の岩上安身です。

 タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領への歴史的なインタビューの公開から、3日経ちました。

 日本の大手メディアの報道の仕方を分析した9日付『スプートニク日本』は、「X」へのポストで、こう述べています。一読して、日本の大手メディア関係者は、ぐうの音も出ないことでしょう。記者クラブメディアの横並び「大本営報道」が、バッサリ切り捨てられています。

 「朝日、読売、毎日、産経、日経の各紙やNHK、共同通信、時事通信など各社が伝えた。全社がプーチン氏が『ウクライナ侵攻以来、初めて西側からの取材に応じた』と報じた。

ほぼ全社が共通して報じたプーチン氏の発言

・ウクライナへの軍事支援が停止されれば、戦闘は数週間で終わる

・ポーランドやラトビアなど、NATOの加盟国への『侵攻』拡大の意図はない

カールソン人物批判

 インタビュアーのカールソン氏について、『トランプ氏が副大統領候補として検討している』人物(毎日新聞)と中立性に疑問を呈す表現や、FOXニュースを降板させられた、2020年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が盗まれたという陰謀論を広めた(時事通信)と批判的に紹介。

 これを根拠にほぼ全紙が、カールソン氏はロシアやトランプ氏寄りだと強調し、ロシアが自国の言い分を広めるのに利用したという懐疑的な見方を伝えている」。

 これまでお伝えしているように、タッカー・カールソン氏は、ロシアやトランプ氏を擁護するためではなく、単に、ジャーナリストの使命として、合衆国憲法で保障された「言論の自由」を実現するために、モスクワに飛んで、当事者中の当事者にインタビューを行ったことは、インタビューの内容を吟味すれば明らかです。インタビューそのものを、プロパガンダと決めつけることは、取材を行うジャーナリズムそれ自体への冒涜です。

・はじめに~タッカー・カールソン氏、プーチン大統領独占インタビューへ! 米国の主要メディア各社が行ったゼレンスキー大統領へのインタビューに対しては、「あれはジャーナリズムではありません。政府のプロパガンダです。もっとも醜悪なプロパガンダです。人々を殺すプロパガンダです」と痛烈に非難! アメリカとウクライナのプロパガンダに、自分の頭で何も考えず、追随してきただけの日本の大手新聞テレビは、タッカー・カールソン氏の「自分の頭で考える」発言に耳を傾けるべき!
会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月8日)
非会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月8日)

 このインタビューの内容を読者に紹介もせずに、「偏向」していると決めつけて批判する日本の大手メディアは、実は、その判断基準自体が、バイデン政権応援団、あるいは米国政府の飼い犬として「偏向」した遠吠えをしていることを自ら証明しているにすぎません。読者に、内容を知る必要はない、とふれ回っているのですから、「ジャーナリズム」の風上にもおけません。

 実際に行われたタッカー・カールソン氏のインタビューをぜひ以下から御覧ください。

 インタビュー翻訳全編の第1回は、ここから御覧いただけます。

・タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!
会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月10日)
非会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月10日)

 またこの歴史的なインタビューの反響などは、以下から御覧になれます。

・はじめに~タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューを『朝日新聞』は「トランプ支持者によるバイデン政権へのゆさぶり」と断定! ノルドストリーム爆破やウクライナによるドンバス攻撃、西側のミンスク合意破棄などについて、プーチン大統領が語った内容には一切触れず、「侵略を既成事実化するための世論工作」などと決めつけて、当事者へ取材を行うジャーナリズムそのものを否定!『朝日』は新聞を自称するのをやめて、米国の犬の広報と名乗れ! IWJはインタビュー全文の仮訳・粗訳を進めています!
会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月12日)
非会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月12日)

・タッカー・カールソン氏のプーチン大統領インタビュー(続報)! カールソン氏のインタビューが米国内で大問題に! 米国内では逮捕論! EUでは渡航禁止令が取りざたされる! ところが、英語圏の市民はこのインタビューを大歓迎! いったい誰が慌てているのか? 本日、朝8時に、このインタビューは公開! IWJは全編翻訳紹介の予定! なお、昨夜からフライング気味に出回っている、カールソン・インタビューのテキストはガセであると、ロシア大統領府のペスコフ報道官が表明!
会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月9日)
非会員版 (日刊IWJガイド、2024年2月9日)

 以下から、インタビューとなります。

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タッカー・カールソン氏「大統領、ありがとうございます。ウクライナ紛争が始まった2022年2月22日(訳注1)、あなたは全国演説で、米国がNATOを通じて我が国に奇襲攻撃を仕掛けてくるかもしれないという結論に達したので行動すると述べました。

 アメリカ人の耳には、それは被害妄想に聞こえます。米国が突然ロシアを攻撃するかもしれないと考えた理由を教えてください。なぜそのような結論に至ったのですか?」。

(訳注1)ロシアが実際にウクライナ領土に侵攻したのは、2月24日。カールソン氏の記憶間違いか、侵攻2日前に行った演説を指すのか、どちらかは現時点では判然としない。

プーチン大統領「(大きなため息)アメリカが、アメリカ合衆国が、ロシアに奇襲攻撃を仕掛けようとしていたのではありません。そんなことは言っていませんよ。我々はトークショーをしているのですか? それとも真剣な会話をしているのですか?」。

タッカー氏「(笑いながら)これは一本取られました(訳注2)。ありがとうございます。大真面目な話です」。

(訳注2)タッカー氏は、「Here the quote」と笑いながら述べている。Quoteは、「引用」や「引き合いに出すこと」を意味する名詞である。直訳すると「ここに引用があります、引き合いに出されたものがあります」となり、ここで、プーチン大統領は、トークショーを引き合いに出し、タッカー氏の質問が馬鹿げたものであることを間接的に揶揄しているものと思われる。ここは、プーチン大統領の一種の切り返しと考えて、上記のように意訳した。

仮に、タッカー氏が、自分の主張の根拠を示すために、「ここに引用があります」と言ったのだとしたら、同時に、ペーパーなどの物証を見せるはずであり、映像にはその物証は提示されていない。そもそも、笑いながらそう言うことは考えにくい。

プーチン大統領「私が理解する限り、あなたの基礎教育は歴史ですから」。

タッカー氏「はい」。

プーチン大統領「もし差し支えなければ、30秒か1分でいいので、歴史的背景を少しでも知ってもらうために、歴史について少し触れたいのですが」。

タッカー氏「お願いします」。

プーチン大統領「ウクライナとの関係が、どこから始まったのかを見てみましょう。ウクライナはどこから来たのか? ロシア国家は中央集権国家として始まりました。そして、862年にロシア国家が成立したとされています(訳注3)。

(訳注3)下記にあるように、ヴァリャーグ(ノルマン人とされる)のリューリクがノヴゴロドに到着したとされるのが862年。

 ノヴゴロド(訳注4)の住民が、スカンジナビアからバイキング(ヴァリャーグ)の王子リューリク(訳注5)を招いて統治させました。1862年、ロシアは、建国1000年を迎えました」。

(訳注4)ノヴゴロド(Novgorod)は、ロシア西部のノヴゴロド州に位置し、歴史的に重要な都市。中世には、ノヴゴロド公国の首都として栄え、商業や文化の中心地として知られていた。現在も、その歴史的な遺産や文化的な重要性から、観光地として人気がある。

(訳注5)バイキング(ヴァリャーグ)の王子リューリク(Rurik)は、9世紀にバイキングの首長として活躍した人物。リューリクは、862年にノヴゴロドに招かれて(もしくは南下して)、スラブ人の部族を統治した。彼は、優れた統治者として知られ、ノヴゴロド公国を繁栄に導いた。

プーチン大統領「ノヴゴロドには、建国1000年を記念する記念碑があります。882年、リューリクの後継者オレグ王子(訳注6)は、実はリューリクの幼い息子の摂政の役割を果たしていました。リューリクは、その時までに亡くなっていたため、オレグはキエフ(訳注7)へ行ったのです。

 彼は、かつてリューリクの部隊の兵士だったと思われる2人の兄弟(アスコルドとジールのこと)を追放しました。こうしてロシアは、キエフとノヴゴロドの2つの勢力を中心に発展し始めました」。

(訳注6)オレグは、バイキング(ヴァリャーグ)の出身で、リューリクの親族。リューリクの死の際に彼の王国と子(イーゴリ1世)の世話を委ねられた。オレグはドニエプル川沿いの町を攻略し、最終的には、リューリクの部下だったアスコルドとジールが支配するキエフを奪い、そこに都を構え、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)を樹立した。

(訳注7)12世紀初めに編纂されたとされるロシア最古の年代記「過ぎし年月の物語」によると、東スラブ諸族がドニエプル川中流域に定住していて、それぞれ各地域と交流していたが、各諸族間で都市国家が形成されていくと、統合や抗争が起きて、9世紀には北のノヴゴロドと南のキエフの2つが有力な中心地となっていった。プーチンが口にしたオレグが南下してキエフを支配したのは882年であり、ノヴゴロドとキエフはリューリク朝のもとにおかれ、この時から「キエフ・ルーシ」が始まったとされる。

プーチン大統領「次にロシアの歴史で非常に重要な年は、988年です。この年、ロシアは洗礼を受けたのです。リューリクの曾孫であるウラジーミル王子が正教(東方キリスト教)を採用したということです(訳注8)。この時から、中央集権的なロシア国家が強化され始めました。

 なぜでしょうか? 領土が単一だからです。統合された経済関係。同じ言語。そして、ロシアが洗礼を受け、同じ信仰を持ち、ウラジーミル王子の統治を受けてから、中央集権的なロシア国家が形づくられ始めたのです。中世にさかのぼると、ヤロスラフ賢公(訳注9)が王位継承の秩序を導入しました」。

(訳注8)神聖ローマ帝国が成立したのが962年。東西両教会の分裂が決定的となる1054年の前、プーチンは988年としているが、989年とも言われる時代にギリシャ正教を国教として受容し、キエフ大公であるウラジーミルはビザンティン皇女アンナと結婚し内政を充実させた。

(訳注9)ヤロスラフ賢公は、キエフ・ルーシの大公(在位:1016年 ― 1054年)。キエフ・ルーシの大公に即位する以前にロストフ公、またノヴゴロド公を歴任した。ロストフは、モスクワから北東へ225kmに位置するロシアのヤロスラヴリ州にある古都。

プーチン大統領「しかし、彼(ヤロスラフ賢公)が亡くなった後、それはさまざまな理由で複雑になりました。王位は父から長男に直接受け継がれるのではなく、他界した王子からその弟に受け継がれました。そして、その息子たちへと受け継がれていったのです。

 その結果、ロシアは分裂し、ひとつの国家として終焉を迎えました。特別なことではありませんでした。当時のヨーロッパでも同じことが起こっていたのです。

 しかし、分断されたロシア国家は、チンギス・ハーンが先に作り上げた帝国の格好の餌食となりました。彼の後継者たち、すなわちバトゥ・ハーンは、ほとんどすべての都市を略奪し、破滅させました。

 ちなみにキエフを含む南部と他のいくつかの都市は、単に独立を失っただけでした。一方、北部の都市は、その主権の一部を維持しました。彼らはオルダ(訳注10)に貢ぎ物をしなければならなりませんでしたが、なんとか主権の一部を維持することができたのです」。

(訳注10)オルダは、金帳汗国またはキプチャク=ハン国のことで、13世紀から15世紀にかけて、現在のロシア南部、ウクライナ、カザフスタン、クリミア半島などを含む広大な地域を支配したモンゴル帝国の西方ウルス(国家)の一つ。
 このキプチャク・ハン国によるロシアに対する240年にわたる支配を「タタールのくびき」もしくは「タタール・モンゴルのくびき」とロシアでは呼ぶ。この支配を最初に打ち破って現れたのが、急速に成長をとげてきたモスクワ公国だった。1480年、モンゴル族のジョチ・ウルス(チンギス・ハーンの長男、ジョチの系譜の国家。ウルスは国家の意)の支配を脱して、モスクワ大公が主権を得て、北東ロシアの政治的統一を達成した。ロシア帝国の前身である。別名モスクワ・ルーシ。

プーチン大統領「そして、モスクワを中心とする統一ロシア国家が形成され始めました。キエフを含むロシア南部は、徐々に別の磁石、つまりヨーロッパに出現しつつあった中心に引き寄せられ始めました。それがリトアニア大公国で、ロシア人が人口のかなりの部分を占めていたため、リトアニア・ロシア公国とさえ呼ばれていました。

 彼らは古いロシア語を話し、正教徒でした。しかしその後、リトアニア大公国とポーランド王国の統合がありました。その数年後、別の統一が調印されましたが、この時はすでに宗教的領域で、正教会の司祭の一部がローマ教皇に従属するようになったのです。こうして、これらの土地はポーランド・リトアニア国家の一部となりました。

 数十年の間、ポーランド人は、この地域の植民地化に従事しました。彼らはそこにひとつの言語を導入し、この住民は正確にはロシア人ではなく、辺境に住んでいるからウクライナ人なのだという考えを定着させようとしました。

 もともとウクライナ人という言葉は、その人が国家のはずれ、周縁部に住んでいる、あるいは国境警備の仕事に従事しているという意味だったのです。特定の民族を意味する言葉ではありませんでした(訳注11)」。

(訳注11)「ウクライナ」という呼称が史書において最初に確認できるのは、キエフ・ルーシの歴史が著された『原初年代記』(イパーチイ写本)の1187年の項である。この年、ステップ地帯の遊牧民ポロヴェツ人に対して軍事遠征を行なったペレヤスラフ公ヴォロディーミルが戦死し、「彼を思ってすべてのペレヤスラフ人が哭いた」「ウクライナは大いに悲しんだ」と記されている。
 「ウクライナ」という呼称には、「分かつ」ことを意味する印欧祖語由来の語根「クライ」が内包されている(現代ウクライナ語においても、「分かつ」を意味する動詞の一つに「ウクラーヤティ」がある)。
 「分かつ」ことが「境界」という概念と、分かたれた「(一定の)領域」という概念の二つを生み出している。

 「境界」という概念の系列に、「辺境」や「僻地」「国境」「荒野」といった意味があり、「領域」といった概念の系列に、「国家」や「内地」といった意味が生じたと考えられる。
 中世から近世にかけての東ヨーロッパ平原南部一帯(現在のウクライナ)は、モスクワ・ロシアやリトアニア・ポーランド、クリミア・タタール、オスマン・トルコ等の列強の緩衝地帯となり、その無帰属性と人口の希薄さゆえに「荒野(ディーケ・ポーレ)」と呼ばれた。古代に栄えた「キエフ・ルーシ」は、「タタールのくびき」以来、独立性を失い、「モスクワ・ルーシ」のように、自力で独立を再び取り戻すことができなかった。
 ウクライナの象徴や代名詞ともなっているコサックが誕生したのが、この危険な辺境地帯であって、隷属・抑圧からの解放を求める者たちが周辺諸国からこの権力の空白地帯に集い、軍事能力を備えた強力な自治共同体を形成するに至った。

 16世紀以降のコサック台頭と共に、「ウクライナ」はコサック国家(ヘトマンシチナ)の領土を意味するようになる。
 キエフ中興の祖ペトロ・サハイダーチヌイ(1582~1622)を始めとして、フメリニツキー、ヴィホフスキー、ドロシェンコ、サモイロヴィチ、マゼーパ、オルリク等のヘトマン(コサック軍の首領)たちは、コサック国家の領土のことを哀歓を込めて「(我らが)ウクライナ」と呼んだ。
 ウクライナに「国家」や「内地」の意味が現実的に加わったのは、16世紀のコサックの台頭以降と考えられる。
 原田義也氏は『ウクライナを知るための65章』(明石書店)の中で以上をまとめて、次のように記している。

 「キエフ・ルーシ時代、『ウクライナ』は(キエフ)大公国の版図に属する諸国・諸地方に対する内名(自らが呼ぶ呼び名)として用いられた。
 これに続くキエフ大公座の衰退や東欧平原南部の『荒野』化の時代になると、『ウクライナ』は危険な辺境・国境地帯を意味する外名(外部が呼ぶ呼び名)としてのニュアンスを帯びてゆく。
 この『荒野』化が逆説的にもたらしたコサック共同体の発生とその勢力拡大の時代には、『ウクライナ』は自由と独立不羈を掲げる彼らの『祖国』を表わす内名となった。
 そのコサック国家が再び周辺列強の支配下に取り込まれ、かつて『荒野』と呼ばれた地域に『ノヴォロシア(新ロシア)』『マロロシア(小ロシア)』という新たな異名があてがわれた時代、あるいはロシア革命後、ソ連を構成する一共和国として、『ソヴィエト』という称号が国名に冠された時代、『ウクライナ』は中東欧の大局的な「中心/周縁」の政治力学上、やはり『周縁』であることを余儀なくされた外名であった」

 このように、「ウクライナ」の意味する内実は、時代とともに変遷してきた。
 プーチン大統領の「ウクライナ」理解は、キエフ大公国が衰退し、ウクライナが荒野化され、危険な国境地帯・辺境という意味を帯びた時代の、「外名」としての呼び方で、それを「ウクライナ」という言葉の起源として採用しているように見える。
 いずれにしても、歴史的に見ると、「ウクライナ」は、民族名ではなく、一定領域や境界を指す空間的な言葉だったことは確かである。

プーチン大統領「そのため、ポーランド人はあらゆる手段を使ってロシア領のこの地域を植民地化しようとし、実際に残酷とまでは言わないまでも、かなり厳しく扱いました。彼らはワルシャワ(ポーランドの首都)に手紙を書き、権利が尊重されることと、キエフを含む当地で人材が登用されることを要求しました」。

タッカー氏「失礼。ポーランドによるウクライナ弾圧は、いつの時代のことなのでしょうか」。

プーチン大統領「13世紀のことです。さて、何が起こったかは、後で話しましょう。混乱しないように日付をあげます。1654年、さらに言えばその年の少し前、ロシアのこの領域(訳注12)を支配していた権力者たちは、ポーランドとの戦争に際して、ロシア系で正教徒の統治者を派遣するようワルシャワに要求しました。

 しかし、ワルシャワはこの要求に応じず、拒否したため、彼らはモスクワに庇護を求めてロシア領に組み込まれました。捏造していると思われたくないので、文書をお見せします」。

(訳注12)現在のウクライナ領。1654年で言及された戦争は、現在のウクライナ・ロシアとポーランド・リトアニア国家との間で起きたロシア・ポーランド戦争(1654年―1667年)のこと。

タッカー氏「まあ、あなたが捏造しているようには聞こえませんね。しかし、2年前に起きたことと、どう関係があるのかよくわかりませんね」。

プーチン大統領「それでも、これは公文書館の文書です。コピーです。これは、当時ロシア領だったこの地域(現在のウクライナ)の権力を掌握していたボフダン・フメルニツキー(訳注13)の手紙です。彼はワルシャワに手紙を書き、自分たちの権利を守るよう要求しました。拒否された後、彼はモスクワに手紙を書き始めたのです」。

(訳注13)ボフダン・フメルニツキーは、1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊にあるスボーチウに生まれた、ウクライナ・コサックの指導者である。

プーチン大統領「(フメルニツキーは)ウクライナを、モスクワ・ツァーリ(訳注14)の強力な支配下に置くよう求めたのです。これらの文書のコピーがあります。あなたの良い記憶のために、残しておきます。ロシア語への翻訳もあります。後で、英語に翻訳してください。しかし、ロシアは、ポーランドとの戦争が始まることを想定して、彼ら(ウクライナ・コサック)をすぐに認めることには同意しませんでした。

 それでも1654年、ツァーリを頂点とする、古ロシア国家権力の代表機関であった聖職者と地主からなるロシア議会は、古ロシアの一部をモスクワ公国に含めることを決定しました。案の定、ポーランドとの戦争が始まりました。それは13年間続き、1654年(訳注15)に休戦協定が結ばれました。

(訳注14)ツァーリとは、15~16世紀以降のロシアの君主・皇帝を指す言葉である。モスクワ大公が「タタールのくびき」から独立し、ロシア平原に支配をおよぼして大国化してゆく過程で、西方の神聖ローマ皇帝との対等意識がめばえて、古代ローマのカエサルを語源とする「ショーリ」を、1547年、イワン4世が取り入れて、神意による絶対的な専制君主という意味をもつようになった。

(訳注15)休戦協定が結ばれたのは、1667年。1654年はロシア・ポーランド戦争の始まった年で、プーチン大統領の言い間違いであると思われる。

 そして32年後、ポーランドとの間に、彼らが恒久平和と呼んだ講和条約が結ばれました。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川左岸全体(訳注16)がロシアに渡ったのです。そしてドニエプル川右岸一帯(訳注17)は、ポーランドに残りました。エカチェリーナ2世の統治の下、ロシアは南部と西部を含むすべての歴史的な土地を取り戻し、これは(ロシア)革命まで続きました」。

(訳注16)(訳注17)ドニエプル川左岸全体は、トランスクリプトでは、「the whole left bank of Dnieper」となっている。ドニエプル川右岸一帯は、「the whole right bank of Dnieper」となっている。
 通訳の英語も、確認したところ、このとおりに通訳している。通常、ロシア領となったのは、北極を北にしてドニエプル川を見た場合、右岸全域であり、ポーランドに残ったのは、ドニエプル川の左岸である。

 考えられるのは、モスクワから見て、黒海方向を基準として、左右の位置づけを逆に考えたという可能性がある。これ以前にも、プーチン大統領が、ドンバス地方を「西ウクライナ」と述べた点を考慮すると、この可能性は高い。もう一つの可能性は、単純な通訳の間違いだが、これは考えにくい。

プーチン大統領「第一次世界大戦前、オーストリア参謀本部は、ウクライナ化の思想に依拠し、ウクライナとウクライナ化の思想を積極的に推進し始めました。その動機は明らかでした。第一次世界大戦直前、彼らは潜在的な敵を弱体化し、国境地帯で有利な条件を確保したかったのです。
 そのため、(当時の)ポーランド(領内)で生まれた、その領土に住む人々は、本当のロシア人ではなく、むしろウクライナ人という特別な民族集団に属しているとする考え方が、オーストリア参謀本部によって宣伝され始めました。

 遡ること19世紀には、ウクライナの独立を主張する論者が現れました。しかし、彼らはみな、ウクライナはロシアと非常に良好な関係を築くべきだと主張しました。彼らは、そう主張しました。1917年の革命後、ボリシェヴィキ(注18)は、ウクライナの国権回復を目指し、ポーランドとの敵対を含む内戦が始まりました。
 1921年、ポーランドとの和平が宣言されました。その条約により、ドニエプル川右岸(訳注19)は、再びポーランドに返還されました。1939年、ポーランドは、ヒトラーに協力しました(訳注20)。
 ヒトラーはポーランドに、和平と友好条約を提案しました。その見返りとして、ポーランドは、ドイツの大部分と東プロイセンおよびケーニヒスベルクを結ぶ、いわゆるダンツィヒ回廊を返還することを要求しました。

 第一次世界大戦後(訳注21)、この領土はポーランドに譲渡されました。そして、ダンツィヒの代わりにグダンスクという都市が出現しました。ヒトラーは彼らに友好的な譲渡を求めたが、彼らは拒否しました。もちろん、それでも彼らはヒトラーに協力し、チェコスロバキアの分割に一緒に関与したのです」。(続く)

(訳注18)ボリシェヴィキは、ロシア語で多数派を意味する。レーニンが指導し、「プロレタリアート」独裁を目的にした職業的革命家集団。これと対立したのが、マルトフやプレハーノフが指導し、「民主主義革命(ブルジョア革命)」を目的にしたメンシェヴィキ(少数派の意味)だった。
国際的には、大衆に開かれたメンシェヴィキの方が、少数派ではなく、ドイツ社会民主党のカール・カウツキーやローザ・ルクセンブルクなどに支持されていた。レーニン率いるボリシェヴィキは、最多指導部の中で多数を占めたあと、少数派のメンシェヴィキを粛清した。トロツキーとの権力闘争を経て、レーニンの独裁権力が形成された。このため、レーニンが率いたその後のロシア共産党、あるいはソ連共産党を「ボリシェヴィキ」という通称で呼ぶ。

(訳注19)(訳注17)と同じ。

(訳注20)ポーランドは、ヒトラーの電撃戦で侵略され、降伏したのが現実で、単に自主的に協力したのではない。

(訳注21)第二次世界大戦を、プーチン大統領が「第一次世界大戦」と言い間違えている。

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 プーチン大統領の話は、ロシアがモスクワを中心とした中央集権国家となるまでに、古代において「キエフ・ルーシ」が栄えたものの、「タタールのくびき」によって、ほぼ全ロシアが支配され、以後、キエフは自力で独立できず、ロシアがタタールとの独立戦争も経て、ロシア全域に支配をおよぼしていった歴史から、現代の第一次世界大戦時の、オーストリア参謀本部による、ポーランド内部に対する「工作」まで、ロシアとウクライナをめぐる地政学的な歴史が一挙に語られます。それが、我々の想像を絶するほど複雑であることがわかります。

 訳注によって補われないと、ロシア史の専門家でもない限り、いろいろなところが飛び飛びで、多くの人々にはすぐには理解できないと思われます。しかし、歴史の年号の言い間違いなどをのぞくと、プーチン大統領の記憶力は、驚くほど秀でていることがわかります。

 一貫して、プーチン大統領が主張しているのは、現在ウクライナと呼ばれている地域は、ロシア人の住む土地だったということで、「ウクライナ人」というのは、もともと、国家や民族を意味せず、「辺境に住む人々」を意味する言葉であり、それはポーランドから押しつけられたものだ、という主張です。

 「ウクライナ」という言葉の意味や語源には、(訳注11)で述べたように、歴史的な変遷があります。そのうちのひとつを、プーチンは、言葉の起源として採用している、というわけです。

 この、歴史的にみて、モスクワ公国が、「タタール・モンゴルのくびき」を経て、モスクワ公国を中心にロシアが独立を回復し、ロシア帝国に発展していく一方、キエフを中心にした「キエフ・ルーシ」ことウクライナとの間では、民族的なまじわりも、言語的な似かよりもありましたが、リトアニア、そしてポーランドがそれぞれ勢いを増して膨張した際に、ウクライナは領土として組み込まれてしまい、属領化され、モスクワを中心とする独立したロシアとは切り離されていた時期が長く続きました。

 このポーランド支配下の属領民であったロシア系住民を、「ウクライナ人」として、一つの独立した民族集団としてイデオロギー的にまとめ上げたのは、第一次大戦前のオーストリアだったと、プーチン大統領は説明します。

 その理由は、オーストリアから見て、潜在的な敵国であるロシアの分断と弱体化でした。まさに、米国が、NATOとともにウクライナをロシアと敵対するように仕向けてきた情報工作と重なりあいます。19世紀において、改めて独立して民族集団としての自覚を持ち始める「ウクライナ」の起源とは、オーストリアによって育まれた地政学上のイデオロギーだったということです。

 プーチン大統領の2時間を超えるインタビューは、まだまだ続きます。ロシア史などの専門的知識がない一般の方でもわかるように詳しい注をつけていきますので、少々時間がかかるとは思いますが、日本語で読める完全版を目指しますので、よろしくお願いします!

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