【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳!(第6回)ウクライナとジョージアのNATO加盟も「オレンジ革命」も「ユーロマイダン・クーデター」もすべては米国の意思だった! 2024.10.17

記事公開日:2024.10.17 テキスト
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(文・IWJ編集部)

 タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューのIWJによる仮訳・粗訳(第6回)をお届けします。

 この歴史的インタビューは、ロシアと米国の関係史の、一方の当事国であるプーチン大統領の非常に貴重な証言を含んでいます。

 ここで語られた問題は、現在のウクライナ紛争など現代に直結しており、現代の問題の本質を考える上で、大きなヒントになります。

 第6回では、独立宣言には、ウクライナは中立国だと規定しているにも関わらず、さらに、2008年のブカレストでのサミットで、ドイツとフランスが、ウクライナとジョージアのNATO加盟に反対したにも関わらず、G・W・ブッシュ大統領が圧力をかけて、ウクライナとジョージアの将来の加盟への門戸を開いたことが証言されています。

 さらに、2004年の「オレンジ革命」と2014年の「ユーロマイダン・クーデター」に、米国の意思が働いたことがはっきりと述べられています。

 銃の発砲による「クーデター」が、どうして、「民衆による民主主義革命」というプロパガンダに染め上げられ、何のために、また、どのように作られていったのか、その舞台裏が語られます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第1回は、以下から御覧になれます。

※タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!(日刊IWJガイド、2024年2月10日)
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 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第2回は、以下から御覧になれます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第3回は、以下から御覧になれます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第4回は、以下から御覧になれます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第5回は、以下から御覧になれます。

 以下から、第6回のインタビューのIWJによる仮訳・粗訳となります。


プーチン大統領「さて、NATOの東方拡大についてです。

 NATOは、東には進出しない、1インチたりとも東へは拡大しないと我々は聞かされていました。それなのにどうなりました? NATOは、それは文書に明記されていない(※訳注1)、だから拡大する、と言ったのです。そのため、拡大には5つの波がありました。バルト三国、東欧全体、などなどです」

(※訳注1)ロシアと米国の代表が署名した正式文書ではないが、米国が1インチも東側にNATOは拡大ないことを約束したゴルバチョフ書記長(当時)とベーカー国務長官(当時)のモスクワ会談の記録文書(1990年2月9日)は、ワシントンの『ナショナル・セキュリティー・アーカイブ』に残っている。
 このときのメモには、ベーカー氏の「1インチ」発言が、次のようにはっきりと、残されている。
 「我々がヨーロッパに米軍を駐留させている仕組みは、NATOです。NATOを廃止すれば、米軍の存在はなくなります。東側の国々への保証の必要性は理解しています。
 NATOの一部であるドイツに(米軍の)駐留を維持すれば、NATO管轄下の部隊が、東へ1インチも拡大することはありません。
 最終的には、すべての人に受け入れられるなら、このような結果を達成するかもしれない2プラス4の文脈で議論することができます」。

プーチン大統領「さて、本題に入りましょう。彼らはウクライナにやってきました。最終的に2008年、ブカレストでのサミットで、ウクライナとグルジアのNATO加盟の門戸は開かれたと宣言しました。さて、そこで、どうこの決定が行われたか、お話ししましょう。

 ドイツ、フランス、そして他のヨーロッパ諸国は反対していたようです。しかし、後に判明したことですが、ブッシュ大統領は、とてもタフな人物で、タフな政治家です。

 後から私は聞いたのですが、彼は我々に圧力をかけたのです。我々(ロシア、ドイツ、フランス)は同意せざるを得ませんでした(※訳注2)」

(※訳注2)ブカレスト・サミットにおいて、ブッシュ大統領が旧ソ連のウクライナとジョージアのNATO加盟を提案し、ウクライナとジョージアもNATO加盟を表明した。ドイツとフランスは、ロシアから無用な反発を買うことを恐れ、米国の提案に反対した。しかし、結局、ウクライナとジョージアの将来的なNATO加盟については合意に至った。この将来的なNATO加盟についての合意は、ブッシュ大統領の圧力によって、ドイツとフランスは、同意せざるを得なかったと、プーチン大統領は証言している。

プーチン大統領「ばかげている。まるで幼稚園です。保証はどこにあるんです? どこの幼稚園ですか? どんな人達ですか、彼らは? 何者なんですか?

 あのね、彼ら(ドイツとフランス)は圧力をかけられたんです。で、彼らは同意したのです。そして、ウクライナはNATOに参加しないだろうと彼ら(ドイツとフランス)は言いました。いいですか、私はわからないと言ったんです。

 2008年に合意したんですよ。将来も合意しないわけがないでしょう。彼らは我々に圧力をかけてきたのだから、明日も圧力をかけてきて、また同意させるでしょう。

 まあ、ナンセンスです。

 誰と話すんです? 私には理解できません。話し合う準備はできています。でも誰と?(ウクライナとジョージアがNATOに加盟しない)保証はどこにありますか? ないです。

 それで、彼らは、ウクライナの領土を開発し始めたのです。そこに何があっても、ウクライナの領土がどのように発展してきたか、ロシアとの関係がどうだったか、その背景をお話ししました。

 ウクライナ人の2人に1人か、3人に1人は、必ずロシアと何らかの関係がありました。そして、独立宣言の結果、すでに独立していた主権国家ウクライナの選挙期間中は、ちなみに、独立宣言には、ウクライナは中立国だと書いてあります(※訳注3)。そして2008年、突如としてNATOへの門戸が開かれたのです。おいおい、こんな合意はなかったよ(※訳注4)」

(※訳注3)ウクライナの独立は、1991年8月24日にウクライナ最高会議(ヴェルホーヴナ・ラーダ)が、ほぼ全会一致で独立宣言を採択した時に遡る。この日がウクライナでは、独立記念日となっている。
 1991年9月、最高会議は、国旗、国歌、国章を法制化した。1991年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う住民投票と初代大統領を決める選挙が行われた。国民投票では、90.2%が独立に賛成、レオニード・クラフチュク(元ウクライナ最高会議議長。ソ連共産党を離党し、ウクライナ大統領就任後は、積極的なウクライナ化政策とロシア離れ政策を推進した)が62%の得票率で初代大統領に当選した。2位は、ウクライナ国民運動のヴャチェスラフ・チョルノビル(ソ連時代はウクライナ独立を主張する反体制派で、大統領選では、ウクライナ民族主義者の多いガリツィア州で特に支持された)で、得票率23%だった。
 チョルノビルは、2016年のウクライナ大統領選挙において、レオニード・クチマを脅かす対立候補で、勝利が予想されていた。しかし、1999年3月25日に交通事故で急逝し、同志のエフヘン・パブロフも同様に事故で死亡したため、立候補は中止された。

(※訳注4)ロシア語版では、「これは面白い映画だ!(Вот интересное кино!)」となっている。

プーチン大統領「さて、ウクライナで政権を握ったすべての大統領は、ロシアに好意的な有権者を頼りにしていました。これはウクライナの南東部に、多くの(ロシアに好意的な)有権者がいます。そして、どちらにしても、ロシアに対して好意的な態度をとるこの有権者達を「説得する」、もしくは「打ち破る」(※訳注5)のは、非常に難しかったのです。

 ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ(※訳注6)が政権を握った。そして、クチマ大統領(※訳注7)の後、彼が初めて勝利した時、彼らはウクライナ憲法に規定されていない第3ラウンドを組織しました(※訳注8)。これはクーデターです。米国の誰かが、この結果を気に入らなかったのだと想像してみてください…」。

(※訳注5)英語版で「説得する(persuade)」の個所は、ロシア語版では、「打ち破る(перебить)」となっている。青山貞一東京都市大学名誉教授は、この言葉を「殺す」と比喩的に訳している。ここでは、「説得する」と「打ち破る」を、あえて併記した。

(※訳注6)2002年の議会選挙で、与党系の「統一ウクライナのために」が、ドネツク州で36.83%の得票率をあげ、全ウクライナにおける約30%の得票を同州で獲得した。ヴィクトル・ヤヌコヴィッチは、この時のドネツク州の州知事だった。当時のクチマ大統領は、ヤヌコヴィッチの高い動員力に着目し、2002年11月に、ヤヌコヴィッチを首相に推薦した。

(※訳注7)クチマ大統領は、1994年7月10日の大統領選挙おいて、経済危機で支持を失った現職のクラフチュク初代大統領に挑戦する形で立候補した。大統領選挙の結果、クチマは52.14%を獲得し、現職のクラフチュクに勝利し、第2代のウクライナ大統領に就任した。

(※訳注8)2004年10月にクチマ大統領の任期満了に伴い、実施された大統領選挙で、11月の決選投票で、与党陣営の推すヴィクトル・ヤヌコヴィッチ首相が最初当選とされた。しかし、ヴィクトル・ユシチェンコ前首相の野党陣営は、与党陣営による不正があったとして、野党支持者によるデモや政府施設への包囲が続き、ウクライナ国内は混乱状態に陥った。
 ヤヌコヴィッチとユシチェンコが、欧州首脳の仲介で対話による解決で一致したのを受けて、12月2日、クチマは訪露し、ウラジーミル・プーチンロシア大統領と会談。12月26日、再選挙が行われ、親欧米派のユシチェンコが勝利した。
 ここで言う「第3ラウンド」とは、2004年12月26日に行われた再選挙を指す。
 これを西側では民主化のための「オレンジ革命」と呼んできたが、この時、米国から、100万ドル(約1億3000万円)もの賄賂で、親欧米派支持を依頼されたというウクライナ左翼連合リーダー、ヴァシリイ・ヴォルガ氏の証言を、IWJはお伝えしている。
 この証言から、「オレンジ革命」も「ユーロマイダン・クーデター」と同様に、米国にお金で買われた「エセ革命」だったことが明らかになっている。

タッカー氏「2014年のこと(ユーロマイダン・クーデター)ですか」

プーチン大統領「いや、その前(2004年の「オレンジ革命」)のことです。クチマ大統領の後、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチが選挙で勝利しました。しかし、反対派はその勝利を認めなかったのです。米国は反対派を支持し、第3ラウンドが行われることになりました。

 しかし、これは何です? これはクーデターです。米国はそれを支持し、第3ラウンドの勝者が政権を握りました。

 米国で、誰かの意にそぐわないことがあり、米国憲法では規定されていない第3ラウンドの選挙が行われたと想像してみてください(そんなことはありえないでしょう)。それにもかかわらず、ウクライナではそれが行われたのです。

 いいでしょう、親欧米の政治家と思われていたヴィクトル・ユシチェンコが政権を握りました。結構。しかし、我々は、彼とも関係を築いたのです。彼は、モスクワを訪問し、我々はキエフを訪問しました。私もキエフを訪問し、非公式な場で会談しました。彼が親欧米ならそれでもいい。結構。人々に仕事をさせましょう。

 クチマが指導した結果、独立したウクライナ国内で事態は進展したはずです。しかし事態は悪化し、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチが政権を握りました。彼は、最高の大統領や政治家ではなかったかもしれない、わかりませんが。評価はしたくないですね。しかし、EUとの提携問題が浮上しました。我々は、常にこの問題に注目してきました。お好きにどうぞ。

 しかし、この(ウクライナと欧州の)提携条約を精読してみると、我々にとって、問題があることがわかりました。

 ウクライナと(ロシアに)は、自由貿易圏があり、国境も開放されています。しかし、この提携条約で、ウクライナは、EUにも国境を開放しなければならなくなるのです。それは、我々の市場にEUの商品が洪水のようにあふれるということです。

 だから、我々はこう言ったのです。『ダメだ』と。この条約は機能しないだろうと。我々は、ウクライナとの国境を閉鎖し、関税国境を閉鎖すると言ったのです。

 ヤヌコヴィッチは、ウクライナがどれだけ得をし、どれだけ損をするかを計算し始め、欧州のパートナーに、署名する前に考える時間が必要だと言ったのです。彼がそう言った瞬間、反対派は破壊的な手段を取り始めました。そして、ウクライナで、マイダンのクーデターが起こったのです」

タッカー氏「EUよりも、ロシアとの貿易が多かったのですね。ウクライナはそうだったのですね」

プーチン大統領「もちろんです。ウクライナの貿易相手国は、そのほとんどがロシアでしたが、貿易量の問題だけでもありません。ウクライナ経済全体が基盤とした協力関係の規模の問題です。

 ソ連時代から企業間の協力関係は、非常に緊密だったのです。そうですね。ある企業は、ロシアとウクライナの両方で組み立てる部品を生産していましたし、その逆もありました。

 かつて両国は、非常に緊密な関係だったのです。そこに、クーデターが起きました。今、詳細を掘り下げるのは不適切だと思うので、やめておきますが。

 米国は、我々に、ヤヌコヴィッチを落ち着かせろ、そうすれば我々は、反対派を落ち着かせる、と言いました。政治的解決のシナリオで、状況を展開させようと。我々は、わかった、同意する、このようにしよう、と言いました。

 米国の要求通り、ヤヌコヴィッチは軍隊も警察も使いませんでした。しかし、武装した野党は、キエフでクーデターを起こしたのです。どういうことですか? 何様のつもりなんですか。当時の米国の指導者に聞いてみたかったです(※訳注9)」

(※訳注9)カナダのオタワ大学のウクライナ系カナダ人政治学者、イヴァン・カチャノフスキー(Ivan Katchanovski)氏が、2023年6月21日に、1683年創業の出版社BRILL社が発行する雑誌『Russian Politics』(web版)に発表した論文「マイダン虐殺裁判と調査の暴露:ウクライナ・ロシア戦争と関係への影響」で、次の点を指摘している。Wikipedia日本語版には、「カチャノフスキー氏は、ロシア人」と書かれていたが、それはデマである。彼はウクライナ生まれ育ちの移民一世であり、カナダ生まれではなく、ロシア人でもない。
 第1に、ユーロマイダン・クーデターによって、選挙で合法的に選出された親露派のヤヌコヴィッチ大統領の政権が転覆されて、親欧米派政権が樹立されたこと、その直後から、ロシア語話者の住民への差別と弾圧、ロシア語話者が多く住むドンバス地方での内戦、そして現在のウクライナ紛争に至る、一連の血なまぐさい「悲劇」の起点となったこと。この点は、IWJが繰り返し、報じ、論じてきた点とまったく重なる。
 第2に、多くの証拠・証言と医学的・弾道学的検査は、100人を超える大虐殺の犯人は、マイダン支配下の建物に配置された複数のスナイパーだったことを明確に示していること。
 このとき、野党指導者達が支援するデモ参加者達とウクライナ内務省傘下のベルクート特殊警察部隊の警官を含む100人以上が死亡した。
 これまで、この大虐殺の犯人は、西側とクーデターに成功した「右派セクター」らから、ヤヌコヴィッチ政権だと決めつけられてきた。このため、特にデモ隊に向かって発砲したのは、当時のヤヌコヴィッチ政権下にあったベルクート特殊警察部隊の犯行であるというプロパガンダがバラまかれ、その言説への真摯な検証も、捜査も行われず、プロパガンダが「真実」であるかのように、ウクライナと西側諸国では定着して行った。
 しかし、このときの大虐殺の被害者の中には、ベルクート特殊警察部隊の警官も含まれていた。
 この点を、イヴァン・カチャノフスキー氏は次のように述べている。
 「ウクライナと西側諸国の支配的なシナリオは、マイダンでのデモ隊の虐殺をヤヌコヴィッチ政権のせいだとし、警察官が殺害された事実をほとんど無視している。一部の例外を除き、西側とウクライナのメディアは、マイダンの虐殺の裁判と、マイダンが支配する建物内のスナイパー達に関する調査結果を報じなかった」
 「一部の例外を除き、西側とウクライナのメディアは」と、カチャノフシキー氏は述べているが、IWJは2014年の事件当時(現在もそうだが)、まさにメインストリーム・メディアとは一線を画す「例外」的な報道を行っていた。
 このスナイパー達が、イスラエル軍の兵士だったという目撃談があることを板垣雄三東大名誉教授の談話として、IWJはお伝えしている。
 イヴァン・カチャノフスキー氏の実証によれば、明らかに、マイダンのデモ隊側が発砲し、この大虐殺の犯人だったことになる。
 スナイパーの一部がイスラエル軍特殊部隊の兵士だったとすれば、米国のパイアット・ウクライナ大使(当時)とヌーランド国務次官補(当時)が、クーデターのシナリオを描いて、引き金はイスラエル軍特殊部隊の兵士に引かせたということになる。
 スナイパーが、誰であったのかは、今後も検証されてゆくべきだろう。しかし、マイダンのデモ隊側から発砲があったことは、真実性が高いと思われる。
 この結果、民衆の怒りはヤヌコヴィッチ政権に向かうことで、政権は崩壊し、クーデターは成功し、ロシアへ亡命したヤヌコヴィッチ氏に虐殺の罪をかぶせることができる、というわけである。その虐殺の濡れ衣を着せられたヤヌコヴィッチ氏を受け入れたロシアは、今に至るまで「悪党の国」扱いである。
 これは、米国とイスラエルとウクライナの民族主義者らの連携による「偽旗虐殺事件」だったと言える。

※ウクライナが自由民主主義国家であり、法治国家であるというのは虚偽である!! 2014年の「ユーロマイダン・クーデター」のときから暴力による反対派の排除と事実の隠蔽が行われていた! 多くの目撃証言や証拠があるにもかかわらず、「マイダン大虐殺」を捜査しなかったウクライナ政権! 実際には100人が虐殺された! この事実を明らかにする調査論文が、ウクライナ系カナダ人の研究者によって発表された!!(日刊IWJガイド、2023年7月20日)
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20230720#idx-1
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/52548#idx-1

タッカー氏「バックには、誰がいたんです?」

プーチン大統領「もちろん、CIAの後ろ盾があってのことです。当時、あなた(タッカー氏)が入りたいと思った組織ですね。彼らが、あなたを入れなかったことを神に感謝すべきです。まじめな組織であることは、理解しています。

 私の元職はV(※訳注10)です。ソ連の諜報機関である第一総局に所属していたという意味です。彼ら(CIA)は、常に我々の敵でした。仕事は仕事です。仕事としては、彼らはすべて正しいことをしました。彼らは政権交代という目標を達成したからです。しかし、政治的な見地から見れば、とんでもない間違いだったのです。確かに、政治指導者達の計算違いだったのです」

(※訳注10)Vは、Vneshnaya Razvedka(対外諜報)の略称で、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の第一総局における諜報員の呼称だった。

プーチン大統領「政治指導者達は、それがどのような展開になるかを予測すべきだったのです。2008年、ウクライナにNATOの門戸が開かれました。2014年にはクーデターが起きました。クーデターを受け入れない人々を迫害し始めました。まさにクーデターでした。彼らは、クリミアの脅威を作り出し、我々は、クリミアを保護下に置かなければなりませんでした。

 彼らは、2014年に、ドンバスで、民間人に対する航空機と大砲の使用による戦争を開始しました。これがすべての始まりです。

 ドネツクを上空から攻撃する航空機の映像があります。彼らは大規模な軍事作戦を開始しました。そして、また別の作戦。失敗すると、次の作戦の準備を始めました。これらすべては、この地域の軍事的展開とNATOの門戸開放を背景にしています。我々が、この事態に懸念を表明しないわけがないのです。

 我々の側からすれば、これは非難されるべき過失です。そうだったはずです。ただ、米国の政治指導者達が、我々を、越えてはならない一線まで追い詰めたのです。そうすれば、ロシアそのものを破滅させることができたかもしれなかったからです。

 それに、我々は、同じ信仰を持つ兄弟達を見捨てることはできませんでした(※訳注11)。実際、この『戦争マシン』に、ロシア人の一部を直面させることはできなかったのです」。

(※訳注11)このロシア侵攻以前の、8年間にわたる民族浄化について、IWJは何度も大臣に質問している。

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