『日米開戦の正体』がこのままでは『日中開戦の正体』に!? 元外務省国際情報局長・孫崎享氏が岩上安身のインタビューで、安倍談話に見られる「官僚の狡猾さ」を指摘!―第3弾 ~岩上安身によるインタビュー 第571回 ゲスト 孫崎享氏 2015.8.18

記事公開日:2015.8.22取材地: テキスト動画独自
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(IWJテキストスタッフ・関根)

※2021年5月4日 フル公開としました。

 「国際社会では、全体の構図を描けるリーダー不在の国は潰れていく。『フォーブス』誌の、世界で影響力のある人ランキングで、安倍首相は63位。そんな評価のリーダーだという意味を、もっと考えるべきです」──。

 2015年8月18日、東京都内のIWJ事務所に、元外務省国際情報局長・孫崎享氏を迎えて、岩上安身が6時間にも及ぶインタビューを行った。孫崎氏は、満州事変以降の日本の迷走について、全体が見えている人間がいなかったからだとし、「今も、原発、TPP、安全保障、全体的に見ていない」と指摘した。

 孫崎氏の近著『日米開戦の正体』では、満州事変から真珠湾攻撃へ至る経緯を、軍部、政治家、政府、社会の記録で裏付けながら浮かび上がらせていく。岩上安身は、現在の政治、世相の動向と比較しつつ、「今と重なるところが多い。われわれは同じような曲がり角にいる」と述べ、このままでは、やがて「日中開戦の正体」になってしまう、と警鐘を鳴らした。

 安倍首相が8月14日に発表した戦後70年談話について、孫崎氏は、「主語があいまいで、官僚の狡猾さが現れている。あとで内容を覆すつもりで、意味を変えられるようにできている」と指摘した。

 その上で、安倍談話に書かれている「積極的平和外交」を、まったくのまやかしだと述べ、「安倍首相の言う積極的平和主義は、平和を達成するという目的を見せながら、武力をもって行動すること。それを、積極的と言っている」と断じた。さらに、「国際的に法律を守る国際社会を作っていきたい」という部分を、「中国を牽制しているのだろうが、今、自分が違憲の政治をやっていながら、よく言うなぁと思う」と斬り捨てた。

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■国内の話

■中国の話

■対英米に関する話

  • 日時 2015年8月18日(火) 17:00~
  • 場所 IWJ事務所(東京都港区)

満州事変で爆発的に流行したイデオロギーが「日本精神」

岩上安身(以下、岩上)「孫崎さんの近著『日米開戦の正体』は、なぜ、日本が史上最悪の真珠湾攻撃に臨んでしまったのかを検証していくものです。そして今、われわれは同じような曲がり角にいる。そう考えて、この本をベースに著者の孫崎さんにお話をうかがいます。

 ちなみに、平時だったら、歴史もエンタテインメントで済むが、不穏な状況になると、歴史が急に現実味を帯びて、身に迫ってきますね」

孫崎享氏(以下、孫崎・敬称略)「それを的確に指し示したのが、天皇陛下のお言葉です。今上天皇の、『この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています』という、2015年の年頭所感。しかし、この言葉を知っている人は、ほとんどいない」

岩上「NHKは、2013年の天皇誕生日のお言葉の、『連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り』をわざわざカットして報道した。改憲への妨げになる、と上層部が判断したのか。ひどい放送局です。また、今年の終戦記念日の天皇談話では、今上天皇は『反省』の言葉をはっきり使われた。しかし、権力者は天皇を国権の強化に利用し、国民を公民にし、抗うことをできなくさせようとしています」

孫崎「自称右翼という人たちは、天皇制を強化するとは言うが、今の天皇の行動にはまったく注意を向けず、満州事変の軍部に近い。あの時も、天皇の考えとは逆のことをやっていった。それを、今上天皇は感じとっているのだと思います」

岩上「(自民党を離党した)武藤貴也議員は、『日本国憲法で破壊された日本人的価値感』として、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を批判しました。これらが日本精神を破壊する、との主張ですが、この『日本精神』とは、1931年の満州事変から爆発的に流行したイデオロギーです。

 それまで十人十色の解釈だった『日本精神』を、文部省主導で『尊王心』『天皇のために己を捧げて奉仕する心構え』とし、国策思想にした。つまり、今の憲法の三大原則とは対極の位置づけです」

日露戦争以後、冷静な軍事力の分析を避ける日本

岩上「では、『安倍首相の、満州事変に始まる侵略に対する歴史認識』から。安倍首相は70年談話で、侵略については、『歴史家の議論に委ねるべきだ』と述べ、私は知らない、とした。侵略の定義が定まっていないというが、だとすると、国際法を認めず、守らないことと同じです。

 2005年7月31日、テレビ朝日『サンデープロジェクト』で、共産党の志位和夫委員長の意見に対し、安倍さんは、『満州に対する権益は、ドイツから譲り受けた面がありますよ』と応じ、侵略を認めようとしなかった。ドイツの権益は山東省青島、南満州鉄道などの一部ですが、安倍首相は、侵略はないと言いたいのです」

孫崎「安倍首相は、侵略について歴史家の議論に委ねるべきと言うが、重要なことは、われわれは国際的な約束で何をしてきたか。それを基礎に現在を考えなければいけない、ということです。

 私たち日本の国際的約束とは、カイロ宣言を遵守するポツダム宣言受諾と、サンフランシスコ講和条約だ。そのカイロ宣言では、日本の侵略を明記している。ゆえに、歴史家の議論に委ねるべきではなく、その議論で折り合いをつけられる性質のものではない。

 さらに、満州の権益は、日露戦争の勝利で譲り受けたものだが、決して国際的に認められたものではない。『満州は日本の生命線』と、こちらが勝手に決めただけ。日本国民は、満州の権益をもらったと信じているが、それは間違いで、ポーツマス条約では南満州鉄道と遼東半島を譲り受けるだけで、満州の権益はない。

 満州を中国に返還する義務と、独占しないとした国際法の違反でもあり、欧米列強国の共同統治を反古にした。日露戦争の結果、ロシアから権益を譲り受けたとの認識が一般的になっているが、それも間違いです」

岩上「ロシアは日露戦争を続けたかったが、米英のバックアップでギリギリの講和で終った。このことは、日本国民は知らされなかった」

孫崎「1910年のGDP比では、日本が1、ロシアが7くらいの差。軍事支出では1対4ほどの開きがありました。だから、続けていたら確実に日本は負けていた。すべてに言えることだが、日本は軍事費などを冷静に説明しないのです。日露戦争も真珠湾攻撃の時もそうだし、今も、対中国では歴然とした軍備の差があるが、一切語らない」

岩上「日米大戦で明らかになっていますが、日本は必ず、『一撃を加えると敵がひるむので講和できる』と盲信する。中国に対しても一撃論で進撃した。蒋介石も、毛沢東と戦うため、日本軍に対しては後退したが、日本はそういうことをわかっていない」

孫崎「日本には、前線では勝てる、だから進攻する、という軍人はいても、長期戦で考えられる戦略家がまったくいない。もし、中国が簡単に戦争を決着させようとするなら、普通のミサイルを(尖閣ではなく)歌舞伎町や銀座、丸の内、渋谷に撃ち込めばいいのです」

岩上「石原慎太郎氏は、中国に勝ちたいと言うが、尖閣で1~2隻沈めるだけでは済まない。制空権を支配し、中国に上陸し、政治的にも屈服させなければいけないが、そんなことはできません。それに、戦争が始まったら、戦域は関係ありません」

安倍首相の70年談話は撤回すべき

岩上「安倍首相の70年談話は撤回すべきです。侵略は当時は許されていたという主張も一部であるが、第一次大戦以降、国際連盟の常任理事国で、パリ不戦条約に署名もし、9ヵ国条約も締結した日本が、中国に言いがかりをつけて侵略したことは明らかです。にもかかわらず、政治指導者が歴史をねつ造し、何が正義かをあいまいにすることは、再び、国を誤ることになります」

孫崎「小林よしのり氏は『この談話は安倍さんの本心ではない。本来、右翼は騒ぐべきだ』と言った。安倍談話には、官僚の狡猾さが現れている。主語をごまかし、本心とは全然違うが、攻撃されたらうまく防御できるような、言い訳できる文脈になっている。案の定、批判は少し弱まった。しかし、あとで覆すつもりで、意味を変えられるようにできています。

 安倍談話の危険性のひとつは積極的平和外交。これは、まったくのまやかしです。世界は、その意味は平和を強めると理解しているが、安倍首相の言う積極的平和主義は、平和を達成するという目的を見せながら、武力をもって行動するところです。そこを、積極的と言っている。

 この前、ここで話したジョージ・オーウェルの『1984年』に出てくる『平和は戦争』の差し替えです。私は最近、『1984年』を読み返して、その内容が安倍政権がやっていることと一致しているので驚いています。

 もうひとつ、安倍談話は、『国際的に法律を守る国際社会を作っていきたい』と言う。これは中国を念頭に置いているのだろうが、今、自分が違憲の政治をやっていて、よく言うなぁと思いますよ」

岩上「自分は法律は守らないけど、お前は守れ、と。『自分も麻生君も戦争には行かないよ。でも、お前たちは行け。平和の果実は俺たちがもらうよ。お前たちはもらえないけどね』ということ」

孫崎「なぜ、アメリカはずっと戦争を続けていられるのか。徴兵制がなくなったからです。徴兵制のあったベトナム戦争は、ハーバードもMITもすべての学生が徴兵対象で、学生たちの反戦運動の勢いが強くて止められた。その後、徴兵制をやめて、奨学金援助などの経済徴兵制で兵力をまかなうようになった。日本も格差社会を作り出しており、同じ環境が整いつつある」

岩上「戦争になったら負けるわけにいかないので、兵力増強の必要にかられた時、今でも少ない若者で、産業要員は足りるのだろうか。少子化も進むのではないか。いろいろな問題が生じてくる。それについては、(安倍政権は)何も考えていません。

 積極的平和主義の提唱者、ヨハン・ガルトゥング氏が来日しています。本来、積極的平和主義とは、諍いを生み出す差別、格差、貧困を積極的に是正しようとの意味。分かちあって平和を築くというのが、本当の意味なんです」

孫崎「実は、日本は東南アジアへの経済協力を、その思想でやっていました。経済格差で紛争が起こる。1950~1960年代は、それをなくすために、日本は経済協力を始めた。今は、アメリカが戦争をしている周辺国にお金を出すことに変わってしまった」

岩上「早い話が戦争のお手伝いです。日本はそういう方向にどんどん進み、常にアメリカの影を意識しないとならない。安倍談話は、経済ブロック化を批判するが、TPPは推進する。また、将来にわたって謝罪を続けることをさせない、などと耳に心地よい言葉が続くが、白紙にして、また日本が暴れることができるようにしてある。だからこそ、天皇陛下の言葉が重要になってくるのです」

「日本に甘かった」リットン調査団

<ここから特別公開中>

岩上「満州事変は時代遅れだった。明治以降の、日本のアジア諸国への拡大、膨張政策を振り返ってみます。日清戦争、台湾併合、日露戦争、朝鮮併合および南満州鉄道の利権を得て大陸侵略の足がかりを築く。石原莞爾らは日本の人口、食料問題の解決に満蒙開発をアピール。1929年、植民地化を公言。張作霖爆殺事件。柳条湖事件で満州事変に突入する。

 中国国民党は国際連盟に提訴、リットン調査団が派遣される。その間、関東軍はハルピン、北部満州へも侵攻、溥儀を担いで傀儡政権の満州国家を樹立した。若槻内閣と幣原外相が倒れて、犬養内閣で強硬路線に。松岡洋右は『満蒙はわが国の生命線』と国民の危機感を煽り立てた。

 侵略の第2段階。第一次上海事変勃発。満州から国際社会の目をそらすため、とも。1932年1月18日、上海で日本人僧侶3名が中国人に殺される事件が発生。在留民は自衛権発動で、抗日運動絶滅に走る。しかし、これは日本が仕掛けた偽装テロだった。戦後、中国人を買収して実行したことを、特務機関だった田中隆吉陸軍少佐が証言した。

 上海事変での日本兵死傷者3091人、中国軍1万4326人。一般市民損害80万人。死者6000人。中国軍の駐兵制限区域の拡大しか得るものがなかった。これで抗日にならないわけがない」

孫崎「これは、今の『イスラム国』のシナリオと酷似します。米国人が殺されたからと、米軍は『イスラム国』に進攻。アメリカ軍を助けるため、自衛隊も続こうとしている。陸軍は好戦的で、海軍は融和政策というのは間違いです。上海事変は海軍がやったのです」

岩上「満州は陸軍が、上海は海軍が、と競い合った。一部のテロとの闘いに市民を巻き込むのは、アフガニスタンと同じ構図です。他国に行って戦争をするのは侵略、しかも、でっち上げで乗り込んだ。

 1930年3月、毛沢東は江西ソビエト政権を樹立します。国民党の蒋介石は包囲討伐に向かう。蒋介石は、まず共産党を倒して統一、軍事力を増強し日本と戦う『安内場外』政策をとる。だから、中国が弱かったのではなく、手が回らなかっただけです。

 1932年10月のリットン調査団報告は日本に甘く、侵略とは認定せず、現状復帰も求めずに、中国主権で日本に満州の自治権と権益を認めた。これって、日米安保の地位協定と同じ構図ですね。どん欲な日本は満足せず、傀儡国家の満州国の承認を国際連盟に求めるが、否決されて脱退。孤立化へ向かう」

天皇の反対を押し切り、侵略を進める軍部

岩上「侵略の第3段階。1933年、国際連盟脱退直後、中国北部に進攻開始し、熱河省へ侵攻。さらに、万里の長城内部に進撃。天皇は反対するが、軍部は聞き入れず。しかし、日中両軍は非武装地帯を作り、一時停戦します」

孫崎「アメリカには、満州ぐらいなら仕方ないという考えがあった。それが許せない中国ゲリラたちが満州周辺に押し掛け、日本軍はそれを平定しようと、満州国外にも進攻し始めた。列強国にとっては、それが許せなかった」

岩上「1933年9月、広田弘毅が外相になり和解外交、日中関係の再構築を始める。鉄道の乗り入れ、税関の開設、郵便の取り扱いなどを着々と進めた。蒋介石も日中正常化方針『日華親善』を表明。中国に最大の権益を持つイギリスは日英不可侵協定を結び、日本の行為を黙認。

 緊張緩和になるが、中国北部への伸張を目論む華北分離工作を、陸海外務省の3課長が決め、満州周辺から国民党勢力の排除、撤退を迫る。中国の幣制改革を妨害し、経済的な基盤を揺るがす。非武装地帯で密輸を行ない、国民党政府の関税収入と産業に打撃を与えました。

 1936年1月13日、岡田啓介内閣は『北支処理要綱』を閣議決定。華北5省の分離、中国の統一を分断。1936年1月15日、ロンドン海軍軍縮条約から脱退。米英協調関係を自ら壊し、孤立化してゆく。2・26事件が勃発。陸軍の権限が格段に強まり軍拡予算を要求。ナチスと接近。11月、日独伊防共協定を締結。

 侵略の第6段階。盧溝橋事件から日中全面戦争へ。満州事変から盧溝橋事件の間にいくつもの侵略の背景があったが、すっ飛ばしてしまう。盧溝橋事件は、銃声がして兵士1人が戻らないとし、日本軍が入城していった争乱だ。ところが夜中の2時頃、その兵士は無事帰還していたという。

 侵略の第7段階。盧溝橋事件をきっかけに上海事変に。上海陥落で日本兵の死傷者7万人。中国兵死傷者33万人。日本軍は蒋介石を追い、南京で大虐殺。重慶では無差別都市爆撃を敢行。『国民政府は相手にせず』と政府声明を出した。だとしたら、誰と戦争をするのか。日中戦争は泥沼化。」

国際連盟の常任理事国でも侵略を続けた日本

岩上「ところが当時、国際社会は戦争違法化体制に移行していた。レーニンはソ連を樹立し、連合国の秘密協定を暴露。帝国主義による領土分割の否定。民族自決を主張。ウィルソン米大統領は1918年『14ヵ条』を発表。小国の権利、民族の自決、集団安全保障体制としての国際連盟の樹立を提唱する。

 1920年、国際連盟発足。規約第10条に『連盟各国の領土保全及び政治的独立を尊重し、外部の侵略に対しこれを擁護する』とある。日本は常任理事国になったが、19世紀的遅れた思考で、中国全土を侵略。世界から孤立したことは認識するべきだ。

 1921年11月ワシントン会議で9カ国条約締結。中国の領土保全。政治的独立の尊重。門戸開放。機会均等を確認する。加藤友三郎全権大使は『原則を尊守する』と述べた。これで、中国に対する領土侵略、政治的分裂を図る謀略も禁止された。

 1928年8月27日パリ不戦条約。国際紛争を解決する手段として締結国相互で戦争を放棄し、紛争は平和的手段で解決すると規定。全権大使は幣原喜重郎。ほとんど憲法9条1項と同じ。幣原は戦後、総理になり、この精神を憲法に託したのではないだろうか」

孫崎「ワシントン会議に出席した加藤全権大使は、海軍大将で日露戦争の英雄。誰も文句を言えなかった。また、彼はアメリカと戦うことも頭にはなかった。ワシントン会議は軍艦保有数5・5・3。ロンドン会議は10対7で、欧米諸国は日本にかなり譲歩していたにもかかわらず、受け入れらないと脱退する。

 満州を支配すると経営にお金がいる。対ソ連にも準備しなければならず軍費もかかり、国家予算の60%くらい使う。今、中国は8%くらい。そんな状態では貧富の格差が生まれ、不満が募る。それで、国民に満州(開拓)の夢を抱かせた。

 しかし、幣原らは満州を取るより、上海などを経済活性化させて、国際協調をする方が、日本にとってはるかにプラスだと言っていた。しかし、今と同じで、政策を遂行する時、全体を見ないで一部だけで勝負しようとした。石原莞爾は戦術面では優秀だったが、大局観には欠けていた。

 昭和天皇は満州までは容認したが、中国拡大には反対だった。しかし、いったん侵略が始まると、宮中に軍を招いて歓迎してしまう。なぜなら、日華事変から、軍に逆らうと殺されるとわかったからだ。国際社会で生き残っていく時に、全体の構図を描けるリーダーがいない国は潰れていきます。

 安倍首相を支持する人はかなりいるが、『フォーブス』誌の、世界で影響力のある人ランキングでは、安倍首相は63位。そんな評価のリーダーだという意味を、もっと考えるべきです」

「東洋の盟主」として積極的軍事介入を説いた田中義一

岩上「このような日本の歴史だったのです。次に、歴史認識の話に移ります。今回、フジサンケイグループのマークのついた育鵬社から、新しい歴史教科書が出ました」

孫崎「ひどいのは、横浜がこれを採択したんですよ」

岩上「至るところで(採択)ですよ。教育委員会も、中身を見ないで言われるままです。安倍首相のブレーンで麗澤大学教授、新しい歴史教科書をつくる会の元会長の八木秀次氏らが歴史認識を歪めている。八木氏は、今上天皇の護憲発言を批判する。二重に『君側の奸(くんそくのかん)』で、天皇より自分が偉い態度で、国益ではなく米国のために動く。彼らはアメリカの言いなりになっているスパイです」

孫崎「スパイはともかく、アメリカは自分たちに都合よく動く人間の育成の仕方がうまい。それも、反対勢力の中に作るのです。公明党、民主党で安全保障をやっている人の多くは、アメリカに留学しています」

岩上「創価学会の会員でも、反旗を翻す人が増えています。学会の歴史を見ると、牧口常三郎は獄中死、戸田城聖も(不敬罪)で投獄され、弾圧を受けた人は多い。草の根から声を上げることは重要です」

岩上「戦後の首相、幣原喜重郎と吉田茂の違い。幣原の内政不干渉は徹底低に攻撃された。『反軍の代表』のように言われた吉田茂は、戦前、中国への派兵を先頭を切って論じていた。田中義一首相に取り入り、外務次官になって国際協調派を左遷、傍流にした」

孫崎「吉田茂はハト派と思う人が多いが、田中義一首相の頃の外務省は国際協調派が主流。吉田は奉天総領事で傍流だった。野心のためか、吉田は田中首相に取り入り、中国への軍部の関与を主張。外務次官になる。一度、トップにおかしな人が座ると軌道修正ができない。今の外務省は、田中眞紀子事件でぐしゃぐしゃになって、おかしいままです。

 国際協調派がいなくなると、外務省自体の存在価値がなくなる。1930年から外務大臣は軍人が務めるようになる。吉田茂は終戦直前、軍に捕まっている。それは『反軍』というアリバイ作りではないか。負けるとわかって、生き残る算段を考えた。それで傀儡政権を支えることになったのではないか」

岩上「幣原外交の失脚。中国積極的介入を主張する伊東巳代治枢密院顧問が先頭に立ち、軟弱外交と非難。1927年、昭和金融恐慌で休業するに至った台湾銀行を救済する『救済緊急勅令案』が枢密院で否決。第一次若槻内閣が総辞職。背景には、幣原外交に対する批判があった。

 1927年、田中義一内閣発足。『日本の国是は武』『東洋の盟主』として積極的軍事介入を説き、外相も兼任。日本軍による在留民保護を強化。中国での権益強化と拡大のため、山東省に出兵。これは、在外邦人の保護を理由に自衛隊を海外派遣し、武力行使が可能になることと変わらない。

 謀反を起こした操り人形・張作霖。日露戦争で、スパイ容疑で日本に逮捕されるが、田中義一に命を救われ、日本の支援で北京で大元帥に就任した。のちに、日本の傀儡を続けることを拒否。関東軍は張作霖を爆殺した(1928年6月4日)。……安倍さんも、アメリカの傀儡を拒否したら、張作霖のようになるかもしれませんね」

孫崎「それが、イラクのサダム・フセイン大統領や、イランのシャー(・パフラヴィ)なんです」

岩上「張作霖事件は、満州全体の侵略を考えて、河本大作が作戦を立てて実行した」

孫崎「河本は、東京との連携がうまくいっていなかった。次に石原が満州事変を実行した。だが、関東軍の独走ではなく、東京の参謀本部が支援していたのが河本との違いだ」

軍の中枢にいた者も昭和天皇も、戦後、アメリカ追従で生き延びた

岩上「田中義一は、犯人を軍法会議にかけると天皇に約束したが、軍の反対で軍法会議を開けず、昭和天皇に叱責されて首相を辞職。軍が日本を牛耳っていることが明らかになる

 1931年9月19日、満鉄線路が爆破され、中国人の仕業として奉天の中国軍を制圧、満州全体に広がる。板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐による作戦で、本庄関東軍司令官には知らされなかった。政府は不拡大を命じるが無視、満州全体を掌握する。

 満州事変は石原らの暴走ではない。陸軍内部に結成された一夕会(いっせきかい)には、河本、永田鉄山、板垣、東條、石原ら、高級エリート幹部が多数所属。陸軍中央部の主要ポストは一夕会で占められていた。陸軍中央は関東軍に振り回されている芝居を続け、結局、追認する。

石原と行動を共にした花谷正の手記。『軍に反対すると命が危ないという恐怖感のため、軍をチェックする意欲は政治家も失った』とある。1931年結成の血盟団が、日本の中枢の暗殺を開始。メンバーだった四元義隆は、戦後、中曽根康弘元首相の影の指南役と噂される」

孫崎「中曽根元首相は、戦後日本のキーパーソンです。右翼のふりをしながらアメリカ追従の人で、背後で戦前の右翼テロの人たちと連携していた。それが、今でも続いていることを言っておきたい。

 戦前、軍部の中枢にいた人たちは、戦後は多くがアメリカに使われる側になった。そうやって生き延びた。この人たちは表舞台の人たちだが、裏で暗躍していた人たちも同じではないだろうか。弱みのある人間ほど、スパイとして使い勝手がいいからです。

 そういう人たちが日本の戦後史を作っている。その代表が、残念ながら昭和天皇です。天皇制を守るためには昭和天皇を認めないといけない、という意見を耳にするが、憲法では天皇制の維持は謳うが、昭和天皇の存続とは違う意味です。

 本来、昭和天皇は退位するべきだった。昭和天皇は、自分がアメリカと連携しているので、天皇でいられるとわかっていた。戦後の政治を動かす中で、昭和天皇は岸信介よりも対米従属だったのです。たとえば、『沖縄は50年くらいアメリカにやってもいい』と言う。鳩山一郎内閣の重光葵外相が米軍基地の撤退を言うと、昭和天皇は『それは言うな』と釘を刺す。いくつかの重要な局面で、思っている以上に、昭和天皇は関与していたんです」

岩上「終戦時にアメリカは、国体、天皇制、皇室を胸先三寸で排除できた。共和制にすることもできた。実際、他国はそれを主張した。しかし、アメリカはそうしなかった」

孫崎「アメリカが日本を占領するためには、天皇制があった方が、御しやすいと思ったからです。そこがドイツとはまったく違った。アメリカの言う通りにするということで、日本政府は生き残った。ところが、ドイツは米英露仏に分断され、国がなくなった。すべての国に歓迎されないと国作りができなかったドイツは、協調路線を自ら作り出して再生した」

岩上「安倍首相が、侵略やお詫びにこだわるのは、日本はアメリカだけに負けたと思っているからで、それ以外の周辺国やロシアも中国など、関係なくなっているからです」

孫崎「今回の安保法制の海外の反応。アメリカは、集団的自衛権をやれればいいので歓迎する。イギリスは『バターン死の行進』の恨みが根深く反発、そこにオランダも加わる。今、イギリスでは親中国が多くなっている。だから、今回の安倍談話は火に油を注いだ結果になっている」

岩上「国益を考えたら、『侵略をしました。今後、二度とやりません』、これだけでいい」

孫崎「しかし、国民の多くは、この安倍談話を支持してしまう」

岩上「それは、ほとんどの日本国民は、日本軍が中国大陸で何をしたか、時代背景はどうだったかを知らないからです。日本は何十年もかけて、国際的な約束を反故にしていって、理屈もなくエゴイズムを発散させていたんです」

日本を破局に導いた満州人脈

岩上「軍事クーデターによって日本は『焦土外交』を邁進します。1932年3月、満州国建国。5月15日、犬養首相暗殺の5.15事件勃発。森恪内閣書記長が関与したと言われています」

孫崎「森恪は、犬養首相が軍部を排除したい考えだと知り、それを軍部に教えたのではないかと言われています」

岩上「5.15事件の後、6月14日、国会で満州国を全会一致で承認。リットン調査団も満州国建国までは認めなかった。内田康哉外相は『国を焦土にしても満州の権益は譲らない』と焦土外交を言う。これが『日本精神』なんです。国を焦土にしたら終わりなのに、冷静さがない。

 1932年9月13日、枢密院本会議で『日満議定書』(満州国承認と既得権益の維持)が可決。幣原は『陸軍によって外務省と国会が占領されつつある』と述懐。破局まで戦争を拡大していったのは満州人脈です。内田外相、松岡外相は満鉄総裁を歴任。東條英機は関東軍参謀長、岸信介は国務院高官で、満州産業5ヵ年計画を手がけた。

 陸軍の皇道派と統制派が対立。1938年2月26~29日、皇道派青年将校らが『昭和維新断行・尊皇討奸』を掲げ2.26事件が起こる。松尾伝蔵陸軍大佐、高橋是清大蔵大臣らが殺害される。かたや、中国では蒋介石が先安内後攘外政策を掲げる。

 のちに国共合作で共産党と国民党が手を組み、日本対抗政策に転換。英国は蒋介石の南京国民政府を支持。ナチス台頭で、大島浩ドイツ駐在武官などの崇拝者が出る。しかし、ナチスは蒋介石を支持していた。1936年11月25日、日独伊防共協定成立。

 1937年7月7日、盧溝橋事件勃発。陸軍には石原など進攻消極派がいたが、近衛文麿首相自ら先頭に立ち、『暴支膺懲』を流布。出兵して北京総攻撃。満州には大杉栄や伊藤野枝を殺害した甘粕正彦が満州映画協会理事長になり暗躍、アヘン利権を握る。日産創業者の鮎川義介は満州重工業開発初代総裁。岸信介(前述)らも。

 1939年5月11日、ソ連と交戦状態になるノモンハン事件。8月23日、独ソ不可侵条約を締結。それを受け、日独伊防共協定を結んでいた平沼騏一郎内閣は総辞職する」

孫崎「独ソ不可侵条約締結は正しい選択だった。ドイツの一番の目的はイギリスを叩くことで、ソ連とは仲良くした方が都合がいい。しかし、それを自ら破って進攻したから負けた」

岩上「独断遂行の関東軍参謀、辻政信らは陸軍の中枢に返り咲いた」

孫崎「同郷の辻政信は、戦後、参議院選でトップ当選する。演説を聞いたが、アジテーターで話が非常にうまい。ノモンハン事件で大惨敗をして、普通は排斥されるはずなのに、陸軍の中枢にいる。常人と狂人が戦うと、狂人が勝つんですよ」

岩上「小林節さんが、『あれは本物だからね』とおっしゃってました。また、関東軍参謀の服部拓四郎も不思議な人で、戦後、大戦史を書きました」

兵站がない日本軍の現地調達──略奪、強姦、殺戮の連続

岩上「1941年4月、日ソ中立条約締結。それでも日中全面戦争に踏み切る。1937年8月13日、第二次上海事変。17日、閣議で不拡大方針を放棄。中国は毛沢東と蒋介石の第二次国共合作。戦略なしの戦いで、日本軍の犠牲者44万6500人。このあたりから、それまで寛容だったアメリカが厳しくなる。チャーチルは、独伊日を『伝染病』に例えた。

 ドイツのリッペントロップは日独伊同盟構想を打診。海軍は反対し、平沼首相、山本五十六海軍次官暗殺計画が発覚した。皇居守備隊が海軍省を襲撃するとの噂も。ジョセフ・グルー駐日大使は『欧州で戦争になれば、アメリカも参戦し、連合国側が勝つ』と日本の主導者たちを説得した。

 もし、盧溝橋事件がなかったら……。殺されたとする兵士も戻ってきたが、これがきっかけで松井石根司令官が、上海、南京を掃討する。当時は兵站がないので、全部、現地調達です。略奪、強姦、殺戮を繰り返した。南京だけではない。日清戦争からずっとです。朝鮮でも同じですから、それは恨みに残りますよ」

孫崎「南京大虐殺はロジックとして証明できなくても、日本軍は上海から南京に来る間に、虐殺、略奪を繰り返してきた。当時、南京駐在の外交官が、その事実を証言しています」

岩上「食料だけではなく、家に押し入り、高価な家具を奪い、売りさばく。強盗を諌める意見には、松井大将が、『国がやっているのに文句を言うな』と日記に書いている」

もし、日本がドイツとの同盟を結ばなければ

岩上「ドイツが中国に肩入れをしていたら。ジョセフ・グルーの忠告に従っていたら。日本は、なぜ、中国に深入りしたのでしょうか」

孫崎「ドイツとの同盟を組んでいなかったら、かなり変わっていた。欧州戦線には三国同盟があったからアメリカも参戦した。日本は第一次世界大戦に参加しなかったから、経済が立ち直った。三国同盟を結ばなかったら、もう一度、好況になったかもしれない。それで潤ったのがスカンジナビアです」

岩上「もし、満州事変を起こさなかったら。権益だけを守っていれば、経済を立ち直すことができた」

孫崎「幣原喜重郎や加藤海軍大臣の路線が続いていたら、日本は全然ちがった国になっていた」 

岩上「冷戦も戦争です。朝鮮戦争、ベトナム戦争もソ連との代理戦争。アメリカも、それで傾いた。もし、日本がそれに首を突っ込んでいたらメチャクチャになっていたでしょう」

孫崎「警察予備隊設立に参画した後藤田さんは、アメリカが、確実に戦争に日本を使うと知っていた。朝鮮戦争、ベトナム戦争に行かされるとわかっていたから、憲法を守れと主張した」

岩上「もし戦争に行っていたら、属国として酷い目に遭わされていたはずです。それを食い止めてきたから、日本は繁栄できた。そうやって今まで繁栄を享受し、傾いた今、集団的自衛権で何をされるか。ものすごく危険です」

孫崎「アメリカはすごくわかっている。日本とドイツを外に置いておいたら経済的に繁栄するから、1993年頃から戦争のメカニズムに入るように、ずっと仕向けてきたんです。最初は人道支援やPKOで慣れさせて」

岩上「アメリカと中国の間に割って入り、破壊されたのが日本。今回も同じことをしようとしています」

アメリカも日本も、全体を把握して考える人間がいない

岩上「ところで、アメリカ大統領選で各候補は非常にエキセントリックな発言をしています。カーリー・フィオリーナ共和党候補は、『アメリカは武装が足りない。世界一増強してロシアを倒そう』と言う。孫崎さんは、バーニー・サンダースはまともだと言ってますが?」

孫崎「サンダースは、自称・社会主義者の泡沫候補です。

民主党のヒラリー・クリントン候補が強く、他の候補が出ない中、彼は立候補し、『アメリカの社会は病んでいる。医療費が高すぎる。ハーバード大学などは寮費も入れると年間700万円くらいかかり、普通の人は大学にも行けない。これを変える』と訴えた。また、自分に金権はないとアピールしたら、クリントンの支持率50%、サンダースは30%までになった。

 ニューハンプシャー州ではサンダースが勝った。アイオワでも優勢、クリントンが危なくなる。そこに、クリントンが個人メールで政策をやり取りしていたという、Eメールスキャンダルが起きた」

岩上「アメリカでは、AT&Tが全国民の電話を10年間くらい盗聴していたというくらいですからね」

孫崎「それをクリントンもやられているわけです。さらに言い訳をして墓穴を掘り、ニクソン事件に似てきてしまった。それで、共和党政権になったら、対外政策ではどこにでも出て行く、という人たちばかりになった。キッシンジャーもブレジンスキーも嫌いだが、まだ、全体を把握して、アメリカの優位性を考える思考はあった。もう、そういう人はいなくなった。

 そこで漁父の利を得るのが中国なんです。現在の中国の購買力はアメリカを抜いている。ヨーロッパはそれを知り、中国にシフトしているが、日本は相変わらず中国を敵対視している。上海株価は70%も急に上がった。バブルがはじけるのは当然です。

 中国は1人当たりのGDPがアメリカの4分の1あれば、全体ではアメリカを追い抜く。4分の1の国は、ブルガリアやルーマニア程度になればいい。昔は情報がないから技術革新ができなかった。今は情報が容易に手に入る。たとえば、技術で言うと、風力発電は圧倒的に中国がトップです。

世界各国は自然エネルギーにシフトしているのに、日本は底辺にいる。中国は、エネルギーを石油だけには頼れないと、いろいろ考えている。なぜなら、全体的にものを見られる人がトップだから。日本も米国も、そういう国ではなくなってしまった」

岩上「日本は、アメリカが考えてくれる、ついていけば間違いないと信じているが、アメリカはもうバラバラ。イスラエルはエゴイスティックに自国のことしか考えないから、中国と手を結ぶし、イランも潰したい。サウジアラビアは、この頃、独自に動き出しました」

孫崎「ところが、サウジアラビアの予算は赤字に陥っている。原油価格の下落と、武器ばかりを買っているからだが、そうなると国内も不穏になる。これからサウジアラビアも危なくなっていくでしょう。それもアメリカとイスラエルに焚きつけられているからです」

戦前も戦後も、蚊帳の外にいるのは日本だけ

岩上「第一次大戦初期、ロシアとドイツが衝突し、弱小部隊のドイツが勝利したタンネンベルク海戦がありました。そこで勇気と決断があれば勝てるという神話が生まれました。短期決戦、殲滅戦の思想で、阿南惟幾中佐が現地を訪問するなど、信仰になった。

 『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』(片山杜秀著)には、『戦末思想になると、アッツ島玉砕やカミカゼ特攻隊など、命中しなくともよい。その狂気を見せれば、相手が恐れる。早く和睦するほうが得策だと思わせることができると期待し、遂行した』とある。これが大和魂や日本精神に姿を変えた、兵士の扱いです。

 聞いた話ですが、欧米思想では、カミカゼや自爆テロなど、わけのわからない行動は理解できないと言います。気味悪がって和睦などはせず、人間ではないと見なされて、完全に爆滅しようとする。だから、核爆弾を落としても平気なんです。『もし戦争になったら逃げろ、すぐに降参だ、生き抜け』と言うべきです。

 1940年ドイツの快進撃を受け、佐藤尚武駐独日本大使は、リッペントロップに『日本は3年前から、英米仏の注意を日本に向けさせ、ドイツが欧州に新秩序を打ち立てるのを容易ならしめた』と。なんですか、この媚びようは。

 陸軍(畑俊六陸相、阿南陸軍次官、木戸内大臣らが関与)は、対米開戦を避けようとする米内光政内閣を倒し、日独伊枢軸強化と米国対峙を決定。近衛内閣発足。三国同盟に反対していた海軍も、人事異動で排除します」

孫崎「アメリカを研究していたのは海軍だけ。陸軍はまったく勉強しない。陸軍参謀20人くらいのうち、アメリカ留学したのは1~2人しかいなかった」

岩上「今、中国をまったく勉強せずに、行ったこともない連中が、『中国を倒そうぜ』と言うのと一緒ですね。中国と対すればロシアもいるし、上海条約機構にはインド、パキスタンも」

孫崎「さらに、アメリカはIMFとAIIBで仲良くやっている。蚊帳の外にいるのは日本だけです。怖いのは、アメリカのために動くのは正しいと盲信している人たちが、日本の中枢部に満ちていることです」

岩上「学者たちへの弾圧。美濃部達吉は『天皇機関説』で貴族院辞職、著書発禁処分。津田左右吉は『古事記』『日本書紀』の批判的解釈で攻撃される。滝川幸辰は無政府主義的と言われ発禁処分、京大を休職させられた。ファナティックになって弾圧が増し、理屈がなくなっていきます」

国際情勢をまったく理解しないレイシストの日本軍部

岩上「次に資源。戦争には金属も不可欠だ。当時は石油のみならず、金属、鉄鋼生産量が国力でした。八幡製鉄所は年間、日本の64%の銑鉄を生産。ほとんどの鉄鉱石が中国からの輸入にもかかわらず、中国との和平交渉を打ち切るんです。中国と全面戦争をしながら輸入をしていたんです。

日本は朝鮮、満州で銅、石油を探すがない。1941年、チャーチルは松岡外相に、『米英の鉄鋼生産量は9100万トン。日本は700万トンで単独戦争に不十分ではないか』と述べた。当時、アメリカの鉄鉱石産出量は、55%を占めていた。日本はアメリカから鉄くずを輸入していたが、1940年に止められた。ネトウヨたちは、日本がABCラインを引かれ、石油全面禁輸されたから、戦争に乗り出さずにはいられなかったと言うが、大ウソです。その前から、ずっと日本が暴走してきた。

 次に、欧州戦線と真珠湾攻撃の関係です。英国はドイツの攻撃を恐れていた。ソ連と対峙させ、戦力の分断と米国の参戦を望んだ。しかし、米国は中立を守る。引き込むには誰かが米国を攻撃すればいい。もし、日本が攻撃すれば、自動的にドイツとも戦争ができると考えた。

 石原は、自らが満州事変の首謀者にもかかわらず、『東條軍閥は石油がないので南方諸島を取ろうとするが、泥棒だ。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるべき。日本の都市は丸焼けになり、必ず負ける』と述べた。自分が行なってきたこととは矛盾しますが」

孫崎「石原はまともなことを言っているが、東條英機に干されて、山形あたりに左遷される。それで戦犯を免れた。同志社に行って本を書こうとしたが、そこも追い出され、故郷に戻った。ちなみに私は、『日本外交 現場からの証言』を出版しています。櫻井よしこさんから、『あなたは外務省出身で、防衛大教授なのに、なぜ、そういう発言をするのか』と尋ねられたので、私は、自分が変わったのではなくて、外務省、内閣法制局が変節したと答えた。つまり、外務省の現役だった1993年と、今との自分の言説は変わっていないことを証明したかった」

岩上「チャーチルは真珠湾攻撃の日、『これで我が国は救われた。戦争に勝った。英連邦と英帝国は生きるだろう。ヒットラーの運命は定まった。日本人に至っては微塵に砕かれるだろう』と書いた。満州事変以降、日本は本当に愚かですね」

孫崎「全体が見えている人間がいなかった。今も、原発、TPP、安全保障、全体的に見られないわけです。特に、政府の中にはいない。権力に座っている人間が馬鹿であろうと、その人が考えているかたちが、日本になるのです」

岩上「ディーン・アチソン国務次官補の回顧に、『東條内閣の賢明な策は、インドシナからオランダ人を駆逐し石油を確保すること。真珠湾攻撃の愚策は想像すらしていなかった。なぜ、資源確保のために南進せず、中国戦線の泥沼に深入りしたのか』とある」

孫崎「南進を先にやっていたら、アメリカは動けなかった。1960年代、(アパルトヘイトの)南アフリカで日本人は『名誉白人』だった。そんな気持ちが今日まで続いている。そういられると信じているのです」

岩上「日本人は根っからのレイシストなんです。これからG20という、いろいろな人種、文化の中でやっていかないとならないのに。BRICs(ブリックス)会議の公用語は中国語とロシア語らしい。インド人がめちゃくちゃ話すので大変だとか」

1941年9月からの開戦派と慎重派の攻防

岩上「1941年9月7日、東久邇宮稔彦殿下が、東條英機陸相に辞職を求めた。殿下はフランス留学中、ペタン元帥とクレマンソー元首相から『アメリカは、東洋で邪魔な日本を叩くつもりだ。日本は外交下手で短気なのを知っているので、日本をけしかけて戦争を起こさせようとするだろう。日本はアメリカの底力には勝てない。我慢しなければならない』と警告されていたからです。そして、その通りになりました。短気な人間に外交と戦争をさせてはいけません」

孫崎「東久邇宮は首相になるはずだったが、木戸幸一と昭和天皇が彼を選ばなかった。なぜなら、脅かされていたからです」

岩上「11月29日、天皇の御前で重臣会議が開かれ、東久邇宮は戦争反対を述べました」

孫崎「今の反原発議論と同じです。元首相クラスが出てきて反対を言っている」

岩上「陛下は永野修身軍令部総長に、『高松宮が(反対論を)言うが、どういうことか』と聞いたが、永野は『いやぁ大丈夫です。そんなことはありません』とごまかした」

孫崎「つまり、海軍は反対だったが、永野さんになって開戦に踏み切る。昭和天皇は軍が自分を廃位し、軍人の高松宮を皇位につけるのでは、という不安があった」

岩上「外務省の役人では、軍閥と手を組み、その手先となって『打倒米英』『ハイル・ヒットラー』と高唱してはばからぬ枢軸派が猛威を振るっていた。彼らは戦後、180度転換。平気でアメリカ全盛の今の世を闊歩している、と寺崎太郎北米局長は言っています」

孫崎「奴隷は、主人が変わっただけでは、奴隷としての生き方は変わらない」

岩上「外務省の若手枢軸派の代表、牛場信彦氏は、戦前は反米英、ソ連の気鋭だったが、戦後一変して親米派になる。

 日本軍による仏印進攻の決断。1941年7月2日の御前会議で、近衛首相、統帥権を握っていた杉山参謀総長、永野軍令部総長らが南方侵略を決定する。仏印のゴムは5万トン以上。錫、タングステン、無煙炭、コメなど資源の宝庫だった。フランスの全面降伏で、米英に先に管理され、蒋軍を援助されると、支那事変は永遠に解決の機会を失う。抑えられる前に、仏印対策を講じなければならない。

 近衛首相には日米開戦の危機感が欠如していた。もっとも恐れていたのは軍だった。米国は、日本の仏印進攻を理由に石油禁輸を発表。開戦辞さずの声が高まる。海軍も同調する。今の右傾化している人たちの理屈は、ここから始まる。

 日本は生糸を輸出。綿花、石油、工作機械、くず鉄などを輸入。米国の禁輸措置は段階的だった。1941年9月2日、10月下旬の対米開戦を決める『帝国国策遂行要領』を連絡会議で決定。9月6日、御前会議で開戦を採択。だが、作戦はない。

 昭和天皇に近衛首相が御前会議の案を見せると、天皇は、交渉を主にする案に変えるよう求めたが、近衛は不可能だとして承知しなかった。つまり、天皇も首相も、軍部に対しては無力だったのです。

 御前会議で、天皇は明治天皇の御製『四方の海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ(世界中が皆同胞と思われる時代に、なんでこんなに大きな波風が立っているのであろうか)』と述べ、少しの抵抗を試みる。

 1941年10月1日、及川古志郎海相は、近衛首相との会談で、『総理が覚悟を決めて前進せらるるならば、海軍はもちろん援助する』と述べる。10月7日、東條陸相との会談で、『緒戦しか自信はない。2~3年先はわからない』と言い、交渉の必要性を説いた。結局、一撃を加えれば相手はひるむ、講和を申し出る、という一撃論の繰り返し。

 1941年10月12日、荻外荘(てきがいそう=近衛文麿の私邸)に近衛首相、豊田外相、東條陸相、及川海相、鈴木企画院総裁が集まった。戦争回避の道を模索したが、米国に詳しい人間は1人もいない。東條陸相は『今さら戦争に対し責任がとれぬといわれるのは解し難し』と開戦の決意は揺るがない。1941年10月16日、第三次近衛内閣総辞職。18日、東條内閣が成立。

 その時、平和論者の東久邇宮を後任にする話があったが、昭和天皇は『皇族総理で戦争が起こると開戦責任を皇室がとることになり、よくない』(昭和天皇独白論)と。東久邇宮が首相になっていれば、開戦危機は去っていたのではないでしょうか」

ハルノートは最後通牒ではなかった

孫崎「東久邇宮が首相になれば、開戦が3ヵ月は伸びた。すると、ドイツ戦線でソ連に負けたことが明らかになり、勝ち馬に乗る機運が萎み、陸軍も変わったはずです」

岩上「(陸軍は)ドイツががんばっている限り、米国を叩けばいい、ということだった」

岩上「木戸内大臣は『東條以外を首相にした場合、陸軍の内乱を恐れた』と言う。内乱は恐れるが、戦争は恐れなかった。自分の生命の危機は恐れ、国家の生命にはいささかも恐れなかった。そう田中隆吉(上海事変で偽装テロを工作を告白)は書いている。

 1941年11月5日、御前会議で『帝国国策遂行要領』が採択。東條首相は『米国のなすがままにさせれば、2~3年で三等国に成り下がる』と。米ルーズベルト大統領は1940年、1億ドルの借款を供与。7月、くず鉄、鉄鋼、航空機用ガソリン対日禁輸を発表。12月、1億ドルの借款を中国に供与。

 1941年3月、武器貸与法成立。イギリスに軍事支援。7月、米国内の日本資産凍結。石油の全面禁輸決定。11月26日『ハルノート』を送付。これは最後通牒に等しく、交渉成立は絶望的、と言われているが、最後通牒ではなかった。ハル国務長官は、『日本政府と論議を継続する、あらゆる機会を望んでいる』と述べている」

孫崎「つまり、日本側がこれを『最後通牒』と呼ぶことで戦争に入っていったのです。米国は最後通牒という言葉は使っていない」

岩上「有田八郎は、『ハルノートは米英蘭華ソの多辺的条約の締結を提案したが、陸軍には中国からの撤退は堪えられないものだった。東條陸相も、撤兵問題だけは陸軍の生命であり、絶対譲れぬ』と著す。我欲を手放さない。それが滅ぶ原因です。ほとんど理由もないのに、ずっと侵略し続けた。

 12月1日、最後の御前会議。開戦の聖断が下る。岸信介は、『戦争に勝つ自信は誰にもなかった。問題は生か死。最小限、われわれの生存を確保するという、それだけだった』と回想している。この、われわれとは誰のことか。自分自身のことです。安倍首相の談話でも、われわれも、主語も、日本か中国かも、すべてあいまいです。われわれは、政府と運命共同体ではない。

 12月8日午前3時20分、真珠湾攻撃開始。ルーズベルトは同日、議会で対日戦線を求める演説を行なう。『日本のこういう背信行為を二度と脅威にならぬようにすることです』と述べた」

孫崎「ここで、外務省が通知うんぬんという話があるが、ドイツなど見ても、戦争に通知などは関係ない」

岩上「それは、日本が不意打ちを食らわせたことを強調しているのですね。佐藤賢了陸軍軍務課長は『米国に操られた』(大東亜戦争回顧録より)と。ヘンリー・スティムソン国務長官は、『問題は、いかに大きな危険にさらされずに、日本側に最初の火蓋を切らせる状況に追い込むか』と述べた。

 米国は、石油の全面禁止が戦争になることを認識していた。1939年9月29日、ミュンヘン会議を経て、米国は、『戦争とまではいかぬ方法』で制裁する方針を決定。独ソ不可侵条約締結で、平沼内閣が『欧州情勢は複雑怪奇』と辞任したことで、米国は日米開戦が近づいたと判断。米国は、近衛内閣は軍に従うことしかできない人物と分析。仏領インドシナ侵攻で、グルー駐日大使は強硬政策に移るべき、と本国に主張した。

 1940年12月、米国は戦争に入ることを決意。1941年、グルー大使はハル国務長官に真珠湾攻撃の可能性を示唆。ルーズベルト大統領の隔離演説で積極介入に舵を切る。つまり、日本の情報は筒抜けだった。

 現代においても米国に盗聴されていた日本です。ウィキリークスが米NSAが内閣官房、経産省、中央省庁、日銀、TPP政府会議など、第一次安倍政権から35ヵ所を盗聴していた、と公表。甘利担当相は『可能なら事実関係を調べたい』というが、どうやって?  アメリカに聞くのでしょうか。日本政府は抗議せず。世界中から『米国の属国』とあざ笑われています」

孫崎「同盟国がこういうことをするのかと、独首相メルケルや仏大統領のオランドなどは、厳しい言葉を発している。日本の首相はそれも言えない」

日米開戦に反対を唱えていた人たち

岩上「絶望の中、日米開戦に反対を唱えていた人たちはいた。元総理の石橋湛山に影響を与えたジャーナリスト三浦銕太郎(てつたろう)は、『小日本主義。満州だけでなくすべての植民地を放棄せよ』と主張。湛山は『植民地経営は経済的にマイナス』と諌める。

 恩師の大隈重信による『対華21ヵ条要求』に反抗し、戦後になると靖国神社廃止論も説いた湛山は、大東亜戦争の英霊を祀ることは、国際的立場において許されない、と述べた。こんな反戦主義者であるのに、GHQに公職追放され憤慨した」

孫崎「湛山は大蔵大臣の時、国家予算の3分の1もあった米軍経費を削減した。それにGHQは怒ったのでしょう」

岩上「1921年、湛山は『大日本主義の幻想』で、領土拡大は排日運動を激化させ、国際的に孤立すると警告している。1927年、若槻内閣が倒れ、田中義一の積極外交で山東省出兵へ。矢内原忠雄東大総長は満州事変を経済的観点から厳しく批判。1937年『国家の理想』を発表、東大を追われる。横田喜三郎最高裁長官も満州事変の自衛権発動に疑問を呈し脅迫された。

 支那事変を疑問視した馬場恒吾という人は、戦後の読売新聞社長ですが、ネットでは情報は見つからない。読売新聞は、敗戦直後はリベラルな新聞だったらしいです」

孫崎「読売新聞の元記者が言うには、馬場氏のことは社史には掲載されているらしいです」

岩上「ジャーナリストの清沢洌。リベラルな論調を展開するも矛先は鈍った。他にも東大法学部部長の田中耕太郎。海軍軍人の水野廣徳など。ほとんどの著名な知識人、文化人が戦争遂行に協力した。軍国路線を進めたのは軍人だけではなかった。石川達三、清水幾太郎、武者小路実篤、志賀直哉、草野心平、火野葦平、高村光太郎、永井荷風、太宰治、吉川英治、菊池寛、北原白秋、井伏鱒二、坂口安吾、大宅壮一など大勢いました。

 文学者の戦争責任は大きな議論にならなかった。理由は、文学者のほとんどが戦争協力の立場だったから。戦争責任の追求は共産党から出たことに対する反発で議論にならなかった。戦争責任を追及したのは、評論家の小田切秀雄や福田恆存。ほぼすべての文学者は閉居」

孫崎「でも、悲しいね。ソ連の文化人なんて一生かけて抗うのに。徴兵拒否者を描いた丸谷才一の『笹まくら』は、終戦直後はヒーローだったが、1965年頃はもう批判される」

岩上「それわかります。共産党とブント主導は60年安保まで。70年安保になると、全共闘世代でほとんどが反代々木。共産党や民青はやたら批判していた。1965年くらいだったら、その雰囲気が出始めています。でも、全共闘の人たちは、保守へ変節した人が多いです」

軍人、政治家、有識者たちの「真珠湾攻撃の愚」の見解

岩上「真珠湾攻撃の愚挙の見解。『大東亜戦争戦訓調査資料 一般所見』は唯一の海軍の戦況調査です。弱勢力と強勢力の衝突。広義戦備の不徹底が敗因。陸軍中将・田中新一は開戦を強行に主張し、『アメリカの策謀の糸に操られた』と述べた。陸軍少将・今井武夫は、中国の民族主義を刺激したことが戦争誘発と分析。今もそうです。陸軍参謀・原四郎は、戦略なき戦争指導計画と指摘した。

 陸軍中佐で伊藤忠元会長の瀬島龍三は、『賢明さを欠いた大陸政策。早期締結を計れなかった支那事変。時代に適応しない旧憲法下の国家運営能力。軍事が政治に優先した国家体制。国防方針の分裂。的確さを欠いた戦局洞察。実現しなかった首脳会談』と言っています」

孫崎「彼はとても嫌いです。東京裁判でソ連の証人になり、アメリカに寝返り生き残った。中曽根の指南番みたいな顔をする。イヤな人間だ」

岩上「ものすごい処世術ですよね。重光葵はどうですか」

孫崎「重光外相は、戦前、外務省の主流派にいて、責任もあるが、戦後は対米従属に反して動く。公用語を英語、通貨をドルにするのをひっくり返した。米軍基地にも反対した。戦後の、彼の業績は評価します」

岩上「今、文科省が英語で授業をやるという方針を打ち出した。TPPで、官庁も公用語を英語にせざるを得なくなります」

孫崎「しかし、日本はあと20年先には対米従属ではやっていけない。(世界の主流が)中国、インドになる現実を突きつけられますよ」

岩上「外交官・萩原徹は日本の驚くべき楽観的な見通しを指摘。外交官・上村新一は『反省すべきは国民の心構え』と、元総理大臣の芦田均は『軍部は野望を抑制できなかった』と述べた。エール大学教授の朝河貢一氏は日本人の妥協や盲従が惨禍を招いた、と言う。東大教授・加藤陽子氏は、擬似的な改革者としての軍部への人気の高まりを指摘。国民に夢を見させる政治勢力の出現の可能性を教訓にすべき、と。これは今の政治ですね。防衛大学教授・波多野澄雄氏は、国際性を認識できなかった幕僚の責任を示した」

孫崎「基本的に国際社会がどのような判断をしているか。その中で、我々は何ができるかというアプローチができなかったんです。日本社会は自分たちのサークルだけで動いているから、世界から遊離されていてもいいんです。ガラパゴスです」

岩上「ドイツのように、日本も二度破壊されないとダメだ、と。右は戦争をやりたい。左は諦めて戦争に託す。思想家の山本七平は、陸軍の戦略のなさを徹底的に描写した。

 元文藝春秋編集長で近現代史家の半藤一利氏に取材を申し込んだが、インターネットは信用しない、と断られました。(半藤氏は)今、とても危機感を持っていて、9条を守れと主張しています。日本の失敗は他民族の自立の精神、ナショナリズムを理解できなかった民度の問題だ、と。

 本史研究者の保坂正康氏はインタビューに応じてくれて、政策集団がメンツをかけて論じ合うだけ、と言われました。防衛大学長の五百旗真氏は、日本被害者論を喝破した」

伊藤博文をはじめ、暗殺されていった親中国の高級官僚たち

岩上「もし、伊藤博文が安重根に殺害されなかったら。『真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか』(外務省外交資料館『伊藤公爵満州視察一件』)。1909年10月26日、伊藤博文が安重根に殺害され、その翌年に韓国併合。伊藤博文は清国主権を尊重していた。中国市場を独占せず、米英との協調を主張していた」

孫崎「だから、この暗殺はどういう意味か考えなくてはならない」

岩上「1913年9月5日、阿部守太郎外務省政務局長暗殺事件。阿部は対中外交の中心的存在で、外務省きっての中国通。日中平和の政策を進めていた。犯人は右翼、軍部に関係していた」

孫崎「阿部は、『中国は悪いところがあるが、武力で対抗することはおかしい。どこかに合意点を見つけて中国外交をやろう』と主張していた」

岩上「今の外務省も、軍事をバックに強気な外交をやりたいと聞きます。1929年11月29日、支那公使・佐分利貞男の死体が発見された。左利きの彼が右手に他人のピストルを握っていたが、自殺と断定された。彼は満州事変前、当時の幣原外相の右腕として、悪化した対支外交の打開を期待されていた」

孫崎「松本清張(昭和史発掘2『佐分利公使の怪死』)は、現場の状況には詳しいが、中国問題の動きまでは書いていない」

岩上「昭和天皇の廃位への恐怖。満州事変から、軍部には自分たちの政策を支持しない天皇は排除すべきという動きがあった。『私が主戦論を抑えたなら、国内世論は沸騰し、クーデターが起こったであろう』と『昭和天皇独白録』にある。天皇と軍部の危機は、日米開戦直前だった。

 当時、真珠湾攻撃を愚と理解する人が、天皇を始め、海軍、政策決定当事者にもいた。しかし、暗殺、クーデターを恐れていた。今年の天皇の年頭所感でも、それを危惧する表現がある。天皇の言葉を、もっと尊重すべきですね」

このままでは将来、『日中開戦の正体』が語られる

岩上「戦前、なぜ、軍部が圧倒的に力をつけたのか。外務省にも、言論界、政界にも、軍事力で解決する流れに協力し、自分の勢力を延ばそうとする動きがあった。軍の台頭を、新聞が後押しした。本当にメディアの責任は大きい。

 政策決定権を握っていた軍部は、国家全体としての戦略性がなかった。敵を知らなさすぎた。真珠湾攻撃の愚は、軍部の強引さに起因する。しかし、その横暴を許したのは国民です。民主主義の基本は、あくまでも国民の側にある」

孫崎「他の国では反対者の量が多く、質が違う。国自体としてはダメだが、常に戦う人がいる。ロシアもイラン、中東でもいるし、国民は、そういう人たちの価値を認める。しかし、日本では国民がこぞって、そう言う人たちを排斥する」

岩上「発言すべきことを、発言できる社会を維持する必要性。日米開戦の過程でおかしいと考えた人は、軍部、外務省、政治家、新聞社にもいた。それが圧力を受け、発言できない社会になった。これが開戦の最大の原因だった」

孫崎「これだけの世相で、勉強することがあるにもかかわらず、不思議なのは『日米開戦の正体』が注目されないことです。反論もまったくない」

岩上「それは、安保法制と戦前の歴史のつながりを、イメージできないからではないでしょうか。でも、このままだと、やがて『日中開戦の正体』になってしまいます」

孫崎「私の新著『日本外交:現場からの証言』では、冷戦終結が米国の戦略を変えたこと、米国の戦略に基づいて進められた日本社会の構造改革、米国隷属による日本の損失、日本が米国従属になった歴史、米国が日本に求める従属の分野などを取り上げた。『米国追随だけでは、日本の国益にならないことが明確になった。時代は一周して元の位置に戻ろうとしている。日本の国益を考えて外交をやる必要性が出てきた』という内容です。

 それで今、書いている本は、『小説 外務省』の続きです。主人公はイランに左遷され、そこでの核と『イスラム国』を巡るストーリーになります。後藤健二さんの人質事件の真相、官邸の真実も折り込んでいます。たとえば、(日本政府は)人質を取り返すつもりがなかった。人質が死んだということで、アメリカに誠意を見せたかった」

自分でものを考える人材不足──崩壊に向かう日本

岩上「戦前の人たちを見ると、我儘やりたい放題じゃないですか。それが(戦後は)人が変わったように、アメリカの言いなりになって、他には威丈高です。アメリカという主人がいなくなったら、日本は変な国になるでしょうね。全然、民主主義ができていない、話し合いながら、妥協し合いながら、社会を作れないのです」

孫崎「それは、今の政治家のひどさを見ればわかる。自分の考えで、主義主張を貫ぬいて実現しようとする政治家がいません。もし、公用語が英語になったら、今の日本語の10分の1以下の語彙でしか話せなくなります。でも、どこのアメリカの大学にも文系がありますよ」

岩上「これは、教育を含めて日本の民度を磨かないと。大学で文系を止めたら、もっと思考する力がなくなり、日本は滅びるでしょう。そんな状態で知的社会に入れば劣等生です。この件で京大学長(山極壽一氏)が反対表明をするようで、私はインタビューするつもりです」

孫崎「政府は、なぜ、人文系学部は止めた方がいいと言えるのでしょうか。私の娘は、アメリカのアマースト大学とバージニア大学に留学した。アマースト大は自分の考えでやるが、バージニア大は言われたことをやる学校で、学生は官僚になっていく。使われる人と、使う側の人の教育は違うのです。

 優秀な高校では、生徒同士で議論をさせ、自分でものを考える人材を育てるんです。それが一番いい学校です。人文科学は、いかにものを考えるかを教育する学問。それを制度的になくすことは、考える人間がいなくなるということです」

岩上「気が遠くなるほど大変だ。少子化で経済も傾き、アメリカと一緒に戦争をして、周辺諸国の緊張を高めて、ものを考えない国にする」

孫崎「今、みんな端末をいじって、共通した話題でしか対話をしない。本を読んで知識を吸収しなくなった。1970~80年代は『大日本帝国嫌い』の人ばかりでした。今、それを肯定する人がすごく増えてしまい、信じられないような日本になってしまいました」

岩上「それは、戦争を知る親や大人たちが、いなくなってしまったからではないでしょうか。私の小さい頃、駅には必ず傷痍軍人がいましたが、まったく見かけなくなりました。今、勇ましいことい言い、声を荒げる人たちは戦争には行っていません」

孫崎「しかし、『WiLL』なんて雑誌が、なぜ、読まれるかわからないですね。ちょっと考えれば、おかしいとわかるのに」

岩上「割り切って、商売だけで作れるんですよね。『WiLL』の花田紀凱編集長は、ある意味、プロの編集者。売れるなら何でもする人です。売れれば勝ちの商売の仕方ですが、今は、国を誤りかねない段階です。総理が『WiLL』やニコ生に出てしまう。そういうお仲間が総理とピンで会える。安倍信者が読む雑誌には、『孫崎享の正体』って書かれてましたよ(笑)」

孫崎「ひとつアドバイスをすると、本の内容に、どれだけ具体性があるか見るべきです。それが、内容の真偽と質を表していると思います」

岩上「長い時間、どうもありがとうございました」

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「『日米開戦の正体』がこのままでは『日中開戦の正体』に!? 元外務省国際情報局長・孫崎享氏が岩上安身のインタビューで、安倍談話に見られる「官僚の狡猾さ」を指摘!―第3弾 ~岩上安身によるインタビュー 第571回 ゲスト 孫崎享氏」への2件のフィードバック

  1. 清沢満之 より:

    2014/11/15 【兵庫】「戦争を賛美し、他国を批判すると新聞が売れる」 〜メディアを考える市民のつどい 忍びよる戦争とマスコミを考える
    http://iwj.co.jp/wj/open/archives/206260
    2015/03/02 日中関係改善は「焦眉の急」――戦後70年の節目に歴代政権が踏襲した精神を覆す「安倍談話」が公表されることへ危機感、元外務省OBらが訪中へ
    http://iwj.co.jp/wj/open/archives/236471

  2. mimizuku より:

    いつもよくわかる情報をありがとうございます。日本の貧しい若者はさっさと戦争に送り込んで軍需産業にもうけさせる。金持ち、富裕層は温存しておいて支配者階級に治まる。労働力の心配なんかありません。難民がいるじゃありませんか。何十万人も。最近メディアが騒いでますね。難民受け入れ進めろって。人を助けたいと思う心まで悪用しようとする。なんだか、内戦や戦争を起こしてもうけよう、人を支配しよう、こんなあくどい事考えている人間がまだいるのだと思うと怒りも感じますが、それ以上に悲しくなってきます。でも絶望なんかしません。IWJをみているとそう感じます。岩上さんお体大切に。

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