【IWJ号外】タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューの翻訳!(第5回)米ディープステートが覆した、ロシアのNATO加盟、CIAのチェチェン過激派支援への処罰、米露欧共同ミサイル防衛案! 2024.10.16

記事公開日:2024.10.16 テキスト
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(文・IWJ編集部)

 タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビューのIWJによる仮訳・粗訳(第5回)をお届けします。

 第1回と第2回を出して以降、経営危機、マンパワーの欠如など、諸般の事情があり、大変、間が空き、遅れてしまったこと、おわび申し上げます。

 IWJによる仮訳・粗訳の時間が遅れてもなお、日本人の読者が日本語で読む価値は十分にあると確信しています。今後、連続してお届けしていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 10月12日に第3回を、10月15日に第4回を号外としてお届けしました。本日は、第5回となります。

 プーチン大統領へのこの歴史的インタビューは、ロシアと、米国をはじめ西側諸国との関係史の、一方の当事国であるロシア側から見た、非常に貴重な証言を含んでいます。

 ここで語られた戦後史の問題は、現在のウクライナ紛争などに直結しており、現代の問題の本質を考える上で、大きなヒントになります。

 我々が聞かされる国際関係史は、米国とNATOを主体として語るものであることがほとんどで、その意味で、米国とNATOから見た歴史に他ならず、その歴史は偏向しています。

 この第5回でのプーチン証言には、大きなポイントが3つあります。

 第1に、ロシアのNAT0加盟問題です。

 これまでも言われてはきたものの、具体的に、ビル・クリントン大統領(当時)が、ロシアのNATO加盟の是非について、どう言ったのか。そして、その発言が、なぜ、どのように変化したのか、そして、その発言が変化した短い時間の間に何が起きたのか。

 こうしたことが、具体的に、その当時の場面とともに、一方の当事者であるプーチン大統領の口から語られているのです。これは重大な歴史の証言です。

 そこで明らかになるのは、またもや、紛争を必要とするNATOという軍事同盟の機能と、米国の軍産複合体の暗躍です。

 第2に、チェチェン紛争問題です。

 これまで、ロシアとチェチェン共和国との紛争については、ロシア連邦から独立しようとするチェチェンを、ロシアが阻止しようとする「帝国」的な弾圧・戦争であると単純に理解されてきました。

 ところが、米国CIAがイスラム過激派に、財政的支援、政治的支援、情報的支援、さらには軍事的支援までしていたことが暴露されてゆくのです。これまで、存在しないとされていた資料が開示されてゆきます。

 この紛争が単に、チェチェン共和国のロシアからの独立戦争ではなく、米国による、チェチェンのテロリストを使ったロシア弱体化戦略の一環だったことが明らかとなっていきます。

 ここから類推できるのは、今年2024年3月22日に起きたモスクワのコンサート会場におけるテロ事件についてです。目的や手段が、チェチェン紛争の時のテロ事件と似通っており、今回のテロの実行犯には、中央アジアのキルギス人が使われました。

 このケースも、米国とウクライナが、資金援助、情報援助、軍事援助を、実行犯のテロリストたちに行った可能性が考えられる、ということです。

 第3に、さらに重要な証言は、米国のミサイル防衛に関するものです。

 2002年のジョージ・W・ブッシュ政権のABM条約(Anti-Ballistic Missile Treaty、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、1972年締結)の破棄が、現在の極超音速ミサイル開発競争を招いたことが、はっきりと語られています。

※ABM条約は、冷戦時代の1972年に米国と旧ソ連との間で締結された条約で、弾道ミサイル防衛システムを制限することを目的としていた。
 具体的には、両国が弾道ミサイル迎撃システムを、限られた範囲でしか配備できないようにすることで、核兵器による相互抑止のバランスを維持し、核戦争のリスクを下げることを目指した。
 その内容として、両国は、弾道ミサイル防衛システムを、2つの地域(1つは首都防衛、もう1つはICBMの発射基地の防衛)にしか配備できないとした。
 また、配備される防衛システムの数や性能も厳しく制限され、これにより、相手の核攻撃を完全には防げない状態を維持した。
 しかし、2002年に米国が条約から離脱したため、ABM条約は無効となった。

 こうした構図を見てゆくと、現在のウクライナ紛争が、ロシアとウクライナの争いというよりも、対ロシア戦の兵士調達先として、ウクライナを利用している米国が「主役」なのであり、その姿や本性はどのようなものか、見極める必要があります。

 今、勝敗の帰趨が明らかになりつつあるウクライナ紛争や、イスラエルが、米国の支援のもと、ガザでのパレスチナ人のジェノサイドにとどまらず、レバノンへの侵攻、イランへの攻撃を開始し、中東全域に戦争が拡大しつつあること、さらに、これから始まろうとしている、日本を巻き込んだ東アジアでの対中戦争にも、この構図は当てはまるでしょう。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第1回は、以下から御覧になれます。

※タッカー・カールソン氏によるプーチン大統領インタビュー全編の翻訳を開始!(第1回)冒頭は、プーチン大統領による仰天のロシア・ウクライナの歴史講義! IWJは慎重にインタビュー内容を吟味しながら、可能なかぎり注や補説で補い、あるいは間違いの検証をしながら全文の翻訳を進めます!(日刊IWJガイド、2024年2月10日)
会員版 https://iwj.co.jp/wj/member.old/nikkan-20240210#idx-2
非会員版 https://iwj.co.jp/info/whatsnew/guide/53197#idx-2

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第2回は、以下から御覧になれます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第3回は、以下から御覧になれます。

 インタビューのIWJによる仮訳・粗訳の第4回は、以下から御覧になれます。

 以下から、第5回のインタビューのIWJによる仮訳・粗訳となります。


プーチン大統領「さて、私は2000年に大統領になりました。わかった、ユーゴスラビア問題(※訳注1)は終わった、関係を回復しようと私は考えました。ロシアが通ろうとしていたドアを再び開けようと。そしてさらに、私はそれを公言しました。

 ここクレムリンで、ちょうど隣の部屋にいたビル・クリントン大統領との会談(※訳注2)で、私は彼にこう尋ねました。『ビル、もしロシアがNATOへの加盟を求めたら、実現すると思いますか?』。突然、彼は『面白いですね、そう思います』と言ったのです。

 しかし夜、夕食を共にしたとき、彼はこう言いました。

 『私のチームと話したが、今は無理です』。

 彼(ビル・クリントン)に聞いてみてください。彼は私達のインタビューを見て、確認すると思います。もしそういうことがなかったら、私はこんなことは言わないですよ。『そうか、今は無理なんだ』と」

(※訳注1)第2次大戦後に、ソ連の衛星国ではない独自の自主管理社会主義を掲げたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれるほど、多様性を抱えた多民族国家だった。
 1989年に東欧で民主化・共産主義政権の崩壊が始まると、ユーゴスラビア連邦の中心だったセルビア共和国で、民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが政権を握って大統領となった。
 1990年には、連邦制を維持しようとするセルビアと、独立国家連合への転換を求めるクロアチアやスロベニアが対立する中、アルバニア系住民の多いコソボ社会主義自治州を併合しようとしたセルビアに反発したコソボが、1990年に独立を宣言し、内戦となった。
 1991年には、スロベニア、マケドニア、クロアチアが独立を宣言。1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。
 歴史的にセルビアと激しい対立が続いていたクロアチア(第2次大戦時、ナチス・ドイツとムッソリーニのイタリアの傀儡国家としてウスタシャというファシズム政党が独裁制を敷いた)では、独立以前に公用語からセルビア語を禁止し、国内の少数民族であるセルビア人(約12%、60万人)は、クロアチアからの分離独立を求めるなど、対立が深まっていた。
 クロアチアの独立は、ユーゴスラビア連邦軍との武力衝突に発展し、1995年まで続いた。
 セルビアとクロアチア両国と接するボスニア・ヘルツェゴビナでは、独立を目指した国内のボシュニャク人、クロアチア人と、セルビア人とが対立した。国内に自治区を設立しようとしたセルビア人に対し、ボシュニャク人が主導権を持つボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、これを認めなかった。
 ボスニア・ヘルツェゴビナの独立は、すぐに西側諸国に承認され、国連にも加盟したが、これに不満を持つセルビア人勢力は、ユーゴスラビア政府の支援を受けて、軍事衝突へと発展した。
 当初、セルビア人勢力はボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧し、首都サラエヴォを包囲した。
 1993年には、ボシュニャク人とクロアチア人との対立も深まったが、1994年に米国が介入すると、ボシュニャク人とクロアチア人の連邦国家が結成され、NATO軍がセルビア人勢力へ空爆を開始した。
 1995年に、ボシュニャク人とクロアチア人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(国土の約51%)を、セルビア人がスルプスカ共和国(国土の約49%)を形成し、この2つが国内で並立する国家連合ボスニア・ヘルツェゴビナとすることで、停戦が成立した。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、セルビア人勢力によるスレブレニツァ侵攻で、ボシュニャク人の男性8000人が殺害され、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定されるなど、民族浄化や大量虐殺が行われた(2022年にロシアが武力介入するまで、2014年からの8年の間に、ウクライナ共和国内の主として東部に集住するロシア系住民がウクライナ軍によって1万人以上殺されたにもかかわらず、国際社会、特に欧米と日本を含む西側社会は、これをジェノサイドと認めていない。明らかなダブルスタンダードである)。
 さらに、1998年にはコソボで、独立を求めるアルバニア人武装勢力コソボ解放軍と、ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力との間で戦闘が始まり、1999年には介入したNATO軍により、セルビア空爆が行われた。
 NATO軍は、ロシアや中国の反対によって国連安保理の裏付けが得られないまま、ユーゴスラビアを空爆した。空爆には劣化ウラン弾やクラスター爆弾など、非人道的な兵器が使用された。
 コソボ紛争は、1999年6月にミロシェビッチ大統領が、フィンランドとロシアの仲介により、国連平和維持軍のコソボ駐留を受け入れ、ユーゴスラビア軍が撤退したことで終結した。

(※訳注2)2000年6月、当時のビル・クリントン大統領はクレムリンを訪問し、大統領に就任した直後のプーチン大統領と首脳会談を行なっている。
 この会談では、冷戦後の米露関係や、核軍縮、ミサイル防衛システムに関する問題が主要な議題として取り上げられた。特に、新しいミサイル防衛システムの開発を進めたい米国がABM条約の修正を望んでいたことが大きなテーマだった。
 この会談自体は、比較的友好的なものであったとされているが、米露間の緊張はその後も続き、2002年の米国のABM条約脱退の要因となった。

タッカー氏「あなたは誠実でしたか?(イエスと言われたら)NATOに参加していましたか?」

プーチン大統領「いいですか、私はNATO加盟が可能か不可能かと質問したのです。そして私が得た答えはノーでした。もし私が、指導者の立場を知りたいという不誠実な気持ちを持っていたとしたら…」

タッカー氏「でも、もし彼(クリントン大統領)がイエスと言ったら、NATOに参加しましたか?」

プーチン大統領「もし彼がイエスと言っていたら、和解のプロセスは始まっていたでしょう。互いのパートナーに、何らかの誠実な願望を見出していれば、最終的にはそうなっていたかもしれません。

 しかし、そうはならなかった。まあ、ノーというのはノーということです。わかりました、そういうことですかと」

タッカー氏「それはなぜだったと思いますか? どういう動機からだったと思いますか? あなたは、この件で、苦い思いをしているのはわかります。でもなぜ西側は、あなたをそのとき拒絶したと思いますか? なぜ敵意を持ったのでしょうか? なぜ冷戦が終わっても、関係が修復されなかったのでしょうか? あなたから見て、その動機は何だったと思いますか?」

プーチン大統領「あなたは、私がその答えを聞いて苦々しく思っていると言いました。いや、嫌みではありません。事実を述べただけです。我々は新郎新婦ではないし、苦い思いや恨み、このような状況では、そういう問題ではありません。

 ただ、我々が歓迎されていないことに、気づいただけなんです。そうか、わかったと。でも、別の方法で関係を築きましょうと。別の場所で、共通の基盤を探しましょうと。

 なぜ、我々がそのような否定的な反応を受けたのか、あなたの指導者達に尋ねるべきでしょう。理由は推測するしかありませんが、米国はあまりにも大きな国で、独自の意見なども持っています。そして、米国です。私はNATOで、どのように問題が解決されてきたかを見てきました。ウクライナに関する別の例をあげましょう。

 米国の指導者は圧力をかけ、NATO加盟国は従順に投票します。たとえ気に入らないことがあっても、です。

 さて、2008年(※訳注3)にウクライナで何が起こったかをお話ししましょう。議論されていることではありますが、新しいことを言うために秘密を打ち明けるつもりはありません。それでも、我々はその後、さまざまな方法で関係を築こうとしています」

(※訳注3)NATOは2008年のブカレストでの首脳会議で、ウクライナの「将来の加盟」を約束し、その加盟申請を支持した。しかし、加盟の方法や時期については言及しなかった。

プーチン大統領「例えば、中東での出来事、イラクでの出来事、私達は米国との関係を非常にソフトに、慎重に、慎重に構築していました。私は繰り返し、米国は北コーカサスの分離主義者や、テロリスト(※訳注4)を支援すべきではないという問題を提起しました。しかし、米国は、それでも支援を続けています」

(※訳注4)北コーカサスの分離主義者やテロリストとは、チェチェン共和国の独立運動への加担を指す。チェチェン紛争は、初代ロシア連邦大統領のボリス・エリツィンのときの第一次チェチェン紛争(1994年~1996年)と、プーチン大統領のときの第二次チェチェン紛争がある(1999年~2009年)。
 第二次チェチェン紛争の時期には、2002年10月23日~26日に、モスクワ劇場占拠事件と、2004年9月1日~3日に、ベスラン学校占拠事件(ロシア連邦北オセチア共和国・ベスラン)が起きている。
 モスクワ劇場占拠事件では、解放された人質722人のうち129人が、犯人側による銃撃ではなく、救出部隊が使用した麻酔ガス(モルヒネの100倍の麻酔効果のあるフェンタニルを主成分とするガス)が原因で死亡。
 ベスラン学校占拠事件では、人質となった1181人中、約3割に当たる348人が死亡し、700人が負傷するという最悪の結末となった。

プーチン大統領「政治的支援、情報的支援、財政的支援、さらには軍事的支援までもが、米国とその衛星国からコーカサスのテロリスト集団にもたらされたのです。

 私はこの問題を、私の同僚である米国大統領に提起したことがあります。彼はありえないと言うのです。証拠はあるのかと言うのです。私は『ある』と答え、会談を準備し、彼にその証拠を渡しました。彼はそれを見て、何と言ったと思いますか?『申し訳ない。それは実際にあったことでした』と。

 彼の言葉を引用すると、彼はこう言ったのです。『私は連中の尻を蹴るつもりです』と。私達は、何らかの返答を待ちました。返事は、ありませんでした。

 私はFSB(ロシア連邦保安庁)長官に『CIAに手紙を書くように』と言いました。大統領との会談の結果はどうだったでしょうか? 彼は1度、2度手紙を書きました。そして、我々は返事をもらいました。その返事はアーカイブにあります。

 CIAはこう答えました。『我々はロシアの反対派と協力してきた。我々はこれが正しいことだと信じているし、これからもそうしていく』。バカバカしい。まあ、いい。我々は、この回答が問題外であることに気づいたのです」

タッカー氏「反対勢力? CIAがロシア政府を転覆させようとしていると?」

プーチン大統領「もちろん、この場合、彼らが言っているのは、コーカサスで我々と戦った分離主義者、テロリストのことです。彼らはそれを反対派と呼んでいる。これが2つ目のポイントです。

 3つ目は、米国のミサイル防衛システム(訳注5)が、最初に構築された瞬間です。私達は長い間、米国でミサイル防衛システムを構築しないよう説得してきました。さらに、ブッシュ・ジュニアの父、ブッシュ・シニアに招待され、海上の彼の場所を訪れたとき、私はブッシュ大統領(子)と彼のチームと非常に真剣に話し合いをしました」

(※訳注5)米国のミサイル防衛システム構築の歴史は、第二次世界大戦終結直後に遡る。このとき、米国の軍事計画者達は、弾道ミサイルの脅威が、目標に到達する前に対抗できるようにする検討を始めた。
 戦時中、ドイツのロケット弾V-2が特に問題視され、1946年、米陸軍航空隊(USAAF)は、対弾道ミサイル(ABM)を開発するため、ウィザード計画とサンパー研究計画に着手した。
 1950年代の冷戦の激化と、1962年のキューバ危機を経て、米国の指導者達は、ソ連のABMシステムに打ち勝つには、圧倒的な攻撃力か、軍備管理協定が必要だと考えるようになっていく。
 プーチン大統領が言及している米国のミサイル防衛システムの構築は、クリントン政権からブッシュ(子)政権への移行期にあたる。クリントン大統領は、1999年に、国家ミサイル防衛法に署名し、「米国の領土を、限定的な弾道ミサイル攻撃から防衛できる効果的な国家ミサイル防衛(NMD)システムを、技術的に可能な限り早期に配備することを米国の政策とする」とした。
 2001年に成立したジョージ・W・ブッシュ新政権は、2002年にABM条約(迎撃ミサイルを排除することで、相互確証破壊戦略(MAD)による核抑止論を再構築するため、弾道弾迎撃ミサイル配備を制限した条約)から離脱し、弾道ミサイル防衛機構(BMDO)の名称を、ミサイル防衛局(MDA)に変更する。
 ブッシュ政権において、米軍はミサイル防衛プログラムを、統合的・重層的・全国的な防衛システムに方向転換し、(「相互確証破壊戦略(MAD)による)核抑止論を放棄するのである。
参照:
History of U.S. Missile Defense Systems(Arms Control Association、2024年4月18日閲覧)

プーチン大統領「私は、米国、ロシア、欧州が共同でミサイル防衛システムを構築することを提案しました。

 米国は公式には、イランのミサイルの脅威に対抗するために米国のミサイル防衛システムは構築されると述べていましたが、もし、それが構築されれば、我々の安全が一方的に脅かされると考えたからです。イランの脅威が、ミサイル防衛システムの配備を正当化する理由だったのです。

 私は、ロシア、米国、欧州で協力することを提案しました。彼らは『とても面白い』と言いました。彼らは、『本気なのか?』と聞きました。私は『もちろんだ』と答えました」

タッカー氏「何年のことですか?」

プーチン大統領「覚えていません。インターネットで調べれば簡単です。ブッシュ・シニアの招きで米国に行ったときのことです。これから話す人から聞くのはもっと簡単です。『とても面白い』と言われたのです。私は、こう言いました。

 『このような世界的な戦略的安全保障上の課題を、一緒に解決できたらと想像してみてください。世界は変わるでしょう。おそらく経済的な、あるいは政治的な紛争も起きるでしょう。しかし、私達は世界の状況を劇的に変えることができるのです』。

 彼は『はい』と答え、『本気ですか?』と聞きました。私は『もちろんです』と答えました。『我々は、それを考える必要があります』。私は『どうぞ、その先を続けてください』と言いました。

 その後、ゲーツ国防長官・前CIA長官、ライス国務長官がこの内閣に加わり、彼らはこのテーブルに座りました。向こう側に、私、外務大臣、ロシアの国防大臣。

 彼らは、私にこう言いました、『はい、ご提案を考えました。同意します』。私は、『ありがとうございます。神に感謝します。素晴らしい』と言いました。『しかし、いくつかの例外がある』と彼らは言うのです」

タッカー氏「あなたはアメリカ大統領が決断を下し、その決断を行政機関のトップが妨害したと2回にわたって述べています。つまり、あなたの言い方では、選挙で選ばれていない人達が運営するシステム(訳注6)を言っているように聞こえます」

(訳注6)これが、いわゆる「ディープステート」のこと。行政官僚が、大資本と結託して、民主的な政治システムのコントロールから外れた動きをしてゆくことを指している。おどろおどろしい陰謀論の話ではない。

プーチン大統領「そうです、その通りです。そして、彼らは、私達に『失せろ』と言ったんです。詳しいことは言えません。しゃべってしまうのは、正しくないと思うので。

 結局、極秘の会話でしたが、我々の提案は、断られました。それは事実です。

 ですから、私はこう言うしかなかったんです。

 『しかし、それでは、我々は対抗策を取らざるを得なくなる。我々は、ミサイル防衛システムを確実に突き抜ける攻撃システムを作ることになるでしょう』。

 答えはこうでした。

 『あなたに対して、ミサイル防衛システムを構築するわけではないので、好きにしてください』。

 我々に対してではなく、米国に対してでもないとすると。

 私は『わかりました』と答えました。よろしい。そういうことになったのです。

 そして我々は、大陸間航続距離を持つ極超音速(ミサイル)システムを開発し、今も開発を続けているのです。我々は、現在、極超音速攻撃システムの開発(※訳注7)において、米国や他の国々をリードしています。

 そして、日々改良を続けています。しかし、そうさせたのは、我々ではなかった。我々は別の道を提案し、押し戻されたのです」

(※訳注7)米国のミサイル防衛システムの目的は、国防総省ミサイル防衛局によれば、「ミサイル防衛の最終的な目標は、ミサイルが軍事的に有用でなく、投資に値しないことを各国に納得させ、潜在的な侵略者の心に、米国やその同盟国に対するミサイル攻撃が成功するかどうか疑念を抱かせることである」としている。
 しかし、現実には、米国のミサイル防衛システムの構築と2002年のABM条約からの離脱は、ロシアや中国、イランなど、米国から敵視されている国々に、極超音速ミサイルの開発を促進させる結果となった。
 国防と航空宇宙の専門家のための包括的なオンライン・ニュース・サービス『インサイド・ディフェンス』は、2024年4月4日付で、米国の極超音速ミサイル防衛システムの実戦配備が2034会計年度になると、次のように報じている。
 「米国防総省は、極超音速防衛システムを2034会計年度に実戦配備する計画である。
 これは、議会がミサイル防衛局にプロジェクトに着手するよう指示してから17年後のことであり、また、議員達が23年度予算で国防総省のグライド・フェーズ・インターセプター(大気圏外部での迎撃を目的としたミサイル防衛システム)に追加した3億ドル近い資金に伴う計画の前倒しを反映しているようには見えない」。
 少なくとも、今後10年間は、ロシアや中国、イランの極超音速ミサイルを防衛するシステムは、米国にはまったく存在しない。しかも、この10年で、極超音速ミサイルの性能はさらに上がる。この技術的なタイムラグは、米国にとって致命的である。
 逆に、米国の攻撃用の極超音速ミサイルの開発状況は、2024年3月13日付の米国議会調査局(CRS)のレポートによると、次の通りである。
 「米陸軍の長距離極超音速兵器(LRHW)、別名ダーク・イーグルは、射程距離1725マイル(約2776キロ)と報告されており、極超音速滑空体および関連する輸送・支援・火器管制装置を備えた地上発射ミサイルで構成されている」
 ただし、CRSレポートは、2023年9月14日の米陸軍の声明で、2023年末までにLRHWを配備する目標を達成できないことを認めている、と述べている
 つまり、米軍は、LRHWのフライト実験にさえ成功していないのが現実なのである。しかも、このLRHWはコストが非常に高く、ミサイル1発あたり4100万ドル(2023年ドル換算・約66億円)もかかる。
 2023年1月の戦略国際問題研究センターの報告書「次の戦争の最初の戦い:中国による台湾侵攻のウォーゲーミング」は、極超音速兵器を論じる際に「(米国のLRHWの)コストが高いため在庫が限られ、中国の膨大な数の航空・海軍プラットフォームに対抗するのに必要な数量が不足している」と、現代のミサイル戦の時代に、米軍や米国の軍事産業が適応できていない現実を指摘している。
 他方、昨年2023年2月、アメリカ、極超音速ミサイルの最終飛行実験に成功というニュースが、にぎにぎしく報じられた。
 DARPA(米国防高等研究計画局)のプレスリリースによると、DARPAと米空軍の共同プロジェクトである、この極超音速ミサイルは、「外気吸入型極超音速兵器コンセプト(飛翔中に空気中の酸素を取り込んで推力を得るスクラムジェットエンジンを使用)」(HAWC)であり、速度は、マッハ5以上は出るものの、高度は6万フィート以上、飛行距離はたったの556キロなのである。
 米陸軍が、開発中の極超音速ミサイルを、わざわざ、長距離極超音速兵器(LRHW)と命名しているのは、距離の問題が滑空型でないと解決できないからである。
 ロシアの極超音速ミサイル「アバンガルド」は、最大速度マッハ27、飛行距離は最大で1万キロと言われ、実際に、6000キロ先の標的に命中させたことが実証済である。
 イランの極超音速ミサイル「ファタ2」の飛行距離は、現在、欧米からの圧力で2000キロに制限されている。中国の極超音速ミサイルも、ロシアやイランと同様に、極超音速滑空体(ICBMなどのロケットから発射されて滑空して目標に到達する)なので、速度と飛行距離は、米国のHAWCを格段に上回る。
 結局のところ、米国は、2001年に米国、ロシア、欧州が共同でミサイル防衛システムを構築するというプーチン大統領の提案を拒絶し、2002年にブッシュ政権がABM条約から離脱し、単独で新しいミサイル防衛システムを構築に向かったために、ロシア、中国などの極超音速ミサイル開発が急激に進展し、その結果、米軍はミサイル防衛で10年、ミサイル攻撃で数年の遅れを取ることになったのである。
 米国は自分で自分の首をしめ、同時に科学技術力、工業力、軍事力は米国が世界一であると自他ともに認めてきた自信が、過信に過ぎないことを露呈してしまったのである。
参照:
The Missile Defense System(ミサイル防衛局、2024年4月18日閲覧)
DOD sets 2034 fielding target for Hypersonic Defense system; 17-year development path(インサイド・ディフェンス、2024年4月4日)
The U.S. Army’s Long-Range Hypersonic Weapon (LRHW):Dark Eagle(議会調査局、2024年3月13日)
アメリカ、極超音速ミサイルの最終飛行実験に成功(ヤフーニュース、2023年2月1日)
Final Flight of HAWC Program Screams Through the Sky(DARPA、2023年1月30日)

(第6回に続く)

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