IWJ代表の岩上安身です。
パランティアをめぐる問題の【IWJ号外】第2回です。
日本の思想界では、ピーター・ティール氏を賞賛・評価する「知識人」達が、前回取り上げた瀧本哲史氏や糸井重里氏、橘玲氏こと上田高史氏以外にも数々存在します。
たとえば、社会学者の宮台真司氏は、社会の中枢で仕事をしている、「公共性を欠いた自己中心主義者」達に、「幸せになってもら」い、「その仕事から降りてもらう」ために、ピーター・ティール氏の思想が「利用」できるなどと、次のように述べています。
「(前略)愛国のふりをしている人間、フェミニストのふりをしている人間の多くが、しょぼいしょぼい自己中心主義者で、公共性を欠いているんだよね、という問題。(中略)
だから、こういうしょぼい奴が、社会の枢要の場所で、いろいろなお仕事をしたりするのは、やめてもらって、ピーター・ティールの発想になりますが、ピーター・ティールはね、実はクリスチャンなんですね。
中間管理職苦しいでしょ? 命令服従体系の中にいて。だったらもういいよ、AIがやるんで。あなたは、ベーシックインカム・プラスVRとドラッグと電極刺激で幸せになった方がいいよ。不幸せな人間は、もはやどんどん財政がショートしていく、政治を頼るとかって、どんだけ無益かわかる。だって、金ないんだからさ。
だったら、幸せになりたい限りにおいて、政府じゃなくてテックを頼りな。これが、ピーター・ティールの発想なんですね」。
「今度出す本では、ピーター・ティールのこと、めっちゃめちゃほめてます」という宮台氏は、さらに、以下のように毒舌を吐いています。
「この方々がブルシットジョブ(人類学者デイヴィッド・クレーバーの概念で、その仕事をしている本人ですら、社会的に意味があると思えない仕事)によって、精神を病んでね、『ウヨブタ』(右派への蔑称)とか『クソフェミ』(フェミニストに対する蔑称)になって、政治を歪めるということであれば、この連中はテックで囲い込んで、幸せ供給テックの中で幸せになってもらい、本当に公共性のある人間だけが、政治について考えて投票すればいいと思うんですね。というのが、ピーター・ティールの発想です」。
- 【宮台真司】トランプを操る“影の支配者”ピーター・ティールと「AI統治」の絶望的未来(海沼みつしろ GREAT INVESTOR、2025年11月21日)
宮台氏によれば、ピーター・ティール氏の発想は、「本当に公共性のある人間」だけが、「政治について考えて投票していい」という思想なのだそうです。
そのカテゴリーに入らない人間には、参政権は必要ない、普通選挙はいらないと主張しているようにしか聞こえません。
そうであれば、宮台真司自身はどうなのか。
自らは「クソ学者」とか「学者ブタ」の一人なのか。
それとも、ピーター・ティール氏と肩を並べうる、参政権を持つことの許される「本当に公共性のある人間」に自分をカテゴライズしているのか。
明言してもらいたいものです。
宮台氏の考え方は、ピーター・ティール氏の思想を評価した上で、「ウヨブタ」や「クソフェミ」を、社会から排除して、「本当に公共性のある人間だけ」が政治に関与するという、明らかな選別と排除を前提としたエリート主義です。
これは明白な民主主義の否定です。民主主義は、愚者、貧者、被差別者、社会的弱者、マイノリティーらを差別、排除することなく、参政権を認め、普通選挙による政治に参加することを大前提とするからです。
別言すれば、社会に相対的な愚者や変わり者がいるのは当然のことであり、そうであってこそ「社会」なのです。
宮台氏やティールの思想は、メリトクラシー(能力主義・実績主義)を、参政権という基本的人権についても適用すべきだという思想です。
言うまでもなく、普遍的な基本的人権は、人が生まれながらに有する権利であり、その権利の保有に資格は問われません。そして、基本的人権は、プラトン以来、常にこうしたエリート主義に脅かされ、普通選挙にもとづく民主主義も実現をはばまれてきたのです。
しかもこのようなメリトクラシー(能力主義・実績主義)を、参政権という基本的人権についても適用すべきだという思想です。
当然のことながら、どのような基準で、その選別と排除を行うのか、その選別と排除を行う権限をもつのは誰なのか、そもそも、そんな選別と排除が許されるのか、といった問題が、浮上してきます。
また、「ウヨブタ」や「クソフェミ」、その他のレッテルを張られ、自分自身が排除されそうになった時、どのように抵抗しうるのか、というテーマも生じます。
抵抗できなければ、難癖をつけられた人々は、参政権だけでなく、公民権も、抵抗権もそれらをひっくるめた普遍的な基本的人権も剥奪されてしまうことになりかねません。
これは、明らかに、差別を肯定する思想です。
宮台氏は、YouTube番組の中で、自らがカトリックの信仰をもつことを明らかにしています。ティールもクリスチャンを自称していますが、宮台氏の発言のどこに、イエスの説いた隣人愛が活かされているのか、大いに疑問ですが、その点は後述します。
また、宮台氏は、浄土真宗の開祖、親鸞の思想のロジックと、イエスの思想のロジックは、ほぼ同じだと、乱暴に括っています。
イエス(あるいはキリスト教思想)と親鸞に近い点があるとすれば、人間が自力だけでは救われない、信仰が必要だと説いた点であって、信仰する対象は、片やユダヤ教の神(イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒であって、キリスト教の開祖という自認はなかった)、片や阿弥陀如来であり、これは無限の慈悲、法(ダルマ=自然法則)そのものを象徴するものであり、万物の創造主にして、世界から超越した一神教(ユダヤ教)の人格神とは異なります。
世界を神が創造したと考えるユダヤ=キリスト教と、世界は「縁起」によって成り立つと考える仏教とでは基本的な思想が全く違い、とてもではないが、ひとくくりにできるものではありません。
宮台氏に限らず、先行する日本の知識人も、西田幾多郎を含む京都学派の知識人など、親鸞を他の仏教開祖とは別格視し、キリスト教との間の共通性を探して、そこに「普遍性」を見出そうとしてきました。
彼らは、親鸞が、社会の底辺の人々へも救いの手を差し伸べたことも、キリスト教と近いと評価しています。
しかし、親鸞が説いたとされる「悪人正機説」は、実は、弟子の唯円が書いたとされる『歎異抄』の中に出てくる「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉に由来します。
これは、誤解を生みやすい言葉で、「悪人もまた救済対象となりうる」という意味なのに、「倫理など不要」とか、「悪をなした者ほど救われる」という「造悪論」に傾きがちです。
親鸞自身は、こうした「造悪論」を、「本願ぼこり」「薬あらばとて、毒をこのむべからず」と戒めてもいます。
自分は自助力のある知的エリートだとか、あるいは、自分は善行を積んだ善人だとか、自らを誇っている人々が、だからこそ、自分こそは救われるといった傲慢さを抱いている場合、その傲慢さを戒め、自力救済には限界があると説いたのが、本来の趣旨です。
「エリート主義」「勝ち組」などということで、救済が約束されるわけではない、ということです。
そもそも、エリート知識人こそは、この点、救いがたい傲慢な人が多い、ということも、指摘しておく必要があります。
全共闘世代にとっては、カリスマ的な「知識人」だった吉本隆明は、かつて、公開の講演会の場(1995年11月19日の東洋大学白山祭シンポジウム「現代日本の信」での吉本隆明の講演「親鸞の造悪論」)で、地下鉄サリン事件を起こしたオウムの麻原彰晃に対し、この「造悪論」を持ち出して擁護し、オウムを批判しているメディアを、激しく非難したことがありましたが、これは「悪正機説」をまったく理解していないか、悪用した典型例です(岩上安身は、この吉本の講演を現場で生で見聞している)。
「これはもう、オウムサリン事件で、ぼくなりにいろんなことを考えましたけど、いまも考えておりますけど、ぼくが獲得したあれは、つまり、親鸞っていうのは、『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』って言ってるのは、一種の逆説のほうが通りやすいっていいましょうか、持続しやすいってことがあって、こういう逆説のところまで、とうとう突き進んでいったなっていうふうに、そういうふうに考えてきていましたけど。
ぼくは、オウムサリン事件を研究して、やっぱり、再び善悪の問題について、考えさせられてきましたけど、その結論からいうと、親鸞っていうのは、逆説じゃなくて、もしかすると、いまのオウムさんみたいな、そういう問題に、ほんとうに如実に当面して、こいつを肯定して、ほんとにいいのだろうか、よくないのだろうかってことを、本気になって、ぼくは考えさせられた挙げ句に、自分は、こういう造悪っていいますか、悪をすすんで造るとか、極悪深重の輩っていうのを、自分の善悪観のなかには包括できるっていいますか、そういう確信が持てているようにして、考え抜いて、やっぱり、『善人なおもて往生を遂ぐ…』ってことを、人に言ったんだ、弟子に言ったんだっていうふうに、ぼくは、そういうふうに考えるようになりました」
回りくどい言い方ですが、親鸞はオウムの麻原彰晃のような人間も、救われると考えていたかのような主張です。
しかし、麻原彰晃は、己の罪を認めて、改心して、親鸞の説く、阿弥陀如来に帰依し、念仏を唱え、絶対他力にすがったわけではありません。
すがったところで、「西方浄土に往生する」かどうかは知りませんし、関知するところではありませんが、少なくとも麻原彰晃は、帰依していないし、念仏も唱えていない。
そうした麻原のような人間を、浄土真宗の救済対象に含まれるか否か、などと問いを立てること自体、お門違いです。
そんなことよりも先に、オウムの起こした犯罪の被害者の御霊が救われるかどうかを、考えるべきでしょう。
しかし、吉本はサリン事件の犠牲者やその遺族に対しては、冷淡であり、関心や共感共苦を示していません。
宮台氏に話を戻すと、このYouTube番組の中で、ルカ福音書の「善きサマリア人のたとえ」を引用して、困っている人や危機にある人を、「思わず人を助ける」、「(死後、天国へ行きたいからではなく)助けたいから助ける」という隣人愛の本質を説いています。
しかし、こうした隣人愛を尊いと本気で思っているならば、「ウヨブタ」や「クソフェミ」にも憐れみを持つべきであり、彼らを「公共性がない」と蔑み、「政治に関与させないようにするべきだ」という発想は、出てこないはずです。
エリート主義という点に関しては、前回で引用した橘玲氏も、エリートと非エリートがメリトクラシー(能力主義)によって分断された米国と欧州の現実に言及しています。



































