ロシアによるウクライナ侵攻の起因は、欧米が導いたウクライナのクーデター、「ユーロ・マイダン革命」にあるとする、ロシアのプーチン大統領の主張を、事実かどうか、IWJは検証を行った。
「ユーロ・マイダン革命」では、ステパン・バンデラ(※1)など、かつての「ナチス支持」のウクライナ極右民族主義者が信奉されていたと、ロシアは主張している。事実、ウクライナに存在するネオナチ勢力には歴史的背景がある。実は、ユダヤ人を『聖地』に返すシオニズム運動は、ナチスのユダヤ人追放を歓迎し、両者は「共犯関係にあった」と、東京大学名誉教授・板垣雄三氏は岩上安身のインタビューで語っている。
また、「ユーロ・マイダン革命」が、選挙で正規に選出されたヤヌコヴィッチ大統領を追放したことを、米国のシンクタンク、CATO研究所は「米国のウクライナ偽善──オバマ政権のウクライナ政治への関与は息を飲むほどだった」と題する記事で指摘している。
しかも同記事は、当時のヌーランド米国務次官補(現国務次官)等が、ヤヌコヴィッチ大統領追放後の政府人事を、大統領在任中から計画していたと暴露している。したがって、米国とNATOが「ユーロ・マイダン革命」を支援し、「ウクライナ情勢を不安定化した責任がある」というロシアの主張を無視することはできない。
詳しくは記事本文を御覧いただきたい!
(※1)ステパン・バンデラ:
ウクライナの政治家でウクライナ民族解放運動の指導者。ポーランド政府が西ウクライナで行った同化政策とウクライナ人の弾圧に対抗してテロリズムによる抵抗を訴えた。
1935年にポーランドの警察により逮捕され、終身刑となった。1936年から1939年にかけてワルシャワの刑務所「聖十字架」に収容されていたが、第二次世界大戦がきっかけでポーランド第二共和国が滅亡すると、ナチス・ドイツ軍によって解放された。
ウクライナ民族主義者組織(OUN)の幹部に戻り、1941年4月に第2ウクライナ民族主義者組織大会においてOUNの総裁に選ばれ、独ソ戦争の直前にナチス・ドイツを支持したため、ソ連から「ファシスト」とされた。
その後、バンデラは、「ウクライナ国家再生宣言」を執筆し、ウクライナの独立を図るが、ナチス・ドイツはこれを認めず、1941年7月5日に軟禁された後、ザクセンハウゼン強制収容所に送られた。ナチス・ドイツの敗戦によって、バンデラは連合国軍に開放されたが、ソ連に再占領されたためドイツ南部へ移住した。
バンデラは1952年、UNの幹部を離れ、西ウクライナでソ連軍に抵抗を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携をとり、1956年から1959年にかけては、海外のOUNの活動を管理した。
バンデラは1959年10月15日、西ドイツだったミュンヘンでKGBのスパイ、ボグダン・スタシンスキーによって暗殺された。
参照:
・ステパーン・バンデーラ(Wikipedia)