【IWJブログ】ウクライナ政変と反ユダヤ主義〜岩上安身による赤尾光春・大阪大助教へのインタビュー第1夜 2014.4.8

記事公開日:2014.4.8 テキスト
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※インタビューの実況ツイートに訂正・加筆をしたものを掲載します。

 ウクライナの歴史にはナショナリズムと反ユダヤ主義の結びつきが刻印されている。岩上安身は3月23日(日)にユダヤ学が専門で大阪大学助教の赤尾光春氏にインタビュー。今回の政変まで連綿と続く、ウクライナ、ロシア、そしてユダヤ人それぞれのアイデンティティを巡る2000年におよぶ歴史について7時間にわたり語っていただいた。

離散の民

岩上安身(以下、岩上)「今回の政変は現代の出来事ですが、ウクライナにはウクライナ系とロシア系住民が混在し、反ユダヤ主義を掲げる極右勢力の存在など、ユダヤ人と周辺民族を含めたヨーロッパ全体の歴史を知らないと理解できない点が多々あります。歴史を溯ってお話をうかがいたい」

赤尾光春氏(以下、赤尾、敬称略)「そもそもユダヤ人が自分たちをユダヤ人と意識をした時点で既にディアスポラ(離散)していたと言える。父祖アブラハム自身が生誕の地を離れ、神に促され『約束の地』パレスチナに移住しますが、そこではよそ者だった。『離散した民』というアイデンティティが作られた。

 イスラエル王国は南北に分裂。北は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は586年にバビロニアに攻められ神殿が崩壊する。住民がバビロニアに囚われの身となったことをバビロン捕囚と呼びます。これがいわゆるディアスポラ、民族離散の起源。

 その後ペルシアがバビロニアを攻め、ペルシアがユダヤ人のパレスチナ帰還を許可、もう一回ユダヤの王国が再建された。その後ローマ帝国が拡大し、ユダヤ王国は属国に。そのときユダヤ人の、今の言葉で言うとナショナリストたち、がローマ帝国支配に反旗を翻す」

岩上「ローマ帝国に抵抗したユダヤ戦争中に『マサダの戦い』というエピソードがありますね」

赤尾「西暦70年にエルサレムがローマ軍の攻撃によって陥落。熱心党と呼ばれる何が何でも戦って独立を守るという、今のウクライナでいうと極右的な人たちがマサダという死海に浮かぶ要塞に立て籠もり、3年近く徹底抗戦。しかし兵糧攻めで全員自害。女子供老人も手にかけ、降伏するよりは自ら死をという、シオニズムにも似た、絶対に負けないという思いです。今のイスラエル国防軍の宣誓式がマサダで行われます」

岩上「マサダの砦のようにもう二度と滅ぼされまいと。一歩も引かずと。イスラエル建国にあたって、もうこの地を離れないぞと。二度と誰かに手渡したりしないぞというような強固な意志をここで確認するんだそうですね」

「狭間」としてのウクライナ

岩上「ウクライナ、ロシアの人たちが西と東スラブに分たれるのは、どういうところが一番の差異なのでしょうか? 言葉でしょうか? 文化でしょうか?」

赤尾「元々、西スラブと東スラブは共通スラブ語としての共通性はありながらも、だいぶ違う。分かれて暮らして長かったのか。文化的に違っていた。最大の違いは、やはり宗教ではないかと私は思います。

 つまり、ポーランドはカトリックが国教ですが、キエフ・ルーシは東方正教。イデオロギー性、政治的な面と宗教的、文化的な面で分化が進んでいく。そして戦争ばかり起こりますから、互いに不信感を増幅させていく。ウクライナがまさにその狭間です」

岩上「狭間なんですね」

赤尾「ウクライナでは、正教世界、ロシア世界とポーランドカトリック世界の狭間で揉まれるというのが、もう千年近く続いている。

 キエフ・ルーシがタタールにやられ、その残党が北に行ってモスクワ大公国を作るのが13、14世紀。当初はかなり小さい国でしたが、後に力をつけイワン雷帝やビョートル大帝を輩出。ロシア帝国が成立し、現在のロシアに連なる国家の基盤が出来る。

 キエフ・ルーシの末裔たちが極東までロシアを作っちゃう、すごい歴史です。やはりロシア人の意識には、そういう帝国的な意識が強のでは」

岩上「いや間違いなくありますよね」

赤尾「それに対して、ポーランド人の意識は、中世から近世にかけて大王国を作って、当時の第一級国。しかし、これがどんどん領土を取られて、最後はなくなる。過去の栄光が20世紀に完全に隣国に分捕られる、そのルサンチマン」

ウクライナ・ナショナリズムの基層

赤尾「ウクライナ人は度々国家建設のチャンスもありましたが、ほぼ1991年の独立まで、まともな国家を形成できなかった。そのコンプレックスもあるでしょうし、国家建設の経験が浅い」

岩上「統治ができない。国家に所属している国民としての意識も足りない」

赤尾「例えば20世紀初頭に入って独立の機運がウクライナエリート、知識人のなかで芽生えますが、ほとんどが農民。ポーランド貴族の旦那のもとにいた。自分がウクライナ民族として国家を支配する側に立つという意識がなかなか定着しにくかった。

 ポーランド人は所有する私有地を生かしたいと考える。しかし、そのための人材がいない。そこで目をつけたのがユダヤ人。私有地から利益を上げるエージェントとして、ユダヤ人が歓迎される。

 ビジネスマンのユダヤ人を王様が特別に庇護して、経済活動の自由と宗教的実を与える。それで国の経済力をアップさせる。あるいは文化力も。今のインド人のITビジネスマンに似ていますね。日本政府もそういうのが好きなようですが。

 元々は非常に優遇し、国が必要としてユダヤ人を招いた。それがだんだんキリスト教徒の町人や、対抗できるような小ブルジョワなどが現れ、商売敵のユダヤ人に対して反感を持つ。それが宗教的な偏見と合わさって極端な話になっていく」

フメリニツキーの反乱:ウクライナとユダヤ人の記憶

赤尾「1648年というのはユダヤ人の記憶に刻まれています。この年はユダヤ暦では5千何年かですけども。17世紀に入るとコサックと農民は賦役労働させられる。非正規ないし正規のコサックもポーランド支配に対し反発し度々反乱暴動が起きます。

 その反乱のピークが1648年フメリニツキーの乱。反乱ですね。そのフメリニツキーの反乱で、ポーランド全域でユダヤ人に対する暴力行為があった。

 フメリニツキーは最初のウクライナの国家形成の大きな英雄。ただ、その数年後1654年にロシアと協定を結んだペレヤスラフ協定の時に、ある種の属国と宗主国の関係が作られた。だから極右とかナショナリストにとってはやっぱり裏切りものだ、ロシアに通じるスパイだ、となる」

岩上「フメリニツキーというのはウクライナ民族主義の足がかり。残念なことに、ユダヤ人を殺したことがセットで肯定されてしまう嫌いがある」

赤尾「集合的記憶といいますか。記憶の継承という点で、ユダヤ人側でもヘブライ語の年代記に書かれた非常に残虐非道な行為に関する記述が後々まで遺される。ただ、ヘブライ語の年代記に書かれていることは、誇張されて伝わることが多い。

 引用すると『……ユダヤ人の一部は皮を剥がれて、肉体は犬のところに放り投げられた……手足を切断され路上に放り投げられた上、荷車に引かれ、馬の足で踏み潰された……多くのものが生き埋めにされ、子どもたちは母親の胸の中で惨殺され……』といった具合。

 犠牲者の数はユダヤ人の歴史記述を鵜呑みにしていましたが、きちんとした典拠に当たると、一番低く見積もっても1万4千人」

岩上「人口の母数が今とは違いますね」

赤尾「ですから、当時のユダヤ人にとっては民族滅亡の危機として記憶されている。

 アンスキーという柳田国男に似た作家・民俗学者がフメリニツキーの乱について書いています。

 『人生の喜びの絶頂期にありながら開花できずに切り倒され、根こぎにされた民俗の危機。その危機が集合的記憶として形象化された』

 そういうイメージです」

ユダヤの聖地に乗り込む極右

赤尾「1768年、ウクライナのウマニという場所で2千人が虐殺されます。私の博士論文は、このウマニの話。ユダヤ人のあいだでウマンと呼ばれる場所は聖地のこと。ハシディズムという」

岩上「ハシディズムの説明をお願いします」

赤尾「ハシディズムは18世紀前半に鬱蒼と森の繁るウクライナ中部地方で生まれたユダヤ教分派運動または改革運動の一つです。当時西ヨーロッパではスピノザに代表されるユダヤ教改革の動きがありましたが、東側では鬱蒼とした神話的な世界でユダヤ教が生まれた。

 16世紀から18世紀ぐらいまで、ユダヤ教の中心地は圧倒的にヴィリニュス。当時はヴィルナと呼ばれたリトアニアの首都で、ラビ・ユダヤ教というタルムードをひたすら勉強する知性偏重型のユダヤ教。みんなヴィルナに留学して学んだ。

 ウクライナに暮らしていたユダヤ人というのは非常に貧しく没落して貧しくなって無学のユダヤ人も多くいた。そこに彗星のごとく現れたのが、イスラエル・バアル・シェム・トーヴ。

 リトアニアのエリートのように学問ができても神に近づくとは限らない、もっと誠心誠意神に接すればいい、とイスラエル・バアル・シェム・トーヴは説いた。歌、踊り、衣食住、それに我々からすると娯楽的なものを含め、全てが神に通じる道であるとした。

 だからイスラムで言うとスーフィズム的で、日本で言うと……」

岩上「念仏踊りのような」

赤尾「一遍上人みたいな感じでしょうね。場合によってはイディッシュ語でもいいと。学問のための言語であるヘブライ語じゃなくてもいいんだと。

 ハシディズムは大衆運動として物凄くポピュラーになっていく。20世紀初頭には東欧全域のユダヤ世界を席巻するがごとき勢いとなる新興宗教ですけれども」

岩上「法然や親鸞が出た鎌倉仏教に似ていますね」

赤尾「ウマニはイスラエル国外で最大の聖地で、そこへの巡礼は200年続いている。まさにユダヤ教のディアスポラ最大の聖地であるこの場所が、同時に、ウクライナの歴史では、反ポーランド蜂起をした民族のプライドのシンボル。そして極右の聖地です。

 キエフに1年ぐらい住み、ウマンをフィールドワークしました。このウマンにはユダヤ教の巡礼者が集まって、街中が真っ黒けになるんです」

岩上「真っ黒けっていうのは?」

赤尾「黒無垢の服装ですね。ユダヤ歴新年の巡礼祭には、イスラエルを中心に、世界各地から2、3万人ものユダヤ教徒が集まり、町の一角が黒装束で埋め尽くされる。

 2000年代前半ぐらいに聞いた話では、このユダヤ人が巡礼に訪れる時期に、極右の連中がやって来て、反ユダヤデモじゃないですが、コリフシーナ何百年記念みたいなものをデモンストレーションしようとしたそうです。さすがにウマニ当局は問題視し、ユダヤ人が巡礼に訪れる時期では公共秩序の問題になるから、許可しませんでした。それでも一部の極右は乗り込んできたと言われています。

 結局、当局は一月後ぐらいに許可し、ユダヤ人がいないときにやった。数十人から100人程度の極右たちが、黒と赤のネオナチみたいな旗を持って無言で行列したらしい。今もどこかの国の新大久保で出てくる」

岩上「在特会ですね」

赤尾「現代のウクライナ人とユダヤ人の関係性を見ると、西側に住む政治的なパイプを持っていたり、議員であったりするユダヤ系の人たちがウクライナ極右の露出を嫌うわけですよね。したがってユダヤ教の聖地ウマンのことは厳重に監視してきた」

岩上「非常に重要なポイントですよね。ウクライナ西部でネオナチ的なものや排外主義的なものと、ユダヤ人がそこを公地としていたかというのが重なりあうことが説明できる」

赤尾「欧米の監視に対する当局のウクライナの行政機関や政府は非常に敏感。反対に極右はそれに敏感でない」

岩上「わざわざそこを挑発しようとしているわけですね」

赤尾「そうです。日本の排外主義がすぐに欧米で問題になるのと構造が似ています」

第2夜へ続く

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