原発事故から3年、被災者が直面する困難とは? 「3.11クロストーク 満田夏花氏×阪上武氏×岩上安身」 2014.3.11

記事公開日:2014.3.11取材地: テキスト動画独自
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(IWJ・藤澤要)

特集 百人百話|特集 3.11

 東日本大震災から3年を経た3月11日、東京IWJ事務所に、FoE Japanの満田夏花氏、福島老朽原発を考える会(フクロウの会)代表の阪上武氏を招き、震災直後から続く折々の出来事を振り返った。

 被災者たちにとって、震災、そして原発事故はまだ続いている。満田氏は、「もう三年も立ってしまったのかと思うのと同時に、問題は解決されていない」と話す。また阪上氏は、「当時の重い空気を思い出す。忘れ去られていく面があるが、これからも向き合っていかなればならない」と言葉を強める。

■イントロ

  • 日時 2014年3月11日(火)
  • 場所 IWJ事務所(東京都港区)

行き場のない仮設住宅居住者

 発電所から半径30キロメートル圏はすでに避難指定が解除され、公式には帰還可能な地域だとされている。

 ただし、避難者の全員がすぐに帰還できるわけではない。満田氏は「30キロメートル圏の方は避難解除だが、75%の人は帰還できず仮設住宅に住み続けている」と話す。

 大きな原因の一つに、避難指定の解除は、賠償の打ち切りを意味していることがある。3年を経てなお仮設住宅に居住することを余儀なくされた上、収入の途を断たれ困窮する人があらわれはじめている。満田氏は「郡山の仮設住宅でも賠償が打ち切られ、生活困窮する人々も出はじめている。NPOが食べ物や毛布などの支援をしている」と述べた。

 さらに、いったん人々の姿が消え、空白となった地域への帰還にはさまざまな困難がつきまとう。長いあいだ手入れがなされなかった家をどうするのか。また、病院がなければお年寄りの生活は成り立たない。地域の生活基盤である「コミュニティ」が機能しないために、帰還したくてもできない現実があるのだ。

政府の「基準」、当事者の「不安」と「孤独」

 「3.11」から3年間、政治や行政は、被災当事者が感じていた「不安」や「孤独」にどれだけ寄り添うものであったのか。3人がこの3年を振り返る。まずは放射線の基準値の設定について。

 2011年4月に文科省が福島県に対して、学校の使用基準として20ミリシーベルトを通知。学校側は政府の基準に従うばかりで、生徒の父母たちの「不安」に取り合うことがなかった。何らの対策を講じるように申し出る父母に対し「不安を煽るようなこと」を言うなと反発することさえあったという。

 父母たちが「不安」を共有できない「孤独」に置かれている中、阪上氏らは学校の放射線量を独自に計測し、学校再開延期、疎開、除染の実施を進言する文書を公開した。当時の様子を阪上氏は次のように振り返る。

 「進言書の内容をフクロウの会のブログへアップロードしたら、コメントが800件を越えた。そのうち300件が福島市、郡山市の父母たち。お互いに同じ思いを持っている人がたくさんいることに気づく。これは大変だということになり、集会の開催や『子供たちを放射能から守る福島ネットワーク』が結成された。その流れで文科省に対する直接交渉につながった」。

「自主的避難者」に「避難の権利」を

 避難指示区域でない地域からの避難を希望する人たちは「自主的避難者」とみなされる。満田氏は「避難するということが社会的理解をえられていない。避難しづらい。避難することが反社会的であると感じてしまう人がいる」と述べ、住みなれた地域を離れるときに負担となる心理的な負い目を指摘する。

 これに加え、「自主的避難者」に対しては少額の賠償しか保証されない。国の設定する避難指示に基づく賠償保証の枠組みからこぼれ落ちてしまう「自主的避難者」の立場を、阪上氏は次のように代弁する。

 「国は避難区域を決め、それ以外を勝手に逃げたんだとする。国が定めた避難区域の外側の人でも子どもが心配で避難することに対して、公的に認めてほしいという思いをずっと言っていた」

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