日本国内での新型コロナウイルス感染拡大が、大きな局面を迎えている。
東京都の小池百合子知事は3月25日、都内の新規感染者が41名と急激に増えたことを受けて記者会見を行い、次のように述べた。
「今週に入りましてから、陽性の患者さんが増えております。一昨日が16名でした。そして昨日が17名で、今日が41名ということで、この3日間で合わせまして74名でございます。また、本日感染が確認された患者さんの中には、現時点で感染の経路が不明な方、10名以上が含まれているところでございます」
小池知事は感染者の爆発的な増加(オーバーシュート)を防ぐための重要な局面だとして、イベントの自粛、在宅勤務の推奨、夜間や週末外出の自粛を要請した。
しかし、国内の感染者数については、感染の有無を調べるPCR検査の実施数が他国に比べて極端に少ないことから、実際の感染者はもっと多いはずだとの指摘や批判が上がっている。PCR検査数は、20日の集計で、韓国31万件以上、イタリア20万件以上であるのに対して、日本は28日時点で2万8464人にすぎない。
- 「日本のコロナの謎」 検査不足か健闘か、欧米注視(時事ドットコム、2020年3月25日)
- 厚生労働省 新型コロナウイルス感染症の現在の状況について(令和2年3月28日版)
日本の検査数が他国に比べて極端に少ないことについて、厚生労働省は設備や人員の制約を理由に挙げているが、2月18日に岩上安身がインタビューを行った特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長の上昌広氏は、国立感染症研究所(感染研)にデータを集約させ、国内のメーカーにワクチンを開発させる「自前主義」のために、民間の検査業者に対して感染研以外からの検査の受託を禁止させていると語っている。
さらに上氏は、岩上安身によるインタビューの中で「感染研、これ、元は陸軍の731部隊なんですよ(中略)。軍隊だったから、自前主義が当然だったわけで」とも語っている。
IWJは前回、感染研の前身である伝染病研究所(伝研)の成り立ちから、陸軍との関係を深め、満州で人体実験による生物兵器開発を行った731部隊と関わっていく過程を詳細に記事にした。
1892(明治25)年、病原微生物研究の世界的権威ローベルト・コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養成功、免疫抗体の発見、血清療法の確立という輝かしい業績をあげた北里柴三郎が、ドイツ留学から帰国した。大日本私立衛生会は北里のために、附属研究所として伝染病研究所(伝研)を設立した。
伝研は北里の指揮のもと、各種伝染病の原因や予防治療法の研究にとどまらず、国家衛生法の審事機関にもなった。
ジフテリア、コレラ、腸チフス、狂犬病、赤痢など、1890年代に猛威を振るった数々の伝染病対策に直結する研究・活動を行った伝研は、明治32年、内務省所管の国立伝染病研究所となり、国内最大の治療血清・予防ワクチン製造所となり、内務省と連携しながら国内伝染病に対処してゆくことになった。
しかし1914(大正3)年、伝研が内務省から文部省へ移管されると北里は、伝研は内務省の伝染病予防事務に関わる審事機関であって教育機関ではない、内務省の傘下にあってこそ伝染病の予防撲滅に寄与できると反発し、門弟たちを引き連れて伝研を去ってしまう。
北里ら研究者が離脱した伝研は、陸軍医務局長・森林太郎(鴎外)に助けを求めたことから、伝研と陸軍は密接につながりを持つようになる。
一方、昭和7年、陸軍省医務局の管轄下にあった陸軍軍医学校防疫部の下に、軍医石井四郎の主導により、細菌兵器の研究開発を行う「防疫研究室」が設置された。
石井は「東郷一」の偽名を使い、ワクチンの開発と製造、ひいては細菌兵器開発のための秘密組織「東郷部隊」を立ち上げる。「東郷部隊」は、満州に牢獄を備えた研究施設を建設し、中国人やロシア人、モンゴル人たちを「マルタ」と隠語で呼んで、各種細菌兵器や毒ガスなどを使った残忍な生体実験や生体解剖を実施した。
「東郷部隊」は1936(昭和11)年、関東軍司令部第一(作戦)部および同軍医部所属の「関東軍防疫部」として、正式部隊となる。
さらに1940(昭和15)年、「関東軍防疫部」は、「関東軍防疫給水部(満洲第659部隊)」に改称する。石井らは、ハルビン南東約15kmの平房地区に、堅固な牢獄と生物兵器生産施設を備えた新たな大規模研究施設を建設していた。その平房研究所が「関東軍防疫給水部」の本部となった。
この「関東軍防疫給水部本部」が、かの悪名高い「満州第731部隊」であり、石井四郎(当時陸軍軍医大佐。41年陸軍軍医少将、45年に陸軍軍医中将に昇進)が、その初代部隊長に就任したのだった。
戦中、満州で数々の残忍な人体実験を実行し、細菌兵器開発を行った731部隊には、軍医ではない「医学者」が多数、「陸軍軍医学校嘱託」「防疫研究室嘱託」「陸軍指導」等の肩書で、共同研究や委託研究の報告者に名を連ねていた。
中でも小林六造・慶大教授や東大・伝研の小島三郎教授、細谷省吾教授らは、石井との個人的な交友関係から関係を深め、やがて政府の「研究動員」体制や研究費助成等で次第に軍部・防疫研究室等との協力関係を強めていった。
今回は731部隊、そしてその731部隊と組織的な協力関係を深めていった東大・伝研やその他の大学研究室が、戦後どのような道をたどったのか、その詳細を追った(後編:戦後)である。
戦後、日本を統治したGHQは、伝研を東大付属の「伝染病研究所」と厚生省管轄の「予防衛生研究所」に分割する。これにより、東大伝染病研究所は基礎研究機関となり、厚生省の管轄下に入る予防衛生研究所(予研)は感染症の基礎研究や、生物製剤(ワクチン、血液製剤、抗生物質等)の研究と国家検定から試験的製造、および配給等を担うようになる。
予研の初代所長には、陸軍軍医学校「防疫研究室」およびその出先機関に研究員として多くの弟子を送り込んだ小林六造・慶大教授が就任。副所長(その後2代目所長)には東大・伝研の小島三郎教授が就任し、戦時中の「石井機関」幹部の再就職先となった。
しかも、こうした「石井機関」の出身者たちは、GHQ公衆衛生福祉局(PHW)の意向も受け、米軍と一体となって戦後も残忍な人体実験を続けて行く。
犠牲になったのは、刑務所の囚人、広島や長崎の被爆者、病院付属の乳児院に収容されていた身寄りのない乳児たちだった。
他方、731部隊での経験を生かし、戦後国内で製薬会社を設立したり、天下りした関係者も多かった。そうした国内のワクチンメーカーは、現在も感染研との密接な関係が続いている。
こうした、人命・人権無視、目前の患者を救う臨床医としての使命を軽んじ、データの収集に重きを置き、行政と癒着して利権と縄張りの確保に余念がない、他者からの批判に耳を傾けない独善的な体質と情報を公開しない閉鎖性を現在の感染研も受け継いでいるのではないか。
こうした組織が専門家会議を牛耳っている限り、過少検査は根本から改まらず、実態は把握できないまま、感染拡大は進み、ある日、オーバーシュートした際には、日本は打つ手なしとなっていきなりロックダウンのような強硬手段に訴えざるをえなくなってしまうのではないか。そうした懸念がぬぐえない。
コロナ対策が遅れてる要因の一つがこれだ。静かに人体実験は行われている。
新型コロナ対策の政府専門家会議を牛耳り、検査過少路線へとミスリードする「国立感染症研究所」の闇を切る!731幹部の生き残りは米軍とともに戦後も人体実験を行っていた! https://iwj.co.jp/wj/open/archives/471195
@iwakamiyasumi
https://twitter.com/55kurosuke/status/1244384832433442816