【IWJ検証レポート!】新型コロナウイルス対策の政府専門家会議を牛耳り、検査過少路線をミスリードする「国立感染症研究所」の闇を切る! 起源はあの731部隊と一体化した伝染病研究所だった!(前編:戦前・戦中) 2020.3.26

記事公開日:2020.3.27 テキスト
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(文:辻部亮子 文責:岩上安身)

 新型コロナウイルス感染拡大の勢いが止まらない。

 発熱、空咳といった風邪のような症状から始まり、重症化すれば肺炎に移行、場合によっては脾臓等のリンパ系器官、心臓、肝臓、腎臓、脳組織なども冒され、感染者を急激に死に至らしめる。

 AFPの統計によれば、2020年3月25日現在、恐るべきこの新型ウイルスによる世界の感染者数は、175の国・地域で40万4020人、死者は1万8259人に達した。前日から感染者4万2510人、死者2113人が増えてのこの数字といい、驚くべきスピードで拡大していることがわかる。

 世界経済への影響も考慮して慎重姿勢を貫いてきたWHO(世界保健機関)も、3月12日にとうとう「パンデミック」を宣言した。

 事態は今や、各国が協力しながら危機に当たるべき局面に入った。

 伝染病の拡大を押しとどめるには、感染者と健常者との接触を断つことが肝要だが、強制的なやり方では感染者を隔離することも健常者の移動を規制することも困難になる。感染者が不利益をおそれて名乗り出なくなってしまうからだ。

 むしろ、「社会防衛」の概念を受け入れ、自発的に行動規制に協力する個人が増えれば増えるほど、感染拡大の速度も規模も縮小することができる。ワシントンポストが次のようにわかりやすいシミュレーションで示しているとおりである。

 当然のことながら、社会構成員の理解と協力は正確な現状把握と情報共有を前提とする。各国は今、大規模なPCR(遺伝子検査)と各世帯への十分な休業補償のうえで、出勤停止を含む外出規制を続々実施しながら、まさにその「社会距離戦略」に取り組み始めたのである。

 真っ先にこれを実行した中国・武漢では、3月20日、2日連続で新規感染者ゼロとなった。

 感染者が6万9000人を超え、死者も6800人以上という、今や世界で最もコロナが猛威を振るうイタリアでは、自宅で自己隔離中の人々がベランダ越しに楽器を演奏し、声を合わせて歌い、隣人の安否を確かめながら共に励まし合う光景が出現しているといい、その様子はツイッターを通じて、同様の状況に置かれた世界中の人々も励ましている。

 公共善の理念で結び合うコミュニティのあり方、「民主的社会防衛」ともいうべき、真の「公衆衛生」を模索する動きが、今や世界のあちこちで生まれつつある―――日本以外は。

 相変わらずの朝の超満員電車、政府の自粛要請にもかかわらずマラソン沿道に詰めかける大勢の観戦者、突然の休校措置で行き場を失い、繁華街に繰り出す子供たち。何より、オリンピックの予定どおりの挙行表明。日本に到着した聖火リレーの火、見たさに仙台では数万人の群衆が集まってしまう。大勢の人々はめいめいの「日常」を続けているように見える。

 その一方で、マスクや紙類の買占め、売切れを告げる店員への暴言、電車内で咳をした乗客への糾弾、感染を報告したツイッターユーザーに押し寄せる罵詈雑言…。日本人は危機感を持っていないように見えながら、その実、暗い疑心暗鬼にとらわれている。あの人は感染者ではないか、感染されるのではないか、感染者は非難されるべきなのではないか、そして、感染されたが最後、今度は自分が非難や差別の対象になるのではないか、と。これらの恐怖や疑心暗鬼のすべては、コロナ感染の実態の正体がわからない点に由来する。

 つまるところ、国民は、政府が発表する国内感染者・死者の数(それは各国に比べて格段に小さい)など、信用してはいないのだ。度重なる虚偽の国会答弁やデータ改竄事件などにより、この政権が嘘つきであることが知れ渡っていることもあろうが、そもそも公表される検査数が他国に比べて極端に少ないからである。

 船内集団感染を起こした大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」への杜撰な対応で感染を拡大させ、国内外からの猛批判を浴びてなお、厚労省は「37. 5度以上の発熱、2週間以内の渡航歴あり」などという医学的合理性を欠く基準を設け、検査の門戸をひどく狭めた。

▲横浜大黒ふ頭に停泊中の「ダイヤモンド・プリンセス」(2020年2月14日、IWJ撮影)

 のみならず、その「基準」に該当し、医療機関や保健所に検査を訴え出た人々の多くを門前払いにしている事実が、有症の当事者や医療従事者の告発により、続々明るみに出ている。

 門前払いされた人の中には、感染の有無を確かめるすべもないまま社会に戻り、不本意にも感染を拡大させたかもしれない人もいるだろう。実際、いくつもの医療機関を渡り歩くうちに重症化した人や、複数回の検査で陽性と診断された人が何人もいる。

 このような状況の中で、皆がひとつの疑問を抱いている。この国の機関は感染拡大を阻止する措置を講じるのが任務ではないのか? それとも何か他の論理――たとえば、オリンピックを決行するために、感染者数をできるだけ少なく見せたい、などの論理――で動いているのではないか? と。

 岩上安身は2020年2月18日、かなり早い段階から政府の対応を問題視、検査体制の早急の確立とそこから得られるデータにもとづく合理的対応の必要性を訴えていた、上昌広・特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長にインタビューを行った。

▲医療ガバナンス研究所理事長・上 昌広氏(2020年2月16日、IWJ撮影)

 そして上氏は、厚労省のこの不可解な振る舞いの内幕を話してくれた。

 氏の話を要約すると、次のようになる。

 ウイルスに水際作戦など、そもそも不可能である。人・モノが自由に移動するこのグローバル化した世界ではなおさらのこと。パンデミックに発展する公算が高いにもかかわらず、政府はこのコロナウイルスにあくまで「オールジャパン」で臨もうとの算段であり、そのために国がすべてを取り仕切る体制にしてしまっている。

 座長の脇田隆字(わきたたかじ)・国立感染症研究所所長以下、厚労省に近い人間ばかりで固めた「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」を組織する。民間のクリニックが検査を実施できないよう規制をかける。検査を二つの民間検査会社に委託し、厚労省および同省管轄の研究機関「国立感染症研究所」(感染研)以外の業務受託を禁ずる。

▲脇田隆字・国立感染症研究所所長(衆議院インターネット審議中継より)

 こうして「国立感染症研究所」に患者データを集約させて研究を急がせ、同研究所と協力関係にあるワクチンメーカーに検査キットやワクチンを製造させる。要は、検査からデータの分析、研究、ワクチン開発、製造まで、「すべてを自前でやる」というのであり、コロナを奇貨として、外国のメガファーマを前に縮小の一途をたどる日本のワクチン利権を守ろうというわけだ(実際、2020年1月30日に閣僚ばかりで組織された「対策本部」の会合では、「ワクチンができるまで乗り切ろう」の掛け声が響いたという)。

 スイス・ロシュ社がいち早く検査キットを開発し、武漢でも活躍しているにもかかわらず、それを大々的に導入しようとしないのは、こういうわけなのである。安倍政権がリーダーとしての面子を保つため、またワクチン利権を守るために、感染の危険に晒されながらゆっくり「自前」のワクチン完成を待つなど、生命の危機にさらされている日本国民としては、たまったものではないが、この「自前主義」に関し、上氏の口から驚くべき一言が飛び出した。

 「感染研、これ、元は陸軍の731部隊なんですよ(中略)。軍隊だったから、自前主義が当然だったわけで」

 太平洋戦争中、細菌兵器開発のための残酷な生体実験に明け暮れたことで知られる「731部隊」。国民を伝染病から守るための国の研究機関である「国立感染症研究所」が、その流れを汲む!?

▲国立感染症研究所戸山庁舎(Wikipediaより)

 実際、上氏はインタビュー後の3月5日、新潮社「フォーサイト」に「帝国陸海軍の『亡霊』が支配する新型コロナ『専門家会議』に物申す」と題する上下二本の記事を寄稿し、「国立感染症研究所」とワクチン製造を請け負う製薬会社の前身がどれも旧帝国陸海軍と密接な関係を有する組織であったことを示した。

 その上で、コロナ対策を任された面々の行動原理が、旧陸海軍から引き継いだ「情報非開示」と「自前主義」であり、「軍部を中心とした戦前のワクチンの開発・提供体制がそのまま残っている」と評したのである。

 3月9日には岩上安身による上氏へのインタビュー第二弾が行われ、国内外の最新の動向を再確認。日本のコロナ対策のあり方に、旧日本軍を連想した視聴者も多かったものと思われる。

 以上をふまえ、本記事では、「国立感染症研究所」の設立から今日までの歩みをたどりつつ、これがどのような経緯で軍部と一体化していったのか、また、それが戦後どのようなかたちで継承され、現代のわれわれにも影を落としているか、明らかにしてみたい。

 同研究所の公式HPやパンフレットは決して語らない、だが、専門領域も関心も様々な論者たちがめいめいの文脈で明らかにしてきた歴史的事実を総合した、一種の「暗黒史」になるだろう。だが、今コロナ危機の渦中にあるわれわれの、命と尊厳をもてあそぶ「亡霊」がいるのだとすれば、まずは「亡霊」の存在そのものを認め、その正体を見極めることが急務である。そうすることで、今われわれがなすべきは何か、しかるべき指針が与えられるはずだからである。

記事目次

国立感染症研究所の起源は北里柴三郎のために1892(明治25)年に設立された「伝染病研究所」だった!

 「国立感染症研究所」の起源は、ドイツから帰国した北里柴三郎のために1892(明治25)年に設立された、「大日本私立衛生会 伝染病研究所」である。

▲北里柴三郎(Wikipediaより)

 「大日本私立衛生会」とは、肥前国大村藩出身の医学者で欧米の医制の調査のために岩倉使節団に随行、初代内務省医務局長を務めた長与専斎(1838-1902)が中心となり、日本における公衆衛生の啓蒙と普及を目的として1883(明治16)年に設立された組織である。

 設立の背景については、阪上孝「公衆衛生の誕生――『大日本私立衛生会』の誕生」(京都大学『経済論叢』第156巻第4号、1995年)が示唆に富む。

 それによれば、当時の日本は、清国から長崎経由でもたらされたと思しきコレラが数年おきに大流行。明治12年の患者16万2637人・死者10万5786人、明治19年の患者15万5923人・死者10万8405人など、毎度大量の感染者・死者を出し大問題となっていた。

 これの対応に追われながら、長与専斎らは「『政府的』ではない」公衆衛生の確立、つまり、政府の権威ではなく、医学の権威にもとづき、この理念を普及・実践させることの必要性を痛感したという。

▲長与専斎(Wikipediaより)

 というのも、この時期の対策法(「虎烈刺予防仮規則」)といえば、患者の届出を罰則付きで義務づけるとともに、患者を警官の手を借りて避病院(隔離病舎)に強制的に隔離するという、「きわめて厳重強硬の手段を用い、警察的武断政略を用いる」ものだったからである。

 避病院は治療ではなく隔離のみを目的としていたため、民衆のうちに「一度避病院に入れられたる者は生きて再び帰ることを得ざるものの如き感」を呼び起こした。彼らはますます罹患を秘匿し、「コレラ一揆」と呼ばれる反乱まで多発するようになる。

 かくして「衛生といえることは総て人民の厭うところ」となり、感染拡大を封じるどころか、むしろ助長するものと化してしまった。

 長与専斎らが「大日本私立衛生会」を結成したのは、こうしたことの反省をふまえてであった。幹部は内務省衛生局の高級官僚や陸海軍の軍医、医科大学教授で占められたために、「私立」とはいえ半官半民の組織ではあったものの、1250人あまりの参加者を集め、数年で会員は5000〜6000人になる。

 主な活動として、日本各地の衛生事情の調査、毎月の常会や講演会の開催、『大日本私立衛生会雑誌』の刊行などを行ってきた。そこへ、1892(明治25)年、北里柴三郎が6年半のドイツ留学から戻ってきたわけである。

 病原微生物研究の世界的権威ローベルト・コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養成功(1889(明治22)年)、免疫抗体の発見、血清療法の確立という輝かしい業績をあげて帰国した北里のために、「大日本私立衛生会」は同年10月30日、その附属研究所として「伝染病研究所」(以下「伝研」と略す)を設立した。

 研究所の敷地・建物は、福沢諭吉によって芝区芝公園5号3番地の借地および建物が提供された。実は、帝国大学内に伝染病研究所を創設する案も文部省から上がっていたというが、政府は自由党代議士長谷川泰らが提出した建議に従い、この「私立」の 研究所に補助金を出し支援することを決定したのである。

 ただし、内務省衛生局長の監督のもとで、各種伝染病の原因や予防治療法を研究するにとどまらず、国家衛生法の審事機関となること、事業はすべて北里が指揮することとした。

 伝研はすぐさま活動を開始する。早くも翌1893(明治26)年、綿羊へのジフテリア免疫を開始し、(これも福沢諭吉の支援による)日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」(現在の北里研究所)を開設した。

 1894(明治27)年には芝区愛宕町2丁目13番地に移転し、ジフテリア血清治療を開始するとともに、北里が香港でペスト菌を発見する。

 以後も、コレラ血清治療(1895(明治28)年)、腸チフスの血清治療(1896(明治29)年)、狂犬病に対するパスツールワクチン接種および志賀潔による赤痢菌発見(1897(明治30)年)等々と、1890年代に猛威を振るった種々の伝染病対策(たとえば1896年は、赤痢で約2万2000人、腸チフスで約9000人の死者を出した。ジフテリアは毎年数千人規模の患者を出し、その多くが児童で過半数が死亡したという)に直結する研究・活動を精力的に行っていく。

 一方、国内に民間製造業者による粗悪な痘苗(天然痘ワクチン)が流通していたために、天然痘患者が拡大していた。また、日清戦争を経て勢いづく陸海軍からの軍需要請もあり、1896年、後藤新平・内務省衛生局長が血清製造事業の国営化を構想。内務省所管で「国立血清薬院」を設置したほか、痘苗製造所を国営とした。

 伝研も1899(明治32)年、内務省所管の「国立伝染病研究所」に改組され、勅令によって「伝染病其ノ他病原ノ検索、予防、治療方法ノ研究、予防消毒治療材料ノ検索及伝染病研究方法ノ講習ニ関スル事務ヲ掌」るとされた。

 日露戦争期の1905年には「国立血清薬院」および痘苗製造所を合併し、研究所を芝区白金台町1丁目39番地(現・港区白金台4-6-1)へ移転する。ここにおいて伝研は国内最大の治療血清・予防ワクチン製造所となり、内務省と連携しながら国内伝染病に対処してゆくことになったのである。

 だが、北里柴三郎自身が望んでいたという理想的な研究所のあり方は、10年と続かなかった。

伝研が内務省から文部省へ移管されたことに憤慨した北里は門弟とともに伝研を去り北里研究所を設立!

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