「ジャーナリストになることが夢だったが、ペンの力で自分たちの土地を取り戻すことは難しいと思い、武器を手に取る決心を固めた。軍事訓練を受け始めたのは、私が14歳の時だった」──。
1969年にパレスチナ難民キャンプに生まれ、内戦下のレバノンで抵抗運動に参加。その結果、イスラエル軍に捕まり、収容所送りとなったキファー・アフィフィ氏が、2014年6月5日、京都市左京区の京都大学で講演した。タイトルは「パレスチナ わが愛──難民的生から展望される〈祖国〉と人間」。アフィフィ氏は、約6年間にも及んだ、過酷な獄中生活に関する話に加え、14歳という若さで、見たこともない祖国のために武器を持って戦おうと決意した理由についても語った。
アフィフィ氏の前に登壇したジャーナリストの広河隆一氏は、その当時、彼女の母親からの強い要請を受け、アフィフィ氏の捜索に乗り出している。そして、居所を突き止めると、裁判での解決に打って出るのだが、何と裁判の前日、彼女は突然釈放されたという。その理由を、広河氏は「イスラエル側が、自分たちが行ってきた非人道的な行いが世間に知れ渡ることを恐れたため」とし、アフィフィ氏を「戦う女性の象徴的存在」と紹介した。
- 講演1 広河隆一氏 「私にとってパレスチナ問題とは何か」
- 講演2 キファー・アフィフィ氏 「難民として生きる」
- 司会:岡真理氏(京都大学人間環境学研究科)、通訳:福田義昭氏(大阪大学外国語学部)
- 収録 2014年6月5日(木) 18:30~
- 再配信 2014年6月9日(月) 20:00~
- 場所 京都大学 吉田南キャンパス(京都市左京区)
- 主催 京都大学大学院人間・環境学研究科 岡真理研究室
- 告知 キファー・アフィフィさん来日関連イベント
「パレスチナ問題を巡る日本メディアの姿勢は、ほぼ、イスラエル政府の言いなりだった」。こう話す広河氏は、「日本の新聞やテレビは、ガザ地区へのイスラエル軍の空爆について、『パレスチナから打たれたロケット弾を浴びて、ユダヤ人に多数の犠牲者が出たから、自分たちは仕方なく反撃した』というイスラエル政府の言い分を、鵜呑みにして報じている」と指摘した。
「当該時期のイスラエル政府のホームページには、イスラエルがそんな被害を受けたとは記されていない」と言う広河氏。イスラエルが「パレスチナから攻撃を受けた」と主張している時期の直前に、パレスチナに一体何があったか日本の新聞やテレビは調査していない、と批判を重ねた。「AFP通信やロイターなどの海外メディアの記事に示されている通り、当時はイスラエル軍がパレスチナに奇襲を加えており、パレスチナ人が何人も死んでいる」。
広河氏は、次に登壇するアフィフィ氏を、「彼女は、戦う女性の象徴のような人だ」との言葉で紹介し、どんなに厳しい状況に置かれようとも希望を失わなかった、強靭な精神を持つアフィフィ氏を客席にアピールした。
14歳で「パレスチナのために戦う」と決意
「1982年に(イスラエル軍の監視の下、レバノンにあるパレスチナ難民キャンプで大量虐殺が行われた)サブラー・シャティーラ事件があった当時、私は12歳の少女だった。私たち難民は武器を一切持っていない状況で、私の目の前で仲間が殺されていった。その後、1985年にはキャンプ戦争が起こり、今度は私の兄弟や従妹らが殺された。難民は殺されても埋葬される墓がなく、私の兄弟らは、他の家族の死体と一緒にまとめて埋められた。私は約3ヵ月後に、その場所から兄弟らの遺骨を掘り出し、自分で小さな墓を作って埋葬した。自分の母親が、そこを訪れることができるように」。
マイクを握ったアフィフィ氏は、自身のその後の生き方に大きな影響を与えた体験を、このように述べた。「ジャーナリストになることが夢だったが、ペンの力で自分たちの土地を取り戻すことは難しいと判断し、武器を手に取る決心を固めた。(ファタハの軍事組織に参加して)軍事訓練を受け始めたのは、私が14歳の時だった」。
そして18歳の時、6人のパレスチナ人の仲間と共に抵抗運動に参加し、イスラエル軍に捕らえられる。アフィフィ氏は「(パレスチナにある)狭い独房に入れられ、尋問を受けた。『何も話さなければレイプする』と脅されたが、『あなたたちはすでに、パレスチナという民や土地をレイプしているではないか』と切り返し、自分の手で服を破く仕草をした」と話しつつ、このように続けた。「その独房がある場所が、パレスチナであることがわかると、涙がこみ上げてきた」。
父親が育んだパレスチナへの思い
その後、「死の牢獄」の異名をとる、国際赤十字すら入れない収容所に移されると、約6年間に及ぶ厳しい獄中暮らしが待ち受けていた。電気ショックをはじめとする、ありとあらゆる残酷な拷問が繰り広げられたが、アフィフィ氏は闘志を燃やし、それらに耐えたという。
「私の月経期を狙った拷問もあった。うつ伏せで床に寝かされ、背中を打たれ、床に付着した経血を拭けと迫られた。私は、そういった一切の理不尽に歯向かおうと心に決め、酷い仕打ちをしてきた相手には、あえて笑みを浮かべることにした」。
京大教授の岡真理氏が、「肉体的苦痛のみならず、精神的屈辱が与えられる拷問に、心が折れそうになることはなかったか」と質問をぶつけると、アフィフィ氏は「牢獄の外にいる時よりも、中にいる時の方が強くなれた。耐えることや信じることの意義を学ぶことができた」と力強い口調で応えた。
岡氏がさらに、「14歳という若さで、ジャーナリストになる夢を捨て、『自分はパレスチナのために戦う』という考えに至った理由を訊きたい」と迫ると、「私はレバノンに生まれたが、父は私に対し、ことあるごとに故郷であるヤジュール村での(イスラエル軍による村民100人余りの)虐殺事件を忘れるな、と話していた」などと語り、「父親が自分に、パレスチナを愛する心を植え付けた」と明かした。アフィフィ氏の父親は、4歳の時に家族とともに故郷のヤジュール村を追われ、レバノンの難民キャンプに移り住んでいる。
「公正な解決」とは何か
「ユダヤ教徒と、キリスト教徒のパレスチナ人は共生していた。そこに『ユダヤ人対アラブ人』という分断を持ち込んだのが、私たちの敵であるシオニズムだ」