IWJ代表の岩上安身です。
スコット・リッター氏が、10月14日に、自身のサブスタック、『スコット・リッター・エキストラ』で、リッター氏とイスラエルとの関係を、詳しく語っています。
- Why I no longer stand with Israel, and never will again(スコット・リッター・エキストラ、2023年10月14日)
国連特別委員会(UNSCOM)代表団の団長として、1994年にリッター氏が初めてイスラエルを訪れたとき、非常に優秀で人間的にも立派なイスラエル空軍の情報将校と知り合います。彼がホストとしてリッター氏を迎えてくれましたが、このホストとの関係を通じて、大変興味深いイスラエル社会の一面が浮かび上がってくるのです。
それは、自分たちを、パレスチナ人を大虐殺し、祖国から追い出した「侵略者」だと自覚しているがゆえに、イスラエルには、パレスチナとの平和共存を目指す道と、「鋼鉄のヘルメットとキャノン砲の口」でしか問題の解決はないという戦争の道が、少なくとも、90年代までのイスラエルには、共存していたという事実です。
ここには、パレスチナ人たちの、根拠のある「憎悪」から目をそらさない、というイスラエル人の最低限の誠実さが、どちらにもありました。
たとえば、その最低限の誠実さは、イスラエル初代大統領のデイビッド・ベン・グリオンの言葉に現れています。
「もし私がアラブの指導者だったら、イスラエルとは決して協定を結ばないだろう。私たちは彼らの国を奪ったのだから。神がわれわれに約束したのは事実だが、それがどうして彼らの興味を引くというのか。私たちの神は彼らの神ではない。反ユダヤ主義、ナチス、ヒトラー、アウシュビッツがあったが、それは彼らのせいなのか? 私たちがやってきて、彼らの国を盗んだのだ。なぜそれを受け入れるのか?」。
現在、元与党議員モーシェ・フェイグリン氏を始め、ネタニヤフ政権自体が、旧約聖書の記述を根拠として、ガザ殲滅を押しすすめています。しかし、初代大統領のダヴィド・ベン・グリオンの時代には、この旧約聖書の信仰を相対化できる知性がイスラエルの指導層には、少なくともまだ存在したのです。
※第2弾! イスラエルの元与党議員モーシェ・フェイグリン氏がテレビインタビューで「(他民族を徹底殺戮した)聖書的な方法(旧約聖書)でまだ復讐を果たしていない」と、ガザの徹底破壊とパレスチナ人の全員追放を訴え!「人類に多大な危機をもたらせ!」とも! さらに別のインタビューではガザは「完全に焼き払われ」「(第二次大戦で連合軍の無差別爆撃を受けたドイツ南部の都市)ドレスデンに変わるべき」と発言! 2009年の村上春樹氏のスピーチを、今こそ思いかえすべき時!】(『イスラエルナショナルニュース』、2023年10月25日)(日刊IWJガイド、2023年10月27日)
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さらに、イスラエルの建国の端緒に存在する「ナクバ」と「ホロコースト」を反復することで問題解決を図ろうとする、現在の極右のベンジャミン・ネタニヤフ政権は、パレスチナ人そのものを殲滅し、エジプトの砂漠に追放すれば、パレスチナ人の憎悪が消えると考えているのです。
パレスチナ人という人間たちを物理的に、1人残らず消し去れば、彼らの抱えている、自分たちに向けての憎悪はこの世からなくなるという究極のジェノサイド、いや、ひとつの民族を絶滅させるナチスのホロコーストの発想です。ナチスは隠れてそれを行いましたが、イスラエルには、全人類の眼前で、堂々と、しかも旧約聖書を根拠としてやろうとしているわけです。これを「良心」を失った人間たちによる集団狂気と呼ばずして何と呼ぶべきなのでしょうか!?
イスラエルの暴挙を止めようとしない米国やその従属国の政府は全て「共犯」です。しかし、現在の岸田政権が「共犯」でも、日本国民がこの狂気の虐殺に反対すれば、我々は「共犯」であることをまぬがれることになります! 個々人の力は無力に見えても、この虐殺に反対の声をあげなければいけません!
30年前、リッター氏を迎えたホストのイスラエル空軍の情報将校は、奇しくも、ベンジャミン・ネタニヤフ氏をこう評しています。
『彼(ネタニヤフ)はイスラエルを滅ぼすだろう』『彼は憎しみしか知らない』。
この言葉は、今、聞くと、非常なリアリティーがあります。
いったいどうして、このようなヒットラーの亡霊とも言える狂気が国中を覆っているのでしょうか。
スコット・リッター氏は、1991年から1998年にかけて、イラクにおける大量破壊兵器捜索のための国連主任査察官を務め、このときの査察経験から、2003年3月20日に米国がイラクに侵攻する直前に、イラクのサダム・フセイン政権は、米国政府が気にするほどの大量破壊兵器を保有していない、と公然と論じ、米国のイラク戦争の根拠を根本から批判しました。
イラク戦争は、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由としたものでした。
2004年10月に、米国が派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在
しない」との最終報告を提出して、リッター氏が開戦前から批判していた
ことが事実だったと認められました。
米国をはじめとする西側諸国の大量破壊兵器保有疑惑は、米国の言いがかりだったのです
ウクライナ紛争では、同国内のマイノリティーであるロシア語話者への無制限の暴力と殺戮を行っているウクライナを、正当化し、ロシアを悪魔化した西側報道の嘘を、スコット・リッター氏はX(旧ツイッター)やYouTube、ブログなどで暴き続けてきました。
リッター氏が、西側NATOを批判的に見ることができたのは、イラク戦争の経験があったことが大きいと思われますが、夫人がグルジア人であることや、自身がソ連邦の歴史を大学で専攻したことも影響していると思われます。
IWJは、ウクライナ紛争の開始直後から、ダグラス・マクレガー元大佐やジャック・ボー元スイス戦略情報局諜報員などともに、公平に紛争を観察できる元軍人として【IWJ号外】や『日刊IWJガイド』で注目してきました。
※はじめに~元国連大量破壊兵器廃棄特別委員会主任査察官のスコット・リッター氏が、ロシア『RT』に寄稿!「それほど遠くない将来、ウクライナ軍は現在の防衛線を維持できなくなり、ドニエプル川以西に撤退を余儀なくされる」と分析!「平和と復興のためにはウクライナが降伏して現実を受け入れるしかない」と指摘! 敗戦国日本が新憲法で軍国主義者を排除したことを引き合いに、新憲法でのウクライナ民族主義者の排除も提言! IWJが全文仮訳!!(日刊IWJガイド、2023年9月6日)
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以下から、スコット・リッター氏の論文「なぜ、私はもはやイスラエルの味方ではないし、これからも二度とそうでないのか」(前編) になります。
- Why I no longer stand with Israel, and never will again(スコット・リッター・エキストラ、2023年10月14日)
「ガザの門
『夜明けに襲撃者がやってきて、あっという間に町を占拠した。男たちは女たちと引き離され、撃たれた。襲撃者の一人が、ある家のドアを開け、そこに立っている老人を見つけた。彼は老人を撃った。「彼は老人を撃つのを楽しんでいた」と、この襲撃の目撃者は後に語った。
人口5000人全員が殺されるか追放され、生き残った人々はトラックに乗せられ、ガザに送られた。空家は略奪された。「私たちはとても幸せだった」略奪者の一人が後にこう語っている。「もしあなたが取らなくても、他の誰かが取るでしょう。返さなきゃいけないなんて思わない。彼らは戻ってこなかったのだから」。
ハマスが支配するガザ地区に隣接するイスラエルの町やキブツ(※注)の市民が受けた残虐行為について書かれた、数え切れないほど多くの記事のひとつのように見える。
※注:キブツは、ヘブライ語で集団や集合を意味する。生産的自力労働、集団責任、身分の平等、機会均等という4大原則に基づく集団が原型だった。現在は、資本主義企業や普通の町とほとんど変わらない。
しかし、そうではない(襲撃者はハマスではない)。
(この文章の出典は)イスラエルの建国の父の一人であり、イスラエル独立宣言の署名者であり、イスラエルの初代外相であり、第2代首相であったモーシェ・シャレットの息子であるヤーコフ・シャレットの回想である。ヤーコフ・シャレットは、イスラエル独立戦争中の1948年、イスラエル兵がアラブ人の町ベルシーバを占領したときのことを語っている。
1946年、ネゲブ砂漠で兵役に就いていた若い兵士だったシャレットは、ネゲブ砂漠にユダヤ人の前哨基地を設置し、イスラエル・シオニストとアラブ人との間で予想される戦争が勃発した際の戦略的足がかりとすることを目的とした極秘計画『11ポイント・プラン』の一部である11の兵士チームのムフタール(長)に任命された。
1948年以前に存在したシオニズムは、聖書に出てくるイスラエルの領土にユダヤ人国家を再確立するための運動であった。1897年、テオドール・ヘルツルの指導の下、政治運動であるシオニスト組織として設立された。
ヘルツルは1904年に死去し、シオニスト機構はその後、パレスチナにユダヤ人国家を創設することをイギリス政府が約束したバルフォア宣言の採択を推し進めた褒美として、チャイム・ワイツマンに引き継がれた。ワイツマンは、1948年にイスラエルが建国されるまでシオニスト組織のトップを務め、その後イスラエルの初代大統領に選出された」。
<ここから特別公開中>
「1946年、イギリスのパレスチナ委任統治領をアラブ人とユダヤ人に分割する国連分割計画で、ネゲブ地方(※注:イスラエル南部の砂漠地方)はアラブ人に割り当てられた。ダヴィド・ベン・グリオンやモーシェ・シャレットら、シオニズムの原則に熱心なシオニストの指導者たちは、247の村や町に住む25万人のアラブ人に混じって、3つの前哨基地に500人のユダヤ人が住んでいたネゲブの現状を変える手段として、『11カ所計画』を考案した。
11の新しい前哨基地は、ネゲブにおけるイスラエルの存在感を高め、パレスチナの歴史家ワリド・ハリディが指摘するように、『先祖伝来の土地に住む土着の多数派』が『一夜にして異民族支配下の少数派に変貌する』状況を作り出すことになる。
1946年10月5日の夜、ヨム・キプール(贖罪の日、ユダヤ教における最大の祭日)の直後、ヤーコフはチームを率いてネゲブに入った。『不毛の丘の頂上に土地を見つけたときのことを覚えている。まだ暗かったけど、なんとか支柱を打ち込んで、すぐにフェンスの中に入った。夜明けとともに、プレハブのバラックを積んだトラックがやってきた。大変なことだった。鬼のように働いたよ』。
ヤーコフはシオニスト青年運動に参加していた頃、徒歩でネゲブ一帯を旅し、アラブ人の村々に親しみ、聖書に登場するヘブライ語の名前を覚えた。
ハツェリム・キブツとなったヤーコフの丘の上の集落の隣には、アブ・ヤヒヤというアラブの村があった。ハッツェリム・キブツに与えられた任務のひとつは、当時ネゲブからの大規模なアラブ人追放を準備していたイスラエルの軍事計画者たちが利用する、地元のアラブ人に関する情報を収集することだった。
アブ・ヤヒヤのアラブ人たちは、ヤーコフと彼の仲間のシオニストに新鮮な水を提供し、彼らが仕事に出かけている間、しばしばキブツの財産を守ってくれた。アブ・ヤヒヤの指導者たちとハッツェリムのキブツの間には、イスラエルがネゲブを掌握したら、アラブ人の残留を認めるという了解があった。
しかし、戦争が始まると、ハッツェリムのキブツニクス(※注:キブツの住人)は、アラブ人の隣人に襲いかかり、彼らを殺害して生存者を永遠に家から追い出した。
生存者のほとんどは、ガザに住むことになった。
アブ・ヤヒヤ村、ベルシーバの町、そしてネゲブにある245のアラブ人の町や村が、イスラエルの入植者や兵士たちによって虐殺され、物理的に根絶やしにされたことは、『ナクバ(大惨事)』として歴史に刻まれている。
パレスチナ人がナクバについて語るとき、1948年の出来事だけでなく、1948年以降、現代のイスラエルを定義するシオニズムの維持、拡大、擁護の名の下に起こったすべてのことを取り上げる。イスラエル人はナクバについて語らず、代わりに1948年の出来事を “独立戦争 “と呼ぶ。
『ナクバに関する沈黙は、イスラエルにおける日常生活の一部でもある』と、ナクバを研究するある現代の学者は指摘する。
1948年のイスラエル建国後、ユダヤ人入植者の一団が、ダヴィド・ベン・グリオン首相に働きかけ、入植地の男性たちを集団で兵役に就かせるよう要請した。その結果、兵役と農作業を組み合わせたナハール計画が創設された。
ナハール部隊は、駐屯地を形成し、その後キブツに姿を変え、将来イスラエルに対するアラブの攻撃から身を守る第一線として機能することになる。1951年、ナハール入植地の第一号であるナハレイム・ムル・アザがガザ地区との境界に建設された。ナハール計画は、ガザをこれらの要塞集落で取り囲もうとした。1953年、ナハレイム・ムル・アザは軍の前哨基地から民間のキブツに移行し、ナハル・オズと改名された。
ナハル・オズの最初の入植者の一人に、ロイ・ルッテンバーグという男がいた。彼は13歳のとき、1948年の独立戦争でメッセンジャー・ボーイとして従軍した。18歳になった1953年、彼はイスラエル国防軍に入隊し、その後将校となった。将校としての最初の仕事は、ナハル・オズの警備担当だった。結婚し、1956年には幼い息子の父親となった。
1956年4月18日、ロイはアラブ人に待ち伏せされ、殺され、遺体はガザに運ばれた。国連の介入により遺体は返還され、翌19日に埋葬された。ロイの死はイスラエル国民を激怒させ、彼の葬儀には数千人が集まった。
イスラエル軍参謀総長のモシェ・ディアンが参列し、イスラエルの歴史に残る弔辞を述べた。『昨日の朝早く、ロイは殺されました。春の朝の静けさに目がくらみ、耕作地の端で待ち伏せしていた者たちに気づかなかったのです』。
『今日、私たちは殺人者たちに責任をなすりつけることはできない。なぜ、私たちに対する彼らの燃えるような憎悪を宣言しなければならないのか?彼らは8年間、ガザの難民キャンプに留まり続け、彼らの目の前で私たちは、彼らや彼らの父祖たちが住んでいた土地や村を、私たちの領地に変えてきたのだ。
ガザのアラブ人の間ではなく、私たち自身の中でこそ、ロイの血を求めなければならない。どうして私たちは目を閉じ、自分たちの運命を正視することを拒み、その残虐性のすべてにおいて、私たちの世代の運命を見ようとしなかったのか。ナハル・オズに住むこの若者たちが、ガザの重い門を背負っていることを忘れてしまったのだろうか。
国境の溝を越えて、憎悪と復讐の欲望の海がうねり、平穏が我々の行く手を鈍らせ、武器を捨てるよう呼びかける悪意ある偽善の使者に耳を傾ける日を待っている。
ロイの血は、彼の引き裂かれた身体から、私たちだけに叫んでいる。我々の血は決して無駄には流れないと何度も誓ったにもかかわらず、昨日もまた、我々は誘惑され、耳を傾け、信じてしまった。
我々は土地を開拓する世代であり、鋼鉄のヘルメットとキャノン砲の口がなければ、木を植えることも家を建てることもできない。私たちの周囲に住む何十万人ものアラブ人の生活を煽り、満たしている憎悪を見ることを躊躇してはならない。私たちの腕が弱くならないように、目をそらさないようにしよう。
これが我々の世代の運命なのだ。剣が我々の拳から振り落とされ、我々の命が削られることのないよう、備え、武装し、強く、決意を固めることが、我々の人生の選択なのだ。
我々の壁となるべく、テルアビブを離れガザの門に家を建てた若きロイは、心の中の光に目がくらみ、剣の閃光を見なかった。平和への憧れは彼の耳をつんざき、待ち伏せしている殺人の声を聞かなかった。ガザの門は彼の肩にあまりにも重くのしかかり、彼を打ち負かした』。
この演説の特筆すべき点は、ガザに収監されているパレスチナ人たちが、イスラエルを憎んでいること、そしてその憎しみの源泉を率直に認め、パレスチナ人の感情の正当性を理解していることである。
しかし、パレスチナの大義が正当であろうとなかろうと、イスラエルの大義が正当であることを堂々と(イスラエル人は)主張する。イスラエルは、『鋼鉄のヘルメットとキャノン砲の口』なしには決着がつかないとダイアンは言う。戦争はイスラエルの『人生の選択』であり、イスラエルは、軍国主義的な勤勉な生活を余儀なくされている。
10月7日、数百人の重武装したハマスの戦闘員がガザから押し寄せ、ガザを取り囲んでいた軍事前哨基地やキブツに襲いかかった暴力を人々が振り返るとき、これらの施設の起源と目的を決して忘れてはならない。
これらの野営地で生活し、働き、奉仕したイスラエル人は、『ガザの重い門』を肩に背負い、難民キャンプに留まることを余儀なくされた人々の『燃えるような憎しみ』の下で労働し、その一方で、彼らの目の前で、周辺のキブツの入植者たちが『彼らや彼らの父祖が住んだ土地や村』をイスラエルのユダヤ人の祖国に変えていった。
これらのイスラエル人は皆、シオニズムの剣をしっかりと握っていた。彼らはシオニズムというシステムの一部であり、その存在と維持は、75年前に故郷を奪われた何百万人ものパレスチナ人を残酷に監禁し、服従させることを要求している。彼らは、モシェ・ディアンが言うところの『運命』を、その本質的な残虐性をもって生き抜いた。『ガザの重い門』は彼らの世代の宿命であったが、彼ら以前のロイ・ルッテンベルグのように、門が彼らの肩に重くのしかかり、彼らを打ち負かすまでは。
決して諦めない
かつて私は、イスラエルの友人だと自負していた時期があった。
私は砂漠の嵐作戦の際、イラクのスカッドミサイルがイスラエルに向けて発射されるのを阻止するためのキャンペーンを展開した。
1994年から1998年まで、私はイスラエルに何度も足を運び、イスラエル国防軍(IDF)の情報組織AMANと協力して、イラクが二度と通常型の高爆発弾頭、化学弾頭、生物弾頭、核弾頭を搭載したスカッドミサイルでイスラエルを脅かすことができないようにした。私は、イスラエルの将軍、外交官、政治家たちにブリーフィングを行った。
私は、イスラエルの写真解釈士(※注:軍事衛星や航空機からの航空写真を分析し、敵対勢力の動向や、軍事施設、戦略的な地理的要所を特定する)、信号情報収集者、技術情報分析者、人的情報担当者と長時間肩を並べて働き、イラクのすべての大量破壊兵器の能力が完全かつ検証可能な形で説明されていることを確認するために、手を抜かないようにした。
私は、イスラエルの同僚たちの驚くべき労働倫理と生来の知性に衝撃を受けた。また、私や国連特別委員会(UNSCOM)の仲間の査察官が、イラクで行っていた作業に関しては、国連安全保障理事会が定めた枠組み(mandate)を守るという約束に十二分に応えてくれたので、彼らの誠実さにも感銘を受けた。
1998年8月にUNSCOMを去るまで、私はイスラエルの真の友人であると自負していた(この関係にはマイナス面もあった。FBIがスパイ防止法違反の疑いで私を捜査していたのだ)。
私は幼少期、イスラエルに対して少なからず、両義的な感情を抱いていた。イスラエルに関する最初の記憶は、1973年10月のヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)だった。テレビで観た報道に、魅了された。
その後、1976年には、エンテベ救助の背後にある大胆さとヒロイズムにも心を奪われた。しかし、この幼少期の熱狂は、大学に通ううちに冷めていった。
イスラエル系アメリカ人で、イスラエル国防軍(IDF)での兵役を終えたばかりのルームメイト(私はアメリカ陸軍での兵役を終えたばかりで、海兵隊の将校訓練プログラムに参加していた。なぜアメリカ市民が他国の兵役に就くことができるのか、その理由がわからなかった)と、キャンパスで活発に活動するヒレル(ユダヤ人学生)の組織との関係があったため、私は多くのアメリカのユダヤ人の間で、パレスチナやアラブ世界に対するゼロ・トレランス(寛容さがまったくない態度)に不快感を抱くようになった。
私は、アッシリア系アメリカ人で中東研究の歴史家であるジョン・B・ジョセフ教授から深い影響を受けた。イラン以前のペルシャにおけるアッシリア人虐殺からの難民の息子であるジョセフ教授は、バグダッドで生まれ育った。
アラブ・イスラエル関係の講義を担当する彼の寛容さは、ヒレルの、自分のやり方に従うか、さもなければ一切容認しないといったアプローチとは際立って対照的だった。
1983年の春、ヒレルはイスラエル軍兵士の代表団をキャンパスに招き、レバノン南部へのイスラエルの侵攻と占領について講演させたことがあった。私は海兵隊小隊長コースに在籍し、1984年5月の卒業と同時に任官する予定だった。
1983年2月に起きた米海兵隊員と、イスラエル国防軍の戦車3両との衝突は、世界中で大きなニュースとなった。
イスラエル軍の中佐が指揮する戦車は、海兵隊の陣地を突っ切ろうとした。イスラエル軍のベイルート進入を阻止する海兵隊部隊の責任者であったチャールズ・B・ジョンソン大尉は、戦車の前に立ちはだかり、イスラエル軍将校に通過は許されないと告げた。戦車が彼を轢き殺すと脅したとき、ジョンソン大尉はピストルを抜き、先頭のイスラエル軍戦車に飛び乗り、イスラエル軍の中佐にこう言った。連中はお前の死体越しに通行することになるぞ。イスラエル軍は、引き下がった。
ベイルート郊外でのにらみ合いは、アメリカとイスラエルの緊張を招き、米国務省は、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ駐在官を呼んで、イスラエルの挑発に抗議した。イスラエル側は、ジョンソン大尉の息が酒臭いという噂を流した。
この噂は、私が出席した学内での講演で、イスラエル国防軍の兵士大使たちの一人が繰り返した。私は憤慨し、立ち上がってその講演者に異議を唱えた。あまり外交的でない態度で、私はそのIDF兵士に、君はアメリカ本土にいて、アメリカ海兵隊員の目の前にいるのだということ思い出させた。
私の目の前で、海兵隊将校を侮辱するのは許せなかった。私の言葉にある暴力性を察知して(私はすでに、ロナルド・レーガン大統領を暗殺しようとしたジョン・ヒンクリーの射撃がもっと上手だったらと願った仲間の学生を乱暴に扱ったことで、キャンパスで評判になっていた)ヒレルの主催者が介入し、イスラエル軍兵士をステージから退場させ、キャンパスからも追い出した。
イスラエルとの次の交流は、『砂漠の嵐』作戦のときに間接的にもたらされた。米軍のミッションはイラク軍からクウェートを解放することだったが、イラクが改造型スカッドミサイル(※注:旧ソ連が開発したR-11弾道ミサイルの改良型地対地ミサイル)をイスラエルに発射したことで、イスラエルを紛争に巻き込む怖れが生じた。これによって、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領によって慎重に組み立てられた多くのアラブ諸国からなる連合が、崩壊する可能性が出てきたのである。
アラブ諸国はイスラエルと同じ側で戦うことを拒否しただろうからである。イラクのスカッド発射を阻止することが戦争の最優先事項となり、ノーマン・シュワルツコフ将軍のスタッフ専属のスカッド専門家として、私はこの取り組みに深く関わることになった。(2007年にアメリカの主要なユダヤ人組織で行われたプレゼンテーションで、公然と敵意をむき出しにした聴衆に、私はイスラエルのために自分の尻を危険にさらしていることを思い知らされた。)
戦後、私は国連安保理に採用され、イラクにおける国連ミッションを支援するための独立情報機関の設立に携わった。
1994年、私は国連特別委員会(UNSCOM)が、イスラエルと秘密チャンネルを開設し、イラクの武装解除に関連する情報問題について緊密に連携するよう提案した。私の提案は承認され、私はイスラエルに派遣された最初のUNSCOM代表団の団長を務め、AMAN(イスラエル参謀本部諜報局)局長や調査分析部(RAD)部長と会談し、UNSCOMとイスラエルの情報協力の範囲と規模について話し合った。
1994年年10月にイスラエルを初めて訪問したとき、私はイスラエル空軍の情報将校を紹介された。私たちの仕事上の関係は絶妙であった。この将校のエネルギー、知性、経験は誰にも引けを取らず、この将校なしにはUNSCOMとイスラエルの関係は成功しなかったことは間違いない。私が、友人であり、同僚であると考えるようになったこの人について、最も印象的だったのは、イスラエルが私のような外国人に影響を与えることで知られる、テレビ用のプロパガンダ番組ではなく、本当のイスラエルを理解し、評価してほしいと彼が強く願っているということだった。
そう、私はイスラエルのヘリコプター・ツアーに参加し、イスラエルという国がいかに小さく脆弱であるかを俯瞰で見ることができた。そう、ヘリコプターはマサダ(※注)に着陸し、そこで私はイスラエルの歴史における、その時代の悲劇について教育を受けた。ゴラン高原の前方監視所まで車で連れて行ってもらい、そこで望遠鏡を使ってシリア軍の陣地を見ることができた。
(※注)マサダ:「マサダ」は、ヘブライ語で「要塞」を意味する。紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ローマ帝国に追い詰められたおよそ1000人のユダヤ人が、マサダに籠城して抵抗したが、敗北が決定的になった紀元73年、マサダのユダヤ人は集団自殺し、全滅した。ユダヤ人にとって、民族の聖地となっている。イスラエル軍の入隊式はこのマサダで行われ、士官学校の卒業生は民族滅亡の悲劇を2度と繰り返さないよう、「マサダは二度と陥落せず」と唱和する。
・マサダ(wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80
しかし、イスラエル人のこのホスト(イスラエル空軍の情報将校)は、私が本当に興味があるのは『スカッド博物館』だと賢明にも指摘した。そこにはイスラエルが『砂漠の嵐』作戦中に自国内に落下したすべてのスカッドミサイルの残骸が集められている。それに関心があったのは、それが私のミッションだったからだ。
イスラエルと恋に落ちることはなかった。
視察の計画から外れている間、私がどこへ行き、何を見ることができるかということに関しては、ホストファミリーは徐々にコントロールを緩めていった。
長い週末に、妻がイスラエルを訪れ、私は彼女を死海、エルサレム(私たちはエルサレムのヴィア・ドロローサ、つまりイエスが磔刑に処された騎馬山への道を歩いた)、ナザレ、ガリラヤ海、ヨルダン川に連れて行った。敬虔なグルジア正教徒である私の妻は、有頂天になった。私は単なる歴史愛好家だが、深い感銘を受けた。妻はこう言った。『足でひっくり返した石ひとつひとつに物語があるわ』。『この土地は歴史に満ちているのよ』。
すぐにイスラエルそのものの歴史について語り合い、私が所属していたイスラエルの画像処理部隊があった地域、別名ドイツ植民地として知られるサロナのことから始めた。
後にノーベル賞を受賞し、イスラエル首相となるメナケム・ベギン(1946年当時、イルグンというテロ組織に属していた)が起こした悪名高いテロ事件の現場となったエルサレムのキング・デービッド・ホテルを訪れながら、私たちはイギリス委任統治について話し合った。ほとんどのイスラエル人は、ベギンやイルグンがそのようなレッテルを貼られることに反発するだろう。『そうなんだ』と私のホストは言った。『彼(ベギン)はテロリストだったんだ。ヤーセル・アラファトとも共通点が多くあったんだ』。このような正直さが、私にさらにホストを好きにさせた。
私たちは、クファル・アザのキブツにあるマオズ・ムル・アザ(ガザの要塞)博物館を訪れながら、イスラエルの形成について議論し、戦火にさらされた国家の誕生に関するイスラエルの物語(この博物館は、1948年にエジプト軍に破壊されたサード・キブツの跡地に建てられた)と、故郷からパレスチナ人たちを熾烈に追い立てたナクバ、つまり、大災厄とを比較対照した――これにはクファル・アザのキブツも含まれている(このキブツは、2023年10月8日(ママ、実際には10月7日)にハマスの標的となったキブツのひとつであり、ハマスの戦闘員たちによる暴力で数多くの住民を失った)。
私たちはイスラエル初代大統領のダヴィド・ベン・グリオンの言葉について議論した。『もし私がアラブの指導者だったら、イスラエルとは決して協定を結ばないだろう。私たちは彼らの国を奪ったのだから。神が我々に約束したのは事実だが、それがどうして彼らの興味を引くというのか。私たちの神は彼らの神ではない。反ユダヤ主義、ナチス、ヒトラー、アウシュビッツがあったが、それは彼らのせいなのか? 私たちがやってきて、彼らの国を盗んだのだ。なぜそれを受け入れるのか?』。
ベン・グリオンのもうひとつの言葉で、要点は言い得ている。『我々が真実を見損なうことはないようにしよう。政治的には、我々は侵略者であり、彼らは自分たちを守っているのだ』とベン・グリオンは述べている。『この国は彼らのものだ。彼らが住んでいるのだから。ところが、我々ときたら、ここに来て定住しようというのだ。彼らの目から見れば、我々は彼らから国を奪い取ろうとしているのだ』。
私のホストは、ベン・グリオンについてこう言った。『彼は正しかった。イスラエルには非常に困難な歴史がある』。
この困難な歴史がもたらした結果は、私のホスト、彼の家族、そして彼の同胞であるイスラエル人にとって、実存的なものだった。私はテルアビブとエルサレムを隔てる丘陵地帯にある彼の家によく招かれた。そこで私は、特別な絆で結ばれた相手から期待されるようなもてなしを受けた。バーベキューを楽しみながら、彼の10代の娘が私たちのために選曲してくれた音楽に耳を傾けていると、ホストは彼の住む地域を見下ろす丘を指差した。
これが 『”グリーンライン “だ』と彼は丘を指差した。”グリーンライン”とは、1948年のイスラエル建国時に設定された国境線のことである。1967年の6日間戦争の後、イスラエルは今日ヨルダン川西岸として知られる地域を支配下に置いた。パレスチナ人は自分たちの土地を取り戻すため、イスラエルとパレスチナの国境を “グリーンライン “に戻すために戦っていた。
『あなたは軍人だ。敵があの地形を占拠し、迫撃砲や狙撃兵をあそこに配置したら、私の家族や隣人たちが危険にさらされることを理解しているはずだ』。『私たちは』と彼は、妻や子どもたちから言葉を隠すかのように、小声に近い声で言った。『全員死ぬ』。
『私たちには平和が必要だ』とホストは言い切った。『パレスチナ人に土地を取り戻し、私の家族が怯えることなく暮らせるような平和が』。
多くの軍人がそうであるように、私のホストも国内政治に関しては無関心な雰囲気を保っていた。あるとき、サロナ地区近くの地元の食堂で座っていると、ホストが数テーブル先の背の低いがっしりした男を指差した。『あれがエフード・バラックだ』と彼は言った。
バラックは1995年初めにイスラエル国防軍を退役し、参謀総長としてのキャリアを終えていた。『彼は今、政治の世界に足を踏み入れている』とホストは述べた。『嘘をつくことを学ばなければならない』。
ホストは、彼の政治的な所属については教えてくれなかったが(尋ねもしなかった)、私には2つのことがはっきりとわかった。第一に、彼は元軍人から政治家になったイツハク・ラビンを尊敬している。『彼は他の人たちと同じように嘘をつく』と彼は意見を述べた。『しかし、彼は平和のために嘘をつく。私はそれを受け入れることができる』。
そして、彼はベンヤミン・ネタニヤフを絶対的に軽蔑した。『彼はイスラエルを滅ぼすだろう』と彼は警告した。『彼は憎しみしか知らない』。
私が何度もイスラエルを訪れている間、テロの脅威は常につきまとう現実だった。私が初めてイスラエルを訪れた1994年10月19日、テルアビブの繁華街ディゼンゴフ通りのバスで、ハマスの自爆テロが発生し、22人が死亡した。テロの場所は、私が宿泊していたホテルから歩いてすぐのところだった。
1995年7月24日、私がイスラエルを3回目に訪問したとき、別のハマスのテロリストがテルアビブ郊外のラマット・ガンのバスで自爆し、6人が死亡した。
私が4度目にイスラエルを訪れた1995年8月21日、エルサレム郊外のラマット・エシュコルでハマスの別の自爆テロがバスを襲い、5人が死亡した。
これらの攻撃がイスラエル国民に与えた衝撃は、手に取るようにわかった。死者を悼み、涙があふれた。私は1995年7月のテロ事件の後、テルアビブの中心街にあるイスラエル国防軍司令部、キリヤの中で、私を約束の場所まで送ってくれることになっていたイスラエル国防軍の運転手に拾われたことを思い出す。『我々のミーティングはキャンセルかね』と私は尋ねた。『いいえ』と彼は不機嫌そうに答えた。『人生は続けなければなりません』。
私たちは、ホストがオフィスを構えるビルに到着した。そこには数人の女性軍人が働いていた。彼女たちは私を待合室に案内し、お茶を出してくれた。彼女たちの目は赤く、顔には涙がにじんでいた。『後でまた来ましょうか』と私はホストに尋ねた。彼は彼女たちを部屋に呼び戻した。『スコットが、後で戻ってくるべきかどうか知りたがっているんだ』とホストは言った。『あなたの返事は?』
『もしあなた方がミーティングを中止したら、テロリストの勝ちです』と一人の女性軍人が言った。『私たちは絶対にやめない。あなたたちもそうであってほしいです』。
1995年11月4日、ホストは私をキリヤからホテルまで送ってくれた。イスラエル王広場を通り過ぎた。そこは政治集会がよく開かれる大きな広場だった。その夜、オスロ和平プロセスを支持するイツァーク・ラビン支持者による和平集会が予定されていた。ラビンは1995年9月28日にワシントンでPLOのアラファト議長と会談し、オスロ第2次和平合意に署名した。
ハマスのテロ攻撃は、オスロ和平プロセスを混乱させるために計画されたものだった。イツァーク・ラビンは、最大のライバルであるベンヤミン・ネタニヤフからの強い国内政治的反発にもかかわらず、和平プロセスを実現させるという決意を曲げなかった。
ネタニヤフは、ユダヤの伝統やユダヤの価値観から逸脱しているとラビンを非難し、急進的なユダヤ右派の宗教的過激派を自分の大義名分に動員した。しかし、ネタニヤフの姿勢は、単なる政治的レトリックにとどまらず、政治的暴力にまで発展した。
1994年3月、テルアビブの北にあるラアナナの町の近くで、右翼宗教団体カハネ・チャイが主催する抗議行進が行われた。ネタニヤフはカハネ・チャイの抗議デモの先頭を行進し、その後ろには『ラビンはシオニズムの死を引き起こしている』と刻まれた棺が運ばれた。
1995年10月5日、イスラエルのクネセト(立法府)がオスロ2支持を決議した日、ネタニヤフは10万人規模の反対集会を組織した。ネタニヤフは群衆が『ラビンに死を』と叫ぶのを促した。
『今夜は何人かと一緒に出かけるんだって?』と、ホストは私にたずねた。イスラエル調査分析部(RAD)の若い大尉2人とその婚約者と夕食の約束があったのだ。『この場所には近づくな』とホストは、イスラエル国王広場を指差した。『ラビンは今夜ここで演説をする。暴力事件が起きる可能性が高い。彼は講演をキャンセルすべきだ』とホストは続けた。『彼に危害を加えようとする人間が多すぎるし、ここは危害を加える機会がありすぎる』。
その夜、午後9時半過ぎ、私の友人2人とその婚約者2人、そして私の5人は夕食を出され、食事を楽しもうとしていた。『イツァーク・ラビンが撃たれました』と涙を流しながらレストランのオーナーが述べた。『病院に運ばれました。お祈りが必要です』。
何も言わずに、全員がテーブルから立ち上がり、レストランを後にした。支払いはなかった。私は夕食を共にした仲間にホテルまで送ってもらったが、仲間はラジオを聴き、速報を知らせてくれた。
集会には10万人が集まり、ラビンは熱弁をふるった。『私はいつも、国民の多くが平和を望んでいると信じている』と称賛する聴衆に語った。『そのためにリスクを取る用意はできている』
『イスラエルを裏切ったラビンを殺せ』というラビからの指示で行動していると信じていた右翼の宗教ユダヤ人が、ラビンの命を奪ったピストルの引き金を引いたのだ。
午後11時15分、イツァーク・ラビンの死がイスラエル国民に告げられた。その発表をテレビで見ていたホテルの部屋からは、隣の部屋や下の通りから泣き叫ぶ女性の声が聞こえてきた。
11月5日は、全国的な喪の日だった。イスラエルは翌6日に、殺害された指導者を埋葬した。
11月7日、ロビーにいた運転手が私をキリヤに連れて行ってくれた。私のホストと彼の兵士たちは仕事に戻っていた。その2日後の11月9日、ロシアからヨルダンへのミサイル誘導制御装置の輸送についてイスラエルが収集した情報を武器に、私はヨルダンとイスラエルを隔てるアレンビー橋を渡った。その装置は、ヨルダンからイラクへ移送されることになっていた。
その日の夜、私はヨルダン国王のプライベート・オフィスのトップであるアリ・シュクリに会い、彼とヨルダン情報局のトップを説得して、イスラエル側がミサイルの部品が保管されていると考えている倉庫の急襲を開始させた。襲撃は実行され、翌日イラクに輸送される予定だった誘導制御装置数百個が押収された。
翌日の夜、暗闇の中でイスラエルに戻るのを待ちながら、私はイスラエルのホストたちの粘り強さに思いを馳せた。彼らは諦めなかったと私は思った。
我々も諦めなかった。
私のホストは、本当に立派な人物だった。私たちが襲撃の結果を待っている間にアリ・シュクリ(ヨルダン国王のプライベート・オフィスのトップ)が私に話した話を彼に詳しく述べた。それは、アリ・シュクリの父についての話で、父はテルアビブの近くに位置する現代のテルアビブの隣の都市、ヤッファ出身の裕福なパレスチナ人だった。
ある通りが、彼の父の名前にちなんで命名され、彼は自分に代わってその通りを訪れてくれるかどうか尋ねた。私はこのリクエストについてホストに伝え、ためらうことなく彼の車に乗り込み、古いヤッフォを探索した。通りの名前はすべてヘブライ語の名前に変わっていたが、私のホストは数人の年配の人々に近づき、古い通りの名前を覚えている人はいないか尋ねた。彼らは覚えており、やがて私たちは明るく照らされた大通りを歩いていた。
『イツァーク・ラビンは、アリ・シュクリにこの通りを歩けるようになってほしかったと思う』と私のホストは述べた。『もしかしたら、彼は実家に住んでいたかもしれない』。
私たちは静かな通りを歩き続け、それぞれの物思いにふけった」。
(後編)に続く。




























