2014年7月26日10時過ぎより、青森市の中央市民センターで行われている「青森空襲展」を、「青森空襲を記録する会」会長の今村修氏の案内で巡り、当時の様子や記録する会の活動内容などについて聞いた。
終戦間近の7月28日に、市街地のおよそ90%を焼いた青森空襲では、空襲を恐れて郊外に避難・疎開をしていた住民を『防空法』を根拠に呼び戻したことによって、1000名以上の犠牲者を生んだ。「青森空襲展」は、空襲から69年となる7月28日まで開催された。
(IWJテキストスタッフ・荒瀬)
2014年7月26日10時過ぎより、青森市の中央市民センターで行われている「青森空襲展」を、「青森空襲を記録する会」会長の今村修氏の案内で巡り、当時の様子や記録する会の活動内容などについて聞いた。
終戦間近の7月28日に、市街地のおよそ90%を焼いた青森空襲では、空襲を恐れて郊外に避難・疎開をしていた住民を『防空法』を根拠に呼び戻したことによって、1000名以上の犠牲者を生んだ。「青森空襲展」は、空襲から69年となる7月28日まで開催された。
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「青森空襲を記録する会」は、空襲の記憶の風化を防ごうと、34年前に発足した。空襲前後の写真や、当時の生活の様子などを展示し、空襲体験者による語り伝えを行う活動を行っている。これまでに、体験者に話を聞いて記録誌を作ることや、市内の小学校などから依頼を受けて話をすること、展示を訪ねてくる学校の生徒たちへの説明を続けてきた。しかし、体験者の高齢化により、語る人が少なくなってきたこともあり、「今後、どのようにして若い世代に語り継いでいくかが課題である」と今村氏は話した。
太平洋戦争の終盤、「ポツダム宣言」が出されたのが6月27日、日本政府が「ポツダム宣言の拒否」を回答したのが7月27日、青森空襲は、その翌日の7月28日に行われた。当時、空襲を恐れて多くの民間人が郊外に避難・疎開をしていたが、市街地の爆撃による火災は民間人が消火することと定めた「防空法」により、避難・疎開者は非国民であるとされ、配給が止められることとなった。当時は、食料も着物もすべて配給制だったため、生きるためにと、多くの人が市街地に戻って来た。呼び寄せられて、真面目に戻って来た市民が一家で全滅してしまうなど、記録上では1700名という多くの市民が犠牲となった。
青森は、硫黄島が3月に陥落した後、初めて攻撃された地方都市である。日本政府は、青森空襲の2週間後に「ポツダム宣言の受諾」をする。その2週間の間は、B29の攻撃は激しさを増し、各地に焼夷弾が降り注いだ。
青森空襲で使用された焼夷弾は、ナパーム弾であり、火薬の他に樹脂やリンが使われ、弾頭には日本家屋の屋根を突き破れるように、30キロ近い重りがつけられていた。アメリカ側に多くの資料が残されていることからも、新型兵器の実験的な意味合いがあったことが伺える。
今村氏は「日本政府が、ポツダム宣言を最初から受諾していれば、青森空襲は避けられた。時の政府の間違った判断が、多くの避けられた悲劇を生んだことを考えると残念でならない」と語った。
終戦直後、米軍が上陸することになった時、日本人は「中国大陸で自分たちがやってきたのと同じことをされる」と考えた、と今村氏は話す。そのため、青森でも女性は顔を黒く塗り、男装をして、「山へ逃げなさい」と言われたという。しかし、アメリカ軍が組織的に略奪行為などを行うことはなく、今村氏は「それは、驚きでもあった」と振り返った。
その上で、今村氏は「今は、勇ましいことばかりが聞こえてくる。廃墟になってしまった日本に立った、当時の人たちが何を考えたか。それは『平和の大切さ』です。戦争というのは、遠いどこかの国に出かけて行って、武器で戦うというようなことではない。武器を持たない人たちが家を焼かれ、殺され、町中がなくなってしまった。そういう経験をしてきた日本人は、過去に学ばないといけない。同じ過ちを繰り返してはならない」と力を込めて語った。
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