「逃げたら非国民」情報隠しで被害を拡大した防空法 〜大阪空襲被害者の証言と「防空法制」 2014.3.14

記事公開日:2014.3.14取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・富山/奥松)

 「情報統制をし、国民の避難を禁じた戦時中の防空法制は、原発安全神話と同じ構造である」──。

 大阪空襲から69年を迎えた2014年3月14日、大阪市中央区のドーンセンターで、学習会「大阪空襲被害者の証言、そして空襲からの避難を禁じた『防空法制』について」が行われた。3名の空襲体験者(大阪空襲訴訟原告)の話を聞くとともに、今年2月に『検証 防空法 〜空爆下で禁じられた避難』(法学者・水島朝穂氏との共著)を出した大前治弁護士が、当時の防空法制の実態について解説した。

 大阪空襲は、第2次世界大戦末期、1945年3月13日深夜をかわきりに、合計8回にわたって行なわれた、米軍による無差別爆撃である。これにより、大阪では1万人以上の市民が死亡したといわれている。

※掲載期間終了後は、会員限定記事となります。

■全編動画

  • 大阪空襲被害者の証言 濱田栄次郎氏(焼夷弾を浴び、顔から手足にかけ大火傷を負う)/藤原まり子氏(生まれた2時間後に焼夷弾により左足を負傷)/吉田栄子氏(両親、2人の姉、弟、叔父一家ら9人を空襲で亡くす)
  • 講演 大前治氏(弁護士、大阪空襲訴訟弁護団、『検証 防空法』著者)「空襲からの避難を禁じた『防空法制』について」
  • ビデオ 前田哲男氏 重慶爆撃について

軍人は援護法で救済。一般市民は切り捨てられた

 はじめに、大阪空襲によって被害を受けた3名が、自身の体験を語った。当時、中学3年生であった濱田栄次郎氏は、B-29爆撃機の落とした焼夷弾によって、両手から腕、顔に火傷を負い、何回もの手術をしてきた経験を語った。「この時の、つらい経験は一生忘れない。仕事や生活の面では、本当に苦労した。国は、戦傷病者戦没者遺族等援護法によって、軍人は助けたが、われわれ一般の市民は、『怪我した者、死んだ者は知ったこっちゃない。辛抱しろ』と言われてきた。とにかく、私は国に謝ってほしい」。

戦争がなければ、違った人生があったかも

 続いて、1945年3月13日に生まれ、生後2時間後、焼夷弾によって左足を負傷した藤原まり子氏がマイクを握った。「戦争の直接の記憶はない」という藤原氏だが、成長するにつれて左右の足の長さが異なっていき、13歳で足を切断、義足を装着することになった。その後も精神的な苦しみは続き、「戦争さえなければ、違った人生があったかもしれない、という思いを抱えながら、今まで過ごしてきた。いまだに、国は謝罪も補償もしないまま、われわれを無視し続けている。戦争を風化させずに後世に伝えるため、大阪空襲訴訟の原告として裁判を闘っている」と語った。

 自身が疎開している間に、空襲によって、両親、2人の姉、弟、叔父一家ら9人を亡くした吉田栄子氏は、引き取られた親戚の家で、朝晩、身を粉にして働き、叔母の顔色をうかがい、いつも惨めな気持ちを抱きながら過ごしてきた体験を話した。

国民の避難を禁じた防空法制

 次に、大阪空襲訴訟弁護団の大前治弁護士が、市民に空襲からの避難を禁じた、当時の防空法制について解説した。「日中戦争を背景に、昭和12年に制定された防空法は、太平洋戦争開始直前の昭和16年11月に改正されている。この時、逃げるな、という内容が追加された。空襲時の避難を禁じ、消火活動を強制する防空法のもと、当時の政府は、死者10万人を超える東京大空襲(1945年3月10日)の実態を報道せず、情報統制を行い、『空襲は怖くないものである』というプロパガンダで、民間人に多大な犠牲を出してしまった」。

 さらに大前氏は、当時の政府が発行した週報の記事を紹介。「防空法制に背くことは、法による処罰の対象となり、非国民である」と、国が公的に発信していた実態を説明した。その上で、「国民が戦争の恐ろしさに気づくことを懸念した政府は、最後まで、市民に対して避難を禁じた。『逃げるな、空襲は怖くない』と喧伝する当時の状況は、『原子力を恐れることはない』という、今の原発安全神話と同じ構造ではないか」と指摘した。

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「「逃げたら非国民」情報隠しで被害を拡大した防空法 〜大阪空襲被害者の証言と「防空法制」」への2件のフィードバック

  1. うみぼたる より:

    視聴し始めたら目が離せなくなりました。
    空襲被害者の3人の方の証言は、そのまま原発被害者に重なります。障害が人生に及ぼす辛苦や家族を失った子供が生きることの難しさは、60年経っても対応が十分ではないと思います。
    空爆の被害を拡大させたのが防空法なのでしょうか。大前弁護士の説明は防空法の不条理が明快です。
    「空襲は怖くない、逃げずに消化せよ!」 (火なんか消さずに逃げろ、といえば教唆犯。)
    当時の月刊誌には、「焼夷弾なんて心がけさえあれば消せる。」と書いてあったそうです。

    原発事故時の政府の対応は、まるで戦時中を踏襲したままです。

    また、かねがね疑問だったこととして、女性の凶暴化といいますか、社会の中から女性性が失われつつあるように感じていたのですが、戦時中”主婦の友”に「焼夷弾なんて怖くない。 疎開は子供が足手まといなため。(子供を助けるためではなかった。)」というような記述を知ると、女性を限定した文化の中に女性を凶暴化するような布石が置かれていたように思えます。女性の凶暴化は一番弱いもの、子供やお年寄りに被害が及びますし、男性も生きにくくなることでしょう。
    凶暴化した当の本人も辛いはずです。

    気がついたところから補うという試みを私はしています。
    意図的にトラブルをもたらすように刷り込まれたものは、もともとのやり方や考え方を書物や親の世代からアドバイスを受けながら伝えるようにして。 私という小さな点にすぎないのですが、時には影響が及ぶこともあり躊躇したり慎重になったり怖くもなりますが、自分のうぬぼれを監視しながら、もう一歩踏み出さないと間に合わなくなるような危機感は、いかがわしい津波や原発事故から3年がたち、一段と募ります。

  2. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    国民が戦争の恐ろしさに気づくことを懸念した政府は、最後まで、市民に対して避難を禁じた。『逃げるな、空襲は怖くない』と喧伝する状況は、『原子力を恐れることはない』という原発安全神話と同じ構造ではないか。
    http://iwj.co.jp/wj/open/archives/129335 … @iwakamiyasumi
    https://twitter.com/55kurosuke/status/855764009827553281

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