配給を受けるために、疎開先から戻った母子が犠牲に ~「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ1 青森空襲体験者 富岡せつさんの証言 2013.10.30

記事公開日:2013.10.30取材地: テキスト動画
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( IWJテキストスタッフ・阿部玲)

 「青森空襲を記録する会」の協力で、青森空襲体験を聞くシリーズの第1回として、富岡せつさんの話を聞いた。1945年7月28日夜、青森市を襲った空襲では市街地80%以上が焼失し、1000人以上が犠牲となった。奇しくも、疎開による人口流出を危惧した青森市が、「28日までに帰らなければ、配給を停止する」と新聞でお触れを出した数日後の出来事だった。

※ 青森空襲体験を聞くシリーズまとめ記事はこちら

■全編動画

  • 日時 2013年10月30日(水)

疎開先から戻らないと、配給がもらえなくなる

 富岡せつさんは1933年生まれで、青森空襲のあった1945年7月は小学校6年生だった。低学年はすでに疎開していたが、高学年に対しても「疎開先のある人は疎開を」と呼びかけがなされ、富岡さんは6月頃に木造村(現つがる市)に身を移した。なぜ、疎開していたのに空襲に遭ったのかというと、一緒に疎開していた叔母に、「28日までに青森に行かないと、子どものミルクの配給がもらえなくなる。自分は2人の乳飲み子がいて手が回らないから、一緒に行ってくれないか」と頼まれたからだ。

 青森の実家に着くと、父から「何で今日来た?」と怒られた。「今日、空襲が青森にある。爆撃されたらどうする」という理由だったが、帰りの汽車はすでになかった。子どもを連れた叔母は自分の家に帰ると言って、父が送って行った。サイレンが鳴ったらすぐに飛び出して防空壕まで逃げられるように、必要なものは枕元に置いた。

 就寝したが、すぐに父に「起きろ」と言われ、近所のお寺近くの防空壕に向かった。しかし、すでに人がいっぱいで中に入れない。気づくと、おそらく焼夷弾で焼けたと思われる、背中に火がついた人が立っていた。誰も消そうとしない。しかし彼も、「ここに入ったら迷惑だろうな」と思ったのか、立ち去ってしまった。

苦しくて防空壕の中にもいられない

 熱風は防空壕の中にも入ってきて、苦しくて、みんな出ていった。父と兄と自分の3人だけが残された。地面の土を指で掘ると水が出てくる。その水を喉にあてがうと少し楽にはなったが、やはり苦しくて外に出て、お墓の方に逃げた。走っていたら、誰かに足を引っぱられるように穴に落ちた。「水だ!」と叫んだ。

 防空壕に戻ってくると、そこには誰かが残していった生活雑貨や布団があった。防空壕の入口を布団で蓋をして、必死に先ほどの水をかけた。かけた布団からは熱気で煙りが上がり、温度の高さを物語っていた。「布団に火がついたらまた苦しい思いをする」ただそのことだけで、疲れも何も忘れ、ただ一生懸命、水をかけていた。

 やがて爆撃機の音がしなくなり、火が少し収まって来た。父は「家を見てくる」と言って、自分と兄だけが防空壕に残った。しばらくすると、防空壕の主なのか?誰かわからないが、「お前たち、なんで入ってるんだ? 出て行け!」と怒鳴られ、外で父を待っていた。やっと帰って来た時、父は家に残っていたご飯で作った、おにぎりを持っていた。美味しくて美味しくて、夢中になってみんなで食べた。ところがその後、叔母のいる町を見に行った父から、叔母と2人の子どもが「防空壕の中で死んでだったよ」と報告を受けた。

 おばあちゃんは、若い人を優先して防空壕に入れようとして、自分は堤川の橋桁につかまっていたという。おばあちゃんは助かり、子どもを抱えた母親(富岡さんの叔母)を探した。皆焼けて、よくわからなかったが、おしめの模様がお腹についていた子どもを見つけ、自分の孫だということがわかった。その話を聞いた富岡さんは、「ただミルクをもらいに来ただけなのに、死ぬために来たような感じになってしまった」と呆然としたという。

 次の日も、お日様が見られず、下ばかり見ていた。「なぜ、昨日来たんだろう? 一緒に来た人たちが死んでしまった…」その時は悲しみだけだった。今、こうして皆さんにお話していると、「赤ちゃんを抱っこして、母親はどんな思いだったんだろう」という気持ちになる。「戦争のない国になって、よかった」と心から思う。

「28日までに戻れ」という知事のお触れ

 のちに、青森県の金井元彦知事(当時)が「自分の町を捨てて逃げるとは何事だ。28日までに帰って来ない人に対しては、食料やミルクなどの配給を止める」というお触れを出していたことを知る。28日の空襲で亡くなった人は、1000人とちょっと。辺りは地獄のようだった。疎開先の木造村に戻る時、客車はなく、貨物列車に乗って行った。トンネルを抜けた顔は、みんな真っ黒だったが、誰も笑う人はいなかった。夕陽でも顔を上げられず、下ばかり向いていた。「お触れさえなければ、みんな亡くならなくてもよかったのに」。

 「これからは戦争のない、みんな幸せな世界になってくれればいいと思います」。富岡さんは、6年ほど前から市民団体「青森空襲を記録する会」に所属し、後世に自らの体験を伝える活動をしている。小学校では子どもたちに、「戦争になったら、お父さんいなくなるんだよ。食べるものも、着るものもなくなるんだよ」と話す。中には、「何時代の話ですか?」と質問する子どももいる。「遠い昔の話だと思っているのではないか」と、富岡さんは、これからも戦時体験を語り継いでいく必要性を訴えた。

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