「1945年のある日、米軍機が上空から撒いた宣伝ビラを拾った。ビラには日本地図が描かれ、なぜか広島のところに『?』マークが記されていた。あれは原爆投下の予告だったのかもしれない」―。
2013年8月4日(日)14時、神戸市東灘区の東灘区民センターにおいて、「『被爆の実相』~ヒロシマを今、私自身のことばで~」と題する講演会が開かれた。講師(語りべ)を務めた竹本成德氏(コープこうべ元理事長・日本生協連元会長)は、14歳のときに広島市内で被爆した実体験をもとに、原爆投下後の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の実相(真実)を聴講者に語った。
- 講演 竹本成德氏(兵庫県ユニセフ協会会長、元コープこうべ理事長、元日本生協連会長)
- 日時 2013年8月4日(日)14:00~
- 場所 東灘区民センター(兵庫県神戸市)
- 主催 史跡・戦跡めぐりの会/九条の会.ひがしなだ(詳細)
竹本氏は、1931年(昭和6年)に、広島市の小さな町で生まれる。半農半漁の町で、豊かな自然や小動物などに囲まれ、家族とともにつつましくも幸せな生活を送る。しかし、日中戦争の勃発によって兄が中国の戦線に出兵し、やがて太平洋戦争に突入し、戦況悪化による空襲警報に怯える日々が訪れる。東京・大阪・名古屋など日本各地の主要都市は軒並み大規模な空襲に見舞われたのに、爆撃機の大群が広島市上空にやってきても、街中には爆弾を投下せず、急旋回して、軍施設のある呉や江田島の方角だけを攻撃して帰っていく。広島といえば、大本営が置かれるほどの軍都なのに、なぜなのか。当時の竹本少年には知る由もない。
戦況のさらなる悪化とともに、空襲による大規模な延焼を未然に防ぐため、広島市内の各所に防火帯を作ることになり、学徒や市民を動員し、対象となる建物の取り壊しが急ピッチで進められる。1945年8月6日も動員の日。この日は雲ひとつない快晴。集合場所の広島市役所から、取り壊し現場まで整列して歩いていく。旧制中学2年生の竹本少年は、前夜に草履で釘を踏み抜いてしまい、足に包帯を巻いている。途中、担任の先生から、弁当番(見張り)のために市役所に戻るように命じられる。市役所に渋々戻り、弁当や荷物が置いてある市役所建物の西側の植え込みで、もう一人のクラスメートとともに自習を始めた。
その矢先、「ピカ!」という猛烈な光とともに、「ドドーン!」という大音響と猛烈な熱さに竹本少年は襲われる。とっさに身体を伏せた少年はそのまま気を失う。しばらくして目が覚めると、あたりが真っ暗であることに気づく。そして、ありとあらゆる建物が破壊され、ほとんどの人々の身体には衣服がなく全裸、しかも、高熱で溶けた皮膚が垂れ下がり、全身にガラスの破片が刺さっている人もいる。何もかもが変わり果て、地獄絵図がこの世の現実になったことを知る。