「気がつけば、左手は、肩から指先まで皮膚がべろりとはがれ、垂れ下がっていた」──。
2013年8月9日(金)14時から、長崎県内で岩上安身のインタビューに応じた谷口稜曄(すみてる)氏は、こう語った。1945年8月9日、米空軍が投下した原子爆弾の閃光と熱波を16歳の背中に浴びた直後の様子だ。谷口氏はこの日、自分の体が記憶する「被爆の怖さ」を伝え、さらにまた、「原爆のみならず、原発にも反対する」と強調した。
(IWJテキストスタッフ・富田/奥松)
特集 戦争の代償と歴史認識
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「気がつけば、左手は、肩から指先まで皮膚がべろりとはがれ、垂れ下がっていた」──。
2013年8月9日(金)14時から、長崎県内で岩上安身のインタビューに応じた谷口稜曄(すみてる)氏は、こう語った。1945年8月9日、米空軍が投下した原子爆弾の閃光と熱波を16歳の背中に浴びた直後の様子だ。谷口氏はこの日、自分の体が記憶する「被爆の怖さ」を伝え、さらにまた、「原爆のみならず、原発にも反対する」と強調した。
■イントロ
「ここに大変有名な、被爆した少年の写真がある」。岩上はこう言って、谷口氏の名刺の裏面をカメラに向けた。写真は16歳の谷口氏自身である。現在の背中の状態を尋ねられた谷口氏は、「背中は完全に焼けてしまっているため、皮膚呼吸ができない。だから夏場は苦しい。今年はひどく暑いから、ことに辛い……」と、健康被害の窮状を訴えた。
遡ること68年前、郵便局に勤務していた谷口氏は、長崎市住吉町の路上で集配中、轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされた。「自転車に乗ったまま、後ろから焼かれ、飛ばされた。『ここで死んでしまうのか』という思いが頭をかすめた」。気がつけば、左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がっており、そばには、ぐにゃりと曲がった自転車と黒こげになった子どもの死体があったという。「私の体からは血は一滴も流れず、痛みを感じることもなかった。ムチで叩かれたように、一瞬だけ、すごく痛かったように覚えている」と説明し、こう続けた。「『死んでたまるか』と自分で自分を励ましながら、木の陰で2晩を過ごし、3日目の朝にようやく救助された」。
その後は、うつ伏せ状態で寝たきりの生活に。「日がたつにつれ、焼けた部分がどんどん腐り始め、腐ったものが体の外に流れ出るのがわかった。1日に何度もボロ布でふき取られた。苦しくて苦しくて、たまらなかった。ペニシリンを使ったが、ほとんど効き目はなかった。しばらくして、特殊な飲み薬を服用するようになり、ようやく改善へと向かった」。
自力でベッドから抜け出せたのは、1947年5月のことだったが、その折の痛みたるや尋常ではなかったという。「2年近く寝たきりだったのだ。頭から足の方向へと血液が流れる感覚を、私の体が完全に忘れており、立った時は針で刺すような激痛が全身を走った。目を閉じてこらえるほかなかった」。また、谷口氏は「寝たきりから開放されても喜べなかった。『こんな体で、社会復帰できるのだろうか』という不安が大きかった。戦争を憎み、原爆を憎んだ」と振り返った。
退院後、谷口氏は郵便集配の仕事に復帰する。岩上が「体に無理はなかったのか」と尋ねると、「自分を鼓舞して必死に働いたのだが、背中の具合はずうっと悪く、その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた」と明かした。岩上が、さらに「健康被害と対峙しながら、社会復帰を果たした時、戸惑いはなかったか」と問うと、谷口氏は「戦時中は『国のために』という言葉をさんざん聞いた。それに対し、『本当は国のためではなく、一部の人たちのために、兵士のみならず、われわれ一般国民も戦わされたのではないか』と疑問を感じるようになった」と話した。
現在、長崎原爆被災者協議会の会長を務める谷口氏は、「核廃絶」を訴える活動に尽力中である。長崎を訪れた修学旅行生に被爆体験を語る「語り部」を、ライフワークとして長年続けている。岩上が「核の平和利用、という宣伝文句で始まった原発事業が、福島であれだけの事故を起こしたにもかかわらず、再開されるムードが高まっている。一方では、日本に軍国主義が再来する兆候も見られるが」と水を向けると、谷口氏は「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」と明言。次のように力説した。「私が長崎で浴びた放射能も、福島の事故で広がった放射能も、まったく同じ放射能だ。だから、われわれ被爆者は『核兵器をなくさなければいけない』と訴えるし、それと同時に『原発もなくさなければいけない』と訴えるのだ」。
谷口氏は「原発の廃絶を訴える機運は、広島より長崎の方が強いのではないか」との見方を示す。長崎に投下されたプルトニウム型爆弾は、現代の核兵器の主体であり、原発の技術は軍事転用されるためだ。「長崎では、福島の原発事故が起こる前から、原発反対を表明していた」とした谷口氏は、「日本政府がインドに原発を輸出するという話が伝えられているが、『何を考えているのか』と安倍晋三首相に抗議したい。長崎の被爆者は、そういう思いだ」と力を込めた。この日、長崎市の田上富久市長は平和祈念式典で、「NPT(核拡散防止条約)に加盟しないインドへの原子力協力は、NPTの形骸化につながる」と平和宣言を読み上げている。
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まず谷口さんに、体調思わしくないなか、インタビューを受けて頂いたことに感謝したい。これほどの被曝を受けたにもかかわらず、良く生き延びていらっしゃったことも驚きだけど、生死をさまよった被爆者のお話を直接お聞かせ願えたことも感謝いたします。そして、それを伝える機会を作ってくれた岩上さんにも感謝です。
さて、文字通り身体が「ぼろぼろ」の状態でお話し下さった内容も衝撃的ですが、脳は全く損傷なされていない様子にも驚きました。過去の記憶、現実の認識、未来の懸念、どれもしっかりしたお考え、自民党を大勝させた人(選挙に棄権した人を含め)たちより遙かにしっかりしたご意見を述べて頂きました。その多くは戦後生まれで、TVと新聞に洗脳されてきたとはいえ、全く情けない思いです。そして、今すぐ出来ること、この谷口さんの思いを多くの人に知ってもらうこと。まずはそこから始めましょう。【願拡散】
はじめてメールします。
私は、画家です。30年近く日展系の「東光会」に会員として所属して作家活動をして来ましたが、ここ5年前から、在野系の「独立美術協会」に変わり現在「会友」です。
1923年生まれで、現在93才。戦争末期1944年、現役召集で広島入隊、教育期間をえて東京へ転属、翌年1945年3月の東京大空襲に遭遇、救援活動に出動して東京焼尽に立ち会いました。その後、郷土防衛に転じ、鹿児島南端で空襲の最中やっと、敗戦、翌年故郷に無事帰還した体験から、広島・長崎原爆・東京焼尽・近くは東日本大震災・原発事故の告発・犠牲者に対する鎮魂をテーマに作品制作活動を続けて、毎年東京・大阪で開催される展覧会に出展して発表しています。
資料を調べて、この「谷口さんの貴重な体験」の概略を知りました。この資料を取り入れて、今後も、命のある限り、「原爆反対・核兵器廃絶。原発反対、すべての原発の廃炉」目指して作品活動を続けてゆきます。
皆さんと共に最後まで頑張ります。