例年にない暑さを記録した夏が、まもなく終わろうとしている。
広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日、そして「終戦の日」である8月15日。日本人にとって「夏」とは、過去の戦争の記憶と向き合い、戦没者の御霊をしのぶ季節である。
忘れるべきでないのは、戦争を終結させるという名目で、原爆というまぎれもない核兵器が、2度にわたり使用されたという事実である。日本の夏には、決して癒えることのない核の傷が、深く、はっきりと刻み込まれているのだ。
ところが、参院選で大勝し、史上例を見ないほどの巨大勢力となった、自民党・安倍政権。その自民党・安倍政権は、日本に原爆が落とされ、多くの犠牲者が出たという事実など、すっかり忘れ去ってしまったかのような動きをみせている。
今年4月、スイスのジュネーブで行われた核不拡散条約(NPT)再検討会議で提出された、核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明に対し、日本政府は署名を拒絶した。
この背景には、日本が原発を維持しつつ、潜在的に核兵器の保有を望み続けてきた歴史があるということは、「IWJウィークリー」14号の「ニュースのトリセツ」で指摘した通りである。
それだけではない。8月6日に行われた広島の平和式典で、安倍総理は、事前に報道関係者に配られていた文書に記載されていた「一昨年、原子力災害を経た者として、原子力の最も安全な利用を世界に先駆けていく責めを負うところになった」という一文を、当日のあいさつの場では読まなかった。
どういうつもりで、この一文を読まずに飛ばしたのか。原発の安全性についての責任を強調したくなかったのか。
安倍政権は、海外への原発輸出を進め、国内の原発再稼働に邁進している。福島第一原発事故という核の傷を、なかったことにしたいのだろうか。
2度にわたり原爆を投下され、レベル7の原発事故を起こしたにもかかわらず、日本はいまだ、核への欲望を捨てられずにいる。しかし、そこに忘れられているのは、実際に核の被害にあった、原爆の被害者、原発事故の被災者の存在ではないだろうか。
長崎原爆被災者協議会会長の谷口稜曄(すみてる)氏は、16歳の時、長崎市住吉町の路上で被爆した。轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされ、左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がり、そばにはぐにゃりと曲がった自転車と黒こげになった子どもの死体があったという。
自力でベットから抜け出せたのは、被爆から2年近くが経った1947年5月のこと。しかし、被爆により焼けただれた背中の痛みは、68年を経た現在に至るまで癒えてはいない。
そんな谷口氏は今、長崎原爆被災者協議会会長として、核の廃絶を訴える活動に尽力している。長崎を訪れた修学旅行生に被爆体験を伝える「語り部」を、ライフワークとして長年にわたり継続している。
今号のIWJ特報では、8月9日に行われた、谷口氏へのインタビューの模様をお伝えする。原発の再稼働が推進され、核武装までもが議論になるなど、核被害の記憶が忘れ去られようとしている今、谷口氏の語る言葉のひとつひとつは、私たちにとって、貴重なもののはずである。
68回目の夏をむかえて
▲岩上安身のインタビューに応える谷口稜曄さん。谷口さんには暑いなか、1時間ものインタビューに応じていただきました――8月9日、長崎市内
岩上安身「暑い夏の昼下がり、本日は、わたくし長崎のほうにうかがっております。ここに、たいへん有名な被爆した少年の写真があります。背中が一面焼け爛れてしまっている。68年前、長崎に投下された原爆によって、被爆したわけですけども、この被害にあった少年が、谷口稜曄さん。そして、本日お話をおうかがいするのは、その谷口さんご本人です。谷口さん、よろしくお願いします。F表委員ということなんでしょうか」
(※1)日本原水爆被害者協議団体協議会:1956年に設立された、全国にネットワークを持つ被爆者団体。原水爆禁止と被爆者援護を求め、原爆被害の国際的認識を深める役割を果たしている。【URL】http://bit.ly/dSJo9Z
谷口稜曄氏「はい。そうですね」
岩上「で、長崎原爆被災者協議会(※2)。こちらは?」
谷口「会長です」
(※2)長崎原爆被災者協議会:1951年、第2回原水爆禁止世界大会が長崎で行われるに際し、大会の準備委員会として誕生。国による被爆者への補償を定める「被爆者援護法」の制定を求めてきた。【URL】http://bit.ly/14TWJ5c
岩上「会長もお勤めになっている。今、お名刺の裏側の写真をみなさんにお見せしたんですけれども、この背中の具合は、どうなんですか? たいへんやっぱり後遺症がきつい状態にある?」
谷口「完全に焼けてしまっている関係で、結局、(皮膚の)修復ができない。修復ができない関係で、非常に夏というのは苦しいんですね」
岩上「夏は苦しい?」
谷口「特に今年は、熱くて。もう背中が沸騰してるみたいで、苦しいですね」
▲谷口さんの名刺には、被爆により背中が焼けただれた幼い頃の谷口さんご本人の写真が貼り付けてある
岩上「申し訳ありません。コンディションの必ずしもよくないときに、お時間を少し割いて頂きまして。今年は、長崎に原爆が投下されて68回目。本日が、その68回目の当日に当たります。そして、午前中から、式典も開かれました。ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行なってはいたんですが、改めて、一般的なことではありますけれども、68回を迎えての思いというものをひとこといただけないでしょうか?」
谷口「それはやはり、一生なっても治すことはできないですけど、改めて68年前の8月9日というのを、もう否が応でも、思わなきゃならないというような日なんですね。そのとき、私は16歳で、爆心地から約1.8キロのところ、自転車で郵便配達で被爆に遭いました」
岩上「当時、郵便配達の仕事をしていたんですね。思い出すのは、たいへんお辛いかもしれませんが、その郵便配達の仕事をしてる時に、どのように爆発に出会い、大怪我を負われたのでしょうか」
谷口「結局、爆心地から約1.8キロのところで走っていて、後ろから焼かれました。それで、空襲警報が解除になって、それで配達を開始したんですが、そのとき、かすかに飛行機の爆音がしてきて、おかしいなと思って、振り向こうとした途端に、あっという間の出来事ですね」
岩上「飛行機の爆音が聞こえて、おかしいなと思った瞬間に・・・」
谷口「そうですね」
岩上「閃光が走った? あっという間の出来事でしたか?」
谷口「3000度、4000度と言われる、石や鉄をも溶かす熱線と、目に見えない放射線で後ろから焼かれて、次に秒速200メートル、300メートルと言われる爆風で、自転車もろとも4メートルぐらい飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に臥せった時に、このまま死んでしまうのかと死の恐怖がしましたけど、ここで死ぬのかと。死んではならないと。地面を這いつくばって生きてきたんです。
そして、途中で川があって入ってみると、それまで通っていた所が、ほとんど焼けてしまって、潰れてしまって、焼けてしまって。近くで遊んでいた子供が、このへんまで飛ばされてしまっていた。
また、大きな石や直径30センチぐらいある石でしょうかね。私めがけて飛んでくるというのが、見えました。それで、そこで、ここで死んでしまうのかと、死の恐怖に襲われましたが、ここで死ぬのか、死んではならないと、今まで生きてきた。
しばらくして、騒ぎが収まって起き上がってみると、左の腕から手の先まで、ぼろきれを裂いたように、皮膚が垂れ下がり、背中に手を当てて見ると、着た衣服もなにもなく、なにか焼けただれた黒いものが手に付いてきました。
それで、自転車を見ると、車体も車輪も使い物にならないぐらい曲がってしまっていたんです」
岩上「曲がっていた・・・」
(続く)
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