原発導入の裏で「核保有」を渇望してきた日本【IWJウィークリー第14号 岩上安身の「ニュースのトリセツ」より】 2013.8.22

記事公開日:2013.8.22 テキスト動画
このエントリーをはてなブックマークに追加

 2013年の夏、第2次安倍政権が発足して、初めての原爆投下の日、そして終戦記念日を迎えました。8月6日に広島で、9日に長崎で行われた原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に出席した安倍総理は、原爆の惨禍に見舞われたこの地で、明確に「原発推進」の姿勢を打ち出しました。

 8月6日に行われた広島の平和祈念式典で、あいさつに立った安倍総理は、3.11の東日本大震災以降、菅直人総理(当時)と野田佳彦総理(当時)が言及してきた、福島第一原発事故について一切触れませんでした。

広島市長と長崎市長が語った核不拡散の思い

 8月7日の西日本新聞が伝えたところによると、事前に報道機関に配られたあいさつ文書には、「一昨年、原子力災害を経た者として、原子力の最も安全な利用を世界に先駆けていく責めを負うところとなった」との一文がありましたが、意図は不明ですが、安倍総理はこの部分をあえて読まなかったのです。

【「首相はフクシマ触れず 配布原稿には明記、広島市での式典あいさつ」西日本新聞 8月7日】
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/31492

 「原子力の最も安全な利用を世界に先駆けてゆく責めを負う」という言葉をあえて読まなかった真意は、一体何なのでしょうか?

 「『原発』と『原爆』は無関係な別物である」、という考えからでしょうか?

 もしくは、「福島第一原発事故の後始末の責任を、安倍政権が背負っている」ことを強調したくなかったというでしょうか?

 それとも、「原子力の安全な利用」にそもそも自信もなく、できない約束をするわけにいかない、言質をとられたくない、ということだったのでしょうか?

 疑問は尽きません。いづれにしても、あえて福島の事故の責任に触れなかった安倍総理の見識を疑わざるを得ません。

 この安倍総理の不可解な行動は、現在安倍政権が進めている、「海外への原発輸出」や「国内の原発再稼働」、さらに勘繰れば、こうした原発推進の裏にある「核保有」の潜在能力の確保の思惑が、色濃く反映しているのではないかと疑われます。

 今年4月、スイスのジュネーブで核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた準備委員会が開催されました。そこで、核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明が提出され、80カ国が賛同の署名をしました。

 この共同声明は、「いかなる状況の下においても、核兵器が決して二度と使用されないことは、人類存続の利益になる」との前提から、「核兵器の爆発の破滅的結果は、それが事故によるか、誤算によるか、あるいは故意によるかを別として、まともに対処することができない。この脅威を除去するために、あらゆる努力が払われねばならない。核兵器が決して二度と使用されないことを保証する唯一の方法は、核兵器の完全な廃棄によるしかない」と結んでいます。

【共同声明全文(非核の政府を求める会HP)】
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/kaku-info/kaku-info-130424.html

 もちろん、唯一の原発の被害国である日本にも賛同を求められました。しかし日本政府は、その署名を拒否したのです。

 安倍政権は、共同声明の「いかなる状況の下においても、核兵器が二度と使用されないことは、人類存続の利益になる」という表現が、日本の安全保障政策に一致しないから、というのを賛同拒否の理由としています。「状況によっては、核兵器の使用もやむなし」というのが、安倍政権の、そして日本政府の姿勢というわけです。このニュースは、ほぼすべてのメディアが取り上げてはいましたが、さらっと流すだけで、その持つ意味を深く掘り下げようとはしていません。

 「場合によっては核兵器の使用を認める」ということは、日本が米国の「核の傘」の下にあることから導かれる論理的帰結です。日本政府は、米国の核攻撃に対しては制約は課せられない、という立場なのです。

 「核の傘」という表現は、誤解を招きやすい表現です。まるで傘をさして雨に濡れないようにする如く、核攻撃から身を守れるかのような言葉遣いですが、MDのような核ミサイルを迎撃する防衛システムを指しているわけではありません。「核攻撃される場合は、核による報復を行う」ということであり、核保有しない日本は、その報復核攻撃を米国に代行してもらう、ということです。「核報復代行」と本来は呼ぶべきです。

 実際に日本が核攻撃された場合、米国が本当に核による報復を行うかどうかはわかりません。現実には履行されない可能性もある「約束」ですが、そうした「約束」があり、その「約束」をもって抑止力としている以上、米国の核の使用を制限するような声明にはサインできない、というのが日本政府の姿勢なのです。

 しかし、そもそも他国が核攻撃を行わない限り、報復としての米国の核の使用もありえないし、必要ないはずですから、「すべての国の核使用を禁じる」という条約は、「米国の傘の下」にいる現実と矛盾もしないし、本来、非核保有国である日本にとって不都合ではないはずです。

 にもかかわらず、NPTの署名を拒むということは、核使用の自由に制約を受けることを嫌がる米国への過剰なまでのおもねりか、さもなくば「いずれは我が国も核保有」という底意が日本にあるのではないか。そう詮索されても仕方がないと思われます。

 他方、トルコやアラブ首長国連邦などと、原発輸出を目的とした原子力協定を結んだ安倍総理は、今年5月、核拡散防止条約(NPT)に加盟せずに核兵器を保有をするインドとも、原子力協定交渉を再開しました。

 これはNPTを空洞化させるに等しいものであり、核拡散のリスクが高まろうとも、金儲けのためには原発を貪欲に輸出する、というあからさまな「商魂」は、核兵器の被害を身をもって知る広島、長崎の人々の神経を逆なでしました。

 8月6日、松井一実広島市長は平和記念式典で、このインドとの原子力協定交渉について「核兵器を廃絶する上では障害となりかねない」と、安倍総理に向けて強い懸念を表明しました。

【松井市長「原爆は絶対悪」~広島平和記念式典ダイジェスト動画】

【松井市長 平和宣言全文】
http://bit.ly/16q47aj

 また、8月9日の長崎での平和記念式典でも、田上富久市長が「NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります」と批判しました。

 田上長崎市長はさらに、日本政府がNPT共同声明の署名を拒否した点についても、「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します」と厳しく糾弾しました。

【田上市長が日本政府を厳しく批判~長崎平和祈念式典ダイジェスト動画】

【長崎市長あいさつ全文URL(長崎市HP)】
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/

 原発と原爆はまったく別の問題であるとして、切り離して論じるべきとする主張もあります。それがナンセンスで、根拠のないものであること、核兵器と核発電は、同じ核技術の軍事利用か民生利用の違いであり、核による発電技術の拡散と、燃料の蓄積は、核兵器の拡散を促すものであることを、被爆地の広島・長崎の両市長は、はっきりと論じたのです。

 もっとも、3.11以降、原発の危険性を痛感し、「脱原発」を支持するようになった人でも、核兵器の問題はまったく知らないし、関心がない、という人も少なくありません。原発と核兵器のつながりが見えない人も少なくないでしょう。原発導入の歴史を振り返ってみる必要があります。出発点に立ち返ってみると、原発導入と核兵器の存在の受け入れ、さらには将来における核兵器保有の期待がセットである構図が、浮かび上がってきます。

日本の原発導入の歴史と、その裏側にある「核保有」

 日本の原発導入の経緯をたどると、自民党の政治家や政府の官僚たちによる、「核保有」の願望が浮かび上がってきます。それは同時に、第2次大戦末期に投下された原爆の記憶とも深く結びついています。

 1945年8月の終戦から約8年7ヶ月後の1954年3月1日、ビキニ環礁から160キロ離れた海上でマグロ漁をしていた第五福竜丸が、米国が秘密裏に行った水爆実験によって、大量に発生した死の灰を浴びて被曝するという痛ましい事件が起こりました(ビキニ事件)。

 米国はすでに2年前の1952年に核融合を用いる水爆実験を成功させていましたが(アイビー作戦)、53年にはソ連も水爆実験を行い、核軍拡に拍車がかかっていました。核分裂を用いる原爆とはケタ違いの破壊力をもつ水爆の登場は、恐怖とともに米ソの敵愾心をエスカレートさせ、破壊力を競う核実験の競争は、61年に行われたソ連の水爆実験で頂点に達しました。この時の爆破は広島型原爆の約4千倍もの破壊力でした。

 54年に行われたキャッスル作戦では、6回の核実験が行われ、第五福竜丸が被曝したのは、3月1日のブラボー実験で、この時被曝した漁船は数百隻におよび、約2万人が被曝したと言われています。

 このビキニ事件は、全世界に、わけても、広島・長崎の原爆投下の傷の癒えない日本人に衝撃を与えました。

 杉並区の主婦が始めた原水爆禁止署名運動は、「反核」の大きなうねりとなり、署名数は当時の日本人の3分の1、成人の半分にあたる3000万人にも達しました。この事態に驚いたのは、誰よりも米国政府でした。「反核」のうねりが「反米」へとつながってゆくことを恐れたのです。

 この運動が政治的リーダーによって「上」から進められたのではないことに注意を払う必要があります。運動は「下」から、一般の国民の中からわき上がり、空前の盛り上がりを見せたのです。それは核への強い拒絶の表れであり、同時に草の根の国民の声を現実の政治に反映してもらいたいと願う、草の根のデモクラシーへの期待の高まりでもあったでしょう。

 当時の時代背景を知る必要があります。

 1945年、第二次世界大戦で敗北した日本が、一面の焼け野原から復興の途につきはじめたばかりの1950年6月25日、北朝鮮軍の南侵によって朝鮮戦争の火蓋が切って落とされました。

 戦争は53年7月27日に休戦となるまで続けられ、今も戦争は完全に終結したわけではなく、38度線をはさんで、にらみあいが続く休戦状態にあります。

 この戦争によって、第二次世界大戦時の連合国対枢軸国という構図から、自由主義陣営対共産主義陣営という構図に国際政治上の世界地図は塗り変えられることになりました。東アジアにおける東西冷戦の始まりです。

 ヨーロッパでの東西冷戦は1989年の東欧ビロード革命とベルリンの壁崩壊と、それに続く東西ドイツ統合、そして91年のソ連崩壊で幕を引きましたが、東アジアでは、冷戦構造が固着したまま残存し、現在に至っているわけです。

 米国の進駐軍の占領下にあった日本が、サンフランシスコ講和条約に署名したのが1951年9月8日、同条約が発効してまがりなりにも「独立」を果たしたのが翌年の1952年4月28日、朝鮮戦争のただ中でした。

 朝鮮戦争は、一進一退を繰り返し、「アコーディオン戦争」とも呼ばれましたが、戦局を有利に展開するためにも、米国は、日本の「独立」と復興を急ぎ、日本に「反共の砦」の役割を担わせようとしたのです。占領下では検閲によって知らされていなかった広島・長崎の原爆投下の悲惨な実相も、講和条約発効後に広く報じられるようになりました。

 冷戦の深まりと核軍拡は、同時進行で進んでいました。幸いなことに実際に使われることはありませんでしたが、トルーマン米大統領は、朝鮮戦争のさなか、原爆の投下に言及していました。万が一、用いられていたら、どんな事態になっていたか、想像するだに戦慄を覚えざるをえません。1949年にソ連は原爆の実験に成功し、米国の核兵器独占状態はわずか5年で終わりを告げていました。さらに一発の威力が広島型原爆の100発分にも相当する水爆の開発によって、核兵器が使用されれば人類が絶滅する怖れすら現実のものとなっていたのです。

 そんな矢先の54年に、ビキニ事件は起こったのです。戦後のハイパーインフレ、物資と食料の不足、飢えと貧困に多くの日本国民がまだまだ苦しんでいました。復興の途についたばかり、戦後の高度経済成長の幕開けとなる神武景気は55年からです。戦争の記憶もまだまだ生々しく、もうこりごりだという思いがあるところへ、さらに核の恐怖再び、という知らせに、日本中から強い拒絶の声が上がりました。その結果として3000万もの署名が集まったわけです。

 「独立」したばかりの日本で、澎湃としてわき上がった3000万もの「反核」の声は、放置しておけばそのまま「反米」へと転化するのではないかと、米国は焦りました。今では考えにくいことですが、当時、米国は日本が「共産化」してしまうことを真剣に懸念したと言われています。日本の一般国民の「核への恐怖感・拒絶感」をやわらげ、日本の支配層には米国に従順につき従わせるための「アメ玉」が必要でした。そこで持ち出されたのが「原子力の平和利用」でした。

 ここで登場したのが、当時読売新聞社社主で、日本テレビの初代社長である正力松太郎でした。内務省官僚だった正力は、退官して、当時弱小紙だった読売新聞の経営者となり、部数拡大につとめた、読売グループにとっては「中興の祖」とたてまつられている人物でもあります。

 戦後A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されましたが、釈放され、その後、権力の階梯を登ってゆきます。

 正力には政治的野心があり、そのために「原子力」という巨大な利権を手に入れたい、米国との間に「核技術」の協力関係を結んでおきたい、という野望がありました。正力は、自己の政治力拡大と原子力利権の確立のため、CIAに接触していました。

【「(12) 首相狙う正力、米国を利用」(朝日新聞 2013年04月27日)】
http://bit.ly/170wUT2

 正力の野望に目を付けた米国は、彼に、自身の放送網を使った「反米」「反核」の空気を沈静化するよう依頼しました。この時、正力はCIAからコードネーム「PODAM」を与えられ、読売新聞社と日本テレビには「PODAITION」というコードネームが与えられ、米国の対日占領支配政策を継続するためのプロパガンダ機関として機能するように働きかけていたことが、後に米国が公開した外交文書から明らかになっています。

 正力はCIAの工作員として、読売新聞を使った情報操作や、万博開催などを通して「原子力の平和利用」と銘打った、原子力推進の一大キャンペーンを行いました。その後正力は富山県から出馬し、本格的な政界進出を果たします。1956年には、原子力委員会の初代委員長に就任し、その後初代科学技術庁長官に就任。1957年には同じく元A級戦犯の岸信介総理の下、第二次岸内閣において、国務大臣(国家公安委員会委員長)にまで上り詰めます。

 正力のメディア支配と政界進出、そのための原子力利権の確立という野望と、米国側の、日本を「反共の砦」とし、その障害となる反核・反米運動の沈静化という思惑が、合致しました。正力と米国は互恵関係にあったのです。

 しかし、本格的な核技術の導入に躍起になる正力に対し、米国は次第に距離を置き始めます。日本が自主的に核技術を管理することに懸念を覚えた米国は、正力との動力炉の交渉を渋り始めました。政権与党である自民党の要人が、原発導入の先にある日本の「核保有」を公然と発言するようになったからです。

 正力が国務大臣となった1957年5月7日、岸信介総理は、参議院内閣委員会において、核兵器の保有は憲法9条に触れるのかとの質問に対し、「その自衛力の本来の本質に反せない性格を持っているものならば、原子力を用いても差しつかえないのじゃないか」と発言しました。

【国会議事録 1957年5月7日 参議院内閣委員会】
http://bit.ly/18Imust

 改めて言うまでもなく、岸信介元総理こそは、60年の日米安保条約改定の主役であり、55年の保守合同によって結成された自由民主党の初代幹事長であり、正力松太郎と同じく元A級戦犯でありながら、CIAからの資金提供を受けて、米国に従属する戦後体制を確立した最大の立役者です。

 ちなみに、その岸元総理の孫の安倍晋三総理が「戦後レジームからの脱却」と唱えているのは、最大の皮肉としか言いようがありません。憲法を改正すれば「戦後レジーム」が精算されるわけではありません。日米安保条約、日米地位協定にもとづく「米国従属体制」と、1955年11月に結ばれた日米原子力研究協定(米国から日本へ濃縮ウランの貸与)に始まり、日米動力協定を経て1988年に発効した日米原子力協定に至るまで続く、「核保有渇望体制」は、そのままに温存されているのです。

 話を戻します。

 このように、日本の政界のトップが、原発の導入と平行して、「核保有」の意志を明らかにしていたのは、1950年代からのことです。しかし朝鮮戦争の休戦後、60年代に入ってから日本政府の「核保有」の動機のリストに新たな項目がつけ加わります。中国が核実験に成功したためです。

 朝鮮戦争中、北朝鮮軍に援軍を送った中国の毛沢東は、トルーマン米大統領が53年に中国に対して原爆使用の可能性を示したことで、核保有の必要性を痛感し、核兵器開発を急ぎ、1964年についに核実験を成功させます。

 1967年12月20日、増田甲子七防衛庁長官が国会で「戦術的核兵器は外国に脅威を与えるのではなく、本土を守るためのものなので、保有することができる」と述べています。また、1968年3月14日には、岸元総理が、中部経済団体連合会で、「現実的に近い将来に核兵器がなくなる可能性はなく、今後、現在の通常兵器が過去の竹やりのような存在になることが予見される実情で、わが国が核武装することは当然である」と明白に述べるなど、50年代、60年代を通じて、日本は原発導入を進め、核技術を受け入れつつ、核兵器の保有の可能性を探り続けました。

 その後、70年代・80年代においても、歴代の自民党政権の要人による核保有の可能性を肯定する発言が続きます。その一部を、以下に列挙します。

 1978年3月2日、園田直外相は、衆議院外務委員会で、「憲法の規定自体に拘束されて日本が核兵器を保有できないとするものではない」と発言。

 1978年3月8日、福田赳夫総理は、参議院予算委員会で「国の武装力を核兵器で装備する決定を採択できる」と発言。

 1984年3月16日付朝日新聞によると、茂串俊内閣法制局長官は、「日本には固有な自衛権があり、最小限必要な自衛力をもつことができる。したがって、その範囲で核兵器を保有できるというのが政府の見解」であると発言しています。

 先述したように、ヨーロッパにおいて冷戦体制が崩壊した後も、東アジアにおいては冷戦の枠組みは残り、それを引きずる形で、核兵器保有論は、表向きは息をひそめながらも深く静かに継続していきます。

 宮沢喜一元総理は、総理就任前に評論家の田原総一朗氏との対談で、「…日本にとって核武装は技術的に可能であり、財政的にもそれほど難問ではない」と主張しています(中央公論91年9月号)。

 1998年6月17日、大森政輔内閣法制局長官は、参議院予算委員会で、核兵器の使用と憲法9条との関係について、「核兵器の使用も、我が国を防衛するための必要最小限にとどまるならば、可能ということに論理的になろうかと考える」と答弁しています。

 このように、日本の保守政治家と官僚の間では、「核保有」「核武装」の渇望は、地下水脈のごとく50年代から現在まで脈々と受け継がれてきました。

 「地下水脈」と表現しましたが、核保有の渇望を「地表」で叫び続けてきた政治家もいます。たとえば、石原慎太郎氏です。

 石原慎太郎氏は、自民党の議員だった1969年、「国防」11月号で、「日本が今後、大国と対決するにあたり対等な外交的地位を確保するためには、昔風に言えば『大艦巨砲主義』に進むべきであり、現在の『大艦巨砲主義』は核兵器以外にない」と述べ、「われわれが英国やフランス程度の核兵器を持たなければ、相当大きな譲歩をしなければならない事態が必ず生じるであろう」と語っています。

 ここで興味深いのは、石原氏が核兵器を戦艦大和のような「大艦巨砲主義」となぞらえている点です。戦艦大和は遅れた戦略思想の結晶でした。太平洋戦争当時、時代はすでに航空戦を中心とした時代に移っていたのですが、日本軍は古い戦略思想にとらわれ「大艦巨砲主義」の幻想から脱却できず、自ら大敗を招いたのです。この点はのちに再度触れたいと思います。

 44年の時をおいても、石原氏は、2013年4月5日付の朝日新聞に掲載されたインタビューの中で、「日本は強力な軍事国家、技術国家になるべきだ。国家の発言力をバックアップするのは軍事力であり経済力だ。経済を蘇生させるには防衛産業は一番いい。核武装を議論することもこれからの選択肢だ」など、60年代から今に至るまで変わることなく、「核武装」を力説しています。

受け継がれる「核武装渇望体制」

 「核武装」の必要性を説いてきた現役の政治家は、石原氏だけではありません。今年の7月12日、私のインタビューに応じた生活の党・小沢一郎代表は、「安倍さんや石原さん、橋下さんやその取り巻きなど、政府の中の右寄りの人が原発推進に固執するのは、核の技術を温存したいという『核武装論』が背景にある」と指摘しています。

 小沢氏の言葉は、根拠のないものではありません。2002年5月13日、当時、小泉政権下で、官房副長官をつとめていた安倍晋三総理は、早稲田大学での講演において、「核兵器使用は違憲ではない」、「核兵器を持ちたいなら堂々とそう言うべきだ」と明言しました。「核兵器を持ちたい」と表明したいのは、何よりも安倍晋三氏その人であろうと思います。

 繰り返しますが、原発は核兵器保有のための技術と原発の蓄積のために、導入され継続されてきた側面があることを忘れるわけにはいきません。コストが高く、安全性に欠け、事故が起きれば国民経済と生活に致命的なダメージを与える原発を何が何でも継続しようとするのは、経済合理性の観点からだけでは説明がつきません。

 安倍政権の強硬な原発推進政策のベクトルと、他方では日米同盟へのさらなる依存を深め、改憲と急速な軍事国家化をすすめるベクトルは、「核武装」への渇望という一点で交点を結ぶのです。

(この稿、15号へ続く)

 「IWJウィークリー」は、メールマガジン発行スタンド「まぐまぐ」にて、月額525円(税込)でご購読いただけます。(http://www.mag2.com/m/0001603776.html

 また、定額会員の皆さまには、会員特典として、サポート会員だけでなく一般会員の皆さまにも、無料でお届けしています。無料サポーターの皆さまは、この機会に、ぜひ、定額会員にご登録ください。(http://iwj.co.jp/join/

IWJの取材活動は、皆さまのご支援により直接支えられています。ぜひ会員にご登録ください。

新規会員登録 カンパでご支援

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です