「福島では、家、畑、山林、墓場まで奪われた。究極の公害だ」 〜縮小社会研究会 米澤鐵志氏、石田紀郎氏 2014.3.1

記事公開日:2014.3.1取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・関根/奥松)

 「環境調査とは、問題を抱える住民と意識を共有し、その苦しみを理解すること。問題の社会化、経済化、政治化の過程を繰り返し、問題解決に恊働することだ。単なるサンプル集めではない」──。  このように語った石田紀郎氏は、「福島」という枕言葉を付けるだけで、1プロジェクトにつき2~3億円の予算がつく総合地球環境学研究所について、「福島のことは何もやっていない」と批判した。

 2014年3月1日、京都市下京区の京都大学農学部総合館で、「縮小社会研究会総会記念講演と第21回研究会」が行われた。記念講演で壇上に立った米澤鐵志氏は、11歳の時、広島の満員電車内で母親とともに被爆した体験を語った。また、市民環境研究所代表の石田紀郎氏は、農薬汚染問題や省農薬に取り組んできた経験や、滋賀県の放射性木材チップ不法投棄問題などについて講演した。

※サマリーは記念講演のものになります。

■全編動画 総会/米澤氏 ※電波不良のため、一部見づらい場面がございます。何卒ご了承ください。

■全編動画 石田氏講演

  • 記念講演 米澤鐵志氏「核と人類は共存できない」
  • 第21回研究会 講演 石田紀郎氏(元京都大学教授、市民環境研究所代表)「水を介して社会を見る」
  • 自由討論

戦争は人を殺し、モノを潰し、不便になるだけ

 縮小社会研究会の総会終了後、記念講演が始まった。昨年、『ぼくは満員電車で原爆を浴びた:11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』(由井りょう子共著・小学館)を出版した、広島原爆被爆者の米澤鐵志氏が登壇。「1934年に生まれ、小学校1年のとき開戦、5年生の時に被爆した」と語り出した。

 「戦争は人を殺し、モノを潰し、不便になるだけだ。1940年に入ると配給制になり、統制もきつくなって、砂糖すらなくなった。小学校入学当初から食べる物がなく、軟式テニスボールがクラスに1個だけ配給される状態だった。弁当も、運動会と学芸会の時だけ、おかずを付けることが許された」と、当時の物不足を振り返った。

 さらに、「フィリピンでは30万人の兵士の9割が餓死していた。しかし、大本営発表は、勝った勝ったと言うばかり。学校では『欲しがりません、勝つまでは』と言い聞かされ、竹槍で米兵を倒す訓練など、前近代的なことをやらされていた」と続け、疎開してからの上級生の暴力支配、空腹から魚の餌だった蚕のサナギを食べたことなどを話した。

大量の回虫を吐いて体が回復

 「疎開先から広島市内の実家に物を取りに行くため、1945年8月6日の月曜、朝7時半に広島駅に着いた。電車を乗り継いで目的地へ向かう途中、原爆が投下された」。火傷で腕の皮膚が爪の先から垂れ下がっている中学生の幽霊のような姿など、米澤氏は、そこで目撃した地獄絵図のような光景を語った。

 「終戦を迎えて、ある朝、起きると枕が真っ黒だった。抜けた髪の毛だった。のどの渇きと嘔吐、高熱。妹も母も同じ症状で死んだ。親族は、自分の葬式の準備も始めたくらいだったが、翌日、寄生虫の回虫を洗面器に半分くらい、大量に口や鼻から吐いた。すると、それから体が回復していった」と不思議な原爆症からの生還体験を話した。

 「末の妹は被爆時1歳で、母乳を飲んでいた。10月に亡くなるが、医者だった父も祖父も、栄養失調だと言い張る。しかし、自分は内部被曝などの影響だと信じている。ゆえに、福島の子どもたちの将来を案じている」と訴えた。

 さらに、米澤氏は「当時、広島では7人に1人が朝鮮人で、5万人が被爆して3万人が亡くなったという報告がある。しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約で、朝鮮人の権利も奪われてしまった」と憂い、「自分は戦争に反対する活動を、まだまだ続けていきたい」と述べて、スピーチを終えた。

三流研究者のテーマだった公害問題

   休憩後、 元京都大学教授で、市民環境研究所代表の石田紀郎氏の講演に移った。石田氏は、日本各地での公害調査と公害反対運動に参加し、新潟県直江津のアルミ精錬工場や、静岡県田子の浦の製紙工場のPCB公害を調査している。

 元々、石田氏は専門が植物病理学で、安全な環境、農業を研究していたという。疾病防除と農薬問題、有機水銀と水俣病を語り、「1970年代、研究者の間では、公害問題は三流研究者のテーマだった」と振り返った。

 石田氏は、故郷の琵琶湖の公害問題について、「60年前は、琵琶湖の水で料理もできた。1960年代から急に汚れだした。現在、多くの水質汚染の度合いは、1980年代後半からの平衡状態だ」と述べ、「水は一番低い所に流れるため、上流の住民の生活が強く水に反映される。琵琶湖の固有種であるイサザという魚の除草剤CNP汚染は、田んぼの耕地整備が影響していた」と、その研究成果を披露した。

農薬裁判をきっかけに、みかん農家と恊働

 石田氏は、農薬ニッソール中毒で亡くなった農業高校生の生徒の両親が起こした農薬裁判について紹介し、それをきっかけに、みかん農家と京大農薬ゼミとが恊働で省農薬栽培への挑戦を始めたことを語った。

 農薬を止めたために急増したヤノネカイガラムシの被害を、天敵のヤノネキイロコバチを導入して克服したといい、「現在では、農薬ゼミは、みかん販売で翌年の研究費を稼ぎ、賛同する農家も、他の農家より利益率がいい」と話した。

 石田氏は「環境調査は、長期的にやらないといけない。そのために、京大に二番目の生協を設立した。市民運動のキーポイントは、経済化、異業種交流の必要性。主義主張の違いの相互理解のために、市民講座も開いた」と、市民運動を持続させるコツを教示した。

福島は「究極の公害」の被害を受けた

 最後に石田氏は、「今、活動の8割は福島のことだ。福島は、家、田畑、山林、墓場までも奪われた。究極の公害問題を抱えたのだ。今まで反公害運動をしてきたが、自分は何をやってきたのかと思う」と自問した。そして、現在、取り組んでいる、滋賀県高島市の鴨川河川敷での放射能汚染木材チップ不法投棄事件を説明した。

 これは、琵琶湖に続く河川敷に、福島の製材業者から出た高濃度の放射能汚染チップが、大量に不法投棄されていた事件。2013年3月に発覚したあと、滋賀県や警察が及び腰の対応をする中で、市民が告発の声を上げたものである。石田氏は「真相は、金を巡って仲間割れしたヤクザの告白でわかった。今、廃棄物処理法と河川法違反で業者を告発している」と述べた。

 その上で、「滋賀県は、そのチップを誰が持ってきたか、誰がどこに搬出したかなど、一切、明かさない」と県の対応に疑問を呈し、県が発表した木材チップの数値(キロ3900ベクレル)と、石田氏自身が測定した数値(キロ12000ベクレル)の相違について説明。「この件は、高濃度の放射性廃棄物を、8000ベクレル以下の一般廃棄物として処理する、悪しき前例になる」と警鐘を鳴らした。

 講演終了後の質疑応答の中で、石田氏は「これを、7月の県知事選での『嘉田知事おろし』に利用されたくないのだが、残念ながら、嘉田知事の対応はまったく理解できない。安倍政権に、汚染を全国均一に広げたい意図があるのではないか。こんなことを認めていたら、放射性廃棄物をどこにでも廃棄できる」と懸念を表明した。

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