敵を作って、差別をしていく。意識は作られていくもの ~「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ4 青森空襲体験者 杉村憲子さんの証言 2014.3.28

記事公開日:2014.3.28取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・阿部玲)

 「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会シリーズ4回目として、2014年3月28日、杉村憲子さんの話を聞いた。火だるまの人、髪の毛だけの人、死人の山、そこで長剣を振り回す警官。その光景を見た杉村さんは、教育の場で、子どもの遊び場で、敵対意識や差別意識は「作られていくもの」だと実感したという。

※ 青森空襲体験を聞くシリーズまとめ記事はこちら

■全編動画

  • 収録 2014年3月28日(金)
  • 配信 2014年7月24日(木) 20:00~
  • 場所 青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」(青森県青森市)
  • 協力 青森空襲を記録する会

「火だるまになった人を、助けることもできない」

 杉浦さんは当時9歳で、国民学校の3年生。莨町の学校に通っていた。蜆貝町の隣町の塩町(現在の青柳2丁目付近)に住んでいたが、母親の実家の筒井浜田地区に疎開して、父親だけが仕事の関係で残っていたという。親に言わせると、「配給は、家族全部が揃っていないともらえない」ということで、27日は母と2人で塩町の家に行った。家はかき氷などを売っている店の2階で、借家だった。1階では、直前に亡くなった、お店のお婆さんの通夜が行われていた。

 親子3人で川の字になって、さあ寝ようかという時、「空襲が来るってよ」と町の人が教えに来てくれたという。灯りがしっかり消えているかどうか、電灯を確認した。父には「浜田に帰れ」と言われたが、莨町小学校の近くには防空壕が5つか6つあり、そこに行ってみることになった。ところが、すでに満杯。しかたなく、疎開先の浜田まで歩いて帰ることにした。

 「途中で爆撃機の音が聞えてきて、あわてて走って逃げた。振り返ると、田んぼの向こうの浦町の駅(現在の平和公園の辺り)に、赤い火がバンバン落ちてくるのが見えた」。浜田のスモモの木の下に防空壕があり、杉浦さんはそこに逃げ込んだ。「父親は大丈夫なんだろうか?」とずっと不安だったが、午前4時頃、ボロボロになった父が帰って来たという。「来る途中、火だるまになった人を助けることもできなくて…」と話していたエピソードを語った。

長剣を振り回す警官

 「空襲の翌朝は、お米があったのでご飯を炊いた。田んぼの前は、空襲から逃げて来た人たちがぞろぞろと通ったので、鍋の蓋におにぎりをのせて、食べさせてあげた。午前中、父と母と3人で、塩町の家の様子を見に行った。あちこちで、まだ、ぶすぶすと燃えかすが燻っていて、米を持っていた人の米びつは黒く炭の状態になっていた。

 塩町には蔵が多く、煙っているのもあれば、頑丈に閉まっているものもあった。ガラスのあったお店では、熱でガラスが溶けて崩れ、彫刻みたいになっていた。自分の家も全部崩れて、どこかわからなかった」。遺体から髪だけ取れて、ブワブワと飛んでいるのを見て、「亡くなった人のなんだろうな」と思ったという。空襲直前に亡くなった、お店のお婆さんの家族は、「火葬場行かなくても、ここで焼けてしまった」と、泣きながら話していたと、杉浦さんは振り返った。

 蜆貝町から海に行く通りには駐在所があり、当時の警官は長剣をぶら下げていた。狭い通りでそれを振り回し、「帰って、水かけろ」と来る人たちを追いやった。「辺りは死人の山で、トラックで片付けるにも道が通れないほど。それぐらい騒然としていた。やっと逃げた人も毛布などをかぶって浦町駅を超えた辺りの田んぼに入ったり、そこで亡くなったりしていた。父は、火だるまになった人を何人も見たと言っていた。自分の職場に行き、水をかけたりしていた人も、あきらめて戻ってきた」という。

教育現場で、子どもたちの遊び場で、作られて行く意識

 あの頃、子どもたちはどういう教育を受けていたか。当時は、「ルーズベルトとチャーチルが…」という歌が流行った。「朝鮮を差別するような歌もあり、無意識に差別を生むようなことをしていたのではないかと思う。今の時代と重なって、怖いなと思う時がある」。今、国が教科書の問題に介入したりするのを聞くと、「あの時代に戻るのでは?」と恐ろしくなるという。

 「機銃掃射の話も、印象に残っている。田んぼに入っている人が低空飛行で狙われる。あぜ道に伏せると、自分の周りを弾が弾けて行く。そういう話を聞かされた。爆弾かな、と思うと、辺りがパーッと明るくなったこともあった。それは照明弾で、撮影でもしていたのではないかと、あとで聞かされた。空襲のあった28日前後は、機関銃を撃たれ、脅されるという怖さも経験した」。

 敗戦の日、茱萸(グミ)の木の下で茱萸の実を食べていたら、「負けてまった」と教えられたという。大人は泣いていたが、「今までみたいに逃げなくてもいい」と思うと、自分は子どもながらに嬉しかったと杉浦さんは語る。「戦時中、自分は子どもだから免除されていたが、母親たちは水をかけるための訓練をさせられていた」。

 巡査たちが長剣で「帰れ、帰れ」と言いながら、人を殺してしまったという状況を考えても、戦争の時というのは、「みんなを意識的に、どう変えて行くのか」ということも「作られていく」のだなあ、と杉浦さんは実感しているという。「敵を作られて、差別するようにしていく」、そういう意識を植え付けられていく怖さを、子どもながらに感じたと、当時を振り返った。

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