民間人ひとりに対しても、空から機銃攻撃 ~「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ3 青森空襲体験者 佐藤ちよさんの証言 2014.1.28

記事公開日:2014.1.28取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・阿部玲)

 「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会シリーズ3回目として、2014年1月28日、佐藤ちよさんの話を聞いた。防空壕の中は煙でかえって危険であるため、佐藤さんは旧東北本線の浪打駅の辺りから、八重田地区まで逃げた。艦載機による民間人攻撃、終戦後の食生活、進駐軍の様子など、内容は多岐にわたった。

■青森空襲体験を聞くシリーズまとめ記事はこちら

■全編動画

  • 日時 2014年1月28日(火)
  • 場所 青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」(青森県青森市)
  • 協力 青森空襲を記録する会

粗末な防空壕

 佐藤ちよさんは、当時小学校6年生。空襲のあった7月28日は「姉の誕生日だったから、忘れない」という。寝ていたら父親に起こされた。自分の家は野原にあったので免れたが、少し離れた所に建物疎開の建物がたくさんあり、そこにたくさんの爆弾が落とされ、危険だった。郊外の八重田地区に叔母がいたので、そこに、母と産まれたばかりの妹と弟、自分の4人で逃げた。家の前には旧東北本線の浪打駅があり、石炭を運ぶ線路だったので、そこを狙われたようだ。商業学校の近くには大きな防空壕があり、そこに逃げたのだが、係の人に「ここは煙でむせるので危ない」と言われ、海に逃げるよう指示された。

 「道すがら、毛並みの整った馬が2頭並んで走って来て、怖いなと思った。青森歩兵第5連隊所有の軍馬らしく、海の方向へ走って行って、そのあと行方はわからなくなった。近くには小金銅と合浦公園があり、そこは青森市内の小学生が体操をする場所だった。その道を行くと、八重田の避難所だった。ほとんどの家は、鍵をかけて山の方に避難している様子で、同様に叔母も留守だった。しかたなく八重田地区の防空壕に入ったが、雨が降っていたので水浸し。板作りの椅子に、朝まで寝ないで座っていた。とにかくガタガタ寒くて、怖かった。

 翌朝は、国道を通って帰った。町は、煙がまだモウモウとしていが、自分の家は焼けずに残っていた。周りはお寺が残っていただけで何もなかった。父親も生きていて、疎開の建物も無事だった。家の前には井戸があり、防火用水だったが、飲み水にも使えるものだった」。逃げた人が米を落として行ったようで、「どうせ取りに来ることもないだろう」と、父はそれでご飯を炊いていた。「美味しい、美味しい」とは言ったが、中には砂が混じって食べられなかったと、佐藤さんは語った。

青函連絡船空襲の際は、艦載機が自宅を攻撃してきた

 8月15日は良い天気で、青空の色が濃く、空気が澄んでいた。畑仕事をしていたら町会長が来て、「戦争、負げだんだ…」と言った。天皇様の放送は聞いておらず、佐藤さんは町会長から聞いたという。父は「負げるはずない」と泣いていた。私服の日本兵は、中学校に水があるのに、わざわざここに来てお米を炊いていた。きゅうりなどを分けてあげたと佐藤さんは語り、青森だけでなく、県外の人もいたと、当時を振り返った。

 佐藤さんは、青函連絡船が空襲を受けた7月14日のことも覚えているという。自分の家の辺りにも艦載機が飛んで来た。妹が赤ん坊だったので、その日はオムツを庭で乾かしていた。一生懸命、隅に隠れていたが、「向こうは低空飛行をしているので全部見えただろう」と語り、オムツに銃撃を受けたが、幸いケガはなかった。15日は、道路を歩いている人に集中攻撃をしているのを目撃し、「すごいなあ」と、呆れながら思ったという。

 9月25日には進駐軍が来るので、「女子供は外に出るな」と言われた。蒸し暑い日だったが、隠れてガタガタ震えていた。日本兵はいなくなり、進駐軍が来て、しばらくして少し慣れた頃には、彼らは子供たちにチョコレートを配ったりしていた。赤い顔で鼻はクっとして背も高く、とにかく自分は怖かった。当時の女性はモンペ姿で格好よくなかったのに、歩いていた姉は進駐軍に口笛を吹かれたりしていて、それを見て、また怖かったと、佐藤さんは語った。

戦争は、食べる物もなくなる

 「母親は、自分と弟を助けるために手と足を火傷したが、爆弾には油脂が入っていたので、なかなか治らなかった。買い物切符には米、味噌汁、魚など、日時も場所も指定されていて、逃すと手に入らなかった。港町では魚を捕っていたのだろう。毎日イワシを買いに行って、毎日食べていた。他に食べ物がなかったからだと思う。焼き干し、田楽、かまぼこ……、とにかく毎日イワシを食べていた。戦争って食べるものがなくなるんだ、と思った。

 今は平和で、当時からは考えられない。食べ物もあり余って、夜通し電気がついて、贅沢だなと思う。戦争はやるべきことではなく、みじめで無惨なもの。今でもテロだの何だのやっているが、世界全員が平和になればいい。60何年経っても、あの時ガタガタ震えていた感覚は、今でも忘れられない」。

■「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ

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