2014年5月28日、「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会の第6回として、茂木ナツエさんの話を聞いた。当時15歳だった茂木さんは、旧青森バス(現在の青森市営バス)で車掌をしており、空襲直後の青森市に入り、惨状を目の当たりにした。バスガイドの仕事や戦後の暮らしのことなど、当時の様子を語った。
(IWJテキストスタッフ・荒瀬)
2014年5月28日、「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会の第6回として、茂木ナツエさんの話を聞いた。当時15歳だった茂木さんは、旧青森バス(現在の青森市営バス)で車掌をしており、空襲直後の青森市に入り、惨状を目の当たりにした。バスガイドの仕事や戦後の暮らしのことなど、当時の様子を語った。
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■全編動画
※5月28日に行われた会合の模様を7月26日に録画配信しました。
茂木さんは「空襲があった当日の夜は、浜辺から見たら、まるで花火大会のようだった。翌日、母親が『こんな日でも行くのか?』と聞いたが、『行くよ』と答えた。バスで市内に入るとすぐ、トタンの上で焼け死んでいる人を見た。国鉄バスの車庫の向かい側で、缶詰工場が焼けて、焼け残った缶詰工場から缶詰がボンボン飛んで、男の人が拾って持って行ったのが忘れられない」と話した。
さらに、「(お客として)乗せていた兵隊さんを降ろして先へ行くと、そこは焼け野原になっていた。市民病院の水槽の中で3人の人が死んでいた。運転士さんが先へ行ってみようと言うので、先へ進むと、荷車を引いた馬と、その上の男の人もそのまま焼け死んでいた。たくさんの死んだ人を積んだトラックが、何台も通りすぎていった。刀を杖代わりにした警察の人が通りかかり、『足が焼けてしまって、歩けないから』と言ってきたので乗せた。今でも、あの人はどうなったのだろうか、と思います」と語り、このように続けた。
「戦後、たくさんのつらいことがあったが、あの時のことを思い出すと、『あんなにつらいことがあったのだから』と、いつでも、どんなことがあっても、がんばってこられた」。
その後の懇談会で、茂木さんは、車掌の時に話す文言を、当時の停留所の名前と合わせて披露した。また、質問に答えて、バスの車掌は釣り銭として鞄の中に50円くらいは入れていたこと、給料は月に25円もらっていたことを話した。聞いていた人たちからは、「当時、学校の先生の月給が同じくらいだった。当時としては良いお給料だ」との声が上がった。