「生き延びるため、食べられるものは何でも食べた」 ~「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ5 青森空襲体験者 松谷きみえさんの証言 2014.4.28

記事公開日:2014.7.25取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・荒瀬)

 2014年4月28日、「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会の第5回として、松谷きみえさんの話を聞いた。空襲のあった時は小学校1年生だった松谷さんは、4歳年上の姉から聞いた話も加えて、当時の生活の様子や、戦後の苦労したエピソードなどを話した。

※4月28日に行われた会合の模様を7月25日に録画配信しました。

■全編動画

  • 日時 2014年4月28日(月)
  • 場所 青森まちかど歴史の庵 奏海(かなみ)(青森県青森市)

青森空襲の前後の様子

 青森空襲の時は小学校1年生であった松谷さんは、「父は和裁職人をしていて、お弟子さんも数人一緒に暮らしていた。空襲が近くなったので田舎の方に引っ越すことにし、空襲までの数ヵ月は家族だけで、そこで暮らしていた。5人兄弟だったが、上の2人は徴用で別の場所に暮らしており、両親と3人の兄弟が疎開した」と話す。

 空襲の前日は、特に空襲のようなものはなく、映画を見ていた記憶があるくらい余裕があり、お米の配給もあったという。松谷さんは姉から聞いた話として、「何かあった時のためにと、お米をたくさん炊いた。翌28日の空襲の時、父親がそれをおはちに一杯入れて逃げたが、おはちの底が抜けてしまい、ほとんどそのお米は食べられなかった」と語った。

 空襲の時は、まず、小学校に2~3基掘られた防空壕に逃げたという。「そこに町内の役員か隣組の人が来て、『ここは危ないから』ということで、野原に逃げた。小学校の南側は建物疎開というのがあり、線路の方まで建物がなくなって、野原と沼と田んぼになっていた。水をかぶった記憶もある。田んぼに入って、ひと晩をそこで過ごした。翌日、家に戻ると、飼っていた亀が丸焼けになっていた。8月15日の終戦までは、何度も爆撃があった」と松谷さんは話した。

空襲から逃れたあとの、生きていくための苦労

 空襲から逃れたあとの暮らしについては、「翌年の5月に父が亡くなったが、何もない時代で、横になる棺桶ではなく、座らせる棺桶を使い、薪もないので辺りから集めてリヤカーに乗せ、焼き場に運んだ。和裁職人だった父は反物の蔵を持っていたが、空襲で焼けてしまった。母親が農家の日雇いに出かけて、子ども達を育ててくれた」と述べた。

 自身が幼かったこともあり、空襲の怖さよりも、その後の暮らしが大変だった、と松谷さんは語る。空襲で持ち出したものを、母と姉が米と交換に行き、夏は質屋に冬のオーバーを預け、冬は大きな蚊帳を預けに行った。ナマズ、フナ、タニシ、イナゴなど、食べられるものは何でも食べたという。

 「セリ、フキの茎、カボチャの茎なども食べた。アカザ、シロザは、ほうれん草のような味がするが、細かい毛が生えていて食べたら必ず下痢をした。それでも食べては、下痢を繰り返していた」と、当時の苦労を振り返った。

 その後のディスカッションでは、空襲当日の記憶だけでなく、戦後を生き延びるために苦労したことも含めて、若い世代に伝えていく重要性について、参加者たちが話し合った。

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