「現在の日本は、明治維新、第2次世界大戦に次ぐ、近代日本における3度目の大転換期を迎えている。今後、日本がどのような方向に向かえばよいのか、若い人たち、志ある仲間たちと、あらゆることを共に考えて徹底的に議論したい」──。
設立趣旨をこう記した、新たな有志勉強会「山田正彦の炉端政治塾」の第1回目が、2014年4月25日、東京都港区の南青山会館で開かれた。冒頭、主催者である、元農林水産大臣で弁護士の山田正彦氏は、「日本を変えるのは若い世代」と力を込め、会場に集まった20代から60代の、総勢10人余りの塾生に奮起を促すとともに、この日の講師、元外務省国際情報局長で『小説外務省』(現代書館)を上梓したばかりの孫崎享氏に、刺激的なレクチャーを求めた。
これを受けて孫崎氏は、米国の圧力を浴びて外務省がいかに変質したかや、今や安倍政権の「政策ツール」の色合いが濃いNHKをはじめとする、日本の既存メディアの偏向報道に関するスピーチを行った。
- 開講式/塾長挨拶/講師紹介/参加者自己紹介
- 講義 孫崎享氏「ナショナリズムと日本外交」
- 収録 2014年4月25日(金)19:00~
- 場所 南青山会館(東京都港区)
孫崎氏の講義に先立ち、あいさつに立った山田氏は、前日に鹿児島で行った、衆院鹿児島2区補選に立候補中の有川美子氏(新党ひとりひとり)への応援活動を振り返った。「42歳と若い有川さんは、選挙資金はすべて寄付で賄っている、と私に説明した。意欲のある若い世代が、ボランティア・スタッフをフルに活用して、お金をかけずに選挙に出馬できる時代が始まっていることを、大変うれしく思う」。
その後、集まった塾生による自己紹介を挟み、マイクを握った孫崎氏は、かつての外務省の魅力について、メリハリのある口調で話し始めた。
その昔、官僚の世界を知る人物から、「外務省以外の省庁では、課長が交代しても、新しい課長は前の課長と同じようなことを部下に言うのが常だが、外務省はそうではない」と指摘されたことがある、とした孫崎氏は、「かつての外務省では、入省直後に行われる、諸外国の大学への留学の成果が生きていた」と振り返る。「私の同期は20人余りだった。米英はもとより、フランス、ドイツ、ロシア、中国、スペインと、留学先の幅は広かった」。
20代という多感な時期の海外留学が意味するのは、行った先の社会との同化であるとした孫崎氏は、「留学終了後は、異なった価値観が外務省に持ち込まれることになる」と説明。「その結果、外務省は、ある特定の価値観を押し付ける役所ではなくなった」と言葉を重ねた上で、このようなエピソードを紹介した。
東京五輪選手村「朝霞→代々木」の裏事情
時は1980年。入省から16年目の孫崎氏は、モスクワ勤務を終えて日本の外務省に戻ろうとする折に、当時のソビエト連邦特命全権大使の魚本藤吉郎氏に食事に誘われる。
孫崎氏は、てっきり自重を促す説教を食らうのだろうと思っていたが、魚本氏が口にした言葉は、「外務省は、自分の信念に従って仕事をした者を許す役所だ。東京に戻って課長になっても、正しいと思ったことを実行しろ」。そして魚本氏は、1964年の東京五輪にまつわる一件を話したという。
当初、五輪選手村は、米軍キャンプがある東京・代々木ではなく、埼玉県の朝霞市に建設されることに決まっていた。その時、外務省北米局の安全保障課長の任にあった魚本氏は、代々木にある国立競技場で競技を終えた選手が、遠く離れた朝霞に帰ることに強い違和感を覚えて、外務省の上司とともに米日本大使のライシャワー氏の下に出向き、「このまままでは、米国のイメージが悪くなる」と直訴。代々木から米軍キャンプを追い出し、そこに選手村を建設する方向で米政府を説得する約束を、ライシャワー氏から取り付けた。
結果、代々木への選手村建設の話が急浮上するのだが、これに、五輪担当省庁だった文部省(当時)が大反発。「朝霞に決めたものを、今更変更できない」の一点張りだったという。
そこで魚本氏は、内閣官房副長官を訪ねて事情を説明。官房副長官は魚本氏の主張を認め、事務次官会議を飛ばす形で、いきなり閣議にその案件を出せ、と指示してきたとのこと。魚本氏がそれに従ったところ、閣議で首相の承認が得られ、代々木への建設が決定する──。
米ソ冷戦終焉後の変化
孫崎氏は、その後の文部省の怒りは尋常ではなかったとしつつ、魚本氏が「官僚とは、そういうものだ」と力説したことを紹介。その折に魚本氏は、「自分が正しいと思うことを最後までやり遂げろ。外務省はそういう人間を支援する役所だ」と重ねて強調したという。
孫崎氏は、そんな外務省の体質に変化が生じたのは1990年前後のことで、背後には米国の圧力があった、と指摘する。
「米ソ冷戦が終わったその当時、米国にとっての最大の脅威は日本であり、米国は日本が経済発展に専心することを何とか阻止しようとした」。孫崎氏はこう語り、そこに、現在の集団的自衛権の行使容認へと続く、米国の対日圧力の源泉が生まれたと述べた。「いきなり、日本人に銃を持たせるわけにはいかないから、最初は、海外で人道支援を行うように要請し、次は災害救助をやらせるといった手順を、米国は踏んだのだ」。
「その流れに呼応する形で、外務省の体質が変わっていった」と孫崎氏。「外務省の中に、『○○ごときで、日米関係を悪くしてたまるか』という価値観が徐々に広がり、やがて外務省は、米国の意向をのむ役所に変わってしまった」と説明した。
2013年12月23日「天皇陛下会見」
その後、既存メディアの偏向報道へと話題を移した孫崎氏は、昨年12月23日の、天皇陛下80歳の誕生日の記者会見を巡る、新聞、テレビの報道姿勢を取り上げた。
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会見で、天皇陛下が「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り、さまざまな改革を行って、今日の日本を築きました」と発言されたことについて、孫崎氏は「天皇陛下は、大きな決断を下されたと思う。自分の時代ではなく、戦後憲法が作られた昭和天皇の時代について話されている。天皇陛下は、今の日本が非常に『危ない国』になってきていると感じられたのだと思う」と語った。
では、これをNHKはどう報じたか。「NHKのニュースは、『平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り』というくだりを削除している。NHKは、天皇陛下の発言のその部分を国民に伝えることが、安倍政権にとってはマイナスに働く、と判断したのだ」。孫崎氏は、そう語気を強めた。
そして、今回のオバマ大統領来日についても、日本のメディアの伝え方には大いに問題があると喝破した。
日米安保「第5条」を見落とすな!
新聞やテレビが、オバマ大統領が「尖閣は日米安保条約の適用範囲である」と言明したことを、今回の日米首脳会談の成果であるかのごとく、大きく伝えたことは周知の事実だが、孫崎氏は「これは、米政府が1971年から、ずっと言い続けていること」と苦笑した。
その上で、新聞やテレビが伝えるべきだったのは、それ以外のオバマ大統領の発言で、1. 尖閣の領有権では、米国は日中いずれの国の側にも立たない、2. (安倍首相に釘を指す意味での)事態をエスカレーションさせるな、3. 米国が尖閣問題で武力行使に出る際のデッドラインは引かれていない──の3点の方だ、と強調した。特に1. は、米国が尖閣諸島の「日本領有」を、はっきりとは認めていないことを意味する。
また、孫崎氏は、日米安保条約の第5条の条文が、「日本の管轄地に対して第三国が攻撃した時には、自分への攻撃とみなして自国憲法に照らして行動する」としている点にも触れた。「自国憲法に従う、つまり、米議会の了解を得られなければ、米軍は出撃できない決まりになっている」と強く訴え、日本が中国などから攻撃されたら、すぐに米軍が出撃するかのような伝え方を好む、日本のメディアの姿勢を批判した。
孫崎氏は「残念ながら、日本国民の6割以上は『新聞は正しいことを伝えている』と思っているが、新聞やテレビは『政権維持の道具』であることを知ってほしい」とし、塾生に向かって次のように力説した。
「今後は、従来にも増して、国民一人ひとりが自分の頭でものごとを考えることが重要になってくる。それには、正しい情報を選べるだけの力を会得しなければならない。一人ひとりがしっかり勉強することが、すべての基本だ」。