【沖縄名護市長選】岩上安身による日本共産党・赤嶺政賢衆院議員インタビュー 2014.1.16

記事公開日:2014.1.19取材地: テキスト動画独自
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 日本共産党沖縄県委員長で、現在5期目となる赤嶺政賢衆院議員に、1月16日(木)、岩上安身がインタビューを行った。インタビューは、那覇市の日本共産党事務所で行われた。

■イントロ

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以下、実況ツイートを再掲します。

1.これより、1月16日に行われた「岩上安身による日本共産党・赤嶺政賢衆院議員インタビュー」の模様を報告します。「戦争の匂い」の残る沖縄で米軍基地とともに育った赤嶺氏の話は必見です。

2.赤嶺氏は、宇栄原(旧島尻郡小禄村・おろくそん)出身。隣には米軍の「銃剣とブルドーザー」による土地の強制的な接収に対し、初めて沖縄の住民が抵抗した具志地区があった。そんな光景を見て育った。1947年生まれ、戦後直後の団塊世代の真ん中だ。

3.岩上「当時はまだ沖縄は日本に復帰していません。どういう状態でしたか」。赤嶺氏「小学生の頃までは、戦争の匂いが社会全体に漂っていました。傷痍軍人だけでなく、した一般市民の大人の中にも、戦争で負傷した人も多く、顔の半分が割れている人もいた」。

4.赤嶺「私の家は農家でした。父の野良仕事の手伝いをするときは、畑を耕す前に(戦争の犠牲者の)骨を拾って畑の四隅に積んでいました。もう一つは、米軍占領の匂い。朝鮮戦争もあり、米軍も荒れていた。コーラ瓶を持って米兵が喧嘩している場面も見ました」。

5.赤嶺「18歳、初めてパスポートを持って本土へ行くときに、『日本人ではない』という扱いを受けました。当時、沖縄の学校の先生は『あなた方は立派な日本国民だ』という教育をしてくれましたが、ある時期まで、沖縄では日の丸も揚げられませんでした」。

6.岩上「日の丸は、軍国主義と、日本復帰の両方のシンボルだったわけですね。アメリカの占領下では将来も見渡せなかったのでは?」。赤嶺「大学に進学した19歳の3月に共産党に入りましたが、当時は『共産党に入ると沖縄に戻れなくなるぞ』という脅しがありました」。

7.赤嶺「大学の職員からそう警告されるわけです。いい人達ばかりでしたが、抑えることができない感情があった私は『祖国復帰運動』の思いから、共産党に入りました。沖縄では当時、共産党は非合法。米軍の統治下では認められていませんでした」。

8.赤嶺「当時は県議会にあたる『立法院』がありました。議員は選挙で選ぶが、小選挙区制でした。沖縄人民党(のちの共産党に合流する政党)が強い地域は、次の選挙では選挙区を変えられてしまった。形式的な民主主義で、中身は民主主義ではありませんでした」。

9.赤嶺「立法院の開会時は米軍の高等弁務官が演説をした。予算も米軍がにぎり、人民党の議員の地域は道路の舗装もしない。バスがデコボコ道に入ると、大人は『ここは人民党の議員の地域だから』と。支配に抵抗する姿勢は沖縄県民の長い歴史で培われてきました」。

10.岩上「沖縄人民党について説明を」。赤嶺「社会主義を目指しているが、大きな声では言えない人たちが、『当面は、米軍の占領から抜け出し、サンフランシスコ講和条約第3条(沖縄など島々の施政権者を米国と定める項目)を撤廃し、本土へ復帰し…」。

11.赤嶺「…団結を図ろうという意図でした。他にも当時は社会党、沖縄社会大衆党(現・糸数慶子委員長)もあった。米国占領当時でも、復帰して沖縄人民党が日本共産党に合流してからも、共同闘争をとってきた。我々は、そうした戦後の歴史を持っています」。

12.赤嶺「米軍が、祖国復帰を目指す勢力が絶対に勝てないような制度をとっていたから、我々は共闘しなければならなかった。沖縄は、小選挙区制を通じて、団結して戦うことを覚えたんです。分裂の時期もあったが、団結しなければ県民に対する責任を果たせませんでした」。

13.岩上「一方、保守政党はどうでしたか」。赤嶺「『琉球民主党(沖縄自由民主党の前身)』がありました。1968年の初めての知事選挙では、西銘順治(西銘恒三郎衆議院議員の父)ら保守は、『日本に復帰したらイモと裸足の暮らしに逆戻りする』とアピールしていました」。

14.岩上「米軍統治下における『保守』とは、米軍に寄り添う体制だったわけですか」。赤嶺「そうです。我々は東京の学生寮で議論しながら、『イモと裸足でいいじゃないか。異民族支配よりは』と独立を訴えていた。私は『全共闘』ではなく『民青』でした」。

15.赤嶺氏よりちょうど一回り年下(1959生まれ)の岩上「70年安保当時、子供心に『代々木』と『反代々木』の間で学生が揉めていたなという記憶が残っています」。赤嶺「全共闘寄りの学生は、沖縄が『異民族支配されている』という現状認識を持たない」。

16.赤嶺「我々は独立を求めていました。全共闘は『すでに日本は独立している』という前提。それは、沖縄の実体験から言っても異質なものでした」。岩上「現に、『パスポートを持って日本にきてるんだ』という境遇だったわけですからね」。

17.赤嶺「沖縄県民は当時、米軍にも日本政府にも『琉球住民』と言われていました。ある時、共産党の文献の中に、『沖縄に住む日本人』という記述を見つけたんです。『18歳以上の日本人であれば入党できる』…それを見たときは嬉しかった!」。

18.赤嶺「しかし、私は日の丸には憧れなかった。恩師の中には日の丸に憧れている人もいました。これは県民の間でも議論がある問題でした。沖縄人民党はサンフランシスコ条約第3条の打破と、日米安保破棄に活路を求めていました。そして、『日本国憲法』に帰ろうとしたんです」。

19.岩上「肌身で占領を感じたことが、ものの見方に影響したんですね。生まれ育った那覇はかつて、周り中が基地だらけだったそうですが」。赤嶺「那覇は今よりもずっと基地が多く、那覇空港はほとんど軍用の空港でした。私の住んでいた地域は米軍の犯行、犯罪が頻発していた」。

20.赤嶺「米軍占領を一番意識し、屈辱に気づいたのは、大学に入ってからです。東京では円だが、沖縄ではドルを使っていたので、駅のホームの売店で、つい『何セントですか?』と聞いてしまった。『銭(せん)』と勘違いされ『若いのに戦前生まれ?』と聞き返されました」。

21.赤嶺「沖縄へは当時、鹿児島から船に乗って帰っていました。そこで、ドルを見ながら、ふと『懐かしいな』と言った。すると同期が食って掛かかった。『君は懐かしむのか??』と。私は知らぬ間にドルに慣れていたことに気付き、自分はどう生きるべきかと一生懸命考えた」。

22.赤嶺「那覇の米軍飛行場は、普天間、嘉手納以上の騒音をまき散らしていました。1972年の祖国復帰で基地は減るだろうと思っていたのに、返還されないとわかり、大闘争が起こった。『そんな復帰があるか!』と」。

23.赤嶺「そして、基地は南部の那覇から中部の美浜や北谷(ちゃたん)に移った。そこから普天間で本格的な訓練を始めたんです」。岩上「人目をひく南部から、北へと移ったと」。赤嶺「普天間の問題は、基地の県内たらい回しの結果起こった問題なんです」。

24.赤嶺「1995年、少女暴行事件が起きました。当時11歳。今20代で、どんな暮らしをしているか…。別の事件で米兵に暴行されたある女性は、私に『忘れられるものじゃない』と話してくれました。その彼女は、高校時代に自宅近くでクビを締められレイプされたんです」。

25. 赤嶺「その女性は、仕返しをしたいと思いつめ、暴力団周辺にいたこともありました。飲み屋で働いていた時期、基地問題を戦っている人たちが毎晩議論をやっていたのを聞き、基地問題を意識し始めたそうです」。

26.岩上「自分の身に起きた事件には米軍の存在という政治的背景があったのだと、あとから気付いたと」。赤嶺「レイプのことは誰にも言えなかった。なので『自分に勇気がなくて被害を言い出せなかったから、次の犠牲者を出してしまった』と、95年当時は泣き崩れていました」。

27.赤嶺「50年代には『由美子ちゃん事件』がありました。犯人はハート軍曹。少女を誘拐し、基地に連れ込み、レイプし、ゴミ捨て場に捨てた。由美子ちゃんは、草を握りしめていたという。どんなに痛かっただろう、どんなに怖かっただろうと新聞記事は結んでいました」。

28.赤嶺「95年、怒りの県民大会には8万5千人が集まりました。自民も、共産も加わった。本土の自民党議員は地べたに座ってもらった。基地があるのはあなた方のせいだと、壇上には上がらせなかったのです。あの時、県民の押しつぶされていたマグマが吹き上がりました」。

29.赤嶺「日本政府はビックリした。『このままでは米軍は沖縄から追い出されるかもしれない』と考え、普天間の移設をようやく考えた。移設するとを知ったのは、デモの最中でした。『まさか』と思った。しかし、結局は、県内たらいわまし。南部から中部、そして北部の辺野古へ」。

30.赤嶺「名護の米軍基地キャンプ・シュワブの丘から見る景色は本当に素晴らしいんです。それを見た自民や民主の国会議員は、「でも移さなきゃいけない。こんな綺麗な海、見に来ないほうがよかった」と言い、思考回路停止状態に。小泉進次郎も、海の美しさに立ちすくんだそう」。

31.岩上「日本の防衛のためには米軍の駐留が必要で、新基地を作らなければいけないなどと言われる。他方、石原発言などで、日中間の緊張が煽られ、米国はこれを見て『米国の政治的目的を達成する絶好の機会だ』とほくそ笑む。既存メディアはこうした点についてろくに報道しない」。

32.赤嶺「良識的なメディアですら、『沖縄は中国に乗っ取られる』などと大まじめにいう。尖閣が中国に乗っ取られる? 無人島ですよ? 水も食料もない。そんなところで旗を振ってどうなる。国際社会から孤立するだけです」。

33.赤嶺「枝野さんは沖縄担当大臣の頃、『尖閣をなんとしても守ると』いった。それを聞き、『誰に犠牲を押しつけるんだよ、南西諸島の住民に押しつけるんだろう』と思った。沖縄の人が犠牲になることを彼らは想像していない。あそこに必要なのは軍ではなく、『憲法9条』です」。

34.赤嶺「漁船衝突事件もそう。石垣の漁民は『魚の群れを見つけたらどこまでも追う』と言った。どこの国でもそうです。そうして起きた衝突事件がいつの間にか領土問題にまでなり、ついには『軍事対立やむなし』という空気まで作られていることが怖い」。

35.赤嶺「中国は覇権主義が残っている国です。日本共産党としてもものを言ってきました。とはいえ、二国間の紛争が絶対に軍事衝突にならないように外交をするのが、国民への責任。尖閣への領土問題に対する姿勢は、70年代から一貫して変わらりません」。

36.赤嶺「尖閣付近では、日本の右翼が船で出て行き、中国相手に挑発をしています。NHKは何度も『中国船が領海内に潜入した』と報じているけれど、日本人の挑発行為は報じません。外交を捨て、軍事? 国体護持のための沖縄戦と一緒ではないか」。

37.岩上「このあとは、米軍や日本政府はどういうシナリオを描いていると?」。赤嶺「在沖米軍は尖閣には手を出さないし、中国に手は出さない。経済的に利益を求め合う関係であって、米ソのような関係ではないからです」。

38.赤嶺「政府は、武器輸出3原則を見直し、世界でビジネスをしようとしています。身近な危険はないにも関わらず、危険を煽って、軍事品の相互協力をやるという。笑っているのは軍需産業ですよ。現実的な危機は海外派兵です。米国と一緒に戦闘できる軍隊を派遣したいんです」。

39.岩上「赤嶺さんは、『侵略の定義』について安倍総理に国会で質しましたね」。赤嶺「国連でもポツダム宣言でも、侵略の定義をしているし、サンフランシスコ講話条約でも『東京裁判を受け入れる』と書いてある。安倍さんはそれを聞いて、初めて知ったという反応でした」。

40.岩上「名護市長選の展望について」。赤嶺「仮に自民党候補が市長になっても、沖縄県民と米軍基地の矛盾はなくならない。事件、事故が起こり続け、暮らしが破壊されている現実は変わらない。何の問題解決にもなりません」。

41.赤嶺「名護市民の世論で言っても、『辺野古に基地を作ってほしくない』が86%。『止む負えない』は9%。稲嶺さんは重荷を背負うことになったが、民意を代表する政治家として、誇りある道を歩んでいる。自民党は選挙に強いが、民意を表したい」。

42.赤嶺「仲井真知事の公約違反に、県民は顔をひきつらせました。ケビン・メアに『沖縄はゆすりの名人』と言われたが、あれは我々のことではない。我々の反対運動に乗じてそういうことをやる人がいる。我々はメアの言う『県民』ではない。これは、誇りを取り戻す戦いです」。

43.赤嶺「『わーばーじんいてち』…『余計な金もらって基地作らせてたまるか』と。『那覇空港の第二滑走路の予算も付けたぞ』というが、那覇空港は年間13万8000回飛行機が飛ぶ。民間機は9万回しか飛ばない。民間機だけなら、1本の滑走路で間に合う」。

44.赤嶺「南西諸島の自衛隊配備で滑走路が必要になる。つまり、日本政府にとって、作る必要がある。これは沖縄振興ではない。大学院大学にも予算つけたというが、世界で1流の大学を沖縄につけるというなら、文科省の事業のはずだ」。

45.赤嶺「沖縄にとってほしいのは『世界一』ではない、ゴーヤは、ウリミバエがいて県外に持ち出せなかった。しかし、不妊虫放飼でウリミバエを根絶し、持ちだし可能になった歴史がある。亜熱帯の農業は虫との戦い。沖縄振興は、亜熱帯を活かしたものになるはずだ」。

46.岩上「元自民党の沖縄県連顧問で、県議会議長を務めた仲里利信氏について」。赤嶺「仲里さんは、沖縄戦が歴史教科書に正しく記載されなかった時、11万人の県民大会を開いたきっかけを作った人です」。

47.赤嶺「稲嶺さんの選挙運動について『知事と議員の裏切りを糾弾するためにやる』と言っていたが、稲嶺を封じ込めようとする政府の姿勢に対する義憤だと思う。あの人は、07年の第一次安倍内閣時、『日本軍によって強制された』という記述の削除に怒った方ですから」。

48.赤嶺「当時、日本軍による集団自決強制の事実を証言する人が出てこなかった。文書類の証拠はない、生きた証言者はいますが語りたくない。そこで、仲里さんが語った。壕から日本兵によって追い出され、『毒入りのおにぎりを妹に食わせろ』と言われた、と」。

49.赤嶺「そして11万5千人の大きな県民集会になった。愛知や埼玉、福井の人たちとも連帯し、一生懸命教科書問題をやった。仲里さんと国会で懇談もし、涙を流した。政府は、沖縄県民の基地に対する感情を甘く見すぎている。誇りを賭けた戦い、絶対負けられない」。

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「【沖縄名護市長選】岩上安身による日本共産党・赤嶺政賢衆院議員インタビュー」への1件のフィードバック

  1. @kiyosiroさん(ツイッターのご意見より) より:

    これを観てください。沖縄が虐げられていること

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