【IWJ号外】欧州からの入植ユダヤ人がパレスチナの先住民の子孫であるというのは嘘だった! シオニストが虐殺しているパレスチナ人こそが、古代ユダヤ人と血の結びつきのある真のユダヤ人の末裔だった! 2024.10.5

記事公開日:2024.10.5 テキスト
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(文・IWJ編集部)

特集 中東
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 現在、イスラエル国防軍によるレバノンの地上侵攻が進んでいます。

 イスラエルは、レバノンへの侵攻を、イスラエル北部住民を、ヒズボラの脅威から守り、ヒズボラを排除して、避難しているイスラエル市民を北部に帰還させることだとして正当化を図っています。

 ヒズボラは、すでにお伝えしているように、1982年に、イスラエルがPLOを攻撃するために行った、レバノン侵攻に対する抵抗組織として誕生しました。

 イスラエルのレバノン侵攻もガザ侵攻も、先住民であるパレスチナ人を虐殺追放し、ユダヤ人中心の国家である「イスラエル」を1948年に建国したときに始まる「パレスチナ問題」が根底に存在します。

 今日、お伝えする【IWJ号外】は、歴史研究者でジャーナリストのエバン・リーフ氏が、多くの研究や歴史資料を踏まえて、ユダヤ人の国家である「イスラエル」の建国を正当化し、その後の「イスラエル」という国家形成を推進してきた「ユダヤ人のパレスチナにおける先住性」という「シオニズム」には、歴史的な根拠がまったくないことを暴露しています。

 現在のイスラエルのレバノン侵攻もガザ侵攻も、ディアスポラ(離散)したユダヤ民族の故郷への帰還という行為の結果、起きている出来事ではまったくなく、イスラエルが、本来自分たちの土地ではないレバノンやパレスチナを民族浄化していることをつまびらかにしてくれます。

 その民族浄化の目的は、先住民を虐殺し、追放し、土地を略奪し、ユダヤ教徒である、というだけのヨーロッパ系移民による定住と搾取のために、あらんかぎりの暴力をふるうことだったのです。

 今回の【IWJ号外】は、第一部です。ぜひ、お読みください。

 第二部では、さらに突っ込んで、「聖地におけるユダヤ人の先住性という概念がどのように作られたのか、その目的と、それを広めた人物たちについて取り上げる」とエバン・リーフ氏は述べています。

 ぜひ、第一部、第二部と連続してお読みください。

 以下から、エバン・リーフ氏の記事となります。


新しい人間:第一部

シオニストが別の人々を抹殺するために、いかにして新しいタイプの人間を作り出したか

 「現代において均質な集団を促進するためには、現在の共同体のすべての構成員の父親と『祖先』を時間と空間の中で結びつけるような長い物語を提供することが、他のことと並んで必要だった。

 このような密接な関係が、国家の体内で脈打っているかのように主張されているが、実際にはどの社会にも存在しなかったため、記憶の担い手たちは懸命にこれを創り上げる努力をした。

 考古学者、歴史家、人類学者の助けを借りて、様々な発見が集められた。これらはエッセイスト、ジャーナリスト、歴史小説の著者たちによって大きな化粧直しが施された。

 その整形された過去からは、誇らしく美しい国家の肖像が浮かび上がったのである」。

 他のすべての形態のファシズムと同様に、シオニズムは新しい国家を築くだけでなく、この新しい土地に住む「新しい人間」を創造することをも目的としている。

 これは国家プロジェクトでは珍しいことではなく、多くの国々が新たな「エトノス」(「ethnos(エトノス)」は、ギリシャ語に由来し、基本的に「民族」「民族集団」または「共同体」を指す言葉)を作り出そうとしているのだが、その詳細こそが問題なのだ。

 シオニストたちが信じさせようとしていることとは裏腹に、パレスチナの占領地は実際には非常に多様である。人類の定住の長い歴史の中で、無数の民族がこの地に住んでおり、今もその子孫が多く残っている。ユダヤ人とアラブ人という二元論を越えて、この地には小規模で文化的絶滅の危機に瀕している多くの民族集団がいる。例えば、サマリア人のような古代の宗派は、何千年にもわたる迫害の中で伝統を守り続けており、この事実はユダヤ人と共通の大義を持っていい理由となるはずである。

 多様な人々をまとめて共通の目的のもとに統一しようとするのではなく、シオニストたちはユダヤ人だけに奉仕する民族国家を作ろうとしている。つまり、「イスラエル」は、その市民の国家ではなく、ユダヤ人のための国家なのだ。

 もしイスラエルがその市民の国家であれば、(欧州から入植したユダヤ人である)アシュケナージ系少数派は権力の傍観者であるはずで、彼らが意図したように国家を支配することはないだろう。したがって、その自国の法律にもとづいても、いわゆる「イスラエル」という国家は、その市民の国家ではなく、ユダヤ人の国家である。

 明らかな影響を越えても、このアパルトヘイト体制は答えよりも多くの疑問を生む。この体制を一国に強制するためには、まず「ユダヤ人とは何か?」を理解する必要がある。ユダヤ教は単なる宗教なのか、それとも人種なのか? 改宗者は人種が変わるのか? その子供たちはどうなのか? なぜこの宗教だけが継承される要素を持つのか?

 シオニストの勢力は、現代のユダヤ人と古代のユダヤ人との必要なつながりを作るために、ユダヤ教の民族的定義を強調する。このつながりは彼らにとって不可欠であり、そのプロジェクト全体の土台は、先住性にある。すなわち、ユダヤ人は、古代からこの地に住んでいた先住民であり、ついに奪われた家に戻ってきたのだという考えである。これがなければ、シオニズムは実際の姿、すなわちアシュケナージ系ユダヤ人の物質的条件に合わせたファシズムの一形態であり、ユダヤ教の教義に反するものとして見られるだろう。

 「イスラエルは壁を越えて立ち上がろうとすべきではない。聖なる方、祝福されし御方は、イスラエルが世界の国々に対して立ち上がらないように戒められた。また、聖なる方、祝福されし御方は、偶像崇拝者たちがイスラエルを過度に奴隷化しないように戒められた」- ケトゥボート巻110b(「ケトゥボート」は、ユダヤ教の聖典タルムードの中の一部を指す。タルムードは複数の「巻」(トラクト)から成り立っており、「ケトゥボート」はその一つで、「結婚契約(ケトゥバ)」に関連する法律や議論をまとめた巻)

 もちろん、シオニズムに関する他のすべての事柄と同様に、この先住性という概念もまた嘘である。

 ユダヤ人がパレスチナの先住民であるとは言えないのは、ユダヤ人という存在が、一つの集団として定義できないからである。

 いわゆる「イスラエル」という国家は、世界のユダヤ人すべてを代表しているわけでも、彼らの代弁者でもない。ユダヤ教は、古くから多様な宗教であり、ローマ人によってエルサレムから追放される前から世界中に広がっていた。

 改宗者を(強制的にせよ、そうでないにせよ)常に受け入れてきた宗教として、ユダヤ教は一つの部族を代表する存在をとっくに超えて成長してきた。

 したがって、今日アパルトヘイト体制を運営するアシュケナージ系ユダヤ人が古代ユダヤ人と関係しているのは、キリスト教徒がペテロと関係しているのと同じ程度であり、ムスリムがムハンマドと関係しているのと同じ程度である。

 シオニズムの物語を終わらせるためには、その基盤にある虚偽を、歴史から分析し、明らかにする必要がある。

 そこから、シオニズムの全体的なイデオロギーは崩れ落ちるだろう。

存在しなかった出エジプト

 「パレスチナの現地住民は、セム系民族の中でもユダヤ人と最も近い人種的関係にある可能性が高い。パレスチナのファラヒーン(農民)は、ユダヤ人およびカナン人の農村人口の直系の子孫であり、ほんの少しのアラブ系の血が混じっているに過ぎない可能性が高い。

 なぜなら、アラブ人は誇り高い征服者であり、征服した国の住民とほとんど混血しなかったことが知られているからである…旅行者や観光客の証言によれば、アラビア語を除けば、セファルディ系の荷運び人とアラブの労働者またはファラヒーンを見分けることは不可能である。したがって、ディアスポラのユダヤ人とパレスチナのファラヒーンの間の人種的違いは、アシュケナージ系ユダヤ人とセファルディ系ユダヤ人の間の違いよりも顕著ではない」― ベル・ボロホフ(※)

(※)ベル・ボロホフ(Ber Borochov、1881-1917)は、ロシア出身のユダヤ人社会主義者で、シオニズムとマルクス主義を結びつけた先駆的な思想家。後のイスラエルのキブツ運動(共同農場)や、シオニスト労働党の形成に大きな影響を与えた。

 シオニストの存在において、歴史は困難な問題である。彼らがパレスチナとその何千年にも及ぶ人類の歴史にわずかな関わりしか持たないがゆえに、またはそのために、シオニストの学校では歴史の授業の代わりに聖書研究が行われている。

 聖書は国家のものとして扱われ、ユダヤ人の歴史として描かれている。現代のユダヤ人が、自分たちと聖書時代の古代ユダヤ人との間に直接的で絶え間のないつながりを引くことができるという考えは、現代国家にとって非常に重要である。

 いわゆる進歩的国家で歴史として教えられている物語は、聖書を学んだ私たち西洋人にとってもよく知られているものである。

 すべてのユダヤ人はイスラエルの地にある、強大で繁栄した王国に住んでおり、それは神自身によって彼らに約束された土地であったが、ローマ人による第二神殿の破壊によってユダヤ人が追放され、約2000年にわたる離散が始まった、という話である。

 シオニストによれば、現代のユダヤ人がパレスチナに戻ることは、反植民地運動であり、ユダヤ人に対する何千年にもわたる不当を正すものであるとされている。

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 現実はそう単純ではない。

 古代ローマ人の罪を、現代のパレスチナ人に償わせるのは馬鹿げているという事実を超えて、この物語のほとんどが実際には起こらなかったというさらに大きな問題がある。

 第二神殿の破壊は実際にあったが、その後にユダヤ人の追放は行われなかった。実際、ユダヤ人は132年にバル・コクバの乱として知られる別の反乱を起こし、第二神殿の破壊から約70年後に、この反乱の余波でローマ政府はエルサレムからユダヤ人男性を追放した。ローマ人がユダヤ人を追放したのはこれが最も近い出来事だった。

 ここで、私たちが知る歴史が、決して完全な物語ではないことを指摘するのは有益である。識字率が低く、書くことが労力を要する作業だった時代には、裕福な者だけが自らの物語を記録に残すことができた。実際、人類の歴史の大部分が失われ、存在を記録に残す手段を持たなかった人々の物語は埋もれてしまっている。

 エルサレムからの追放は、迫害を訴える物語を記す資金と教育を持っていた裕福で聖職に従事する層にとっては世界の終わりのように見えたが、当時のユダヤの人々の大多数は、単なる農民だった。土地を耕し、羊を飼う人々はエルサレムの住民ではなく、この追放の影響を受けることはなかった。農民層はそのまま居住地に留まり、生活を続けていた。

 イスラエル国家の設立以前には、この事実はシオニスト歴史家の間でも受け入れられていた。初期かつ最も影響力のあるシオニスト歴史家の一人であるイスラエル・ベルキンド(※)の言葉を引用すると、

(※)イスラエル・ベルキンド(Israel Belkind(1861-1929))は、ロシア帝国出身のユダヤ人で、近代シオニズム運動の初期の先駆者。彼は、パレスチナにおけるユダヤ人の入植と民族的再生を推進した人物で、「ビル農場運動」(Bilu Movement)を創設した。ビル運動は、ユダヤ人が故地であるパレスチナに戻り、土地を開墾して農業を営むことでユダヤ人国家の礎を築くことを目的としていた。

 「その土地は、宗教が国よりも優先されるトーラーの学者や上層階級の人々によって放棄された。おそらく、都市の流動的な人々も多くがそうしたかもしれない。しかし、土地を耕す農民たちは、その土地にしっかりと結びついていた」。

 歴史を学ぶ際に、現代の法や主権の概念が古代の人々にも当てはまると考える傾向がある。しかし、これは単純に事実ではない。

 1世紀のユダヤの農民の平均的な生活には国家との関わりがほとんどなく、さらに、当時の他の多くの国々よりも、はるかに発展した官僚機構を持つローマでさえ、都市の外でその命令を強制する力はほとんどなかった。エルサレムで何が起ころうとも、土地で生活し働く農民たちの生活に顕著な変化はなかった。

 加えて、すでにエルサレムの外、さらにはユダヤ自体の外にも大きなユダヤ人コミュニティが存在していた。ユダヤ教における布教の禁止が登場するのは、もっと後の時代のことである。

 この時代には積極的に改宗者を求めており、経済的機会を求めて人々が自然に流動していたことも相まって、ローマ帝国内の至る所にユダヤ人のコミュニティが存在していた。ユダヤ系ローマ人の歴史家ヨセフスは、自著『ユダヤ古代誌』の中でこう書いている。

 「キュレネ(※)には4つの階層の人々がいた。それは市民、農民、異邦人、そしてユダヤ人である。今やこのユダヤ人たちは、すでにすべての都市に広がっており、地上のどこにもこの部族を受け入れていない場所を見つけるのは難しい。そして、エジプトやキュレネは同じ統治者を持ち、多くの他の国々と共に、彼らの生活様式を模倣し、独自の方法で多くのユダヤ人を支え、彼らと共により大きな繁栄を築き、ユダヤ人の国と同じ法律をも使用している。従って、エジプトではユダヤ人が住む場所が指定されており、アレクサンドリアでも特別にこの民族に割り当てられた地域があるが、それはこの都市の大部分を占めている」。

(※)キュレネ(Cyrene)は、古代ギリシャとローマの都市で、現在のリビアに位置していた。紀元前7世紀頃にギリシャ人植民者によって建設され、北アフリカ地域の重要な文化と経済の中心地として繁栄した。特に学問、芸術、医療の発展で知られており、キュレネ出身の著名な人物として数学者エラトステネスがいる。

 ユダヤ地方の農村地帯に住む牧畜民と同様に、これらのユダヤ人(ローマ帝国内のユダヤ人)も、エルサレムで起こった出来事の影響を受けることはなかった。

 アレクサンドリアでのもう一つの反乱が大きな流血を招いたものの、ユダヤ人共同体はそこに留まっただけでなく、ビザンツ統治下でも成長を続けた。アラブの征服が行われた639年までには、この都市(アレキサンドリア)には約40万人のユダヤ人が住んでいたと歴史家たちは推定している(※)。

(※)この文章は、ローマ帝国やその後のビザンツ帝国、さらにはアラブの征服に至るまで、ユダヤ人がパレスチナ地方だけでなく、広範な地域にわたって存在していたことを示している。

 ユダヤ地方がローマ帝国の支配下に入ったのは、紀元前63年にポンペイウスがエルサレムを占領した時期からである。紀元70年に起こった第一次ユダヤ戦争でエルサレムが陥落し、第二神殿が破壊された。さらに、132年から135年にかけて発生したバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)では、ユダヤ人のエルサレムへの居住が制限され、ローマ帝国の政策としてユダヤ人の離散が進んだ。

 ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、パレスチナ地域を含む東方の領土を支配するようになった。ビザンツ帝国の支配下におけるユダヤ人の生活は宗教的・政治的な迫害にさらされることが多く、特にユスティニアヌス1世(527―565年)の時代には、ユダヤ教の儀式や慣習に対する制限が強化された。

 7世紀初頭、イスラム教の拡大とともにアラブ軍がビザンツ帝国の支配地域に侵攻し、パレスチナ地域を含む広範な領土を征服した。639年にはアラブ軍が、エジプトのアレクサンドリアを含む地域を支配し、この征服により、パレスチナやエジプトのユダヤ人はイスラムの保護下に置かれることとなった。

 ビザンツ当局はユダヤ人を完全に追放したり、根絶したりするには至らなかったが、抑圧と迫害はしばしば厳しかった。この状況はムスリムの征服がもたらした長い平和の時代まで、何らかの形で続いていた。

 ムスリム統治下において、シオニズム運動の大きな神話の一つ、すなわちユダヤ人とムスリムの間には古代からの敵対関係があるという考えが覆された。

 この考えはまったくの誤りである。ユダヤのいくつかの部族は、ムハンマドの軍と戦ったが、他の部族は新たな征服者を解放者のように受け入れた。

 当時の記録には、イスラエルの民がムスリム軍の中にいたことが確認され、ムスリム軍がユダヤ人に対して穏やかで、ユダヤ教の聖地を保護していたと記されている。この時代から残っている遺物の一つには、当時のユダヤ人が書いた手紙があり、彼はムスリム軍を「全能の神が遣わしたもの」と称していた。

 「私たちを助けるように霊感を与えたのは神であった。彼らが広がり、エドムの手(※)からインドの地を奪い、エルサレムに到達したとき、彼らの中にイスラエルの民もいた。彼らはイスラエルの民に神殿の場所を教え、それ以来共に住んでいる。彼らは、神殿の場所をいかなる汚れからも守り、その門で祈ることを条件とし、誰もそれに異を唱えることはなかった」― シュロモ・サンド『ユダヤ人の発明』(※)

(※)エドムの手(the hand of Edom)とは、古代イスラエルの南に位置したエドム人の国を指し、聖書ではしばしばイスラエルの敵対者として描かれている。また、後のユダヤ教文学や歴史的文献では、「エドム」はしばしばローマ帝国やキリスト教世界の象徴としても使われた。

(※)シュロモ・サンド(Shlomo Sand、1946年生まれ)は、イスラエルの歴史学者で、特にイスラエルの民族アイデンティティやユダヤ人の歴史に関する見解で知られている。テルアビブ大学で歴史学の教授を務め、『ユダヤ人の発明』(The Invention of the Jewish People)や『イスラエルの発明』(The Invention of the Land of Israel)といった著書で、広く議論を巻き起こした。

 それ以来、ユダヤ人とムスリムは、聖地だけでなく、他のすべてのイスラム圏でも主に平和に共存してきた。預言者ムハンマド自身が、ユダヤ教徒やキリスト教徒に危害を加えないよう信者に命じていた。ムスリムの支配下でユダヤ人の人口は減少し始めたが、それは殺害や追放によるものではなく、課税による改宗によるものだった。『啓典の民』(ユダヤ教徒とキリスト教徒)は、保護の名目で特別な税を支払う義務があり、ムスリムはこれから免除されていた。このような動機づけから、ユダヤ人の多くが剣を突きつけられることなく自発的にイスラム教に改宗した。

 これが、シオニズム計画の大きな皮肉の一つにつながる。シオニストが無慈悲に虐殺し、抑圧しているパレスチナ人こそが、真のユダヤ人の末裔であることが多いのだ。彼らの先祖は遥か昔にイスラム教に改宗し、先祖代々の土地で生活を続け、聖書時代にまで遡る純粋で途切れのない系譜を持っている。

 この事実は、かつてシオニスト歴史家たち自身も認めていた。シオニスト国家の創設者の一人であり、初代首相であるダビデ・ベングリオンも、目の前の真実を無視することはできなかった。

 ベングリオンは、シオニスト国家内部で今も尊敬される人物だが、もし彼が今日生きていたなら、政権の狂信者たちによってその信念はほとんど異端と見なされるだろう。

 「ファラヒーン(農民)は、7世紀にエレツ・イスラエルとシリアを征服したアラブの征服者たちの子孫ではない。アラブの勝者たちは、国内の農業人口を破壊することなく、外国人であるビザンツの支配者だけを追放し、現地の住民には手を触れなかった。

 また、アラブ人は定住を目的としてはいなかった。彼らの故郷でさえ、アラブ人は農業に従事しておらず…新しい土地で農民を定住させることも求めなかった。彼らが新しい土地に興味を持ったのは、政治的、宗教的、そして物質的な理由であり、支配し、イスラム教を広め、税を徴収するためであった」。 ―ダビデ・ベングリオン『過去と現在のエレツ・イスラエル』

 このような歴史は、単純な結論に至る。聖書の時代のユダヤの人々との血のつながりがユダヤ人の資格を与えるものであるならば、パレスチナ人こそがユダヤ人と見なされるべきであり、多くのイスラエル人はそうではないということになる。

 シオニズムが、先住性に根ざしているのであれば、その目標はパレスチナ人を彼らの故郷に帰還させることになるはずだ。

 しかし、これはシオニズムの真の目的ではない。真の目的は、土地を浄化し、ヨーロッパ系移民による定住と搾取のために解放することである。

 一つの疑問に答えると、また新たな疑問が浮かび上がるようだ。シオニスト達の先住性の主張の根拠を崩した今、さらに多くの疑問が残る。

 最も重要なのは、私達がどのようにして現在の状況に至ったのかということだ。初期のシオニスト達は、パレスチナ人が先住民であるという事実を受け入れていたが、いつ、なぜその認識が変わったのか。

 次の記事では、聖地におけるユダヤ人の先住性という概念がどのように作られたのか、その目的と、それを広めた人物たちについて取り上げる。

 現在、シオニストたちがレバノンを蹂躙し、先住セム系の人々を何百人も殺害している中で、このような思想的な議論は無意味に思えるかもしれない。

 しかし、私はこの議論が非常に重要であると信じている。シオニズムの国家は、その虐殺的行為に正当性を与えるために、このイデオロギーを必要としている。

 これを証明するのは、彼らが宣伝に費やしている莫大な資源だ。シオニズム国家は、ユダヤ人の先住性を法としても明文化している。もしこれがシオニズム計画にとって重要でなければ、なぜそこまで多くの資金と資源を費やしているのだろうか?

 答えは単純だ。先住性に根ざした彼らのプロパガンダがなければ、シオニストたちは本来の姿、つまり自分たちの土地でない場所を民族浄化する虐殺的なファシストとして見られるだろう。

 人々が現実を直視し、認識を変えれば、シオニズム計画への支持は消えていく。

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