2023年12月2日午後2時30分頃より、東京都国分寺市の北多摩西教育会館にて、「平和のための学習会 塩原俊彦さんが語る『ウクライナ戦争をどうみるか』」が開催された。
元新聞記者でモスクワ特派員を務めた塩原俊彦氏は、ウクライナ研究の第一人者であり、『知られざる地政学〜覇権国アメリカの秘密』(社会評論社、2023年)、『ウクライナ戦争をどうみるか〜「情報リテラシー」の視点から読み解くロシア・ウクライナの実態』(花伝社、2023年)といった近著のほか、『プーチン3.0 殺戮と破壊への衝動〜ウクライナ戦争はなぜ勃発したか』、『ウクライナ3.0 米国・NATOの代理戦争の裏側』、『復讐としてのウクライナ戦争〜戦争の政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁』(いずれも社会評論社、2022年)や、日本語、英語、ロシア語の論文、および多数の著書がある。
塩原氏は、講演の冒頭、次のように述べた。
「最初に、ウクライナ問題を理解していただく上において、最も基礎的な知識をお持ちいただくためのご説明から入りたいと思います。
ここにリヴィウというのがあって、これはウクライナ戦争が始まってから急速に知られるところになった町であると思いますが、ウクライナ語でリヴィウ、ロシア語でリヴォフ、ポーランド語でルボフという町なのですが、実は、ウクライナ戦争なり、2014年に起きたウクライナ危機といったようなものすべて、第2次大戦後というか、ヤルタで1945年2月に行われた会談で、戦後の領土を決めたわけですけれども、この領土の決定というのが、ウクライナ問題を考える上で、核心となっているという説明を、まず、しておきたいわけです。
どういうことかというと、ここにカルパチア山脈(ポーランド・スロバキア国境から、ウクライナ西部、ルーマニア北部にまたがる山脈)というのがあって、ここ(ウクライナの西側)にハンガリーがあるんですけれども、実は、このカルパチア山脈の西側にはハンガリー人がたくさん住んでいます。
つまり、常識として考えれば、そのヤルタ会談で、このカルパチア山脈の西部をウクライナ領としたということは大きな間違いなんですね。どう考えても。
そして、先ほど申し上げたリヴィウというのは、ポーランド国境まで100キロぐらいしか離れていません。ポーランドに非常に近いところで、何でこんなところをウクライナ領にしたのかという、非常に大きな疑念がある地域なわけです。
非常に率直に言ってしまうと、ヤルタ会談におけるフランクリン・ルーズベルトというのは、病床で国連創設だけを重視していて、妥協に妥協を重ねて、スターリンの言うがままに、スターリンにこういう領土を、言ってみれば『あげた』わけですね。
そのかわり、国連を創設したと。
非常に有名な話では、アメリカの代表団の中には、ホワイト(ハリー・デクスター・ホワイト)のような、ソ連のスパイがいたりして、スターリン側は、フランクリン・ルーズベルトが何を考えているのか、非常によく知っていたと。で、言ってみれば、この、まったくハンガリー人が多いようなところも、ウクライナ領にしてしまったということが、実はずっと引いている。
それは、どういうことを意味するかというと、ウクライナ語というのとすごく関わりがあって、実は、ウクライナ語というのは、こちらのドン川(ロシアのモスクワ南東からアゾフ海へ流れる川)の北部のロシア語と、もっと南部の言葉とが混成して、そもそもは成り立ったと言われているのですが、それが、このウクライナ西部において、リトアニア、ポーランド、オーストリア、ハンガリーの影響を受けて、ウクライナ語が発達するということで、この辺に住んでいる人たちは、ウクライナ語というのを話す、母語とするということがあったわけです。
それに対して1921年から、ソビエト連邦という中に帰属していたウクライナの人たちは、ロシア語の影響を非常に強く受けると、しかも、穀倉地帯であったり、石炭・天然ガスがとれるこのドンバスと呼ばれるような地域は、そういう意味で、ソビエト連邦にとって極めて重要な地域となったというようなことがある。
その結果として、ウクライナ語を話すような地域の人たちというのは、非常に虐げられるというようなことがあって、それが、実はアメリカの外交戦略上、こういう虐げられた人たちをたきつけて、ナショナリズムをたきつけて、という話につながっているんですが、それはこれからお話しいたします。
わかりやすい話として言えば、このリヴィウの近くに生まれた人に、バンデーラ(ウクライナの政治家で、ウクライナ民族解放運動の指導者のステパーン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ)という人がいて、この人がウクライナ独立運動に非常に深くかかわっていた。
ナチスドイツと協力して、ソ連に歯向かう中で、ウクライナの独立を求めようとし、ユダヤ人虐殺をしたとも言われているような人物が、こういうところから出ています。(中略)
たとえば、2010年に大統領になって、2014年にクーデターによってウクライナを追い出されたヤヌコビッチ(ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ)というのがいますけれども、このヤヌコビッチ大統領は、このドンバス出身で、要するに、ロシア語を母語とするような人ですね。
そのあと、2014年の5月に大統領になったポロシェンコ(ペトロ・オレクシーヨヴィチ・ポロシェンコ)というのは、もともとはこの辺(オデッサ)で生まれて、そして、この辺(南西部ヴィーンヌィツャ)で育った人物で、その後、したがって、ポロシェンコという大統領は、非常によくウクライナ語を話すのですけれども、今大統領をやっているゼレンスキー(ウォロディミル・オレクサンドロヴィチ・ゼレンスキー)というのは、この辺(ドニプロ川中流ドニプロペトロウシク州)の出身で、本来であれば、ウクライナ語よりもロシア語の方がずっとうまく話せる。そういう人物。
つまり、『ウクライナ語がどのようにウクライナに広まっていったか』というようなことを考えると、実は、ウクライナの情勢が非常によくわかるということを、まず頭に置いておいてほしいと思います」。
塩原氏の講演、その後の質疑応答など、詳細については全編動画を御覧いただきたい。