木戸ダム建設工事の前田建設工業への受注をめぐる収賄事件で、2012年10月、佐藤栄佐久前福島県知事の有罪が確定した。佐藤氏はこの件について、一貫して「冤罪である」と主張しており、世間では「佐藤さんは反原発派だから、東京地検特捜部に狙い撃ちされた」と見る向きが少なくない。
しかしながら佐藤氏は、1983年の参院選に、原発推進を党是とする自由民主党の公認で福島県選挙区から出馬し、当選したことで政治家人生をスタートさせた経歴を持つ。つまり議員時代は、少なくとも技術の面から日本の原発政策に異を唱えていたわけではない。
2011年3月20日、東日本大震災から1週間余りが過ぎた福島県郡山市内で、岩上安身からインタビューを受けた佐藤前知事は、在任中の複数の体験が、原発をめぐる国と東京電力の姿勢に強い不信感を抱かせことに言及。福島原発事故が象徴するように、いったん原発に事故が起これば、立地自治体の住民が最大の被害者になるにもかかわらず、中央政府の、それもひと握りの官僚の意向で進められてしまうのが、日本の原発政策である――と訴えた。
中央政府は約束を守らない
「福島県知事時代、原子力発電自体には反対ではなかった。それは(使用済み核燃料の再処理で抽出したプルトニウムと、ウランを混合したMOX燃料を使う核燃料リサイクル型発電である)プルサーマル計画についても同じだった」。
佐藤前知事は在任中の1998年に、全国で初めてプルサーマルの受け入れを表明した。ところが、国に呈示した、1. MOX燃料の品質管理、2. 作業員の被曝低減、3. 使用済みMOX燃料対策の長期的展望の明確化、4. 核燃料サイクルに関する国民理解の促進──の4つの前提条件が、次々に反故にされていったのを受け、東京電力との間に軋轢が生じるようになっていったという。そして2001年、プルサーマルの受け入れを凍結した。
もっとも、佐藤氏の原発政策での東電、そして国への不信感は、そのさらに前から芽生えている。
インタビューで、知事就任2年目の1989年に起きた福島第二原発での部品脱落事故で、地元になかなか情報が入ってこなかった一件に触れた佐藤前知事は、「その時すでに『これでは、とても(原発が立地する)地元の住民の安心安全を守れない』と実感した」と述べた(だからこそ、プルサーマル受け入れでは、4条件を示した)。
その上で1991年に、同種の事故が福井県にある美浜原発(関西電力)でも起きたことを紹介。「航空業界では当たり前に行われてきた、重大事故から得た教訓の共有化が、電力業界では一切行われていないことが、その時によくわかった」とも語った。
「福島の気持ちを察してほしい」
佐藤前知事は、任期中には気がつかなかった点があることを認めた。「3.11の福島原発事故でマスコミが報じている、使用済み核燃料プールへの貯蔵に関しては、自分は知事時代に、その危険性を十分理解しておらず、貯蔵庫を福島の原発内に作りたいという東電の要望を承諾してしまった」。
それは1994年のことで、承諾の際に「2010年には使用済み核燃料を専門の施設に移す」と当時の通産省から説明を受けたが、半年後には「2010年に検討する」に変更されてしまったという。
「当時、通産省と県が約束したことが、わずか半年で、一方的に変えられてしまう現実にショックを受けた。つまり、日本の原発政策は、その立地自体が激しく抵抗運動をしない限りは、一部の官僚の意のままに進められていくのだ」。