IWJ代表の岩上安身です。
ロバート・ケネディ・ジュニア氏がボストンで大統領予備選立候補発表後に行ったスピーチは、米国最良の精神は、アメリカ独立戦争の精神であり、独立戦争は大英帝国に対する反乱というだけではなく、国家権力と企業権力の腐敗した癒着に対する植民地人の怒りだったと訴える、歴史的なスピーチでした。このスピーチは、ロバート・ケネディ・ジュニア氏が、この精神の正当な継承者であることを示すものです。
この歴史的なスピーチの全文仮訳をIWJは進めています。ここに第4回をお送りします。ぜひ、お読みください。
第4回では、ケネディ・ジュニア氏の実の父親であるロバート・ケネディ元司法長官の暗殺直後の様子や、キング牧師との交流関係などが詳細に語られます。キング牧師の暗殺からケネディ司法長官の暗殺まで、2ヵ月しか経っていません。
立て続けに、アメリカ史上の重要人物が暗殺され、しかも、犯人とされる人物の背後関係や動機には、現在も不明な部分が残ります。
ロバート・ケネディ元司法長官の兄のジョン・F・ケネディ元大統領の暗殺についても、暗殺から60年経った現在でも、暗殺事件に関する公式の『ウォーレン報告書』に疑義を唱える新しい目撃証言が出ています。
ロバート・ケネディ・ジュニア氏は、自身のXアカウント(旧ツイッター)に、9月10日、次のように投稿しています。
「魔法の弾丸説はもはや死んだ。この荒唐無稽な仮説は、私の叔父(※ジョン・F・ケネディ大統領のこと)が解雇したアレン・ダレス元CIA長官の指示の下、60年前にウォーレン委員会が提唱して以来、単独犯によるケネディ大統領殺害説の主軸として機能してきた。JFKのシークレット・サービスの護衛者、ポール・ランディスによる最近の暴露は、ウォーレン報告書の最後の孤独な擁護者であるニューヨーク・タイムズ紙にさえ、ついにその不合理を認めさせた」
ウォーレン委員会は、その日発射された弾丸のうちの1発が大統領の背後から命中し、喉の前方から出て、そのまま、同乗していたコナリー・テキサス州知事に命中し、どういうわけか背中、胸、手首、大腿部を負傷させたと決定しました。
たった一発の弾丸で、これだけのことができるのは信じがたいと思われたので、懐疑論者たちはこれを「魔法の弾丸説」と呼んだのです。
シークレット・サービスの護衛者、ポール・ランディス氏の新証言は、ジョン・F・ケネディ元大統領を暗殺したのは、単独犯として名のあがったリー・ハーヴェイ・オズワルドだけではなく、複数の犯人が複数の弾丸で、ケネディ元大統領とコナリー・テキサス州知事に発砲した可能性を示唆しています。
ロバート・ケネディ・ジュニア氏の「ボストン・スピーチ」第4回では、ケネディ氏の活動の原点である環境問題も語られます。
環境法律家として最初に取り組んだNAACP(全国有色人種向上協会)の訴訟案件で、ケネディ氏は「この訴訟を通じ、私は、わが国の有毒廃棄物処理場の5つに4つが、黒人居住区にあることを知りました」という非常に重要な事実を述べています。
アメリカ国内の黒人差別が、環境問題と重なり合っている事実が、はっきりと指摘されました。レイシズムと環境問題は、不可分の問題なのです。
詳しくは、ぜひ、以下の第4回号外をお読みください。
第1回は以下のURLから御覧になれます。
第2回は以下のURLから御覧になれます。
第3回は以下のURLから御覧になれます。
以下から、第4回の仮訳となります。
- Campaign 2024 Robert Kennedy Jr. Announces 2024 Presidential Campaign(C-SPAN、2023年6月1日閲覧)
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「父(ロバート・ケネディ元司法長官)が死んだ時、私はロサンゼルスで父と一緒にいました。私たちは、父をハンフリー副大統領の飛行機に乗せて、国道2号線づたいにニューヨークまで運び、聖パトリック大聖堂で彼らを起こして、それから、ニューヨークのペンシルベニア駅からワシントンのユニオン駅まで運びました。通常なら、列車で2時間半ほどですが、その時は7時間半もかかりました。200万人もの人々が、沿線に駆けつけていたからです。
私は14歳の少年でしたが、その日、列車の窓から見た光景を決して忘れないでしょう。都市の鉄道駅ではどこも、それこそトレントンでもニューアークでもフィラデルフィアでもボルチモアでも、黒人・白人の別なく人々が大勢集まり、『リパブリック賛歌』(※IWJ注1)を歌っていたのです」。
(※IWJ注1)リパブリック賛歌は、奴隷廃止論者の作家ジュリア・ウォード・ハウによって書かれたポピュラーなアメリカの愛国歌。
「地方では、軍服姿の白人がいました。黒人もいましたし、ラビや司祭の姿もありました。デラウェアでは、7人の修道女が黄色い貨物自動車の後ろに立って、私たちが通り過ぎる間、ハンカチを振り続けていたのを覚えています。少年野球の試合をしているところを通り過ぎた時には、両チームの子どもたちとコーチ全員が、そしてスタンドにいた観戦者の全員が立ち上がり、手を胸に置いて、敬意を示してくれたことを思い出します。
ボーイスカウトの隊、軍の将校たちや人員、タイダイ染め(※IWJ注2)のTシャツ姿のヒッピーたち、赤ちゃんを高く持ち上げる母親たちの姿も、目にしました。彼らの多くがアメリカ国旗を手にしていました。彼らの多くが、『さよなら、ボビー、どうか私たちのために祈ってください』と、身振りで示していました。
ワシントンのユニオン駅に着くと、そこには、ジョンソン大統領が迎えに来てくれていました。私たちはモール(※IWJ注3)を通って、父の遺体を運び上げました」。
(※IWJ注2)タイダイ染めとは、「布生地を縛って(Tie)染められた(Dye)」染め物のこと。染色前に布生地を折ったり縛ったりすることで、あらゆる模様を生み出す。手作業で染め上げることから、同じデザインのものが、2つとないことが特徴。
(※IWJ注3)モールとは、ワシントンD.C.中心部にある国立公園「ナショナル・モール」のこと。北東にユニオン駅がある。
「その3ヶ月前、父はマーチン・ルーサー・キングと協議し、父の協力者のひとりだったマリアン・ライト・エデルマン(※IWJ注4)と組んで団結することを決めていました。
彼らは、ベトナム戦争が対貧困戦争を破壊するものと考えていました。これ(ベトナム戦争)が、カネというカネを吸い上げていました。だから、ジョンソン大統領は、事実上、この対貧困戦争のプラグを抜く[打ち切る]必要があったのです。
そこで、父はマーチンに言いました。『貧困層が、政治的に参加できるようになるまでは、この国で、権利を手にすることはないでしょう。私たちが、2年前、5年前に公民権運動を展開したように、貧しい人々のための運動(※IWJ注5)を行おうではありませんか。彼らをみんなワシントンに呼び集めましょう』」。
(※IWJ注4)マリアン・ライト・エデルマン(Marian Wright Edelman、1939年6月6日生まれ)は、公民権と子どもの権利のためのアメリカの活動家。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアなどの指導者に影響を与えた。
(※IWJ注5)貧困層の経済的不公正の是正と地位向上を求めた運動「貧者の行進(Poor People’s Campaign)」のこと。キング牧師の暗殺(1968年4月4日)直後、ロバート・フランシス・ケネディ暗殺(1968年6月6日)の約ひと月前の1968年4月29日に実施された。
「そういうわけで、貧しい人たちが、それこそ何千人も、ナショナル・モールのそばに集結し露営していたのですが、私たちは、そんな彼らの前を通り過ぎていきました。ご存知のとおり、マーチンが死んだのはそのひと月前、いや、ひと月半前でした。今度は父が死んだのです。
私たちの車が、彼らの前を通り過ぎる時、彼らはみんな歩道に退いて、うやうやしく帽子を胸に捧げ持ち、頭を下げました。私たちはそんな中を、父を運び進んでいったのです。丘を上り、橋(アーリントン・メモリアル橋)をわたってアーリントン(アーリントン国立墓地)へと。そこで父を埋葬しました。父の兄が眠るそのすぐ横、簡素な墓石の下に。
4年後、私はここで大学に入り、米国史を勉強するようになりました。そうするうちに、人口統計データに触れる機会があったのですが、そこでは、[父の遺体を運んだ]あの鉄道の線路に並んでいた白人たち、1968年の民主党候補指名戦で父を支持した白人たちのほとんどが、4年後の1972年の大統領選では、父と非常に密接に連帯していたジョージ・マクガヴァン(※注6)ではなく、熱烈な分離主義者で父の信念とはことごとく対立していたジョージ・ウォレス(※IWJ注7)に票を投じたことが示されていたのです。
その時、心に浮かんできた考えに、私は何度も打ちのめされました。すべての個人がそうであるように、どんな国家も闇の側面と光の側面をもっている。ですから、政治家にとって最も安易なやり方は、怒り、偏狭、憎しみ、欲望といった、私たちの人格のうちにある下級の天使たち、闇の天使たちに訴えかけることなんだ、と」。
(※IWJ注6)ジョージ・マクガヴァン(George Stanley McGovern、1922-2012)は、アメリカの歴史家、サウスダコタ州の政治家で、連邦下院議員、上院議員を3期務め、1972年の大統領選挙では民主党の大統領候補となった。
(※IWJ注7)ジョージ・ウォレス(George Corley Wallace Jr.、1919―1998)は、アメリカ合衆国の政治家。アラバマ州知事を4度務め、1968年アメリカ合衆国大統領選挙では、独立党(深南部に基盤を置く極右政党)の大統領候補であった。1965年にアラバマ州セルマから始まった、キング牧師率いる公民権運動のデモ行進「セルマ大行進」に対して、あらゆる手段を使ってデモを停止させると宣言。民兵が催涙ガスなどを発射し、65人が負傷する惨事となる「血の日曜日事件」を引き起こした。
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