(2)訪米2日目前編:全ては、19年前に始まった;バークレー・沖縄、草の根の交流が新たな連帯を産む瞬間〜サンフランシスコ市議訪問 2016.1.2

記事公開日:2016.1.2取材地: | | テキスト動画独自
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(山本愛穂)

 ――遠い米国の地で、沖縄支援決議が続いています。

 訪米取材帰国後から新年スタートの本連載に向け、準備を進めている11月末から年末までのわずか1か月の間に、米国市議会による「沖縄支援決議」に関する報道を2つも目にすることになりました。

 まずは、ハワイ州ホノルル市議会。辺野古新基地建設に反対する決議案が審議されるというニュースです。12月15日付の琉球新報によれば、決議案は沖縄県の大きな基地負担に言及し、米国政府に建設計画の検証を求める内容であるとのことです。審議は今月12日に開催される公聴会で行われる予定で、早ければ1月末に可決される可能性があるそうです。

 ハワイ州には、1883年、最後の女王となったリリウオカラニが米国との不平等条約を撤廃する動きを見せた後のクーデターと現地住民の虐殺を経て、米国へと併合された植民地被支配の歴史があります。

▲1860年頃のリリウオカラニ女王。サンフランシスコにて。=画像1=(※WIKIMEDIA COMMONSより画像引用)

 併合された後、米国による太平洋軍事網の拠点とされ、1941年12月8日(現地時間12月7日未明)には、ハワイ・オワフ島の真珠湾岸に建設された大海軍基地を日本軍に奇襲攻撃されて、多大な損害を受けました。

▲1941年12月8日(現地時間7日未明)、日本軍による真珠湾岸攻撃の様子=画像2=(※WIKIMEDIA COMMONSより画像引用)

 このようなハワイ州の歴史を振り返ると、ハワイと同じように独自の民族と文化を持つ独立国家であった琉球王国の日本併合(琉球処分:1872年~1879年)と、沖縄戦での多大な被害、そして戦後、米軍基地が集中的に建設され、その重い負担に苦しんできた沖縄の歴史とが重なりあってきます。

▲尚真王(しょうしんおう)、琉球王国第二尚氏王統第三代国王画(1796年)=画像3=(※WIKIMEDIA COMMONSより画像引用)

 ホノルル市による米軍の新基地建設に反対、沖縄を支援する決議審議を考える際は、両地域の歴史と現状に大きな影響を及ぼしている米国の「パシフィック・ピボット=アジア太平洋戦略」について考える必要があるでしょう。

 そして、もうひとつのニュースは、現地時間12月21日、東海岸マサチューセッツ州ケンブリッジ市議会が、辺野古新基地建設への反対決議を採択したというものです。

前回の連載でも取り上げたバークレー市での支援決議に次ぐ全米二都市目の決議採択であり、西海岸ではなく、東海岸での決議採択であることにも注目したいと思います。他の市議会への働きかけを明記したバークレー市決議が作用したのかどうかについて、IWJとしても今後調査したいところです。

 こうした決議案提出の背景には、「現地市民や県系人の働きかけがあった」と、本土でも東京新聞などが報じています。しかし、”ニュースのこちら側”にいる読者や視聴者にとっては、果たしてそこでどのような”働きかけ”があったのか、そもそも”働きかけ”とはいったい何を指すのか、そして”働きかけ”までに至った経緯やきっかけはどのようなものだったのか、何も述べられていないので、漠然としすぎていて理解しにくいのではないでしょうか。

 ここで、時計の針を1か月前へ、サンフランシスコ市を舞台に島ぐるみ会議訪米団が精力的な活動を行っていた頃に戻します。

 連載第2回目の今日は、従軍慰安婦問題に熱心なサンフランシスコ市議との会談において、島ぐるみ会議訪米団の高里鈴代氏がスピーチした内容を踏まえながら、今回の会談がセッティングされた経緯と19年前のロビーイング活動スタートの原点との関わり、さらに現場で新しいアイデアや人とのつながりが生まれる瞬間をレポートします。

※2015年11月16日(現地時間)の訪米団訪問の模様を2016年1月2日に配信しました。

■ハイライト

  • タイトル 島ぐるみ会議訪米取材(2) 〜滞在2日目:サンフランシスコ市議会訪問
  • 日時 2015年11月16日(月)現地時間 11:00〜
  • 場所 サンフランシスコ市内(米カリフォルニア州)

サンフランシスコ市議との会談へ

▲サンフランシスコ市シティホールへ向かう訪米団 =写真1=

 朝食を終えた午前10時、シビック・センター(Civic Center)地下鉄駅前にある滞在先ホテルを島ぐるみ会議メンバーが出発しました。現地時間2015年11月16日、参加者は20名。残りの6名は、吉川秀樹氏(沖縄・生物多様性市民ネットワーク事務局長)を中心に、既に2時間ほど前、オークランド市にある生物多様性センターへ向かっていました。「シティホールは、すぐ近くだから」と、現場まで徒歩で向かうことを朝のミーティングで聞きました。

 当日は湿度の低い、秋晴れ。5分程歩くと、並木道と国旗の列の向こうにホワイトHハウスかと見まがうほどの白い荘厳な建物が見えました。サンフランシスコ市議会との会談は、シティ・ホールにおいて、現地時間午前11時より、約1時間に渡り開催されました。

エリック・マー市議によるスピーチ~米国陸軍に所属していた父、非戦の想い

▲歓迎のスピーチを行なうエリック・マー市会議員=写真2=

 入口で空港のようなゲートを潜り、セキュリティチェックを受けてからエレベータで2Fのカンファレンスルームへ。島ぐるみ会議メンバーと、エリック・マー市議を筆頭としたサンフランシスコ市議会メンバーが長い机を挟み、向かい合わせに着席しました。

 冒頭で、マー市議は今回の会談に、11名のサンフランシスコ市会議員の中から3名の市議、1名の議員代理、裁判官1名が出席することを述べ、島ぐるみ会議訪米団を歓迎するスピーチを行いました。

 まず、マー市議が、第二次大戦中に米陸軍航空隊員として太平洋戦争の戦線に派遣された父親の経歴について、用意した写真を掲げながら説明しました。「父は米陸軍、米国の太平洋支配のみならず、日本の植民地支配に対する戦いについても語る人でした」。

 そう述べながら、 沖縄について、「沖縄の人達は数百年間、日本のみならず、70年間に及ぶ米国支配からも、文化や言語を守り続けてきだのだと私は思っており、敬意を表します」と話しました。

 自分の指につけた2本のリングを見せながら、マー市議はそのうちのひとつについて、彼の祖父が父に与えたものであり、父は「米国陸軍に所属しながら、米国のみならず世界における軍隊の圧政でもたらされた悲しみを覚える人だった」と述べました。

エリック・マー市議~「島ぐるみ会議がとても見事な団体であることを知っています」

▲時に心痛な面持ちを浮かべる市議もおり、真剣なディスカッションが行われた。=写真3=

 エリック・マー市議は、2008年サンフランシスコ市議会議員に初当選、第1区の市議会議員を務め、その後2012年には再選を果たしました。

 中国系アメリカ人である彼は、戦時下における女性への暴力や民族的マイノリティー問題に熱心に取り組む議員として知られ、2015年9月22日(現地時間)、サンフランシスコ市議会において全会一致で採択された「慰安婦碑または像の設置を支持する決議案」提出の中心的人物です。1992~2008年にはサンフランシスコ州立大学で教鞭を取り、アジア系アメリカ人研究を教えた経歴もあります。

 マー市議は、もうひとつの指輪を差しながら沖縄戦について触れ、「こちらの指輪も私にとっては大切です。というのは70年前、沖縄の4分の1以上の人が沖縄戦で命を落としました。それは残忍な武力攻撃だけによるものではなく、日本政府に惑わされて18歳以上の男性は全員殺されいく中、洞窟になどに隠れていた女性や少女が米軍を怖れて自決したためです。どちらかというとこれはその苦悩を覚えるもので、私は沖縄の人々との連帯を意識しています」と語りました。

 同市議の島ぐるみ会議への理解も深く、「島ぐるみ会議が女性団体、労働団体、経済界、市民団体など、多くの部門から構成されている、とても見事な団体であることを知っています。沖縄県民の80%以上の意思を反映する団体であり、ここや他の地域で、さらなる幅広い連帯を作り上げようとしておられることも」と述べました。

 辺野古基地建設反対運動の様子についても、「素晴らしい運動です。沖縄戦を経験した方々が海兵隊基地建設で重要な場所で座り込み、さらにはカヤックやボートで海上でも座り込みをして、人々の注意を喚起させていますね」などと、詳細に渡り言及しました。

 マー市議の沖縄に関する知識と理解は、島ぐるみ会議のメンバーを驚かせたようで、歓迎スピーチを受けた高里氏も、「付け加えることは何もありませんね」とコメント。

 この後、日程を重ねるにつれて、特に東海岸のワシントンD.Cでは、会談する議員補佐官によっては、沖縄に米軍基地があること自体をよく把握していないといった冷ややかな対応をされることもある中、自ら写真等の資料を用意して会談に臨んだマー市議の問題理解の深さと真剣な姿勢が印象に残りました。

高里氏~「特に、力を入れてきたのは、米軍人のために働く女性が抱える問題」

▲プレゼンテーションを行なう高里鈴代氏=写真4=

 軍事主義下での暴力、取り分け女性への暴力の問題について、長年取り組んできたのは、高里鈴代氏(島ぐるみ会議訪米団統括)です。

 高里氏は、プレゼンテーションの冒頭で、市議会議員としての経歴の他、ソーシャルワーカーとして、女性の置かれた境遇における苦悩や痛みと取り組んできた自らの経歴に言及しました。

 「特に、力を入れてきたのは、米軍人のために働く女性が抱える問題です」

 1995年9月4日、沖縄県において県駐留米国海兵隊による12歳の少女強姦事件が起きました。(注1)翌1996年、「ピース・キャラバン」と題し、高里氏、宮城恵美子氏(訪米団メンバー/オール沖縄那覇の会/那覇市議)ら13名の女性が訪米、現在に至るまで基地問題がもたらす女性への暴力の問題に取り組んできました。

 高里氏のスピーチの途中で、前出のエリック・マー氏が発言、1995年の強姦事件について、「米国でも幅広く取り上げられ、女性に対する暴力に反対する運動が高まりました。米国海軍・海兵隊の上官が凶悪な犯罪を犯したことが明らかになり、社会の注目を集めたのです」と述べました。

 高里氏は、その悲惨な事件が、沖縄の女性が声を挙げる最初のきっかけとなったと話を続けました。

(注1) 事件後、10月に沖縄県民総決起大会が開催され、宜野湾と宮古・石垣において合計約8万8千人あまりが集結。日米両政府の間に「沖縄に関する特別行動委員会」が立ち上がる。普天間返還・北部訓練場半分の返還合意の一方、北部高江へのヘリパッド建設などの条件が付いた(SACO合意)。

1853年と1995年~軍事的な背景による暴力は1850年代に始まっていた

 ここで、参加者の1人であるノーマン・イ―市議が他の会合へ出席するため、「サンフランシスコまでお越しいただき、革新的な手法を教えてくださり、ありがとうございます」と述べ、退席しました。高里氏は、謝辞を述べた後、1853年、ペリー提督が日本に開国を迫った際の話を始めました。「皆さんは、沖縄の場所を歴史をよくご存じですね」

 「ペリー提督はサンフランシスコから出航したと思います。日本に開国を迫ったときのことです。しかし、当時の沖縄はまだ独立していました。ペリー提督はそのとき、沖縄に滞在―4隻の船で開国を要求しにきたわけですが、悲しいことに、乗組員の1人が沖縄の女性をレイプしました。軍事的な背景による暴力が、1850年代に始まっていたのです」

 高里氏は、戦時中の沖縄県における慰安所の存在に触れ、「145の慰安所が作られ、朝鮮、台湾、そして沖縄の女性も強制的に慰安婦として働かされたのです」と述べました。

 「ですから、私たちはアジアの他の国の方々と同様な経験をしてきたのです」

 高里氏は、スピーチの終わりで、従軍慰安婦問題に熱心に取り組むエリック・マー氏らに対し謝辞を述べ、軍事主義下における女性被害の問題を抱える沖縄との連帯を訴えました。

事件の後で~WGS(真の安全を求める女たちの会)の誕生と沖縄のサポート

▲写真右:デボラ・リー氏(WGS)=写真5=

 1995年の少女強姦事件が、沖縄の女性が軍事問題に声を挙げる最初のきっかけとなったのだと高里氏は述べましたが、その影響は沖縄県内に留まりませんでした。

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  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    (2)訪米2日目:全ては、19年前に始まった;バークレー・沖縄、草の根の交流が新たな連帯を産む瞬間~サンフランシスコ市議訪問 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/280839 … @iwakamiyasumi
    遠い米国の地で、沖縄支援決議が続いています。これぞ「正しい」グローバリズム。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/683410756344266754

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