リベラルなジャーナリスト・政治家として戦前戦後を通じて活躍した石橋湛山(1884-1973)に学ぶことを目的に、国会議員を会員とする「超党派石橋湛山研究会」が発足。第1回勉強会が2023年6月1日、東京都千代田区の衆議院第二議員会館で開催された。
石橋湛山は、戦前、『東洋経済新報』主幹を務め、日本の植民地政策を批判、加工貿易立国論を唱えた。戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍。自由民主党の2代目総裁選で岸信介を制して、1956年12月内閣総理大臣に就任するも、病のため在任65日で退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に尽力したことで知られる。
第一回研究会では、基調講演を、湛山研究者とビジネスマンの両面を持つ米国人リチャード・ダイク氏が行った。ダイク氏は、現在、米国の民主主義が危機に瀕し、新冷戦下とも目される中で、湛山の思想を振り返る重要性を指摘。特に「湛山と岸信介を比較する面白さ」を強調した。
共同代表・岩屋毅議員が「新しい冷戦がはじまろうとする今、石橋湛山に学びたい」!
▲第一回勉強会の様子。左奥の司会は古川禎久議員。(IWJ撮影)
この日の第一回勉強会では、初めに研究会の設立手続きが行われ、会の名称、役員、会費(月額300円)が可決された。
役員は与野党議員が超党派で選任。共同代表に自民党の岩屋毅衆議院議員(元防衛大臣)、立憲民主党の篠原孝衆議院議員、国民民主党の古川元久衆議院議員。幹事長に自民党の古川禎久(よしひさ)衆議院議員、事務局長に立憲民主党の小山展弘衆議院議員が選任された。
▲岩屋毅衆議院議員(IWJ撮影)
岩屋毅議員は「戦後の国際秩序が崩壊し、新しい冷戦がはじまろうとする今、かつてもあった同様の時代に、信念と先見性をもって日本のあるべき姿を説き続けた石橋湛山に学びたい」と挨拶。
▲篠原孝衆議院議員(IWJ撮影)
篠原孝議員は「1980年代、日本のあり方に疑問に感じた時に石橋湛山の著書に出会い、85年には『東洋経済』に自らの(湛山に触発された)原稿『新小日本主義の勧め』が掲載された。この研究会は先に野党間でスタートして2回行ったところ、超党派でと言われ、再スタートした」と語った。
▲古川元久衆議院議員(IWJ撮影)
古川元久議員は「石橋湛山の思想は、独立自尊と寛容性、現実主義の3つ。湛山は等身大で国の状況を見て、現実に直面する課題に対処した。そういう思いを与野党で共有し、政治が進んでいくようにしたい」と述べた。
▲参加者には自民党の石破茂衆議院議員も。(IWJ撮影)
米国の民主主義が危機に瀕し、米中関係最悪の今、湛山が参考に!
続いて基調講演を、米日財団理事のリチャード・ダイク氏が行った。
▲リチャード・ダイク氏(IWJ撮影)
ダイク氏はハーバード大学で『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者として知られる社会学者のエズラ・ヴォーゲル教授に学び、経済学者の宇沢弘文東京大学教授との出会いを契機に、石橋湛山に関心を持ったという。ハーバード大の助教授などを務めた後、ビジネスの世界に転身。オハイオ州政府東京事務所事務局長、日本ゼネラルエレクトリックなどを経て、日本で半導体関係の会社を経営。現在、半導体のテスト等を行うテスト技術研究所株式会社のオーナー兼代表取締役や、投資会社の日本産業パートナーズ株式会社取締役などを務める。1999年に内閣総理大臣より貿易表彰を受賞。その一方で、湛山の著作の英訳を続けている。
ダイク氏は、湛山研究の理由を次のように語った。
「日本の近代史を理解するには、石橋湛山を読むのが一番勉強になる。しかし湛山はあまりにもアメリカで知られていないため、翻訳したかった」「今、アメリカの民主主義、政党政治は危機にある。そこで、湛山が政党政治等で行ったことは参考になる」「米中関係は今、最悪で、米国側は冷戦の雰囲気に戻っている。中国への批判には共産党批判があり、この辺は湛山(の対中国論)が非常に参考になる。日本でも、湛山を思い出す必要がある」。
満州国建設に猛烈に反対した石橋湛山と、猛烈に力を入れた岸信介を比較するのは面白い!
さらにダイク氏は、湛山が米国人にとって重要な点として、朝日新聞論説主幹だった松山幸雄氏(1930-2021)が、自分が出会った二度の「歴史の曲がり角」として、「石橋湛山政権の突然の終焉」と「ケネディ暗殺」をあげたことを指摘した。
そして松山氏が、「本物の自由主義内閣」と期待した石橋内閣が終焉して岸信介が総理になったことを、「東条内閣の閣僚だった岸氏が『デモクラシーの旗手』になるというのは、あまりにも筋の通らない話ではないか」と憤ったことを紹介した。
▲東条内閣の岸信介商工相(左)と東條英機首相(1943年10月)。後の佐藤栄作第61-63代内閣総理大臣は弟。安倍晋三第90・96-9代内閣総理大臣は孫。(ウィキペディア、朝日新聞社)
ダイク氏は、「岸信介の評価は米国人としては発言することはない」と断りつつ、「冷静に石橋湛山と岸信介を比較するのは意味がある」として、次のように述べた。
「岸信介の1930年代は、官僚として満州の改革を行い、満鉄と満州そのものの企業化を行い、わずか10数年間、満州国はある意味で立派な国になった」が、「石橋湛山は満州を植民地にしたり満州国を作ったり、日本の帝国主義をすごく批判していた。採算が合わないんじゃないかと。他の列強と仲が悪くなるんじゃないかと」「満州を猛烈に反対していた石橋湛山と、猛烈に力を入れた岸信介を比較するのは面白い」。
▲岸信介は1936年10月に満洲国国務院実業部総務司長(のち産業部次長、総務庁次長)として渡満。計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満洲「産業開発5ヶ年計画」を実施した。同計画は対ソ戦の経済基礎構築が目的だった。計画は鉱工業、農畜産業、交通通信、移民の4部門にわたり、鉱工業では兵器、飛行機、自動車、車両等軍需産業の確立と、軍事的に重要な鉄や液体燃料の開発が目指された。画像は鞍山製鉄所(1945年以前に撮影)。1915年二十一カ条要求で日本が採掘権を獲得し,18年南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営。33年満鉄から分離し昭和製鋼所に合併。第二次世界大戦後は,中国の代表的製鉄所となった。(ウィキペディア、国書刊行会『望郷 満洲』より)
ダイク氏は、真珠湾攻撃直前に湛山が財界人を前にした講演で、「現在は統制経済になったが、将来は民主主義に戻るか戻らないかを考える必要がある」として、「統制経済も共産主義経済も資本主義経済もありえる。日本はどれを選択するかを考えなければ」と主張したことを紹介した。
そうした選択肢の中で、「岸信介が満州でやったのは計画経済、統制経済で、資本主義経済ではない」が、「戦後、湛山は大蔵大臣から公職追放、通産大臣を経る中で、ずっと資本主義の姿を考えていた。だから、岸信介と石橋湛山を比較するのは面白い」と指摘した。
ちなみに、この時、ダイク氏が「岸信介」を「岸田信介」と言い間違えた場面があった。研究会終了後の立ち話で、岩屋議員がこの言い間違いについて「きわめて示唆的」と評したのは印象的だ。
国家を作る目的は「人間として生きる為」で、「国民として生きる為」ではない!
次にダイク氏は、思想家としての湛山について、まず「徹底的個人主義」をあげた。それは、湛山の「個人の生活が一切の基礎」であり、「人間として、生きる為、町をつくり、国民として団結して国家をつくる」が、「それは人間として生きる為である。決して国民として生きる為ではない」という言葉に表されているという。
次に「民族自決」をあげた。湛山は「(ロシア革命でも中共革命でも)革命は国民の自由」であり、「権威主義、共産主義、ファシズム、資本主義、統制経済」などのいずれを選択するのも自由だという。だから中国の共産革命後、湛山が「それは中国人が選んだ道。でも日本と中国は共存共栄できないことは何もない」として、「共産革命後に中国本土ともう一回関係を作らないといけない」と述べたと指摘した。
1972年当時の田中角栄総理が訪中し、日中国交正常化を果たした際、米国で角栄は「和製キッシンジャー(※IWJ注1)」と言われたが、角栄は訪中前に、入院中の湛山に挨拶に行き、「あなたの夢はこれで実現します」と語ったという。「だから角栄は、和製キッシンジャーではなく、湛山が戦後ずっと考えていたことを、角栄が実現したということだ」とダイク氏は語った。
(※IWJ注1)ヘンリー・キッシンジャー(1923年-)は米国の国際政治学者で、大統領補佐官、国務長官等を歴任。ニクソン政権下で「密使」として中国を訪問し、米中和解の道筋をつけた。
参照:
・ヘンリー・キッシンジャー(ウィキペディア)
さらにダイク氏は、「大日本主義・小日本主義」について、湛山自身は「小日本主義」という言葉自体は使わなかったが、「大欲を満たす為に、小欲を捨てよ(※IWJ注2)」と述べたと語った。そして「小欲」とは「植民地政策」であり、湛山にとって「大欲」とは「アジアの文化を大切にする『アジア主義』だったのだろう」と語った。
(※IWJ注2):湛山は、1921(大正10)年『東洋経済』の社説「一切を棄つるの覚悟」で以下のように書いている。「(略)大欲を満たすがために、小欲を棄てよ(略)例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。(略)」。
参照:
・石橋湛山(ウィキペデイア)
「新しい世代は前の世代の桎梏と闘わねばならない」とした湛山は、日本を愛していた!
ダイク氏は、さらに、「湛山の、前の世代の習慣、考え方が桎梏になるので、次の世代がその桎梏と闘わなければならないという考え方」は、湛山と同じく、ジョン・デューイ(※IWJ注3)の影響を受けたリチャード・ローティ(※IWJ注4)とそっくりだが、ローティは、「米国の左派の問題は彼らが米国を愛していないことだ。それでは国を改善できない」と述べたという。そして「愛国心が極端に行くと問題だが、湛山はずっと日本を愛していた」と指摘した。
また、デューイの、テクノロジーを人間支配の手段とすることを防ぐべきだという思想を、湛山も常に持っていたとして、現代のAIがもたらす功罪に言及した。
(※IWJ注3)ジョン・デューイ(1859-1952)は米国の哲学者。プラグマティズム(実用主義、道具主義)を代表する思想家。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的かつ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だったとされる。
参照:
・ジョン・デューイ(ウィキペディア)
(※IWJ注4)リチャード・ローティ(1931-2007)は米国の哲学者。ネオプラグマティズムの代表的思想家で、現代アメリカを代表する哲学者とされる。
参照:
・リチャード・ローティ(ウィキペディア)
湛山が公職追放にならず、内閣もやめなかったら、日本経済はどう違っていたのか!?
ダイク氏は、湛山が明治天皇を尊敬し、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」で始まる明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」を、「日本の民主主義の基礎」だと評価していたと指摘。また、東洋経済新報社の所在地が日本銀行本店の直近で、日本の金融界の心臓部にあることや、湛山の錚々たる財界人等との交流を指摘した。
ダイク氏は最後に、「湛山は吉田茂内閣の大蔵大臣の時に公職追放になったが、吉田内閣の経済ブレーンだったマルクス経済学者の大内兵衛(※IWJ注5)等の考え方は、湛山とは異なった。その頃から日本の経済は統制経済になったが、もし湛山が公職追放にならず、内閣もやめなかったら、日本の経済はどう違っていたのかを考えることは、意味がある」と、「自らへの宿題」として語った。
(※IWJ注5)大内兵衛(おおうち・ひょうえ、1888年-1980)は、日本のマルクス経済学者。元東京大学教授、法政大学総長。大蔵省を経て東京帝大経済学部助教授。戦前は筆禍事件に連座しての失職、留学、労農派教授グループ事件での検挙・起訴、休職等を体験。戦後、GHQ占領時に、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎えた。1945年10月17日、ラジオで政府の戦時債務打ちきりのため蛮勇を振え、と渋沢蔵相に呼びかけた。鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣就任要請を断った。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申。傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下。
参照:
・大内兵衛(ウィキペディア)
IWJが報じた石橋湛山に関連する記事は下記をご覧ください。
※本記事は「note」でも御覧いただけます。
https://note.com/iwjnote/n/n3d03f24ca216