1月30日の日刊IWJガイドでお伝えした、自称「国際政治学者」の「三浦瑠璃」氏は、現在、3つの疑惑の渦中の人である。
夫の三浦清志氏が経営し、瑠璃氏が半分の株式を保有する「トライベイキャピタル」の太陽光事業に関する詐欺疑惑、さらに、瑠璃氏の政府有識者の立場を利用した「トライベイキャピタル」の広告塔疑惑、そして統一教会との関係である。
そもそも、人気コメンテーターとして「朝まで生テレビ!」や「めざまし8」などで活躍できたのも、政府有識者として内閣の各種審議会の委員に登用されたのも、三浦瑠璃氏が、東京大学卒で博士号を取得した「知識人」だからだ。
瑠璃氏は、東京大学に「シビリアンの戦争:文民主導の軍事介入に関する一考察」という博士論文を提出し、2010年10月21日に法学博士の学位を取得している。
▲三浦瑠璃氏(Wikipediaより)
しかし、この三浦瑠璃氏の活動の原点であり、基盤である博士論文の価値について、多くの人が疑問を投げかけている。
神戸大学の牧野淳一郎教授による瑠璃氏の博論批判!
たとえば、神戸大学の牧野淳一郎教授は、瑠璃氏の博論の審査要旨を吟味して、次のようなコメントを寄せ、博論の価値だけでなく、その論文を審査した審査体制そのものに疑問を呈している。
「審査要旨が、『本論の対象となる「シビリアンの戦争」とは何か、その概念の外延が必ずしも明確ではない』『どの戦争が合理的でどの戦争が不合理なのかという判断基準は必ずしも明確ではない』」
「『どの事例が「シビリアンの戦争」であり、どの事例がそれに当たらないのかを明確にすることは、必ずしも容易ではないといわざるを得ない。』『どのような戦争に対しては軍が積極的となり、どのような戦争には消極的となるのか、その違いを説明する要因が本論文において示されているとはいえない』」
「『本論文で取り上げられたおよそ五つの事例も、著者のいう「シビリアンの戦争」に当てはまる事例の列挙となっており、なぜある戦争が「シビリアンの戦争」となり、ある戦争はそうではないのかという説明を可能とするような戦略的比較が行われていない』」
「これだと、何かを実証した論文ではなくて著者の思うところを述べただけ、と読める。」
「しかし審査の結論は『本論文は、その筆者が高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文として認められる』」
「そういうものなの?」
牧野教授は、この審査結果から、「何かを実証した論文ではなくて著者の思うところを述べただけ、と読める」と酷評しているのである。
観察とモデル構築、論証の手続きに、社会科学よりも格段に厳密な自然科学者の目から見ての評価がこれである。
博論のテーマ『シビリアンの戦争』の概念が明確ではない!
博論の審査結果の該当部分を全文引用すると、次のとおりである。
「だが本論文にも弱点がないわけではない。そのなかでも重要な問題点として考えられるのは以下の点である。
まず、本論の対象となる『シビリアンの戦争』とは何か、その概念の外延が必ずしも明確ではない。文民統制が実現している限り、民主政治の下で行われた戦争はすべて著者のいう『シビリアンの戦争』だということになりかねないが、そのような対象の拡大を抑制するために著者の掲げる条件が戦争の攻撃性と軍の消極性である。
だが、前者については攻撃的戦争の概念がどのように展開されてきたかを論じることによって著者自らの概念の設定については詳細な議論をかわしており、どの戦争が合理的でどの戦争が不合理なのかという判断基準は必ずしも明確ではない。著者は戦争のコスト・ベネフィットの比較によって戦争の攻撃性の整理を試みているが、それでも結果として代償の大きかった戦争が攻撃的戦争として議論されているのではないかとの疑いは拭えないだろう」
▲藤原帰一東大名誉教授(ツイッタープロフィールより:三浦瑠璃氏の指導教授で博論審査委員)
「また後者、すなわち軍の消極性については、文民統制の下では軍が公然と戦争を批判できない(批判すれば文民統制が破れたことになる)というジレンマを抱えている。本論で展開される軍の消極性とは、実例を見れば開戦に対する軍の懸念であり、必ずしも戦争一般に対する軍の組織的抵抗ではない。
その結果、どの事例が『シビリアンの戦争』であり、どの事例がそれに当たらないのかを明確にすることは、必ずしも容易ではないといわざるを得ない」
どのような戦争に対して軍が積極的となり、どのような戦争には消極的となるのか、その違いを説明する要因が博論に示されていない!
「また、著者はデモクラシーの下では常に軍が戦争に消極的だと主張しているわけではなく、文民政治指導者も軍もともに開戦に同意している戦争が数多いことを認めているが、それではどのような戦争に対しては軍が積極的となり、どのような戦争には消極的となるのか、その違いを説明する要因が本論文において示されているとはいえない。
本論文で取り上げられたおよそ五つの事例も、著者のいう『シビリアンの戦争』に当てはまる事例の列挙となっており、なぜある戦争が『シビリアンの戦争』となり、ある戦争はそうではないのかという説明を可能とするような戦略的比較が行われていない」
▲イラクで運用中のM1エイブラムス戦車(2011年、Wikipedia)
「問題提起としての事実の指摘ばかりでなく、さらに踏み込んで『シビリアンの戦争』を招く要因が特定されたならば、理論モデルとしての『シビリアンの戦争』が提示され、本論文はさらに大きな成果を手にすることができたであろうと考えられる」
弱点と限界を持つとはいえ、本論文が政軍関係論に投げた一石は極めて重要なもの!?
「だが、このような弱点と限界を持つとはいえ、本論文が政軍関係論に投げた一石は極めて重要なものであり、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、その筆者が高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文として認められる。以上の理由により、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する」。
- 審査の結果の要旨(東大学位論文データベース、2023年1月30日閲覧 Pdf)
この審査結果は、瑠璃氏の博論の重大な欠陥を指摘している。
それは、そもそも、瑠璃氏が博論「シビリアンの戦争:文民主導の軍事介入に関する一考察」でテーマ化して主張する「シビリアン戦争」の理論的な基礎付けが乏しい、と言っているのである。
何が「シビリアン戦争」で何が「シビリアン戦争」でないのか、明確ではないのである。
論文審査は、民主政治の下で行われた戦争はすべて著者のいう『シビリアンの戦争』だということになりかねないので、対象の拡大を抑制するために著者の掲げる条件が戦争の攻撃性と軍の消極性であると述べる。
そして、「戦争の攻撃性」を、戦争のコスト・ベネフィットの比較によって代償の大きかった戦争を「攻撃的戦争」として議論していると指摘している。
さらに、「軍の消極性」については、開戦に対する軍の「懸念」であり、戦争一般に対する軍の「組織的抵抗」ではないと断じている。
要するに、審査結果によれば、瑠璃氏の「シビリアン戦争」とは、コスト・ベネフィットの比較によって代償が大きく、その戦争に対して軍が懸念を示したものということになる。
それなら、民主政治の下で行われた戦争はすべて「シビリアン戦争」ということになる。
▲2007年、バグダッドの対反乱軍作戦のためにヘリコプターに乗り込む準備をするイラク軍部隊(Wikipediaより)