古賀誠・自民党元幹事長は2月5日、日本政策学校の講師として招かれ、「自由民主党の在り方-現政権の評価と今後」というテーマで講演した。古賀氏は講演で、自身の父親を第二次世界大戦で亡くした境遇から、「平和」を政治の原点に据えてきたと強調した。
戦前生まれの政治家で、池田勇人・大平正芳総理を輩出した自民党の派閥「宏池会」の重鎮のひとりだった古賀氏。現在では、現職の国会議員の9割以上は戦後生まれだ。安倍総理大臣は、戦後生まれの初めての総理大臣でもある(第一次安倍政権時、2006年)。その後、民主党政権で鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦氏らが、戦後生まれの総理大臣となった。今年は戦後70年を迎える年だ。古賀氏は、「安倍さんは戦後生まれの初めての総理大臣。その安倍さんが戦後70年という節目を迎えるというのも、何かの縁なのかな」と話した。
父親を戦争で亡くした古賀氏に4世議員が威張る 世襲議員で溢れる日本の政治
古賀氏は、日本の政治家に2世3世の議員が圧倒的に多いと指摘。中には4世議員もいて、そうした傾向は自民党に多いと語り、鳩山邦夫元法務大臣と会話した時に登った、あるエピソードを話した。
「実は曾祖父さんも貴族議員だったと、私は4世だと威張るんです。それで私はムカッときて、私は2世3世4世じゃない。それどころか、オヤジがいない。おふくろは、戦争でオヤジ亡くして。どういう生活だったか、皆さん、想像つかないでしょうけれど。国は戦争に敗れて貧乏。家庭はオヤジがいなくて貧乏。
まず、おふくろは食べていくのに精一杯。食べていくのって、自分が食べるんじゃなくて、子ども育てるのに精一杯。2人の兄弟ですけれども、姉と私と。栄養失調で殺さずに、元気に育てるか。これが母親の最大の仕事。そういう家庭で育った。
だから、2世3世4世って言われると、こっちもムカッときてね、何、威張ったこと言っているんだと、4世ということは、何十年も国民の税金で飯食ったということだ。だから威張るな。こう言いましたら、それ以来、鳩山邦夫さんも4世と言わなくなりましたけれども」
自民党の派閥政治の最盛期を見た古賀氏 保守本流の池田・大平総理から学んだこと
古賀氏が初当選したのはは昭和55年(1980年)。まさに、自民党の派閥抗争の最中だった。
昭和50年から60年までの10年にかけては、大平政権を強固な基盤にするため、若い議員を当選させていき、宏池会のメンバーを一人でも多く増やしていこうという政治手法の時だったと古賀氏は振り返る。
この時代、自民党は憲政史上初めてのことを起こす。同じ政党から、国会の首班指名選挙で二人が手を挙げる。大平正芳・福田赳夫両氏の決戦投票となり、これはのちに大平内閣の辞任、衆院解散へと繋がっていく。
古賀氏は、宏池会の会長を務めた大平正芳総理が、保守本流として、政治の師匠であったとその思い出を語った。
「あの考え方あの手法、政治に対する情熱。今でも私の政治の国会活動の原点だと。私の国会を目指した志の原点は平和です。国会議員として、何に責任持つべきなのか。何に自覚と責任を必要とするのか。こういったことの原点を教えていただいたのは、大平先生だった。今でも誇りに思っているし、忘れてはならないと思う。池田さんが作った宏池会という保守本流を代表する政治家が、大平正芳さんだと思う」
保守本流の政策には、人づくりの政策がど真ん中にあったと古賀氏は強調する。
「池田政権の時に、高度経済成長という所得倍増論を池田さんは言った。池田さんといえば、所得倍増論。池田さんは総理大臣就任になって、即、国民の目標として、所得倍増を国民に約束する。よく所得倍増というと、物を倍にするんだ、物の豊かさだとか、拝金主義的なことを想像されるんだけれど。池田さんが言った所得倍増というのは、戦後やっと、心のなかに、静けさ、健やかさが若干湧き出てきているような時代。
池田さんが言った所得倍増、何のために必要なのか、それは人身を安定させる、人づくりなんだ。この国で、和やかに穏やかに生活できるような環境を作るためには、所得を倍増にする必要がある。人づくりが政策の真ん中にちゃんとあった」
自由民主党という政党政治の劣化 小選挙区制が招いた党執行部への大きな権限
古賀氏は、小選挙区制は失敗だったと主張する。政党政治の基本とは何か、古賀氏はこう話す。
「政府が閣法で出す法律は、与党である政党がきちんと事前承認をとらないといけない。そのための手法というのは、自由民主党の場合には、部会であったり、政調会であったり、最終決定機関である総務会。そういう手順をしっかり、踏んでいく。そうした中で、政府と与党が結束して、その法案を成立させる。これが慣例であり、長い間の慣行。
中には、政府が閣法として出すのは、なかなか党内では意見の違いというのがあって、すっきりと党内手続きができないことがある。その役割をしていたのが、派閥の功罪。いろいろありますが、派閥の役割だった」
派閥政治の光の部分について、古賀氏は次のように語る。
「自由民主党は非常に幅広い、右から左までが集まってきている。それぞれの政策の議論の中で、自分の政策集団のカラーを思いきって出していく。そして、ちょっと右寄りかなという政府の時には、少しハト派的な考えの人が修正する。そうすると政権も、『無理押ししていたら、自民党は分裂してしまうんじゃないか』、こういう考えのもとに、法案は、どういうふうに修正し、その修正が結果的に国家と国民のためになるんだという、そういう機会、間を派閥がやっていた」
ところが、小選挙区制以降の自民党は、党内での政策議論ではなく、サービス合戦が目立ち、自民党が墓穴を掘るという状況に陥ったと古賀氏は言う。
なぜそうなるのか。古賀氏は、「小選挙区になれば公認、すべて自由民主党の場合は幹事長だとか、党の執行部が握る。そうなれば、恨まれた時には『公認されないんではないだろうか。公認されないどころか、対立候補を出されるのではないか』。小選挙区は執行部に大きな権限を与えてしまった」と、小選挙区制の負の遺産を語った。
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