2014年12月14日の投開票日の「前夜」に、この「ニュースのトリセツ」の「号外」を書いている。
どうせ自民が大勝するんだろうし、信用できる野党もいない。だったらわざわざ選挙にいく必要もない――。
そんな諦めにも似た空気が、蔓延していはしないか。
たしかに、本来なら、反与党票の受け皿とならなくてはならない野党も、突然の安倍総理の解散の「奇襲」を受けて、準備不足は否めない。どのメディアの報道を見比べてみても、自民党の大勝が予想されている。自民圧勝とのアナウンスは、増税と不況に直面した有権者が、不満の一票を投じようとする意欲を確実に萎えさせることだろう。メディアの報じ方には、首をかしげざるをえない。
だが、そのこと以上に、選挙自体についての報道量がそもそも少なすぎる。特にワイドショーが選挙をほとんど取り上げず、大衆層に選挙への関心を高める働きかけが行われていないのは、「異様」に感じてしまう。自然と国民の関心は離れてしまい、投票率は前回2012年を下回り、戦後最低を更新するともみられている。
それでいいのだろうか。
私とIWJは、11月18日の解散発表から約1ヶ月の間、この選挙の多様な争点について、考え、論じるための情報を提供し続けてきた。安倍総理が「アベノミクス解散」と自称する通り、安倍政権の金融緩和政策(それに伴う急激な円安と物価高)と消費税増税を是とするか否とするかは、この選挙の争点のはずだ。
しかし、自民の獲得議席が、過半数どころか、3分の2を超えるかもしれない、となると、争点の順番が変わってくる。憲法改正、それも解釈改憲ではなく、明文改憲が現実として間近に迫ってくるのである。
「12.14」の投開票日の「前夜」に、ひとつだけ考えたいことは、自民党改憲草案にもとづく憲法改正が行われることになったら、どうなるのか、ということだ。与党に賛成票を投じるのか、野党に一票を投じるのか、あるいは投票を棄権して、結果として与党をアシストするのか。自らの投票行動を決める前に、この一点だけはすべての有権者が考えておく必要がある。
戦後最悪の危機を迎えつつある「衆議院」
「自民党が現有議席を大きく超えて単独で3分の2にあたる317議席まで視野に入る勢いを示していることがわかりました」
当初は議席を減らすのは確実と見られていた自民党だが、12月2日の公示日から3日後の12月5日、「自民300議席獲得か」「自公で3分に2は確保」といった報道が一斉に流れた。
その後、自民党の勢いはさらに増し、12月8日には、JNNが毎日新聞との共同調査などに基づいて中盤情勢を分析したところ、自民党が単独で衆議院の3分の2議席を獲得する可能性が浮上した、と報じた。
産経新聞も、12月8日に、「自民党は、平成21年に民主党が単独政党として獲得した現行憲法下での最高議席(308議席)を上回り、衆院の3分の2に当たる317議席をうかがう勢い」として、JNNなどと同様の分析をしている。
産経新聞はFNNと合同で12月4日から7日の間に電話世論調査を実施し、さらに全国総支局の取材を加味したうえで、こうした分析をまとめたという。
戦後最低の投票率が予想される中、自民党は単独で、戦後最多の議席を獲得する可能性があるというのだ。
解散前の295席から大きく数を伸ばし、これまで以上に力を持った自民党・第三次安倍政権が誕生しようとしている。現行憲法下で、初めて、衆議院において、一つの政党が単独で改憲発議できる状況が生まれる。
仮に自民党が単独で3分の2議席をとった場合、野党はむろんのこと、連立を組む公明党の影響力低下も免れない。安倍政権の今後の政権運営は、圧倒的な「数の力」を頼みに、これまでにも増して強権的になる危険性がある。
自民党は今回の選挙でも、一応、公約に「憲法改正」を掲げている。公約のなかでもっとも小さい扱いだが、選挙で大勝すれば「国民の信を得た」として、改憲に向けた動きを加速させるかもしれない。
解釈改憲ではない、本物の明文改憲が現実味を帯びてくる。その場合、自民党が改憲草案として持ち出してくるのは、すでに発表されている自民党の改憲草案がもとになる。
事実、安倍総理は、朝日新聞のインタビューにこたえて、こう語っている。
「自民党は立党以来、憲法改正を掲げてきている。党としてはすでに21世紀にふさわしい憲法のあり方、あるべき憲法の姿を示している」
「絶対に」が消されている自民党改憲草案の36条「拷問禁止規定」の意味
憲法改正と聞くと、9条の改正が真っ先に頭に浮かぶ。自衛隊の存在をはっきりと合憲とすべきではないか。侵略戦争は認められないが、急迫不正の侵害に対しては自衛権の行使を明文で認めるべきではないか。こうした声は根強い。だが、自民党の改憲草案は、9条だけの最小限の改正を求めるものではない。現行憲法をまるまる書きかえる企てに他ならない。
現行憲法と自民党改憲草案との相違点は、あまた存在する。しかし、選挙の投開票日の「前夜」に、そのすべてを論じたり、考えたりする余裕はないだろう。投票に行く前に、あるいは行くのを諦める前に、一点だけ、知っておいてもらいたいポイントがある。
憲法36条である。
現行憲法36条には、こう定められている
「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」
「絶対に」という強い表現は、現行憲法においてただ一箇所、この36条にしか採用されていない。拷問や残虐な刑罰は、なにがあっても「絶対に」してはならない、最悪の人権侵害である、という意思の表れである。
言いかえると、明治憲法にもとづく戦前・戦中の体制では、「拷問や残虐な刑」が明白に禁じられていなかった。実際に拷問によって命を落とす人たちも少なからず存在した。だからこそ、その反省にもとづいてつくられた現行の憲法では、「拷問や残虐な刑罰」が「絶対に」という強調をもって禁じられてきたのである。
ところが自民党改憲草案の第36条では、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する」として、この「絶対に」という文言が削られているのである。
あえて「絶対に」という文言を削っているからには、間違いなく、何かしらの意図があるはずだが、自民党ホームページに儲けられている「自民党改憲草案Q&A」では、この点について一言の言及もなされていない。
しかし、ここで考えられる自民党の意図は一つしかない。拷問や残虐な刑罰は、「絶対にしないわけではない」という意思の表明である。
CIAが行っていた残虐非道な拷問の実態とは
現在、米国のCIA(中央情報局)が行っていた拷問の実態が明るみになり、その残虐さに世界中から非難が集中している。
米上院情報特別委員会は12月9日、CIAが2001年の同時多発テロ以降、ブッシュ前政権下でテロ容疑者らに過酷な尋問を行っていた問題についての報告書を公表した。CNNは、衝撃的な報告書の中身を、次のように報じている。
「CIAは拘束者らを消耗させるために、眠らせないという手法を取った。最長180時間も立たせたまま、あるいは手を頭の上で縛るなど無理な姿勢を維持させて睡眠を妨害した。
肛門から水を注入したり、氷水の風呂につからせたりする手法や、母親への性的暴行などを予告する脅迫手段も使われた。排泄用のバケツだけを置いた真っ暗な部屋に拘束者を閉じ込め、大音量の音楽を流す拷問もあった。
02年11月には、コンクリートの床に鎖でつながれ、半裸の状態で放置されていた拘束者が死亡した。死因は低体温症だったとみられる。こうした尋問を経験した拘束者たちはその後、幻覚や妄想、不眠症、自傷行為などの症状を示したという」
「加害者の側が、もう人間が人間でなくなる」
CIAの拷問は極端な例ではない。拷問とは、そもそもこういうものである。「加害者の側が、もう、人間が人間でなくなる」と指摘したのは梓澤和幸弁護士だ。
梓澤弁護士、澤藤統一郎弁護士とともに自民党改憲草案を一条ずつ読み解いた12回にわたる「憲法鼎談」の中で、梓澤弁護士は、警察による拷問で殺された作家・小林多喜二の最期を紹介した。
小林多喜二は、築地警察署内での取調べで3時間にもわたる残忍な拷問を受け、右手の人指し指は手の甲に届くまで折られていたという。そこには、「二度と文章を書けない体にしてやる」という特高の残酷な意志があらわれていた。小林多喜二の悲惨な最期に思いを寄せた梓澤弁護士は、目に涙を浮かべながら自民党改憲草案に怒り、声をふるわせた。
■ハイライト動画
「加害者の側が、もう人間が人間でなくなる。拷問は屈辱の中で人の命を奪う。それなのになぜ、自民党案では憲法36条から『絶対に』という言葉を抜くんですか! この自民党改憲草案は! 許せないですね、僕は! これを書いた人たちが!」
以下、「憲法鼎談」の中から、当該箇所を抜粋して紹介する。
岩上:自白の強要による冤罪があとを絶ちません。追い込んで、本人の意に反してしゃべらせる、それは拷問を認めるということと同じですし、その結果、冤罪を招くのは何重もの悲劇であり、不正義です。
澤藤:そうです。まったくそのとおり。いま私が申し上げたのは、非常に理念的なことですよね。
しかし、実際にこの憲法ができる前、日本国憲法ができる前の刑事手続がどうであったか。はっきり言えば、天皇制政府が特高警察を使って、政治犯をどういうふうに痛めつけ、いたぶり、あるいは宗教者をどういうふうに弾圧してきたか。自白を強要し、拷問までやり、場合によると、本当にリンチで殺したわけですね。
こういうことの反省。一つは、人類の英知が到達した個人の尊厳を守るという、この原則を大事にするということ。それから戦前までの天皇制政府の野蛮な刑事警察権の行使のあり方の反省、この反省が現行憲法にはあるのです。刑事被告人の権利を保障するための刑事手続が10箇条にわたって書かれています。
そして公務員による拷問は絶対にこれを禁ずるというのが三六条になったわけです。
ところが、「絶対にこれを禁ずる」だったものから、自民党案は「絶対に」を取ったんです。わざわざ。
岩上:わざわざ。
澤藤:わざわざ。つまり、これは場合――社会的な重大犯罪、あるいは刑事被告人が非常な凶悪な性格を持っている場合――によっては、拷問の可能性を残すとしか読めないですね。(中略)
岩上:アメリカは、グアンタナモ湾収容キャンプの問題が指摘されてます。テロ容疑者であるという烙印が押されると、令状なし。証拠なしで、身柄を拘束して、ずっと勾留ができるという状態です。これは、いまだに続いているわけですよね。
澤藤:これは文明社会では絶対にあってはならないことだと思います。むしろこういうテロ容疑者に対して、私たちは文明国として手厚い刑事手続きの原則を守っていますよとアピールする、絶好のチャンスだったと思うんです。
新聞記事を見て、アメリカの司法文化というのは、そんな程度のものかと思いました。やっぱりこういうことで、例外を設けてはいけない。人間に例外はない。人権主体としての<自然人>に例外を認めてはならない。刑事手続きにおける原則というのは、誰も同じように適用しなければならないと思います。
自民党案で、この、「絶対に」というのを取っちゃっているのは…。
梓澤:ちょっと恐ろしい話ですね。(中略)捕まった被疑者には、自分を守るための二つの大きな権限があります。
一つは黙秘権。もう一つは弁護人依頼権。この二つによってだけ、被疑者は自分を守ることができるわけですね。弁護人依頼権については、先ほど言いましたけれども、じゃあ黙秘権というのは何なのかというと、憲法三八条に書いてあるように、「自己に不利益な供述を教養されない」ということです。(中略)
アメリカには愛国者法というのがあります。これによれば、テロに関連すると見られる外国人は、司法手続きを経ずに七日間は拘束されます。
凄惨な取り調べが行われ、もしかすると、拷問をやるのかもしれない。それでしゃべらせる。そういうことが、テロリスト容疑者というのを被せた途端に、許されてしまうことになる。
また国民の側が、「それは俺たちを守るためだからしょうがない」みたいな雰囲気で、それを受け入れてしまう。そこを踏み留まらなくちゃいけない。それは、さっき澤藤くんが、戦前のひどい歴史に基づいて、三八条とか、三六条の「拷問は絶対にこれを禁ずる」という条文があることを言ったんですが、私は小林多喜二のよく知られた例を、ここで引用したいと思います。
岩上:それはなんという本ですか?
梓澤:ノーマ・フィールドというアメリカ人の学者の『小林多喜二――21世紀にどう読むか』(岩波書店、2009年)という本です。シカゴ大学の教授をやっていたんですが、その人が小樽に1年間住み込んで、多喜二を知る人を訪ねて歩いて、それで書いた評伝なんですね。僕は何回も読んで思ったんですが、多喜二という人は、ヒーローとして祭り上げてはいけない。彼は、普通の青年だった(中略)
それから、三吾さんという弟のバイオリニストとも会って、日比谷公会堂で、ヨゼフ・シゲティ(ハンガリー出身のバイオリニスト)という、バイオリニストの演奏会を聴く。聴いて、その演奏のあとに、目に涙を浮かばせて、生きる喜びを感じたと言ったことを、肉親が書き残してるんですよ。『兄は、涙を浮かべて、我々と別れて去っていった』と。その6ヶ月後に加えられた拷問というのは何かというと、築地警察なんですよ。いまも残る築地警察。その築地警察で、名前もこの伝記の中に挙がってるんですが、警視庁特高ナップ係の中川成夫という実名も出ています。彼と部下によって行われた。
『寒中、裸にされた多喜二に加えられた暴力は、彼が書いた小説である『1928年3月15日』に書かれたものにも増して残忍であったと。3時間の末に、瀕死の状態で病院に運ばれて、まもなく絶命』。
ここで、彼女はこういう文章で言ってるんですね。『3時間の拷問とは何を意味するのか。情報を吐き出させるのが主眼ではない。中川たちが殺意に満ちていたことは言うまでもないが、手早く殺してしまっても、目的は果たせない。多喜二の苦しみを味わう時間を彼らは必要としていたとしか、理解のしようがない。特に、むごたらしいディテールのうちに数えられないかもしれないが、彼は、右手の人差指を手の甲に届くまで折った。もう、原稿に向かうことはありえないのに。わざわざである』。(中略)
憲法36条の『絶対に』という文言の削除はそういうことだと思う。つまり、もう加害者の側が、もう人間が人間でなくなる。屈辱そのものの中で人の命を奪っていく。なぜ『絶対に』を抜くんですか!この自民党憲法改正草案は!許せないですね、僕は!これを書いた人たちが!
岩上:(中略)多喜二のようにこんなに後々まで記憶・記録に残らない形で、拷問が加えられ、罪に陥れられ、あるいは、ときに殺され、ということがいままでいっぱいあったわけですよね。
梓澤:治安維持法では、7万人を超える人たちが、警察から検察官のところに送られています。150人を超える人たちが獄中死しています。その中には拷問で殺された人もいると思います。その歴史から見たら、このうような形で『絶対に』を取るということは、僕は倫理において許せないですね。
自民党の描く日本の未来を受け入れる覚悟があるか
現行憲法から「絶対に」という文言を削るだけで、拷問が突如、復活し、誰でも彼でも痛めつけられ、殺されるわけではない。そんなことは、自分の身にふりかからない――。
多くの人がそう考えて、胸騒ぎを鎮めようとするかもしれない。たしかに、その通りかもしれない。
だが、人は弱い。脅しにとても弱い。
たった3文字の削除で、多くの人々が、恐れと不安を抱き、萎縮するだろう。より積極的に権力に迎合してゆくかもしれない。萎縮から、安心を求めての迎合のドミノ倒しの中で、体制に従わない者は懲らしめるべきだという強迫観念が強まってゆく。本当の排除、残酷な拷問や刑罰は、そこから始まる。むごたらしく、抵抗を許さないファシズムの誕生である。
自民党改憲草案には、まだまだ多くの問題点が含まれている。そのすべてを、投開票日の「前夜」に書く短いブログですべて紹介することはできない。関心のある方は、梓澤、澤藤両弁護士とともに行った「憲法鼎談」は『前夜』という一冊の本にまとめてある。自民党改憲草案の問題点を一条ずつ、すべて網羅して分析している。まだ御覧になっていない方は、是非、『前夜』をお読みいただきたい。
自民党単独で衆院3分の2議席を確保すれば、その力は途方もなく巨大なものとなる。公明党すらストッパーになりえない。衆議院を通過した法案が参議院で否決されても、再び衆議院で自民党が「3分の2」という「数の力」で再議決することが可能となる。もはや、成立しない法案などない。事実上の一党独裁が、現実のものとなる。
現行憲法下で、一党が衆議院の3分の2もの議席を占めたことはない。「戦前」を知らない、すべての「戦後生まれの世代」にとって、未体験の事態が出来するのである。
安倍総理は、「日本を取り戻す」と繰り返し表明してきた。文字通りそれは、「戦前の日本を取り戻す」ということであり、「政府が国民に対して拷問を行うこともありうる日本を、取り戻す」ことでもあるのだ。
拷問すら、「絶対に禁止」ではなくなる、そんな日本に逆戻りさせていいのだろうか。
夜が明ければ、「前夜」ではなく「当日」となる。「悪夢」は夢ではなく、「白昼の現実」となりうる。有権者一人一人の一票の投じ方次第で、これからの日本の運命が決まるのだ。
一人でも多くの有権者に、自民党の描く日本の未来を受け入れる覚悟があるか否か、この36条の一点だけでも考えてから、投票行動を決めてもらいたいと心から願う。
低投票率が続くと、選挙の必要性が疑問視され国会の機能が軽くみられるようになると思います。沖縄は希望の灯ですが立法で圧力をかけられそうで心配す。山積する問題はドミノ倒しのように「解決」されていくでしょう!
日本は事実上一党独裁となり無意識に隣の大国に似てくると思います。
毎回、貴重な情報ありがとうございます。
自民党の描く日本の未来像が分からない方が多いですね。
理由わかりません。理解不能です。
こんなに、「これからお前らどんどん苦しくなるぞ」と露骨に宣言されているのに。
いたぶられる事が好きな人が多いのかな?
憲法第36条から「絶対に」を取り去るということ
ところが自民党改憲草案の第36条では、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する」として、この「絶対に」という文言が削られているのである。
「絶対に」が無いということは「原則として」と読んでしま得ることを担保している。