「このまま理不尽に屈するわけにはいかない」~ ふくしま集団疎開裁判第二次提訴記者会見 2014.8.18

記事公開日:2014.8.21取材地: テキスト動画
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(取材・記事:IWJ・薊一郎、記事構成:安斎さや香)

特集 3.11|特集 百人百話

 福島の子どもたちの避難を求める「ふくしま集団疎開裁判」の第二次提訴についての記者会見が8月18日、原告団らで構成される「ふくしま集団疎開裁判の会」の主催により参議院議員会館で開かれた。

 裁判の第一次提訴で原告らは、測定高さ1メートルの空間線量平均値が、毎時0.193マイクロシーベルト以上での教育活動をしないことなどを求めたが、2013年4月24日、仙台高等裁判所は、この原告らの申し立てを棄却した。

 ところが、この判決の中では、「福島第一原発付近一帯で生活居住する人々とりわけ児童生徒の生命・身体・健康について由々しい事態の進行が懸念される」との断りがある。

 さらに、「現に居住している区域においては遍く放射性物質による放射線被ばくが避けられないのであって、自宅を離れた地に転居して教育活動を受けることは避けることができない」と認めていた。

 この判決を受けて、原告らは8月29日に同裁判の第二次提訴として、「子ども人権裁判」と「親子裁判」の二つの訴訟を同時に起こすという。

  • 出席者 原告予定者(福島のお母さんたち)、第二次疎開裁判弁護団(光前幸一氏、柳原敏夫氏)

「福島はすでに戦争状態」

 記者会見では、弁護団の柳原敏夫弁護士が、第二次提訴の目的を説明した。

 「福島原発事故は二度発生する。一度目は人間と自然の関係で、二度目は人間と人間の関係。今回の提訴で問題にしたいのは、二度目の『事故』の方である」と、柳原氏は語る。

 二度目の事故の事例として、柳原氏は福島県の子どもの小児甲状腺がんの発症率の高さを指摘した。柳原氏によれば、2014年3月31日現在の福島県の小児甲状腺がんは、「悪性」と「悪性疑い」の合計で89名にのぼり、人口比にすると、ベラルーシの40倍になるという。

 加えて、こうした高い発症率が「スクリーニング効果」によるものだとする意見があることに対しては、福島県の会津地方において、甲状腺異常の症例が少ないとの検査結果が得られていることから、「崩壊している」と「スクリーニング効果」説を否定した。

 柳原氏は、「福島では、チェルノブイリ原発事故を上回る速度と規模で、子どもたちの健康被害が進行中」であり、「子どもたちは、目に見えない、臭いもしない、痛くもない放射能の攻撃という未曾有の戦火の中で命の危険にさらされている」と主張。「日本政府の緊急かつ最優先課題は、今すぐオールジャパンで子どもたちの命を救うこと」だと訴えた。

 同じく弁護団の光前幸一弁護士は、今回、第二次提訴に踏み切った二つの裁判の概略を説明した。

 一つ目の裁判は、子どもたちが「安全な環境で教育を受ける権利」があることの確認請求となる。原告団はこれを「子ども人権裁判」と呼んでいる。二つ目は、一人当たり10万円を損害賠償として国および県に請求するもの。こちらを「親子裁判」と呼んでいる。

 子ども人権裁判では、対象が現在福島県に居住している人であり、「安全な環境で教育を受ける権利」の確認がなされれば、行政は学校環境を変えざるを得なくなるのが狙い。

 親子裁判の対象は、県内居住者および県外転出者である。損害賠償金額の1人当たり10万円については、本来は損害については無限大と考えられるが、裁判費用を抑えるための金額なのだという。

 光前氏は、損害賠償請求に関わる国の責任として、事故発生後の情報隠蔽、ヨウ素剤の不投与、被曝許容量の年間20mSvへの引き上げなどを挙げた。

 県の責任としては、福島県民の健康を守る義務があるにもかかわらず、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーである山下俊一医師の「100ミリシーベルト浴びても心配ない」、「放射線の影響は、ニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます」などという発言を放置したこと、福島県民健康調査の結果を県民にわかるように情報提供されていないこと、同調査検討委の前に秘密の事前準備会が開かれていたことなどを挙げている。

「このままでは絶対に終わらせない」

 会見では、自主避難して訴訟の原告となった3人の原告も発言した。

 当時妊娠中だった妻と5歳の息子とともに避難した長谷川克己さんは、現在の心境について、「このまま理不尽に屈するわけにはいかない」と語った。原発事故後は3ヶ月間、夫婦で勉強会に参加し続け、至る所の放射線量を測定し、毎晩のように2人で話し合ったという。

 その結果、「もうこの国の政府も福島県の行政も信じられない。子どもたちは自分たちで守る」という結論に到ったと明かした。

 以来、時に怪訝な顔をされたり、後ろ指をさされながら避難する準備をすすめ、「事故からちょうど5ヶ月目の2011年8月11日の朝、郡山を後にした」と語る。

 その朝、「このままでは絶対に終わらせない。この理不尽に必ずけじめをつけてみせる、と心に刻んだ」という。

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