「ハノイ宣言」が発表され、朝鮮戦争の終戦へ向けた何らかの合意があると期待していた私には、「合意文書なし」での終了は予想外の展開だった。
米ホワイトハウスのサンダース報道官が2月28日午後1時半(日本時間3時半)ごろ、「トランプ米国大統領と金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮国務委員長が2日間ハノイで生産的な交渉を行ったが、非核化と相応措置に対する異見により、今回の首脳会談で合意に至らなかった」と明らかにしたからだ。「両首脳はまた会い、今後も実務者協議を継続することを期待している」とも伝えられた。
2019年2月27日、28日の2日間、昨年6月のシンガポールに続き、金正恩朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)国務委員長(朝鮮労働党委員長)とトランプ米合衆国大統領の2回目の会談が、ベトナムの首都ハノイで行われた。
しかし、2日目の28日、閣僚らを交えた拡大会合で、合意に至らず、トランプ大統領が会合の途中で席を立ち(walk off)、予定された昼食会をキャンセルして、両首脳は予定より2時間以上も早く、別々にホテルに戻った。
筆者はフリージャーナリストとして、26日からベトナム外務省が設置したハノイの国際メディアセンターに詰めていた。
▲ハノイの国際メディアセンター(浅野健一氏提供)
▲ベトナム政府発行の記者証や、メディアセンターの大型スクリーンには「DPRK-USA SUMMIT Hanoi Summit」と書かれている。米朝ではなく朝米会談になっている。国名はアルファベット順にするのが普通だ。こうした国際的慣例に従い、本稿では「米朝会談」を「朝米会談」と記す。どちらかに優劣があるという話ではない。
期待を高めた2度目の朝米会談
今回の首脳会談がベトナムの首都ハノイで開かれたことには大きな意義がある。ベトナム戦争で中華人民共和国と朝鮮の支援を受け、米国・韓国と戦った、そのベトナムが、朝鮮戦争の歴史的終戦と朝米平和条約締結、国交正常化への対話のための場を提供したからだ。
金委員長は中朝国境を列車で越え、中国大陸を縦断して2月26日午前、中越国境も列車で越えてベトナム入りし、国境のドンダン駅から車でハノイ中心部にあるホテル「メリア・ハノイ」に到着した。
ホテルの前には約200人の報道陣が駆け付け、数百人の地元市民、観光客らが委員長の到着を見ようと集まっていた。朝鮮の最高指導者がベトナムを訪問するのは、金日成主席が1964年に訪問して以来、55年ぶりのことだ。
▲金正恩委員長がチェックインしたメリア・ハノイ前に集まる報道陣ら(浅野健一氏提供)
一方、トランプ大統領は26日夜、専用機でハノイに入り、「JWマリオット・ホテル・ハノイ」に泊まった。大統領はツイッターで「驚くほど生産的な首脳会談になる」とコメントしており、朝鮮戦争の終戦宣言に向けた合意がなされ、国連による制裁の緩和への道筋も示されるのではないかと期待が高まった。
ハノイ朝米会談は期待の中で開始
金委員長とトランプ大統領は27日夜、ハノイ中心部にあるフランス植民地時代に作られたホテル「ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイ」で、通訳を同席させただけの1対1形式の会談を約20分行った。
▲首脳会談が行われたソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイ(ホテル公式サイトより)
代表取材の記者団を前に、金委員長は「2回目の会談を開くまでの間、私はたくさん悩み、困難な課題を解決するために努力と忍耐が求められた。対話をするための大統領の勇気ある決断を称賛したい。全ての人が喜ぶ、素晴らしい結果をつくり出せると確信し、そうなるよう最善を尽くす」と述べた。トランプ大統領は冒頭で「1回目の会談と同じか、それより大きな成功を収めることを期待している」と自信を示した。
▲金正恩朝鮮民主主義人民共和国国務委員長(Wikipediaより)
午後7時過ぎからは側近を交えた夕食会に入り、金委員長が「非常に興味深い話をたくさんした」と語ると、トランプ大統領は「(金委員長とは)非常に特別な関係だ」と親密さをアピール。米側からポンペオ国務長官とマルバニー大統領首席補佐官代行、朝鮮側は金英哲(キム・ヨンチョル)党副委員長、李容浩(リ・ヨンホ)外相が同席した。
米記者の質問にライブ中継で答えた金正恩委員長
翌28日午前8時58分から、約30分の「1対1」の首脳会談が再開した。そして9時40分ごろから、閣僚らを交えた拡大会合を開始した。
両首脳は午前の会談の冒頭、記者団を招き入れた。両首脳の通訳が同席した。
トランプ大統領は会談冒頭、「朝鮮は世界でも稀な経済大国になることができる」と述べた。金委員長は「最終的にいい結果が出るよう最善の努力をする」と述べた。トランプ大統領は非核化交渉について「急いでいない」と語った。
▲トランプ米大統領(Wikipediaより)
トランプ大統領が冒頭撮影を終わらせようとした時、米国人の記者が「トランプ大統領との間で非核化について合意をできるか?」と、突然質問した。金委員長は一瞬の間を置いて記者を見ると、「(トランプ大統領と)今、その話をしている」と述べ、「(記者団は)とても気になっているようだ」と苦笑いした。その上で、「今答えるのは早すぎる。私は予測をしないが、悲観的なわけではない。良い結果が生まれるよう全力を尽くしたい」と答えた。
「ミスター・キム、(会談成功への)自信はありますか?」との質問には「直感では良い結果が出せると信じている」と答えた。自信に満ちた声だった。「会談の時間が1分でも長くほしいので、この辺で終わりにしたい」とも語った。
質問したのはワシントン・ポスト紙のホワイトハウス担当のデイビッド・ナカムラ記者。金委員長は会談の終了後にも、AP、ロイター、ブルームバーグの米国人記者三人の質問に、「米国が平壌に連絡事務所を開くのはいい考えだ」「非核化について議論しないのなら、ハノイに来ていない」といずれも通訳を介して答えた。やりとりを聞いていたトランプ氏は「素晴らしい答えだ。これは最高の答えだ」と絶賛した。
金委員長が米国人記者数人の質問に直接答える場面が、テレビ中継で世界に流れた。朝鮮の最高指導者の肉声がライブで放送されること自体が珍しく、外国人記者の質問に答える音声が生で流れたのは初めてではないか。
朝鮮側が非核化の具体的方針を示し、1953年に停戦協定が結ばれたままになっている朝鮮戦争の公的な終戦宣言へのプロセスを盛り込んだ「ハノイ宣言」が発表される見通しと思われていた。
「合意なし」に表れる各国メディアの反応の違い
そのような期待の中で、突然、交渉は打ち切られたのである。
トランプ氏は早々と帰国の途に就いた。予定されていた合意文書の発表は取りやめとなった。
国際メディアセンターの中では、「トランプ氏の前のめり」を懸念してきた日本の記者クラブメディアの記者や取材スタッフたちが、「北は信用できない」「もう日本に帰るぞ」などと言っていた。「トランプ外交の大失態だ」というワシントン支局特派員もいた。
トランプ嫌いの米国メディアの多くも「無理な話だった」「驚きはしなかった」と受け止めた。
国際メディアセンターの中に、「韓国プレスセンター」を設置して、最大の取材陣を送り込んでいた韓国の報道機関の記者たちは、重苦しい雰囲気で原稿を書きながら、今後の見通しを議論していた。
▲国際メディアセンター内の韓国プレスセンター(浅野健一氏提供)
地元のベトナムなど、東南アジア、アラブの記者たちの多くも「残念な結果だ」と言っていた。
アルジャジーラ(カタール)の特派員は「トランプ大統領は商売の取引は得意だが、外交での交渉では素人ではないか。金委員長が大統領への信頼を失うのではないか」と懸念していた。
「合意文書なし」が会談失敗か?
日本では、合意文書が発表されなかたことで「事実上の決裂」「情勢は不透明になった」(共同通信)などと報道されたが、トランプ氏は「金委員長が核・ミサイル実験の中止継続を約束した」と強調しており、決裂というのは言い過ぎだろう。安倍総理とプーチン露大統領との首脳会談で、文書が出されないことはしばしばで、そう珍しくない。
米朝首脳、合意できず 非核化、制裁解除で溝(共同通信、2019年3月1日)
ホワイトハウスのサラ・サンダース報道官が自身のインスタグラムに両首脳が「さよなら」する時の写真がアップされている。
この写真を見ると、金正恩委員長はにこやかな笑顔を見せており、「決裂」「会談失敗」直後の表情には思えない。朝鮮中央テレビも両首脳の別れ際の映像をオンエアしている。
食い違う朝米の発表。大きな進展はなかったが今後に期待
今回の朝米首脳会談は、トランプ氏の退席により合意には至らなかった。残念だが、双方とも信頼関係の継続、実務協議の続行を明言している。「対話は打ち切りだ」と米朝双方から明言されたわけではない。
今回の会談では朝鮮側から、平壌に米国の連絡事務所を設置する提案があり、トランプ氏が「いい考えだ」と応じたとされている。日本の民放の記者たちは、「連絡事務所というが、大使館、領事部でもないので、単なる連絡窓口だ」と東京のデスクと会話していた。
だが、連絡事務所とはそんなに軽いものではない。欧州連合(EU)は平壌に大使館を置いているが、フランスだけは独自に連絡事務所を置いている。日本の与野党議員の中にも、平壌に連絡事務所を置くべきだという意見がある。
トランプ大統領は午後2時過ぎ、宿泊先のJWマリオットホテルでの記者会見で「金正恩委員長との二日間の対話は非常に生産的だったが、全面的な制裁解除を求めたために合意できなかった。途中で席を立たなければならない時もある。今回がそれだった」「金委員長との関係は強く、維持したい」と述べ、協議を継続する意向を示した。
会見に同席したポンペオ国務長官も「今回は朝鮮側の準備の時間が十分になかった」「金正恩氏は準備不足で、我々が望む結果を導けなかった」と表明し、対話の継続を確認している。
一方で朝鮮の李容浩(リ・ヨンホ)外相と崔善姫(チェ・ソニ)外務次官は28日深夜、メリアホテルで行った異例の記者会見で、「要求したのは全面的な制裁解除ではなく、一部の解除だ」とトランプ大統領の会見での発言に反論した。
李氏は、朝鮮は「現実的な提案をした」としながら、具体的には2016~2017年に国連安全保障理事会で採択された制裁決議5件のうち、「民需経済や人民生活に支障を与える項目」のみを先に解除するよう米側に求めたと表明。米国がこれに応じれば、朝鮮は「寧辺地区のプルトニウムとウランを含む全ての核物質生産施設を米国の専門家の立ち会いの下、両国の技術者の共同作業で永久的に完全に廃棄」すると提案したと明らかにした。
米韓軍事演習の終了は朝米の協議続行へのサイン
米国防総省は3月2日、米国防長官代行と韓国国防相が電話会談で、朝鮮半島有事を想定し、毎年春に実施してきた最大規模の米韓合同軍事演習を終了させることで合意したと発表した。対象は野外機動訓練「フォールイーグル」と指揮所演習「キー・リゾルブ」で、昨年はいずれも規模を縮小していた。シャナハン米国防長官代行と韓国の鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防相が電話会談で確認した。
共同通信は<朝鮮との緊張緩和策の一環だ。2月末の米朝首脳会談で合意できなかった非核化交渉の進展を促す狙いがある。米韓演習についてトランプ米大統領は「多額の費用がかかる」と否定的で、財政面も考慮した>と伝えた。
このタイミングでの大規模軍事演習の終了発表は、米国が朝鮮との実務協議の早期再開を求めるサインだろう。
2017年末まであった朝鮮半島での核戦争の危機が今、なくなろうとしている。トランプ大統領は「急がない」「核実験、ミサイル発射実験がないことは成果だ」と言っている。
しかし、1953年に停戦協定が結ばれた朝鮮戦争は、いまだに終焉を迎えていない。1948年から71年続く朝米の敵対関係を友好な関係に変えるには、時間がかかる。和解は簡単には行かない。しかし、一歩ずつ前進するよう国際社会は支援すべきだ。
また、朝鮮半島の非核化は、日韓にある米軍基地をどうするのかという日本自らにとっての政治課題でもある。外国メディアは「非核化は、米国の核の傘の下にある韓国、日本の核をどうするかも課題だ」と報じている。米国の核の傘の下にあって、朝鮮だけに核放棄を求めることが正当かどうか、日本は自問をしなければならない。
日本が1905年から1945年まで、朝鮮半島を侵略し、強制占領した過去の清算も、半島の北半分(朝鮮)については、まだ議論すら始まってもいない。そのことを、日本の国民とメディアは認識して、朝米交渉を見守るべきだ。
安倍総理は28日夜、トランプ大統領との電話会談の後、トランプ大統領が金委員長との会談で、2回、拉致問題を取り上げてくれたと言明。日本のメディアはこれを大きく伝えたが、現地メディアセンターの海外メディアは、全く関心を示さなかった。
金委員長は5日午前3時、朝米会談とベトナム公式訪問を終えて特別列車で平壌駅に到着した。8日付の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は「良い結果を期待した内外は、会談が以外にも合意文なく終了したことについて、米国に責任があると一様に主張し、物足りなさとため息を禁じ得ずにいる」と論評した。
ただし、首脳会談自体は「成功裏に終わった」と評価している。トランプ大統領、首脳同士の信頼関係を強調し、実務協議継続を呼び掛けている。中国、韓国、ロシア、東南アジア諸国連合(ASAEN)なども第2回朝米会談を評価し、朝米の対話維持に期待を表明している。
日本のテレビでは、専門家と称するコメンテーターが、朝鮮・韓国にクーデターの動きがあるとか、朝鮮がミサイル発射場の復旧を進めており、敵対関係に戻る可能性があるなどと語っているが。責任ある発言とはとても思えない。
※筆者の考えにより、本稿では朝鮮民主主義人民共和国の略称を「北朝鮮」ではなく、「朝鮮」としました。
浅野健一(あさの・けんいち) 1948年、香川県生まれ。1966年AFS国際奨学生として米国ミズーリ州の高校へ留学。慶應義塾大学で「ベトナムに平和を!市民連合」デモに参加。1972年、共同通信記者。1994年から2014年まで同志社大学大学院メディア学専攻教授。『ナヌムの家を訪ねて 日本軍慰安婦から学んだ戦争責任』(浅野健一ゼミ編、現代人文社)『検証・「拉致帰国者」マスコミ報道』(人権と報道・連絡会編、社会評論社)『記者クラブ解体新書』(現代人文社)『安倍政権・言論弾圧の犯罪』(社会評論社)など著書多数。
◇浅野健一教授の労働裁判を支援する会:http://blog.livedoor.jp/asano_kenichi-support/
◇浅野健一のメディア批評:http://blog.livedoor.jp/asano_kenichi/