【第358号】岩上安身のIWJ特報!自民党改憲草案の緊急事態条項は戦前の国家総動員法の起動スイッチ!? 衆院解散で「ナチスの手口」がいよいよ現実に!? 岩上安身による早稲田大学・長谷部恭男教授インタビュー(その3) 2018.1.31

記事公開日:2018.1.31 テキスト独自
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その2の続き)

自作自演の国会議事堂放火事件を共産党の陰謀ということにして、「大統領緊急令」を発令! わずか半年で独裁体制が確立!

岩上「そこで、国会議事堂が炎上するという有名な事件(※33)が起こりました。何者かにより放火され、逮捕されたのが、オランダの共産主義者マリヌス・ファン・デア・ルッベという人だった。この人の単独犯行だったんじゃないかというんですけれども、実は最近の研究ではもう、ルッベの犯行ではなくて、突撃隊の一派が引き起こしたナチスの自作自演だったことが明らかになっていると(※34)、このご著書の中でも、石田先生がおっしゃっていました。前にインタビューした時にも、証拠文書も出てきたというようなことをおっしゃっていたんですね。これは大変なことですよね」

▲議事堂炎上で緊急事態を宣言!(1)(画像URL:http://bit.ly/2DAn6WE

長谷部「これは歴史の問題ですので、私は門外漢なんですけれども、石田先生もそういうことをおっしゃっていますし、まあ、そうなんだろうと思いますね」

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▲長谷部恭男教授(画像URL:http://bit.ly/2DR6rlC

岩上「そしてヒトラーは、この事件を共産党の組織的な陰謀だと決めつけて、ワイマール憲法が保障する7つの基本権、つまり、人身の自由・違憲表明の自由・集会の自由・結社の自由・通信の秘密・自由権の不可侵・所有権の保障を停止する大統領緊急令を宣言した(※35)。これを大統領に出させたということですよね。これについてもお話をうかがいたいと思います」

▲議事堂炎上で緊急事態を宣言!(2)(画像URL:http://bit.ly/2DObYbP

長谷部「おっしゃる通り、自作自演の大事件を起こしたことによって、『自分たちの反対勢力を強権的に追い落とそう』『政治的な力を奪ってしまおう』と、いろいろな緊急令を出すんですけれども、これもその1つということになります」

岩上「大統領緊急令には、『共和国政府が州の自治も停止させてしまう』『共和国政府の命令に従わなければいけない』という条項もありますが、地方政権に、露骨に介入できるようになるということですね(※36)」

▲国民と国家を防衛するための大統領緊急令(1)(画像URL:http://bit.ly/2rFAmYC

▲国民と国家を防衛するための大統領緊急令(2)(画像URL:http://bit.ly/2DQdQB1

長谷部「そうですね」

岩上「そして大事なのは、共産党の国会議員など、急進的な左翼運動の指導者たちを一網打尽にした(※37)ということ。プロイセンだけで5000人以上逮捕された。全権委任法というのは、2段階目なんですね。2段階でこういう独裁を確立していくということです。これについても話をうかがえたらと思います」

長谷部「これは、全権委任法、あるいは授権法(※38)といわれているものになります。授権法の成立の経緯についても、本の中で石田先生が詳しく説明をしています。

 授権法というのは、憲法そのものを変えてしまう権限も政府に授権するという内容のものでしたので、この授権法を制定するために、実は憲法改正と同等の手続きを取らないといけなかった。ただこれは、『国会議員の3分の2以上の出席、出席者の3分の2以上の賛成が必要』と、かなり高いハードルでしたので、普通のやり方ではこの授権法は制定できない。そのためヒトラーは、いろいろなルールを変えてしまった(※39)」

▲卑劣な手口で成立させた「全権委任法」(1)(画像URL:http://bit.ly/2BtKZNB

▲卑劣な手口で成立させた「全権委任法」(2)(画像URL:http://bit.ly/2ndogRC

岩上「共産党の国会議員を拘束してしまって、母数を減らすことで3分の2の条件をクリアした」

長谷部「そう、そちらがまずあった上で、さらに議院運営のルールも変えてしまった。二重三重に手を使って、この授権法をむりやり通したという話です」

岩上「普通は、この『国会議員の3分の2以上が出席した上で』ということですから、拘束してしまっていたら議員は欠席ですから成り立たないけれども、『議長が認めない理由で欠席する議員は出席と見なす』ということにしてしまった。

 拘束しておきながら『出席』と見なして、棄権扱いにして、分母から除外してしまうという、すさまじいやり方ですね。今にして思えば、最初から狙ってああいうことを起こしたのかという感じがしますね」 長谷部「まあ、そこまで考えていたかどうかは、私にはわからないんですけれども、あとから考えてみれば、そういうふうに疑われても不思議ではないということだろうと思いますね」

岩上「いずれにしても、これは猛スピードで行ったんですよね。国会議員の3分の2以上が出席という条件は、これでクリアした。そして、独裁を確立するための2段階目が授権法・全権委任法になるわけです」

長谷部「そうですね。第1項、第2項が革新的な条文なんですけれども、『法律は、議会ではなくて政府が制定できる』というわけです。しかも、政府が制定する法律は、憲法に違反できる。『憲法違反の法律を政府が作っても、それは有効だ』ということで、結局これは、『憲法を政府の判断で変えられる』ということなんですね」

▲民族および国家の危難を除去するための法律(全権委任法)(1)(画像URL:http://bit.ly/2FixRxp

▲民族および国家の危難を除去するための法律(全権委任法)(2)(画像URL:http://bit.ly/2FkKWG7

岩上「議会も通さないということですよね」

長谷部「はい、そういうことになりますね」

岩上「しかも、『ワイマール憲法違反でもかまわない』と言ってしまっている」

長谷部「はい」

岩上「『憲法に制定している手続き以外でも、ドイツ政府で制定できる』と」

長谷部「そういうことですね」

岩上「もう、政府は好きなようにできるということですね」

長谷部「『政府の判断で憲法を変えられる』ということになります」

岩上「ヒンデンブルク大統領(※40)も大統領令を連発して、ヒトラーを引き立てた人だとも言えますけれども、第1次大戦の英雄だった軍人ですよね。この人が1934年8月に亡くなって、政府は大統領と首相の権限を合体させた新しい役職『総統』を新設(※41)して、ヒトラーが就任する。私はずっと、ヒトラー総統の『総統』とはなんだろうと思っていましたけれども、新しい役職だったんですね。ここで独裁が確立する。ヒトラー政権誕生から授権法の誕生まで、たったの50日。独裁の確立まで半年。ヒトラーが総統になるまで1年半」

▲ヒトラーが総統に就任!独裁権力を確立!(画像URL:http://bit.ly/2DHirpR

▲パウル・フォン・ヒンデンブルク(画像URL:http://bit.ly/2nadtYz

長谷部「はい」 岩上「だから、いったんあるラインを越えると、あっという間だということですよね」

授権法は憲法改正の手続き自体を変えてしまった法律!? 緊急事態条項にも同じことが書いてある!!

岩上「全権委任法第2条には、『憲法に違反することができる』と書かれていますが、これは『憲法を改正して政府に憲法を変える権限を与える』ことになります。こうした全権委任法の論理的問題について、ご説明ください」

▲「全権委任法」の論理的問題(画像URL:http://bit.ly/2BvynFK

長谷部「これは、ちょっと頭の体操のような話なんですけれども。結局、授権法とは、憲法改正の手続き自体を変えてしまった法律だということになるんです。

 第2次安倍政権が成立した当初、日本国憲法96条にある憲法改正手続きを変えようという動きがありました。『3分の2の特別多数が必要だという条件を過半数でいいことにしようではないか』という話です(※42)。これも、憲法改正手続き自体を変えてしまおうという話なんですね。問題は、『憲法改正手続きを通じて憲法改正手続き規定自体を変えてしまってよいのか?』という話なんです。

 憲法改正手続き規定というのは、『憲法自体を変えられるという手続き』『憲法自体を変えるための根拠になる規定』ですから、『ほかの憲法規定よりは一段高いところにある』と考えることができます」

岩上「なるほど」 長谷部「それよりもさらに上のものがないとすると、この憲法改正手続き規定というのは日本の法体系の最上位の規定であるということになりますね。そうすると、憲法改正手続き規定というのは、まあ非常に単純化して申しますと、『一番偉い規定である』『なんでもできる』ということです」

岩上「はい」

長谷部「では、『なんでもできる』と言っているその規定自体を変えられるのかという話なんです。歴史を溯ってみますと、中世のヨーロッパで、次のような神学的な問題が議論されたことがあります。『全能の神というのは、自分自身でも持ち上げることができないほど重い石を創造することができるのだろうか?』という問題です(※43)」

岩上「なるほど」

長谷部「全能の神なら、重い石も作れるような気がするんですけれども、そういう重い石を作ってしまいますと、神はその石を持ち上げられなくなるわけですから、もう全能ではなくなってしまうわけですね。それと形式的にはとても似ている問題なんです」

岩上「この『全能の神』のところを、『そもそも憲法を制定する力、その勢力』というものと想定して考えると、それがたとえば革命的な国民の盛り上がりとか、時には蜂起とか、話し合いかもしれませんけれども、憲法を制定した時には、国民のパワーというのは大変大きく、至上のものかもしれないけれども、大きな石を創造したあとは、『憲法に託したので、今度は国民もそれをたやすく動かすことはできない』という話に置き換えて理解すればよろしいんですか?」

長谷部「そうですね、憲法を変えられる力・権限というのは、結局、『憲法を制定できる権限』である。まあ、別の言い方をすると、『主権』なんです」 岩上「なるほどね」

長谷部「主権というのは、政治的にはなんでもできる力。神学的に言うと、それは全能の神に等しい存在ですよね。では、『全能の神に等しい、全能の主権』というのは、自分自身を縛ったり、自分自身を変えたり、そんなことができるのかどうかという問題も引き起こすということになる。これはまあ、理論的な問題なんです」

岩上「なるほど。国民主権というのは、現在の憲法の、とても大事な、一番の柱かもしれません。国民が主権者であって、国民がこれを制定したのであって、だからこそ、そんなに簡単に、容易に変えてはならないということが、憲法の改正規定にも当てはまるということなんでしょうか。憲法を尊重するためにも、憲法の改正には慎重でなければならない」

長谷部「確かに、もう2つ3つ議論の段階を踏むと、おっしゃるような話にもつながってきますが、単純に言えそうなことは、『いくら全能の力でも、論理的に不可能なことはできない』、ということじゃないかと思いますね」

岩上「そういうことをナチスは強引に、犯罪的にやったわけですね。そして、授権法が制定後、ナチ法と呼ばれる、新しい法律が続々成立した。これは、よく覚えておかないといけない。国会を通さず、政府が好きに法律を出せる。緊急事態条項でも同じようなことが書いてあるんですね(※44)。

 そして、職業官吏再建法(※45)では、公務員職からユダヤ人と民主主義者を追放。遺伝病子孫予防法(※46)では、特定遺伝病とアルコール中毒の患者に対して、本人の意志とは無関係に強制的に断種させる。

 こういうことから始まって、レーム事件(※47)で突撃隊員幹部を粛清して治安回復をしたんですね。暴れるだけ暴れて、半分暴力によって簒奪(さんだつ)して権力を握ったあと、一番暴れている連中を粛清して、『ほら治安がよくなっただろう』と言う。マッチポンプもいいところだと思うんですけれども(笑)。 

▲ヒトラーの「決められる政治」(画像URL:http://bit.ly/2DDRLX3

 それで、失業率も低下し、経済も上向いたことで、民衆もヒトラー独裁を容認(※48)した。もしくはせざるを得なかった。これに反対するというのは、たいへん恐い。民衆が言いなりになって、みんな雪崩を打ってナチ党員になっていく中、第2次大戦が起こり、ホロコーストへと転げ落ちていった。止まることができなかったということなんですよね」

▲レーム事件を首謀したアドルフ・ヒトラー(中央左)とヘルマン・ゲーリンク(中央右)(画像URL:http://bit.ly/2BuRwYt


※32)ヒトラー、首相に就任:
 1933年1月30日、ヒトラー内閣が発足。副首相にはフランツ・フォン・パーペンが就任、主要閣僚ポストには国家人民党の大物もしくは保守系無所属の大臣経験者が占める連立内閣であった。首相に任命されたヒトラーは、2日後の1933年2月1日、ラジオで最初の演説を行う。
 いつものアジテーションとは打って変わって穏やかで信心深い政治家を装いつつ、14年間の共和国政治のもとで深まった国民相互の対立を克服し「国民的和解」を図ること、軍縮問題に関連し国家間の平等を実現すること、そして、4年のうちに農民を困窮から救い失業を克服することなどを約束。ドイツの救済者たることを全国の聴衆にアピールしたのだった。
 一方、2日後(2月3日)の陸海軍司令官に対する非公開演説では本音を露わにした。すなわち、ワイマール共和国の象徴ともいうべき国会=議会政治を葬り去ること(「がんのような民主主義の宿弊の除去」)、マルクス主義を撲滅するべく、反対者や平和主義者は力で屈服させ、青少年と国民には「闘いのみが我らを救う」という考えを植え付けること、そして、国防軍を再建し手狭な「ドイツ民族の生空間(レーベンスラウム)」を東方に拡大、そこを徹底的にゲルマン化することである。
 さらにヒトラーはナチ党の単独過半数獲得をねらい、二ヶ月半前に国会議員選挙が行われたばかりにもかかわらず国会を解散、選挙日を3月5日とした。
 反共一色の財界から流れ込む潤沢な資金を背景に、ナチ党はラジオ放送と飛行機をフル活用した宣伝活動を展開。公権力もこれに加担し、「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」(2月4日公布)を通じて集会および言論の自由に制限を加え、政府批判を封じる。同時に、ナチ党の武装組織である突撃隊と親衛隊をプロイセン州の「補助警察」として州政府の治安組織に組み込み、反対派の弾圧に乗り出していく。 参照:石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

※33)国会議事堂放火事件:
 1933年2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が何者かによって放火され焼け落ちた事件。首相に就任した(同年1月30日)ヒトラーは国民の信を問うとして議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日としたが、この選挙を控えた目前の出来事だった。
 ベルリンの10か所の消防署から100台以上の消防車が駆けつけ、懸命の消火活動が行われたが、炎は丸天井を突き抜けて上がり、議事堂は何時間にもわたって激しく燃え続けた。とりわけ本会議場の被害は甚大で、議長席や演壇、そして議員席の前半分以上が完全に焔になめ尽くされていたのみならず、損傷は階上の傍聴席までおよび、あたかも本会議場全体が爆弾でも仕掛けられたかのようだったという。
 大量の液体燃料を二十数ヶ所にわたって撒布された形跡があり、警察は火災が放火によるものと断定。消火活動も終わらぬうちに、議事堂内を徘徊していた不審者が犯人として逮捕される。マリヌス・ファン・デア・ルッベ(1909~1934)という名のオランダ人青年で、上半身裸だったが、まるで「共産党に罪を帰し得る証拠となるように気を配った」かのごとく、共産主義のリーフレットやオランダ共産主義グループの団員証のようなものは身につけていた。
参照:
・Wikipedia「ドイツ国会議事堂放火事件」【URL】http://bit.ly/2iFFmor
・四宮恭二『国会炎上(デア・ライヒスターク) 1933年ードイツ現代史の謎』日本放送出版協会、1984年

※34)国会議事堂放火事件はナチ党の自作自演:
 国会議事堂放火事件は、現場で逮捕された共産主義者ファン・デル・ルッベ本人の自白によりルッベの単独犯行とされた。一方で、放火はナチ党による自作自演だとする説も当時から知れ渡っていたが、真相を掴んでいたと思われる人々が次々と不審な死を遂げる。
 たとえば国権党所属の有力議員エルンスト・オーベルフォーレン。国会議事堂はじつは地下道で議長公邸と結ばれており、これを抜けてゲーリンク議長の手兵たちが議事堂内へ侵入、各々可燃物を撒いたのち、地下道を通って逃げたとする彼の「覚書(メモランダム)」が、英国紙「マンチェスター・ガーディアン」(現在のガーディアン紙の前身)に掲載されたが、その10日後にオーベルフォーレンは「ノイローゼによる拳銃自殺」を遂げた。
 次にベルリン消防総監ワルター・ゲムプ。現場で消火活動を行った部下たちから、ナチ党が発表した「ルッベの単独犯行」と矛盾する、館内二十数か所の火源と燃料散布の痕跡が確認されたとの報告を受け、これを発表したが、その一ヶ月後、長年の功績を積んだ職を突然罷免されたうえ、部下の汚職事件に連座させられ、長く拘束されたあげく、控訴審の直前に獄中で「絞首自殺」。
 さらにベルリン外辺コェぺニック地区の労働者たち。同地区では放火事件がナチ党「突撃隊(SA)」の仕業であることが公然の秘密として語られていた。他ならぬSAの面々がそれを「公然と自慢していた」からである。
 事件から4ヶ月の1933年6月21から26日、「同地区のひとりの社会主義者がSA隊員を銃撃した」ことの報復として、SAによる労働者たちの大量虐殺が行われたうえ、SA隊員ら自身も翌年の大粛清(「レーム事件」)で殺害された。「口封じ」のための大量殺害ではないかと疑われる。戦後まで生き延びた関係者も責任逃れのために真実を語らず、こうして真実は闇のなかへ葬り去られたように思われたが、戦後、事件当時国会議長公邸でボイラーマンとして勤務していたハインリヒ・グルーネワルトが地下トンネルの存在や事件前後の様子を証言するなど、事件の真相が徐々に明らかになってきている。
参照:
・四宮恭二『国会炎上(デア・ライヒスターク) 1933年ードイツ現代史の謎』日本放送出版協会、1984年
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.56~57

※35)国会議事堂放火事件を共産主義者の陰謀と決めつけ、ただちに基本権停止の緊急令を出す:
 国会議事堂の大火(1933年2月27日夜)の知らせを受けるや、ヒトラーとゲーリンクはただちにこれを共産党員の武装蜂起の狼煙と断定。はやくも翌日夕刻には閣議および大統領の署名を経て「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」を発令し、即日発効させた。
 5条からなるこの緊急令は、「共産主義者による国家の公安を害する暴力行為を阻止するため」と称して「民主憲法からその背骨である人権要項をほとんど抜き取ったばかりでなく、国(ライヒ)政府による各邦(ラント)行政への干渉、刑罰による政治行動への脅迫、死刑罰適用範囲の拡大など、さながら十六世紀の恐怖政治の再現を思わせる内容を持っていた」(四宮恭二)。ここで話題になっているのはその第1条であり、ワイマール憲法第48条第2項「緊急事態条項」に基づく。
 「第1条 ドイツ国憲法114条、第115条、第117条、第118条、第13分の2条、第124条および第153条は、当分の間その効力を停止する。従って個人の自由の制限、出版の自由を含む意見の自由発表の権利の制限、結社・集会の権利に対する制限、信書・郵便・電信・電話の秘密への干渉、家宅捜査命令、財産の没収命令、所有権の制限等もまた、これに関する定められた法的限界を適用されない」(救仁郷繁訳)  これにより、共産党ほか諸左派に対するナチ党の「テロ的」弾圧・迫害が合法化されるとともに、同年3月3分の2日の国会において同党が「全権委任法」(授権法)を獲得する足場が固められた。また、条文にある基本権停止期限の「当分の間」は、結局のところ、1945年におけるナチ体制の崩壊の日まで効力が発揮されたままだった。
参照:
四宮恭二『国会炎上(デア・ライヒスターク) 1933年ードイツ現代史の謎』日本放送出版協会、1984年.

※36)地方自治へ介入:
 「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」(1933年2月28日発令・発効)第2条のこと。条文は以下のとおり。
 「第2条 一邦内において、公共の安全および秩序の回復に必要な措置がその効果を収められない場合は、邦最高行政機関の権能に関する限り、ドイツ国政府が一時これを代行することができる」(救仁郷繁訳)
 ここにナチスのもうひとつの狙いがよく表れていると石田氏は言う。石田氏によれば、ヒトラーが首相になった当時、地方はナチ党一色ではなく、むしろ反ナチ的な政権が少なからず存在した。
 そこで、「公共の安全および秩序の回復に必要な措置が効果を収めていない」と称して政府が地方政治へ介入することができるようにしたのがこの第2条なのであり、実際その後、ナチ党員がわざと地方で乱闘騒ぎを起こしてはナチ系の新聞が大きく報じ、それを以って政府が「この地方は秩序が保たれていない」として介入するということが全国各地で繰り返された。こうしてドイツの「強制的均制化」が一気呵成に進む。
参照:
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.53-56
・四宮恭二『国会炎上(デア・ライヒスターク) 1933年ードイツ現代史の謎』日本放送出版協会、1984年

※37)反対勢力を一網打尽:
 「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」 および「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の2つの大統領緊急令(1933年2月28日・29日)にもとづいて、共産党の国会議員や左翼活動家たちの一斉逮捕がただちに開始された。
 そして、その実働部隊となったのが、ナチ党の半武装組織「突撃隊(SA)」と党内警察組織である「親衛隊(SS)」である。ヒトラー内閣の発足とともにゲーリンクが内相に就任し、権限を掌握したのが、国内最強との評判が高かったプロイセン州警察であった。幹部はことごとくゲーリンクの息のかかった人間に置き換えられ、国家に敵対する者には銃の使用もためらわないようにとの通達が行き渡っていた。
 これにより首都ベルリンとその周辺(プロイセン州は首都を含むドイツ全土の3分の2を擁していた)は、戒厳下さながらの様相を呈し、数日のうちにプロイセン州だけで5000人以上が、選挙をはさんで3月半ばまでには1万人以上の共産主義者や無政府主義者、社会民主主義者が予防拘禁・投獄された。
 3月3日にベルリンの自宅で逮捕されて以後11年間も裁判ぬきに拘束され、ブーヘンヴァルト強制収容所に送られて処刑された共産党党首エルンスト・テールマンのような活動家も少なからぬ数に上った。
参照:
・Wikipedia「ナチ党の権力掌握」【URL】http://bit.ly/2jqgi8J
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.55. ・四宮恭二『国会炎上(デア・ライヒスターク) 1933年ードイツ現代史の謎』日本放送出版協会、1984年

※38)全権委任法(授権法):
 国家の非常事態の発生に際し、立法府が行政府等の他の国家機関に立法権を行使できる権限を与える法律。通常は憲法に明記され、フランス第三共和制では13もの授権法が頻発された。ワイマール憲法にも同様の規定があり、1921年に2度、193分の2年に1度制定されたが、1933年3月3分の2日のそれは、ヒトラー政権の独裁を可能ならしめたとりわけ悪名高い法律である。正式名称を「国民および国家の苦境除去のための法律」といい、次の五カ条からなる。
 「第一条 国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。 第ニ条 政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる。 第三条 政府が制定した法律は、首相の手で認証され、官報に公示される。 第四条 外国との条約で立法の対象となるものは立法参与機関の承認を必要としない。そのような条約の遂行に必要な規定は政府が発令する。 第五条 本法律は、公示日をもって施行される。一九三七年四月一日をもって失効する。現在の政府が取って代わられたときにも失効する。」(石田氏による要旨)
 この法律をもってヒトラー政権は立法権を獲得した(第1条)のみならず、憲法改廃権を含む無制限の権限が与えられ(第2条)、ワイマール憲法は事実上死文化した。さらには政党の存在理由も失わせ、三ヶ月のうちにナチ党以外の全政党が非合法化もしくは解散に追い込まれたほか、7月には政党新設禁止法が制定され、ナチ党一党独裁体制が確立される。
参照:
・Wikipedia「授権法」【URL】http://bit.ly/2zVNGLN
・Wikipedia「全権委任法」【URL】http://bit.ly/2pTIDTJ
・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年.

※39)全権委任法を可決させるために姑息な手を… :
 国会議事堂放火事件直後の1933年3月5日、国会選挙でナチ党は得票率43.9%にあたる288議席を獲得し、第1党の座を揺るぎないものとした。3月21日にはベルリン郊外ポツダムの衛戍(えいじゅ)教会で盛大な国会開院式を開催。はやくもその2日後には、焼け落ちた国会議事堂の代わりに、ベルリンのクロル・オペラ座を本会議場に全権委任法の審議が始まる。
 とはいえ、これは「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第ニ条)ことを定める=「憲法を改正して政府に憲法を変える(改正する)権限を与える」法律であるため、憲法改正規定であるワイマール憲法第76条に基づき、(1)国会議員総数(647人)の3分の2(432人)が出席しかつ(2)出席した議員の3分の2以上が賛成することが必要であり、このままでは可決に至らない。ナチ党は連立与党の国家人民党(8.0%、52議席)と合わせて過半数は達成したが、3分の2には届かないからである。
 (2)の要件は議事堂炎上事件を口実に行った共産党議員の一斉拘束(つまり投票の場にいることができない)によりクリアできるが、(1)については、拘束もしくは逃亡中の共産党議員81人・社会民主党議員26人は「国会議員総数」に含まれる(この時点では共産党はまだ非合法化されていなかった)うえ、そうではない共産党・社会民主党議員も全員欠席しなおかつ他の政党からも欠席者が15人出れば(じっさい中央党にその動きがあった)、投票にすら持ち込むことができない。
 そこでヒトラーは、議長の認めない理由で欠席する議員は「出席したが投票に参加しない者とみなす」とする議院運営規則変更案を事前に国会に提出、賛成多数で通過させた。 こうして反対勢力の欠席戦術を封じるとともに、「棄権」扱いとされる拘束・逃亡議員を差し引いた540人の3分の2以上の賛成で可決となり、出席できる社会民主党議員94人と中央党議員73人が揃って反対票を投じてもこれを阻止することができなくしたのである。
参照:
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.64-68
・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

※40)パウル・フォン・ヒンデンブルク(1847~1934):
 1925年に第2代共和国大統領に選出されて以来、度重なる大統領緊急令権の行使を通じ、ブリューニング、パーペン、シュライヒャー、そしてヒトラーと、確たる政治基盤を有さぬ4代の首相を支えた政治家である。
 出自はプロイセンの土地貴族(ユンカー)の軍人家系。ビスマルク主導の「ドイツ統一戦争」(1864~1871)にプロイセン陸軍将校として従軍、第一次大戦では緒戦のタンネンベルクの戦い(1914年)でロシア軍に圧勝し、一躍国民的英雄となった。 旧然たる権威主義者・帝政復古主義者であり、敗戦後はドイツ帝国の戦争責任を真っ向から否定。ドイツは戦場で敗れたわけではない、国内の反戦平和主義者・労働者運動・ユダヤ人の裏切りのせいで敗れた(「背後からのひと突き」「匕首伝説」)と考え、大統領就任の際のワイマール憲法遵守の誓いとは裏腹に、そのような者らが政権に参与できるようなワイマール体制は早晩克服されるべきとの信条を有していた(そのような者は官僚・軍部・財界など社会的上層に特に多く、「皇帝は去ったが将軍は残った」と揶揄された)。
 軍人出身の政治家らしく超党派を矜恃とし、政党政治から距離を置いたが、在郷軍人会・鉄兜団のような旧軍人たちの愛国主義団体に愛着があったという。ワイマール体制打破の動力として最終的にはヒトラー(個人的には嫌悪の対象だったという)に利用価値を見出し、1934年8月2日に老衰で死去するまでヒトラーの独裁体制確立への歩みを後押しした。
参照:
・Wikipedia「パウル・フォン・ヒンデンブルク」【URL】http://bit.ly/2yJada9
・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

※41)「総統」の誕生:
 1933年1月30日にヒトラーを首相に任命した時、ヒンデンブルク大統領はすでに84歳の高齢であり、その後もたびたび体調不良に見舞われていたが、1934年8月1日、ヒンデンブルクがいよいよ危篤に陥ると、ヒトラー政権は憲法の定める時期大統領の選挙を行う代わりに「ドイツ国元首に関する法律」を制定。「大統領(国家元首)」の役職は「首相」の役職に、それも「ヒトラー」その人に統合されると規定(第1条)し、大統領の死と同時に発効するとした(第2条)。翌日ヒンデンブルクは死去し、首相ヒトラーは大統領の権限も掌握するドイツ史上最大の権力者となる。
 なお、「総統」とはドイツ語の「フューラー」(「長」の意)に充てられた訳語。とくに政治活動の指導者を指し、ナチ党においてもその指導者たるヒトラーを指す呼称として用いられてきたものである。就任以来のヒトラーの正式官職名は「首相(宰相)」Reichskanzlerだが、ナチ党員からは「指導者兼首相」der Führer und Reichskanzlerと呼ばれて一般に浸透し、さらにこれが大統領の役職と統合されるに及んで、「指導者(フューラー)」はナチ党のみならず国家の「指導者」という官職、それもヒトラーの人格と不可分の全く新しい官職のようにみなされるようになった(実際、「首相」の官職名は次第に重視されなくなり、1939年以降は公文書にも「指導者(フューラー)」とのみ記されるようになる)。
 ナチ政権は結局「der Führer(フューラー)」を定義せぬまま崩壊したため、これを官職名として扱いうるか種々の見解が出されているが、日本では首相と大統領の権限を備えた段階の「指導者ヒトラー」を指して「総統」der Führerと呼ぶことが多い。
参照:
・Wikipedia「総統」【URL】http://bit.ly/2inhFle

※42)憲法96条改正:
 「日本国憲法第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」

 日本国憲法第96条はこのように、憲法改正について、過半数よりも多い特定数の賛成者を必要とする(「特別多数決」)という一般法のそれより厳しい要件を課し、社会が中長期的に守るべき基本原則として安易に変えることができないようにしているが、安倍自民党は政権与党に返り咲いた2012年冬の総選挙以来、これを衆参各議院の総議員の「3分の2」から「2分の1」へと緩和することに意欲を示してきた。
 同党は第一次安倍政権時の2007年5月に「憲法改正国民投票法」を制定、衆参の各総議員の3分の2以上の賛成で発議された改正案が国民投票で過半数が賛成すれば承認されるようにしたが、最低投票率については依然規定を置かぬままである。要するに、投票率がいかに低くともその過半数の賛成で憲法が改正され得るようになっていたのであり、そのうえ改正の発議要件をさらに緩くするというわけである。
 自民党は「憲法改正は、国民投票に付して主権者である国民の意思を直接問うわけですから、国民に提案される前の国会での手続を余りに厳格にするのは、国民が憲法について意思を表明する機会が狭められることになり、かえって主権者である国民の意思を反映しないことになってしまう」からと説明(自民党『日本国憲法改憲草案Q&A』 Q43)しているが、どの先進国にも例をみないこの緩和案からは、「多数の賛成を得ようとするのでなく少数の賛成でも改憲できるようにしようという、何とも性根の腐った発想」(浦部法穂)が透けて見える。
 たとえばアメリカの憲法改正発議要件は上下両院で3分の2以上の議員の賛成かつアメリカ全土の州議会で4分の3以上の承認、ドイツでは連邦議会と連邦参議院で3分の2以上の賛成である。
参照:
・Wikipedia「日本国憲法第96条」【URL】http://bit.ly/2zcfBH4
・ハフポスト「安倍晋三首相「憲法96条は改正すべき」再び意欲を表明」2014年2月4日【URL】http://bit.ly/29bMrcE
・自民党「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」【URL】http://bit.ly/1Prexwd
・WEB 第三文明「憲法96条改正の問題点とは」2013年8月28日【URL】http://bit.ly/2zN5OGD
・法学館憲法研究所「浦部法穂の憲法時評 96条の改正」2013年3月21日【URL】http://bit.ly/2AWTsK7

※43)「全能の神は自分も持ち上げられない石を創造できるか」:そのような石を創造できなければ神は全能とはいえず、創造できるなら「石を持ち上げられない」ためやはり全能ではないことになるというパラドックス。
 12世紀にはすでにアリストテレスの注解や医学百科辞典の執筆で名高いイブン・ルシュド(アヴェロエス)によって提起され、カトリック神学をはじめ哲学、論理学、言語学など様々な領域で議論されてきた、「全能者は自らの全能を制限するような事柄もなしうるか」という「『全能』の逆説」の一表現である。
 無神論者には全能の神が不在であることの証明のように扱われたが、中世最大の神学者トマス・アクイナス(1224/1225~1274)以来、このパラドクスの問題点は、「行為として現実になしえること」と「単なる論理的可能性」という、「可能」の2つの意味の混同にあり、全能者が可能性としていくら無限大の重量を有する石を創造し得るとしても、全能者自身が望み創造した秩序の世界を破壊するようなそんな石の創造など、全能者が「望むことはあり得ない」という解答が広く知られている。
 全能者にも持ち上げられないならば、地球はもとより宇宙もその石を支えきれないことになるからである。「憲法改正条項にもとづく憲法改正条項それ自体の改正」もこれと同形式のパラドクスであり、いくら論理的に可能であっても、憲法の最上位にあるこの規定は、最上位法でありかつ他の諸々の法と同列であるという矛盾した状態である、自己矛盾を生じ法秩序を破壊するようなことは本質的になし得ないという解答に帰結する。
参照:
・Wikipedia (仏) « Paradoxe de l’omnipotence »【URL】 http://bit.ly/2hJgG1Q
・Wikipedia (英) « Omnipotence paradox »【URL】http://bit.ly/2hBljHg

※44)自民改憲案の「緊急事態条項」にも「政府が国会を通さず好きに法律を出せる」規定が…:
 自民党『日本国憲法改正草案』第9章(緊急事態)にある次の条文である。 「第99条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」
 この「法律と同一の効力を有する政令」という文言が非常に危険であると、木村草太・首都大学東京教授は指摘する。現在、災害対策基本法、国民保護法など5条があり、たしかに現行法制にもこのような「法律と同一の効力を有する政令」=「緊急政令」を制定することができるとの規定があるが、それはあくまで法律による委任の範囲内にあり、かつ委任の条件も明確である。
 これに対し、政令が「法律と同一の効力を有する」となると、その政令はまさに法律と同じものとなり、法律の委任の範囲を超えて政令が定められるようになる可能性がある。しかも、「法律を変える効力を持つ」とも解されうるがゆえに、いったん緊急事態が発令されれば、内閣の権限で法律の内容を変更し、恣意的に国民の権利を制限したり義務を課したりすることができるようになる。
 その「緊急事態の発令」についても、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」(第98条)とある。 つまり、「…等」「その他」「法律で定める」とあるように、「緊急事態」の定義は曖昧で、どのようにも解釈を膨らませるような仕掛けがほどこされており、しかも国会の承認は「事前又は事後」(同条第2項)でよいという。どちらでもよいということは、現実には、国会の承認は必要ない、国会は無視しうる、というに等しい。
 要するに、内閣の一存で緊急事態宣言の発令から、法律と同じ効力を有する、議会の審議を経ない政令の一方的な制定、そして国民の人権の制限へと事態が進行する重大な危険性をはらんでいるのである。
参照:
・WEB RONZA「「緊急事態条項」を徹底討論する 礒崎陽輔・自民党憲法改正推進本部副本部長 vs 木村草太・首都大学東京教授」2016年5月8日【URL】http://bit.ly/1NYPvco
・自民党 憲法改正推進本部「日本国憲法改正草案(全文)」【URL】 http://bit.ly/29xWs6C

※45)職業官吏再建法:
 全権委任法に基づきヒトラー政権が1933年4月7日に制定した法律。内務相ヴィルヘルム・フリック主導で起草された18条からなる法律で、「国民的諸基盤に基づいて公務を再編し、その職務を簡素化するため」(第1条)、「1918年9月9日以降に公務員となった者で、学位あるいは職務に必要な能力を有さぬ者」(第2条1項)、「アーリア人種の先祖を有さぬ者(ユダヤ系の人々を指す)」(第3条1項)、「これまでの政治活動に『国益のために常にそして躊躇いなく行動することの保証』が見受けられない者(共産党員をはじめとする左派を指す)」(第4条)のいずれかに該当する公務員を罷免することを定めた。
 かくして公務員となる権利(第128条)、職の安定と既得権の不可侵(第129条)、そして公務員の政治信条の自由(第130条)を全国民に保障するワイマール憲法は踏みにじられた。のみならず、「アーリア条項」とも呼ばれる同法第3条はその後、ドイツ人あるいは同種の血統を有する国民だけを「帝国市民」とし、これに該当する者のみが公民権を有すると定める「帝国市民法」や、ドイツ人とユダヤ人との結婚を禁止する「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ともに1935年9月)など、様々な反ユダヤ主義的立法を生み出していく。
参照:
・Wikipedia「ニュルンベルク法」【URL】http://bit.ly/2B1svoW
・Wikipedia (fr) « Loi allemande sur la restauration de la fonction publique du 7 avril 1933 »【URL】http://bit.ly/2iu643Q

※46)遺伝病子孫予防法:
 ヒトラー政権が1933年7月14日に制定した、「その子孫が大きな確度を以って重度の肉体的・精神的遺伝疾患に悩まされることが予想できる」遺伝病者は「外科的不妊手術を受けることができる」(第1条1項)とする法律。
 社会ダーウィニズムの優生学思想にもとづき、「劣等分子」を排除し民族の血を「純粋」に保つことを目的としたもので、先天性知的障害、精神分裂病、躁鬱病、遺伝性癲癇、遺伝性舞踊病、遺伝性全盲、遺伝性聾唖がその対象としてあげられていた(第1条2項)。 その思想は次第に「生きるに値しない命」の「安楽死」の肯定へと向かい、障害者は国家・民族の恥であり、その保護は国の財政的無駄遣いであるとの考えが映画や小冊子、ポスター等を通じて国民に広められた。精神病の成人男性の写真を「この遺伝病患者は、生涯に60000マルクの国費を食う」とのキャプションとともに示したポスターは有名である。

▲「この遺伝病患者は、生涯に60000マルクの国費を食う」と書かれたポスター(画像URL:http://bit.ly/2nmELeu

 1939年からはじっさいに対象者を収容所に集め殺害するという安楽死政策(「T4作戦」)が取られ、命を絶たれた身体的・精神的障害者は7〜8万人にものぼる。なお、この「断種法」と同時に、「政党新設禁止法」や「国民投票法」、「国民の敵・国家の敵の財産没収法」などの法律も制定されている。
参照:
・Wikipedia「T4作戦」【URL】http://bit.ly/2zR40g8
・Wikipedia (de) « Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses »【URL】http://bit.ly/2j7wdFf
・Wikipedia (fr) «Aktion T4 »【URL】http://bit.ly/2zQfccR ・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

※47)レーム事件:1934年6月30日から7月2日にかけて実行されたナチ党内の大規模な政治弾圧事件。エルンスト・レームら「突撃隊(SA)」幹部およびナチ党に批判的な保守勢力が一斉に急襲・殺害された。
 「突撃隊」は、1921年に組織されて以来、党集会の警備や護衛、反対派の襲撃等を担い、ヒトラーの権力掌握に大きく貢献してきた党内の軍事組織だが、ナチの一党独裁体制が成りヒトラーが「国民革命」の集結を宣言(1933年7月6日)したのちも、さらなる革命(「第二革命」)を掲げ街々で乱暴狼藉に及ぶようになり、国民の顰蹙を買っていた。「国会議事堂放火事件」もこの突撃隊の仕業であることが明らかになっている。
 突撃隊には結党時来の第一次大戦退役者のみならず、禁党処分を受けた左翼政党からの転向組も含まれており、安定した独裁体制の維持を目指すナチ党にとって、いまや無用の長物と化していたのである。  しかも、隊長のレームは突撃隊を軍と警察に並び立つ民兵組織に改め、いずれは軍を吸収して「国民軍」へと昇格させる構想を抱いており、ヒトラーの徴兵制計画と対立していた。
 ヒトラーは15年来の盟友レームの殺害を通じた突撃隊の無力化を決意。療養中のレームを突如訪問し逮捕したうえで、男色および国家反逆計画の汚名を着せて直属警察組織「親衛隊(SS)」に惨殺させた。同時に突撃隊幹部150人も一斉に逮捕され、射殺された。「国会議事堂放火事件」の真相を知る者はこうして消されてしまった。
 さらに、ナチ批判演説(「マールベルク演説」)を行った副首相パーペンは監禁(ヒンデンブルク大統領の懇願により射殺は免れた)。その原稿の起草者エドガー・ユング、かつてのナンバー2で党内左派指導者シュトラッサー、保守派の重鎮で前首相のシュライヒャーも、この時ナチの手にかかり、家族ともども殺害されている。
参照:

・世界史の窓「突撃隊/SA」【URL】http://bit.ly/2iDiwyy
・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年
・Wikipedia「長いナイフの夜」【URL】http://bit.ly/2azRNzd

※48)ナチ政権下で景気は回復:
 政権の座に就いたナチ党は、国会選挙時の公約どおり、失業問題を解消するための種々の政策を急速に押し進めていった。
 高速自動車道(アウトバーン)や運河、橋梁等の土木インフラを政府が発注し、大量の労働者や職員を新規採用する、企業減税による企業活動の振興を通じて、あるいは国の助成金による住宅建設などの促進を通じて景気の浮揚をはかり、雇用機会を創出したと言われている。
 しかし、アウトバーン建設という公共事業はヒトラー登場前に、すでに着手されていた。
 これにより、1933年に480万人を数えた失業者は、34年に272万人、35年には215万人、36年に159万人、そして37年には91万人までに減少。そうした「ヒトラーの偉業」はゲッペルスの「啓蒙宣伝省」を通じてしきりと喧伝され、「第一次世界大戦の敗北と帝政の崩壊、天文学的なインフレ、世界恐慌の勃発という具合に、立て続けに苦境に見舞われたドイツ国民の絶望感が、「救世主ヒトラー」の登場でいったん後景に退き、雇用の安定とともに昔の平穏な時代を取り戻したかのような錯覚にとらわれた」(石田氏)。
 岩上さんは、ベルリン五輪を撮ったことでも知られるレニ・リーフェンシュタールにドイツで取材したことがある。そのとき、彼女は「ヒトラーもいいことをした」と語ったという。

▲レニ・リーフェンシュタール(画像URL: http://bit.ly/2Ftye8r

 だが、石田氏はそうした数字のからくりにも注意を促す。
 政府は雇用拡大政策の傍ら、18歳になった若者に、干拓や道路建設、農業における補助労働や年季奉公などの半年から1年の勤労奉仕を推奨し、労働市場から遠ざけたのである。この勤労奉仕はのちに義務化、内容も軍事教練となる。
 また、復職しないことを条件に結婚奨励金を貸し付け出産数に応じて返済額を減免(4人産めば全免)する、夫婦共働きを禁じる法律を制定するなどして女性労働者を家庭に戻し、失業者の登録数から全体の20〜29%をも占めていた女性を抹消。さらに、1935年3月からはベルサイユ条約に反して一般徴兵制度を導入し、以降、毎年100万人以上の若者が就労対象から外れた。つまり、労働者の統計上の母数を強引に減らすことによって、失業者が目覚ましく減少したように見せかけたのである。
参照:石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

その4に続く

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