【第357号】岩上安身のIWJ特報!自民党改憲草案の緊急事態条項は戦前の国家総動員法の起動スイッチ!? 衆院解散で「ナチスの手口」がいよいよ現実に!? 岩上安身による早稲田大学・長谷部恭男教授インタビュー(その2) 2018.1.29

記事公開日:2018.1.29 テキスト独自
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(岩上安身)

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その1の続き)

問題発言を繰り返す麻生副総理!長谷部氏は「ヒトラーのことがお好きだということはとてもよくわかるのですが、もう少し勉強されたほうがよろしいんじゃないか」と批判!?

岩上「はい、そして、麻生さんの『ナチスの手口』発言(※17)。まあ、有名ですよね。『手口を学んだらどうかね』というところが、よくフィーチャーされているんですけれども、実はこのご著書で石田先生が冒頭に、この発言のほぼ全文を書かれているんですね。これは、よほど『鍵になる』とお考えになった上で書かれていると思うんです。長谷部先生は、麻生副総理という、政権ナンバー2、大変影響力のある政治家が言った言葉の、どこが気にかかると思われますか?」

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▲麻生副総理の「ナチスの手口」発言(1)(画像URL:http://bit.ly/2DB7hPz

▲麻生副総理の「ナチスの手口」発言(2)(画像URL:http://bit.ly/2rHyWMX

長谷部「少なくとも石田先生は、ナチスに関しましても、ワイマール憲法の歴史に関しましても、『麻生さんはどうも基本的な知識がなさすぎるのではないのか』というところが気になっているんじゃないかと思いますね」

岩上「うーん。非常に雑な知識しかない。『ざっくりとこういうことだろう』という思い込みがある。その思い込みで、『手口を学んだらどうか』と言っているわけですね」

▲東京大学教授でドイツ近現代史が専門である石田勇治氏 (画像URL:http://bit.ly/2DIYv24

長谷部「しかし、本当にナチスのやった通りのことをやられたら、大変なことになりますから」

岩上「大変ですよね。そして、その後の発言でも、先月、『政治家は結果が大事だ。なん百万人も殺しちゃったから、ヒトラーはいくら動機が正しくてもだめなんだ』(※18)と言いました。これは『ヒトラーがだめなんだ』と言っているのではなく、『いくら動機が正しくても』ということは、結局は、『ヒトラーの動機は正しかった』と言いたかったんじゃないか。彼はそう考えているらしいと言わざるを得ないんですよね。これはいかがでしょう?」

▲アドルフ・ヒトラー(画像URL:http://bit.ly/2DIHWHu

長谷部「まあこれも、非常に不用意な発言です。実際、何をお考えなのか、考えておられないのかというのはよくわからないのですが(笑)。麻生さんご自身も『誤解を招きかねない』とおっしゃっていますけれども、少なくとも『極めて不用意な発言』だと思いますね」

岩上「正確な知識は持っていないということはわかる。しかし、ナチスに対してこれだけコミットしながら、我が国の政治・憲法を変えようということに即して話すというのは、やはり底意、つまり腹の中にあるものとしては、『ナチスのようなやり方で、うまく全体主義的な方向に持っていきたい』『民主主義体制を眠らせてしまいたい』と言っているように聞こえるんですね。やはり、そういうところが本音ではないかと思うんですけれども。いかがでしょう?」

長谷部「そこは、本音として何を考えておられるか あるいは考えておられないのか。それがよくわからないところが大変恐いところでして。とにかく『ヒトラーのことがお好きだ』ということはとてもよくわかるのですが、お好きなのであれば、もう少し勉強されたほうがよろしいんじゃないかと思いますね」

▲『ナチスの「手口」と緊急事態条項』(長谷部恭男、石田勇治著、集英社新書、2017年)
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岩上「麻生さんはその上、今月3分の2日の講演で、北朝鮮危機が有事ということは、朝鮮戦争の再開のようなことをイメージしているんでしょうけれども、『難民が押し寄せてきたら、武装難民かもしれない。警察で対応するのか、自衛隊防衛出動か、射殺ですか。真剣に考えねばならない』(※19)と発言している。難民に対して、『射殺』するなんて、衝撃的です。

 難民は、困窮して、国境を越えて必死に逃げてくる人間ですから、不法入国する場合がある。まあ、たいがい不法入国ですね。でも日本は難民条約(※20)に入っていて、それを罰してはならないと、31条にある。難民条約違反でもあり、かつ、特段の罪を犯していない人間を、裁判にかけるわけでもなく『その場で射殺』と言っているわけですから、これは人殺しですよ。殺人扇動といいますか、殺人教唆といいますか。それを権力者が言うというのは、大問題ではないか、刑法にも抵触するんじゃないかと、私は思いますけれども、先生、これはいかがですか?」

▲朝鮮半島からの難民を「射殺」するか検討!?(画像URL:http://bit.ly/2GjVQgD

長谷部「これまた、『何を考えてこういう発言をされたのか?』ということが極めて不思議です。その場で口から出たにしても、これはちょっとまずいですね。不用意という限度を超えているんじゃないかという気がします」

岩上「真意を質さなければいけないと思います。また、これを今日のテーマである緊急事態条項と重ね合わせますと、平時で、現在の憲法体系・法体系の下でこんな命令を下して、警官が実際に言われた通り射殺したら、これは任務の範囲を超えた『殺人』になってしまうと思います。『緊急事態宣言を行ったら、こんなことも可能になる』とも読み取れるのですが、いかがでしょう?」

長谷部「これは、仮に緊急事態があるとしても、たとえば、何らの正当な理由もなしに、単に武装しているというだけの理由で射殺をしてしまうというのは…」

▲早稲田大学教授・長谷部恭男氏(画像URL:http://bit.ly/2DHGbdD

岩上「『武装をしているかもしれない』という程度ですよね」

長谷部「『しれない』って。これは、とても正当化はできないだろうと思います」

岩上「当然、難民の半分は女性ですし、そして中高年から老人、子供もいる。そもそも逃げてくる人々の中で、武装して暴れることもできる成年の男性は、数が限られているわけじゃないですか。シリア難民も含めて、『武装難民』なんて現実的じゃないと思うんですよね。あまり聞いたこともない。こういうことを言うというのが本当に考え難いんですけれども。この人たちが進めようとしているのが、緊急事態条項である。この頭が進めようとしているということを、われわれは肝に銘じないといけないということですよね」

▲シリア難民(国連難民高等弁務官事務所ホームページより。URL:http://bit.ly/2neQhYn

1932年、ついにナチス党が第一党の座を獲得! しかしその得票率は過半数にも満たなかった

岩上「そして、『ナチスの前夜の話』ですけれども、ワイマール憲法(※21)は、当時としては非常に民主的で、国会と大統領の二元主義です。権力が集中しないようにしていたんですよね。当時としては理想的と考えられていたんですけれども、欠陥も穴もいろいろあった。大事なのはワイマール憲法48条ということになると思いますけれども、48条1項、2項、3項を、ぜひ、ご説明いただければと思います」

▲ワイマール憲法の特徴:二元主義(画像URL:http://bit.ly/2neFFsu

▲ワイマール憲法第48条(1)(画像URL:http://bit.ly/2rByq38

▲ワイマール憲法第48条(2)(画像URL:http://bit.ly/2nchM4G

長谷部「これは非常に有名な条文です。この中の特に第2項(※22)ですね。『大統領は、公共の安全や著しい障害が生じた、あるいはその恐れがあるという時には、それを回復させるために必要な措置を取ることができる』ということですけれども、その後、個別の措置だけではなくて、大統領は命令を出すようになります。具体的にはいったいどういうことができるかというと、『いろいろな基本権、その全部または一部を停止できる』ということなんですね。

 第3項は『安全装置』(※3分の2)ということですけれども、『ライヒ議会の要求があれば、大統領が取った措置、あるいは大統領が緊急で出した命令は廃止されねばならない』ということです。まあ、『廃止されねばならない』という言い方の含意はどこにあるかというと、『廃止するまでの効力は、遡及的になくなるわけではない』ということなんですね」

岩上「なるほど。これが『大統領緊急令』の根拠になったということですよね」

長谷部「そうですね」

岩上「そして、1929年に世界恐慌(※24)が起こって、第1次大戦に負けたドイツは大変に疲弊していた。さらに戦後賠償が大変厳しかった(※25)。いろいろ混乱があったところに、さらに恐慌が重なって、社会不安が高まっていきました。そういう時代を背景にしてナチが、1930年9月に18.3%を獲得して第2党になり、共産党が13.1%で第3党。これは、今の日本共産党と違う共産党といいますか、もう少し過激な党です」

▲大統領緊急令の乱発と国会の形骸化(画像URL:http://bit.ly/2GiDmgz

長谷部「当時の反体制政党と言っていいだろうと思いますね(※26)」

岩上「議会主義を攻撃するような両党が、右と左から来て。第1党は社会民主党(※27)だったけれども、24.5%だった。左右の急進反対派が勢いを増して、国会が形骸化していく中で、大統領緊急令に依存するようになった。乱発されたんですね」

長谷部「そうですね。結局、法律を作ろうと思っても、国会の中に堅固で安定した多数派が存在しない、左右両極に反対制政党が盤踞(ばんきょ)しているということですので、法律を作る代わりに、大統領緊急令にますます頼っていくようになる。それが、通常の状態になってしまった(※28)。常態化してしまったということなんですね」

岩上「そして、ヒトラー政権が誕生する前夜。1932年7月31日に選挙があって、ナチス党が37.3%と議席を倍増させて、第1党に躍り出た(※29)。この機にヒンデンブルグ大統領からヒトラーが首相に任命されることになるわけですが、いったんはシュライヒャーという人がなる(※30)。そのシュライヒャー政権が2ヵ月で退陣し、ヒトラーにお鉢が回ってきた(※31)。1933年1月30日、まあ、運命の日かもしれません。ヒトラーが首相に任命される(※32)。この時点で確かに第1党だけれども、過半数も取っているわけじゃないんですね」

▲ヒトラー政権の誕生(画像URL:http://bit.ly/2nbS553

▲クルト・フォン・シュライヒャー(画像URL:http://bit.ly/2GmiIfO

長谷部「ああ、そうですね。その通りですね」

岩上「ここは結構大事なところかもしれません」


※17)麻生副総理「ナチスの手口に学べ」:麻生太郎副総理が2013年7月29日、民間シンクタンク「国家基本問題研究所」(櫻井よしこ代表)の主催するシンポジウムの席上で発した言葉。
 麻生氏は「日本の置かれている国際情勢は(現行憲法ができた当時と)全く違う。護憲、護憲と叫んでいれば平和がくると思うのは大間違い」と改憲に意欲を示すとともに、自民党憲法改正草案は議論を尽くして練り上げられたものだと以下のようにアピールした。
 「どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた」。
 そのうえで、靖国参拝のように「マスコミの仕掛ける騒ぎ」に翻弄されず、改憲は「静かに」進めるべきと主張した。
 「昔は(靖国参拝に)静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと」。
 「いつのときからか騒ぎ出した」と麻生氏はぼかしているが、靖国神社への参拝問題が一段と大きな政治問題化したのは、実際にはA級戦犯を1978年(昭和53年)に合祀してからである。
 ひっそりと合祀をしていた事実を、1979年(昭和54年)4月19日付朝日新聞が報じて、問題が明らかになった。つまりは、憲法改正に際しては、その轍を踏まないように、マスコミに騒がれないように、「静かに」、つまりは手の内が世間にバレないように進めよう、というのが麻生氏の発言の真意と思われる。
 そして、その「静かにやろうや」発言のあとに、問題の発言が飛び出した。
 「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」
 さらに、「ドイツは、ヒトラーは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ」
 「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね」麻生はそう付言したが、これは史実ではない。この問題発言を受け、数日後にはユダヤ人人権団体をはじめ、国内外から猛烈な批判を浴びて発言を撤回し、マスメディアも「麻生氏のいつもの暴言」とすませて、この発言の真意を掘り下げることなく、追及は沙汰やみとなってしまった。
 しかし、集団的自衛権の行使を容認する10の法案をひとまとめにした安保法制の強行採決、テロや隣国の脅威の強調、緊急事態条項を加えるとともに基本的人権制限の範囲を大きく広げた改憲草案、そして「共謀罪」の強行成立など、ナチス独裁に至るまでのプロセスを再現するかのようなその後の一連の安倍政権の動きから、IWJをはじめ、一部の知識人や一部のメディアの中から、あれは単なる「いつもの暴言」ではなかったと警鐘が鳴らされ始めた。
 石田勇治氏は長谷部氏との共著『ナチスの「手口」と緊急事態条項』の「はじめに」の中でこの麻生発言の全文を取り上げるとともに、「日本政治の中枢から発せられた、『学ぶべきあの手口』の恐ろしさ」を、現代史の醍醐味とともに感じとっていただければと思う」と記している。
参照:
・朝日新聞DIGITAL「麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細」2013年8月1日(魚拓)【URL】 http://bit.ly/2h1jJBN
・ハフィントンポスト「麻生太郎氏「ナチス」発言を撤回 「誤解を招く結果となった」」【URL】http://bit.ly/21CDQCK
・IWJ「「静かにやろうや」ナチスの手口から学ぼうとしたこと~「法の番人」内閣法制局長官の首すげ替えと裏口からの解釈改憲【IWJウィークリー第13号 岩上安身の「ニュースのトリセツ」より】 2013.8.9」【URL】 http://bit.ly/1b5DDwg
・IWJ「【国会ハイライト】「ナチスの手口に学べ」麻生発言の真意を維新・柿沢氏が直接追及!「緊急事態条項はナチス独裁のプロセスにそっくりだ」〜麻生氏「おもしろいですな」と余裕を演じつつ議論からは「逃走」! 2016.2.19」【URL】 http://bit.ly/2eTIP13
・NEWSポストセブン「半藤一利氏が気づいた麻生氏の「ナチス手口学べ」発言の真意」2015年8月13日【URL】 http://bit.ly/2eTIY4B
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.3-6.

※18)麻生副総理「ヒトラーはいくら動機が正しくても駄目」:麻生太郎副総理・財務相が2017年8月29日、自身が会長を務める自民党派閥「志公会」主催の夏季研修会の講演で発した言葉。
 「(政治は)結果が大事」「国民に確たる結果を残して初めて名政治家だったと言われる。人がいいだけでやれるような職業じゃない」等と所属議員に政治家の心構えを説きながら、そのたとえとして「何百万人殺しちゃったヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目なんだ」との発言が飛び出した。
 これについて、民進党の山井和則国会対策委員長の「ヒトラーを評価していると受け取られかねない大失言であり、国際社会では許されない。財務相としての適性を疑わざるを得ない」をはじめ、野党から批判が相次いたほか、英紙「ガーディアン」も「日本の麻生太郎大臣がヒトラーを称賛、彼は『正しい動機』を持っていたと発言」と大きく報道した。
 麻生副総理はただちに「ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである。例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」と書面で釈明し、発言を撤回したが、度重なる副総理のナチスとヒトラーの「肯定的」な引用は麻生氏個人の単なる無知で片づけてすますべき問題ではない。
参照:
・時事ドットコム「「ヒトラー、動機正しくても駄目」=麻生氏が再び問題発言」2017年8月29日【URL】http://bit.ly/2yZkn7t
・日本経済新聞「麻生氏、ヒトラー発言を撤回 「動機も誤っていた」2017年8月30日【URL】 http://s.nikkei.com/2gW91N0
・NewSphere「「日本は気軽にナチスを扱ってしまう」 麻生氏のヒトラー発言、海外に波紋」2017年9月3日【URL】http://bit.ly/2gWGkjb

※19)麻生副総理 「武装難民かもしれない。射殺ですか」:2017年9月3分の2日に宇都宮市内で行われた講演での麻生太郎副総兼財務相の言葉。朝鮮半島情勢が緊迫化するなか、戦争が起これば大量の難民が発生し日本に流入する可能性を、シリアやイラクの難民の事例を引き合いに指摘した際に飛び出した。
 実際、朝鮮戦争時やそれ以前のアメリカ軍政期には、戦火あるいは軍・警察による弾圧から逃れて日本へ渡ってきた人々が大勢いた。作家の柳美里氏の母親もそうした一人であったという。戦争勃発の危機が現実味を帯びてきた今、そういった人々をテロリストと決めつけるにとどまらず、あまつさえ「射殺」を口にするなど人道にもとると激しい非難が巻き起こった。
 また、2015年に漫画家のはすみとしこ氏が国際支援団体所属の写真家が写した難民少女の写真を無断でトレースし、悪意に満ちた文章をつけて国際的な非難を浴びた一件と同様に、難民に対する差別や偏見を助長する発言としても問題視されている。
 なお、安倍政権は2017年11月14日、この「射殺」発言について「有事の際に想定され得るさまざまな事態について、聴衆の問題意識を喚起する趣旨からなされた」ものと肯定し、閣議決定までしている。
 閣議決定していることは、麻生氏一人の「失言」「暴言」ではすまされず、安倍政権下の日本が難民条約違反の可能性があることを、国内外に示した重大な政治問題となっているのだが、それを追及すべきメディアの姿勢はあまりにも鈍い。
参照:
・朝日新聞DIGITAL「麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」武装難民対策」2017年9月24日【URL】http://bit.ly/2xBwtFp
・産経ニュース「麻生太郎氏の「武装難民来たら射殺するのか」発言に左派団体や識者ら猛反発」2017年9月24日【URL】 http://bit.ly/2fiMAx9
・LITERA「麻生副総理「武装難民は射殺」発言をネトウヨと産経が擁護!でも紛れもなく難民差別とヘイトクライムの煽動だ」2017年9月26日【URL】 http://bit.ly/2xzI8CE
・IWJ「関東大震災時の「不逞鮮人」虐殺を彷彿とさせる麻生副総理の「武装難民」射殺発言!!〜追及しない記者クラブメディア!? 官邸内記者会見から締め出されるIWJ!! 2017.9.29」【URL】 http://bit.ly/2xxYISu
・産経ニュース「武装難民「問題意識喚起」麻生太郎財務相の“射殺”発言で答弁書」2017年11月14日【URL】http://bit.ly/2nJYDKT

※20)難民条約(「難民の地位に関する条約」):1948年の「世界人権宣言」に基づき1951年7月28日の「難民および無国籍者の地位に関する国際連合全権委任会議」で採択、1954年4月22日に発効した国際条約。1966年の「難民の地位に関する議定書」(翌1967年発効)により補完。
 「難民」を「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」(第1条)と定義し、これに該当する者を庇護し諸権利を保障することを加盟国に義務付ける。
 また、避難国への不法入国・滞在にたいする処罰(第31条)や迫害が待ち受ける国籍国への追放・送還(第33条)を禁じる点で画期的と言われる。
 日本は81年に同条約に加入(翌年1月1日付で発効)しており、武器所持の有無にかかわらず「難民」を人道的に保護する法的義務がある。同条約では「難民」の定義に「武器の所持」は問題となっていない。密航業者や人身売買業者から身を守るために武器を所持しているケースもあるからである。
参照:
・UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)日本 HP「難民条約について」【URL】http://bit.ly/2gxIe6t
・知恵蔵「難民の地位に関する条約」【URL】 http://bit.ly/2gWnoRw
・朝日新聞DIGITAL「難民条約に関するトピックス」【URL】 http://bit.ly/2yeUCD3
・ハフポスト 橋本直子「「武装難民」は射殺してもいいの?条約から読み解く難民のこと」2017年9月27日【URL】 http://bit.ly/2zi8ZH7

※21)ワイマール憲法:第一次世界大戦末期の1918年、戦況の悪化とロシア革命の影響のもとでドイツ革命(十一月革命)が起こり、ドイツ帝政は崩壊。これに代わって「ドイツ共和国」が成立した。翌1919年2月には総選挙で選ばれた国民議会がワイマール(チューリンゲンにある小都市)に召集され、新しい憲法の制定へ向けて審議を始める。
 同年7月に議会が「ドイツ共和国憲法」を可決、初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルト(1871~1925。労働者階級出身、ドイツ社会民主党)の調印により同年8月11日に制定、14日に公布・施行された。「ワイマール憲法」とは、制定へ向けての審議が行われた地にちなみ、この「ドイツ共和国憲法」を慣習的に指し示す呼称である(同様に、その時代のドイツ共和国も「ワイマール共和国」と呼ばれる)。
 前文と181ヵ条の本文とで構成されるこの憲法は、国民主権主義の原理に立脚し、男女の普通選挙による議会と国民の直接選挙で選ばれ強大な権限を付与される大統領との均衡の上に首相が国政の方針を決定するという体制、いわゆる「半大統領制」を採用。加えて、生存権、労働権、労働者の団結権などの社会権の保障、経済活動の自由と財産権を制限付きで保障するなど、社会国家的色彩の濃い、当時としては革新的な憲法であり、その後の民主主義諸国に強い影響を与えた。
参照:
・ブリタニカ国際大百科事典「ワイマール憲法」【URL】 http://bit.ly/2b8UTam
・Wikipedia「半大統領制」【URL】 http://bit.ly/2z0x4S8

※22)ワイマール憲法第48条第2項:ワイマール憲法第48条第2項は、大統領の非常措置権限として、国家の平和と独立を脅かす急迫不正の事態またはそうした事態が予想され、一刻も早い事態対処が必要と判断される場合において、憲法の一部を停止し「超法規的措置」によってこれらの危機を防除する権能である「国家緊急権」を定めていた。
 すなわち、「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、ドイツ国大統領は公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる」とし、この目的のために「ドイツ国大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意思表明の自由)、第13分の2条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる」とする。
 安倍政権が導入を目指す「緊急事態条項」は、長谷部氏も著作の中で述べている(p.26)とおり、ナチスによる独裁体制への道を開いた条項として悪名高いこのワイマール憲法第48条第2項に相当する。自民党はまさしく、麻生氏の発言通り、「ナチスの手口」に学ぼうとしているのである。
参照:Wikipedia「国家緊急権」【URL】 http://bit.ly/2xEezPD

(※3分の2)安全装置としてのワイマール憲法第48条第3項:「共和国大統領は、本条第一項又は第二項にもとづいてとられた措置につき、遅滞なく国会に報告しなければならない。これらの措置は、国会の要求があれば、廃止されなければならない」
 第2項が大統領に付与する強大な非常措置権限に国会が抵抗するための手段として設けられた、大統領緊急令を廃止できる規定である。
 大統領と国会との力の均衡を担保するもので、実際1930年7月、当時のブリューニング政権が国会に提出し反対多数で否決された、増税とデフレを基調としていた財政再建案をヒンデンブルク大統領が「大統領緊急令」として公布した際、野党第一党の社会民主党はこの第3項の規定にもとづき、ただちに緊急令廃止動議を提出、国会で可決させている。
 しかし、ワイマール憲法は大統領に国会の解散権も与えており(第25条)、ヒンデンブルク大統領はこの解散権を行使して国会にさらに対抗。一度廃止された「大統領緊急令」を再び公布するという暴挙に出た経緯がある。
参照:長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.28~29。

※24)1929年の世界恐慌:第一次大戦後、戦勝国であり唯一国内が戦場とならなかったアメリカ合衆国は、世界最大の債権国となる。貿易黒字に加え、ヨーロッパ諸国の戦時国債の償還も始まり、大量の資金がウォール街に流れ込んだ。
 ウォール街の金融資本はこれを低利で企業に貸し付け、企業は設備投資に資金を投下、賃金も上昇し、自家用車や家電製品が急速に普及、大量生産・大量消費社会が現出した。
 だが1920年代後半になるとヨーロッパ経済が復興し、輸出は頭打ちとなる。企業は売れ残った商品の在庫を抱え、収益もマイナスに転ずる。こうして実体経済の不況が始まっていたが、庶民が株式に手を出していたため、株価は異常な高騰を続けた。
 そして1929年10月29日、「暗黒の木曜日」に大暴落が始まる。株価は7分の1に下落、破産者が続出し、現金を下ろそうと人々が銀行に殺到したため、銀行も資金が枯渇して営業停止に追い込まれる。銀行から資金を調達できなくなった企業の連鎖倒産も始まり、倒産しなかった企業も大規模な人員解雇を始める。この恐慌はソ連を除く世界各国に波及したが、とりわけ深刻な影響を被ったのがドイツだった。
 ドイツは戦後アメリカからの投資で経済復興を進め、賠償金支払いを行っていた。しかし世界恐慌が始まると、アメリカの金融資本は海外に投資していた資金を一斉に引き揚げてしまう。
 ドイツは点滴を外された患者さながら、たちまち多くの企業が倒産し、失業率は50%に迫る。それまで賠償金の支払いと協調外交を進めてきた社会民主党政権は、国民の支持を失った。ナチスが台頭する背景には、こうした世界経済全体の大変動があった。
参照:ダイヤモンド社書籍オンライン「経済は世界史から学べ!茂木誠・第13回 ”「不況なのに株価が上がる」恐ろしさ”「経済成長→世界恐慌」のメカニズム」【URL】 http://bit.ly/18Z5un1

※25)厳しい戦後賠償:1918年11月11日、第一次世界大戦の休戦後、戦勝国である米・英・仏・伊の4カ国を中心に、ドイツを排除して講和条件の策定が進められた。米大統領ウィルソンは当初「公正な講和」という自らの理念に基づき行き過ぎた懲罰に反対したが、仏首相クレマンソーは、国内の反独世論を背景にドイツの国力を削ぐための過大な制裁を要求、英首相ロイド・ジョージも、戦費や債務をドイツからの賠償で補うという目論みからこれに同調した。
 こうして提示された案にドイツは反発したが、連合国側は武力攻撃をも辞さないとの強硬姿勢を貫き、ドイツ政府(ワイマール連合)が最終的に受諾、1919年6月28日にベルサイユ条約が調印される。
 条約には敗戦国ドイツが履行すべき領土および植民地の割譲、船舶の譲渡、物納による賠償(建築資材、家畜、石炭等)について事細かに規定されていたが、賠償金については別途賠償委員会が定めることとしており、1921年5月にいたって1億3200万金マルク(1873年から1914年にかけて使用された通貨単位)という金額が決定された。
 これはドイツの1913年の国民総所得の2.5倍という莫大な額で、これを30年間にわたり、しかも外貨で支払うことがドイツに課せられた。こうしたあまりに過酷な賠償を課すことについては反対意見もあり、とりわけイギリスの経済学者ケインズは1919年12月の時点で『平和の経済的帰結』The Economic Consequences of the Peaceを著し、盲目的な反ドイツ感情がもたらしうる危険について警鐘を鳴らしている。
参照:
・Wikipedia「ベルサイユ条約」【URL】 http://bit.ly/2gOC5lX
・Wikipedia「第一次世界大戦の賠償」【URL】 http://bit.ly/2z1KAFf

※26)1930年の選挙/左右の反体制政党:1930年9月4日のドイツ国会選挙は、中央党のハインリヒ・ブリューニング首相が7月16日に提出し、国会で否決された財政再建法案にまつわる、大統領と国会との一連の応酬(ヒンデンブルク大統領が同法案を「大統領緊急令」として強制的に公布、国会が緊急令廃止動議を出し可決、大統領がさらに国会の解散権を行使して抵抗した。前註※3分の2参照)の帰結として行われた。
 その結果、世界恐慌による不況を背景に、ラジカルな変化を求める国民感情の受け皿となった左右両極が躍進した。
 すなわち、1920年に「ドイツ労働者党」を改称して成立、指導者原理に基づくアドルフ・ヒトラーのカリスマ的指導のもと、反民主・反共産・反ユダヤ主義およびアーリア人至上主義による全体主義的独裁体制の樹立を掲げる「ナチ党」(「国家社会主義ドイツ労働者党」)が第二党へ。
 第三党には、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクら「ドイツ社会民主党」の急進左派が1915年に結成した「スパルタクス団」を母体とし、その後、党の戦争協力方針に反発して分離・創設された「独立社会民主党」への合流を経て、党内の極左勢力を糾合して1919年1月に結成された「ドイツ共産党」が浮上した。設立当初から国民議会選挙への棄権をうたい、プロレタリア独裁を志向、武装革命路線を明確に打ち出した政党である。現在の日本共産党とは、同じ「共産党」という党名でも、趣がかなり違う。
 第二党のナチ党、第三党のドイツ共産党の両党ともに、ブルジョワや資本家に妥協的なドイツ社会民主党政権が樹立したワイマール共和政を認めず、ベルサイユ体制打破を標榜し、クーデターを計画・決行(ナチ党の「ミュンヘン一揆」、ドイツ共産党の「スパルタクス団蜂起」や「中部ドイツ三月蜂起」、ザクセン州・チューリンゲン州・ハンブルクなどでの蜂起など)して、社民党政権に武力制圧された経緯を有する。
参照:
・Wikipedia「1930年ドイツ国会選挙」【URL】http://bit.ly/2A2SFH7
・Wikipedia「国家社会主義ドイツ労働者党」【URL】http://bit.ly/2yuydxu
・Wikipedia「ドイツ共産党」【URL】 http://bit.ly/2xIh8jr

※27)ドイツ社会民主党:中道左派の社会民主主義政党。1890年に「ドイツ社会主義労働者党」を改称して結成。設立当初はマルクス主義的な「エルフルト綱領」を制定し、第2インターナショナルも牽引したが、第一次大戦前には革命を通じて資本主義社会を変革するのではなく、議会活動によって社会を「改良」するとする「修正主義」が主流となっていった。日本共産党も、暴力革命を否定し、議会活動を通して修正改良を目指す点で、「ドイツ共産党」よりも、この「ドイツ社会民主党」により近い。
 ドイツ社会民主党は、第一次大戦中はフリードリヒ・エーベルトを指導者として戦争を支持する一方、ベルサイユ条約を締結し、ワイマール共和政を樹立した政党でもある。
 「中央党」「民主党」といったブルジョワ政党や独占資本に対して妥協的姿勢を取り、あくまで革命路線を主張する急進社会主義者たちと対峙。彼らの蜂起やクーデター計画を制圧しながら政権を維持したが、1929年の世界恐慌に対処できなかったミュラー内閣が翌年3月に総辞職。以後、ヒンデンブルク大統領が独断で首相を任命する状況(「大統領内閣」と呼ばれる)となり、ワイマール共和政の議会制民主主義は機能不全に陥っていく。
参照:Wikipedia「ドイツ社会民主党」【URL】http://bit.ly/2z9V6cQ

※28)大統領緊急令に依存:ワイマール共和政期は、共産主義勢力の拡大、旧体制(帝政)支持派と共和政支持派、中央集権派と地方(州)分権派、自由貿易主義と保護貿易主義というように「古い価値観と新しい価値観が衝突した時代」であり、国会における合意形成はもともと困難ではあった。
 それでも各党が協力し、社会民主党、カトリックの中央党、自由主義・インテリ層の民主党などによる「大連合政権」など、多数派の形成に成功した時期もあったが、1930年からは前年の世界恐慌の影響で社会不安が高まり、各政党間のイデオロギー・利害対立が深化したことに加え、ラジカルな変革を求める国民が両極へ流れやすくなった。そうしてますます合意形成が難しくなった国会で、審議は中断を繰り返し、政府が提示する政策はことごとく暗礁に乗り上げる。
 そこで政府は、「大統領緊急令」は法律に代わるもの=「法律代替命令」として通用する、という観点(公法学者のカール・シュミットが『合法性と正当性』(1932)で展開した理論)から、これを大統領に公布させては国会の意向を無視した法案を押し通すということを繰り返すようになった。
 1930年から1932年の3年間に国会で成立した法案数は98件→34件→5件と激減する一方、大領緊急令は5件→44件→66件と激増。国会はこうして機能不全に陥り、存在意義そのものが希薄化していく。
参照:長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.21~36.

※29)1932年7月の選挙:1932年6月1日、ヒンデンブルク大統領の信頼を失い失脚したブリューニング首相(中央党)に代わり、プロイセン州議会議員のフランツ・フォン・パーペンが首相に任命された。当時ほとんど無名で国会に支持基盤を有さないパーペンが推されたのは、小人物で御し易いというのが理由だったという。
 自身を含め閣僚のほとんどが貴族という前近代的な組閣(「男爵内閣」と揶揄された)により、国民はもちろんどの政党からも支持が得られぬなか、パーペンはヒトラーに接近。ナチ党が内閣不信任案を出さないことと引き換えに、ヒトラーの要望どおりヒンデンブルク大統領に働きかけて国会を解散させる(6月4日)。
 ナチ党は当時国会の第二党を占めており、ヒトラーは春の大統領選でヒンデンブルクに敗れたものの、37%もの票を得て勢いづいていた。こうして行われたのが1932年7月31日の国会選挙であり、そこでナチ党は、ヒトラーの目論見通り、倍増の37.7%の得票率とともに一挙に第一党に躍り出る。
参照:
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.36-38.
・Wikipedia「フランツ・フォン・パーペン」【URL】http://bit.ly/2zkUkYH

※30)いったんシュライヒャーが首相に:1932年7月31日の国会選挙は極右のナチ党(37.7%)と極左の共産党(14.3%)合わせて過半数という異常な結果となり、国会がますます機能不全に陥ることは明らかであった。
 そのうえ、大統領緊急令という「伝家の宝刀」も国会の廃止動議権行使により使えない状況だったため、ヒンデンブルク大統領は渋々ヒトラーにパーペン内閣の副首相の地位をオファーする。
 ところが、ヒトラーは「首相の座ならば受ける」と突き放したうえ、9月12日に招集された国会では共産党とともに内閣不信任案を可決させた。とはいえ、これは、パーペン首相が大統領の署名入りの解散命令書を読み上げようとするのをナチ党のヘルマン・ゲーリング議長が遮るという強引なやり方だったため、さすがにこの議事は無効とされ、国会は解散。そうして11月6日、再び選挙が行われた。
 ナチ党は第一党の地位は維持したものの、大きく議席数を減らす(マイナス200万票の得票率33.1%。共産党主導のストライキへの参加やブルジョワと結ぶパーペン内閣への攻撃などが、財界の警戒心を呼び起こしたためと言われる)。
 そして、どの主要政党からも支持を得られぬパーペン首相を辞職に追い込み、ヒンデンブルク大統領に自らを首相に任命せしめた(12月3日)のが、職業軍人でありながらヒンデンブルク大統領の信頼や軍部の力を背景に政界に絶大な権力をふるってきた「政治軍人」、パーペン内閣で国防相を務めたクルト・フォン・シュライヒャー(1882-1934年)であった。
参照:
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.38-41, 49.
・Wikipedia「クルト・フォン・シュライヒャー」【URL】http://bit.ly/2zA0Iyg

※31)シュライヒャーはすぐに退陣、ヒトラーが首相に:1932年11月の選挙後に首相に就任した(12月3日)シュライヒャーは、「対角線構想」という軍部独裁体制を模索。ナチ党組織全国指導者でありヒトラーと折り合いの悪い党内左派のグレゴール・シュトラッサーに接近し、ナチ党の分断および労組を引き入れての政権の基盤固めを画策するが、ヒトラーの怒りを買ったシュトラッサーが入閣を辞退したため失敗した。
 一方、元首相のパーペンは、自分を失脚に追い込んだシュライヒャーを打倒すべくヒトラーへ接近。ヒトラー=パーペン政権樹立へ向けて会談を重ねるとともに、ヒンデンブルク大統領や財界人も引き入れる。
 そうした右派勢力の動きを察知したシュライヒャーは、ヒンデンブルク大統領に国会解散と国家緊急事態の宣言、およびナチ党・共産党の禁止を発令するよう求めたが、ヒンデンブルクはこれを拒否。国会を停止し軍部独裁政治へ移行するクーデター計画も反対され、1933年1月28日、シュライヒャーは辞職を余儀なくされた。
 ヒンデンブルクは後任にヒトラーを任命(1月30日)。国政担当の経験も中央官僚とのパイプも持たぬ、単なる過激で粗暴な反体制運動家とみなされていたこの人物を首相に任用したことの背景には、議会制民主主義を「衆愚政治」とみなす、第一次大戦以前の帝政ドイツへの郷愁を抱く旧保守派にかつがれたヒンデンブルクが、議会制民主主義とともに共産主義を打倒し、帝政時代のような権威主義国家を再建するための動力として、勢いづくナチ党に利用価値を認めたからである。
 また、ヒトラーが知的水準が高いとは決して言えない煽動政治家であるだけに、用が済めばいつでも放り出せると高を括っていたこともあった。実際は、大統領緊急令・突撃隊と親衛隊・大衆宣伝組織という3つの武器を手にしたヒトラーを保守勢力がコントロールできなかったことは、その後の展開が示すとおりである。
参照:
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』p.49-53.
・Wikipedia「クルト・フォン・シュライヒャー」【URL】http://bit.ly/2zA0Iyg

その3へ続く

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