2012年8月14日(火)、東京都港区にある初沢スタジオで、岩上安身による坂本龍一氏へのインタビューが行われた。話題は70年代安保の思い出から、脱原発になった理由、3.11原発事故、安保、TPP、政治、外交と、多岐にわたり、話は尽きることがなかった。
インタビューが佳境に入ると、坂本氏は、「それでも原発は必要だという人がいるなら、福島に行ってプルトニウムでも食ってくれ、と言いたい。僕は絶対イヤだ。いくらでも、電気は他の方法で作ることができる」と憤りを見せた。
また坂本氏は、産經新聞の【産経抄】(2012年7月21日)の批判記事に対して、「いまだ福島では16万人が避難し、被曝の不安に苛まされている人たちが、大勢いることを知らない」であろう記者に対し、「もう少し成熟してほしい」と、静かに訴えた。
全共闘運動の思い出
「IWJは、岩上ジャーナルだと思っていた」と語る坂本氏。インタビューは和やかな雰囲気で始まった。
IWJの中継で、大飯原発ゲート前の抗議行動を見て、ジャンベやドラムを奏でて抗議する彼らの音楽センスの高さに感動した坂本氏は、作成した現地の音楽のサンプリング、リミックスを、彼らに送り、賛同の意をあらわしたという。岩上安身は、「それはまさに、ネット社会がもたらした大きな進化だ」と評した。
70年代初頭に、日本中で高まりを見せた全共闘運動に話が及ぶと、坂本氏は「高校時代、ガリ版刷りでビラを作り、現代作曲家の故武満徹氏のコンサートに、『邦楽器を使うので、右翼的だ』とアジりに行ったら、武満氏本人が出てきて、真摯に議論をしてくれた」と、照れながら懐かしんだ。
「70年安保の政治運動は、カッコいいから参加した。映画、演劇、音楽など、既成概念をぶちこわすようなことが、新宿で同時多発的に起こっていて、それに浸っていた」。
現在のデモは、意識が高く、「個人的」
岩上安身が「当時と現在のデモの違い」を問うと、坂本氏は、礼儀正しくて、デモの後にゴミひとつ落ちていない意識の高さに驚いたことを明かした。現在のデモについて、エコ、非暴力、差別への配慮を評価するともに、団体が繰り出し、暴力沙汰となった昔と比べ、「個人的で、体制側からの挑発に弱いことは危惧する」と評した。
また、自身が参加した昔のデモについて、「ほんとうに幼稚だった」と振り返るとともに、「必ずケンカになり、警官の蹴りを肋骨に受けると折れるので、新聞紙を濡らして腹やヘルメットの下に詰める。電話番号は覚え、住所録は破棄して、デモに参加した」と明かした。
岩上安身は、現在のデモを「安保闘争経験者は批判するが、自発的に動き、非暴力で合法的に行う。これが民主主義にとって重要だ」と指摘し、安全で、赤ちゃんも参加できるようになったデモのスタイルを、「むしろ成熟した形」と評した。
坂本氏は、「原発にしろ、消費税にしろ、TPPにしろ、市民が声を上げることが大事だ」と、今、日本で本当の民主主義が始まろうとしている、と期待をあらわした。
青森県六ヶ所村から始まった、原子力問題への関心
岩上安身より、原子力問題へ関心を持ち始めたきっかけを問われた坂本氏は、「2006年に、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場を知ったこと」だと明かした。
坂本氏は「放射性廃棄物を大気にバラまく。そんなことが許されるはずがない」と、「STOP ROKKASHO」プロジェクトをスタートしたのだという。
2011年3月11日の東日本大震災発生時、青山のスタジオで録音中だったという坂本氏は、「3月15日、危ないという噂を聞いて、ヨウ素剤を買おうと薬局に行ったら、売られていない。知人の医者でも手に入らず、すでに国家管理になっていた」と振り返った。
「新聞はしょせん商業新聞。ジャーナリズムは幻想だ」
2012年7月16日、代々木公園「さようなら原発10万人集会」でのスピーチで、坂本氏の「たかが電気」という発言は、「今まで電気を使って儲けてきたのに」と批判にさらされた。
岩上安身に真意を訊ねられた坂本氏は、「電気と命を比較して、命を犠牲にしてまで原発で電気を作るのか。福島であったような犠牲を払ってまで、原子力で電気を作るのか、という意味だった」と説明した。
岩上安身は、そのデモを受けて掲載された、産経新聞の坂本氏批判の記事(【産経抄】2012年7月21日)を取り上げ、「今の日本の既存メディアの典型。電事連から金をもらう広報紙だ」と批判した。