全体が”山谷”化した日本――事件は「貧困と裕福」の境目で起こる?新宿西口バス放火事件、オウム事件…「死刑弁護人」安田好弘弁護士に岩上安身が「生きる権利」を訊く!~岩上安身によるインタビュー 第554回 ゲスト 安田好弘氏 2015.6.24

記事公開日:2015.6.26取材地: テキスト動画独自
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(IWJ・原佑介)

※6月27日、テキストを追加しました!
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 「なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが『弱い人』たちなのである。他方『強い人』たちは、その可能性が圧倒的に低くなる」

 『死刑弁護人 〜生きるという権利』(講談社)のまえがきの一節である。

 著者の安田好弘弁護士は新宿西口バス放火事件、オウム真理教事件、和歌山カレー事件、光市母子殺害事件など、多くの「死刑事件」の弁護人をつとめてきた。

 こうした事件の犯人は、血も涙もない冷徹な「凶悪犯」だと報じられがちだ。しかし、本当にそうなのか。

 事件は貧困と裕福、安定と不安定といった環境の境目で起こる。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくても生活していけるが、「弱い人」はそうではない。さまざまな社会的不幸が重なりあって犯罪を起こしてしまう。そう安田弁護士はいう。「善い人」「悪い人」がいるわけではないのだ。

 我々が知る「凶悪犯」の犯人像は、実はあまりに一面的なものなのかもしれない。検察によるストーリーの捏造もあるだろう。であれば、凶悪事件の本質は、我々の知るところとは様相が異なってくる。

 2015年6月24日、安田弁護士は岩上安身のインタビューに応じ、自身の弁護士としての原点である「山谷争議団事件」や、1980年に社会を震撼させた「新宿西口バス放火事件」の知られざる悲しい真実を語った。

<会員向け動画 特別公開中>

■イントロ

■全編動画

  • 日時 2015年6月24日(水) 15:30~

数々の大事件の弁護を手がけた「メディア嫌い」の安田弁護士

岩上安身(以下、岩上)「本日は『死刑弁護人』の著者である安田好弘弁護士にお話をうかがいます。死刑事件など、弁護士があまり担当したがらない事件を多く引き受けてこられました。

 山谷争議団事件、新宿西口バス放火事件、北海道庁爆破事件、ドバイ日航機ハイジャック事件、ダッカ日航機ハイジャック事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件、オウム真理教事件、和歌山カレー事件、耐震強度偽装事件、光市母子殺害事件、陸山会事件などを手がけてきました。この40年間を形づけてきた事件が並んでいます。

 安田さんは月に数度しか家に帰らず、事務所のソファーで寝泊まりしながら仕事をしているという噂もあります」

安田好弘弁護士(以下、安田。敬称略)「そうですね。夜10時から会議があったり、朝8時から会議があったりしているので」

岩上「また、メディア嫌いとしても知られています」

安田「メディアは本質的に嫌いなんです。仕事として情報を伝えることは重要ですが、メディアは情報をできるだけ面白おかしくすることで、誇張したものが伝わっていく。事実とはつまらないものですし、私は強調もできません。また、私は社会ではなく、検察や裁判所を相手にしていますので」

かつて「革命」を夢見た青年が弁護士になった理由

岩上「『山谷争議団事件』は弁護士になりたての頃ですね」

安田「私も就職は考えず、学生運動をしていました。革命が起こると思っていたので就職は遅くなりました。本当にアホでしたが、革命は起こると思っていて、何か職業に就くなどとは思っていませんでした。

 周りの仲間が革命は起こると思って動いていたので、視野狭窄に陥っていました。革命文学があって、中国共産党が実際に革命を起こし、ベトナムでは市民が反乱を起こし、米軍と戦っていた。僕らも反戦支援をしながら、日本でも革命ができると思ったんですね」

岩上「弁護士になったのはなぜでしょう」

安田「行くところがなかったからです(笑)。弁護士であれば『国家権力とも戦う術がある』という幻想もあるにはありましたが、弁護士は試験さえ受かれば誰でもなれた。選択としては一番安易で、吹き溜まりでした」

事件は得てして「貧困と裕福」「安定と不安定」の境目で起こる

岩上「安田さんは『強い人』と『弱い人』がいて、なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが『弱い人』たちであると指摘しています」

安田「『強い人』は事件にも遭遇せず、苦難も克服します。『強い人』はそもそも被害者にもなりません。一方で『弱い人』は困難を克服できず、さらなる不幸に見舞われる。私が弁護してきたのはそういう人たちです。『あの時お母さんさえ死ななければ違ったのに…』といった、防ぎようのない不幸も多々あります。

 事件は『貧困と裕福』『安定と不安定』といった環境の境目で起こることが多い。環境的衝突があり、事件化するのでしょう。格差が今よりもさらに広がると、『少数』という形で色づけられた層が存在してくると思います」

岩上「なぜ、死刑囚の弁護人をやられるのでしょう?」

安田「依頼されているだけなんです。長くやっているとどうしても弁護を頼まれるし、断れない部分もありますので、結果的にこうなっちゃったんです。

日雇い労働者が溢れる、排除された人々の社会「山谷」

岩上「安田さんの原点である『山谷争議団事件』。山谷といえば『明日のジョー』の舞台でもありました。日雇い労働者が多く、給料をピンハネする業者がいる。暴力団も入り込んでいた」

安田「日雇い労働者がシール(印紙)を貯めれば保険になるのですが、働く場所がないとシールが集まらない。そこで暴力団が高値でシールを売りつけていた(ヤミ印紙)。そこに暴力団の利権がある。他にもタコ部屋経営や、手配師から上納金をとってもいました」

岩上「山谷では組合と暴力団が衝突していた。そこで安田さんが弁護士として関わった。なぜ関わったのでしょう?」

安田「学生運動とはもう関わらない、と決めていたのですが、当時、仕事は救援センターからの接見依頼で、そこに山谷の事件の依頼がきました」

岩上「山谷は排除された人々の社会で、多くは日雇い労働者。建設会社は人件費を抑えるために常勤で労働者を雇わず、山谷の寄せ場から労働者を確保。頂点には政府、政界と直結した巨大建設資本が君臨。日雇い労働者は孫請けのさらに下に位置づけられていました」

安田「本来、1日働いて1人18000円くらいなんです。しかし実際に日雇い労働者に入るのは8000〜10000円程度。ピンハネされているんです。労働者は絶対的な貧困に置かれ、ちょっとでも不景気になれば明日から仕事もない。搾取され、使い捨てにされていました」

暴力団による“ピンハネ”、警察と一体となった“弾圧”が労働者を襲う

岩上「暴力団と一体になった警察の弾圧があったそうですね」

安田「交番は、治安を混乱させるような人間は全員排除しようとします。しかし、警察官を何人動員しても治安は維持しづらいものです。そこで、補完作用として暴力団が働くという構図です。

 山谷の交番は日本一大きく、50人程が詰めていました。まるで『署』です。山谷の人たちは組合を作って闘争を始めました」

岩上「江戸時代にも『岡っ引き』というのは地廻りのヤクザがやっていたと聞きます。そういう労働者管理の構造があるんですね。

 労働現場で怪我するなどの災害が起こると、労基署が出てきますし、保険料も上がる。なので当時、暴力団が負傷した労働者を袋叩きにし、労働災害をもみ消していました。山谷の組合はこういう人たちの相談に乗るんです。

 『前田建設・最上鉄筋労災もみ消し事件』では、労働現場で怪我した労働被害者が、暴力団にバットで殴られ、もみ消されました。そこで組合が前田建設に労働交渉をしに行った。そうしたら、交渉の大部屋の隣室に公安が大勢待機していて、路地には機動隊も隠れていました。そのときに労働者が何人も捕まり、弁護につきました」

 岩上「山谷・山村組事件もあります。山村組という『半タコ飯場』から逃走した労働者を『棒心』が捕まえ、パンツ1枚にして放り出したということですが」

 安田「半分タコ部屋の飯場です。『半タコ飯場』では労働者が外に出ることは許されず、中で割高の食べ物やお酒を買わされます。すると手元には稼いだお金が残らない。仕事がなければ借金がかさみます。完全な監禁ですね。『棒心』というのは『用心棒』のことです」

岩上「山谷の労働者は怖い、というイメージが一般的でしたが」

安田「労働者はひ弱で、みんなが優しく、ビクビクし、暴力団に立ち向かえる人なんてごくわずかでした」

岩上「脅しに弱く、そういう人間を力で押さえつけていたということですね」

安田「山谷・山村組事件では、団体交渉したことが『脅迫』、示談金をとったことが『恐喝』だとして組合の人間が逮捕されました。この事件は勝てず、みな有罪にされてしまいました」

『山谷(やま)やられたらやりかえせ』監督・山岡強一の思想

岩上「安田さんはドキュメンタリー映画『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の監督の山岡強一さんの弁護をしたんですよね」

安田「山岡さんは『今の社会のままでは必ず搾取され、最後は精神も肉体も奪われ、最後には捨てられる。これを断ち切らねばならない』…こういう思想の持ち主でしたね。山岡さんは山村組事件のリーダーとして逮捕されました。信頼も厚く、例えば裁判中に山岡さんの父がなくなりましたが、裁判官も彼に惚れていたし信頼していたのでしょう。異例ですが、48時間だけ拘置所を出て葬儀に参加することを認めたんです」

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岩上「山岡さんは組織化すること自体に反対していたとか」

安田「組織化すると上下関係が生まれ、差別が生まれ、犠牲者が生まれると考えていたのでしょう。なので『山谷争議団』といっても、会長や委員長がいない、という感覚でした」

岩上「半タコ飯場、手配師制度が『朝鮮人強制連行』で完成され、戦後に山谷などで再生産されたんですね。帝国主義と植民地の構図が当てはめられた、と」

安田「山岡さんは常にそう言っていました。山谷で起きていることは、かつて日本人ではない相手にやられていたことだ、と」

暴力団の凶弾に倒れた山岡氏と、警察に追い打ちをかけられた遺族

岩上「84年。山谷でドキュメンタリー映画を撮っていた佐藤満夫さんが暴力団に刺殺されました。この後、山岡さんが作品を引き継ぐんですね。しかし、山岡さんも映画を完成させた直後に暴力団に銃殺され、遺体を安田さんが引き取った、ということです」

安田「佐藤さんが刺殺された直後、警察は山谷をすぐに制圧し、監視状態に置きました」

岩上「被害者側であるにも関わらず」

安田「山岡さんはリーダーのような存在で、警察にとっても暴力団にとっても、言うことを聞かない象徴でしたから、狙われていたんです」

岩上「山岡さんの人民葬も、警察が制圧したそうですね」

安田「山岡さんの16歳の息子も公務執行妨害として逮捕されました。しかし裁判ではさすがに公務執行妨害など認められず、無罪になりました。こうして争議団は下火に追い込まれました。警察公認の『暴力』の強さでしたね」

寄せ場・刑務所・精神病院は、日本の「三大収容所」!?

岩上「安田さんは、寄せ場・刑務所・精神病院が『三大収容所』だと言っています。安田さんは精神病院の人権問題にも取り組んだということですが」

安田「山谷の労働者が『保護』と称して引っ張っていかれていたんです。院長がゴルフクラブで患者を殴るなど虐待が横行していました」

安田「精神病院は中が見えないから怖いですよ」

岩上「山谷からは逃げられるが、精神病院からは逃げられない」

安田「監視・監督権もない。一方で、面倒くさくなって患者を追い出すこともありましたし、薬を使った暴力もありました」

安田「地域や家庭の厄介者を精神病院に送りつける、ということも行われていました」

岩上「安田さんは被害者の弁護人につき、トラックでコピー機を積んで乗り付けて証拠保全したと」

安田「宇都宮病院のことです。『ゴルフクラブ』も宇都宮病院の話です」

安田「当時10万人以上の人が精神病院に入れられていました。医者の診断書だけあれば監禁できました。薬漬けで病院から出られない人もいました。法律は変わりましたが、構造そのものは総括はされていませんし、その後、当時の患者が退院したとも聞いていません」

ドヤより酷いネットカフェ…社会全体が“山谷”と化した日本

岩上「今は社会全体が『寄せ場』化して、ネットカフェでの寝泊まりなども一般化しています」

安田「今はドヤよりもっと酷いですよね。ドヤは、1畳半くらいはありましたから。ネットカフェはもっと狭いです」

岩上「今はどんどん社員も切られ、不安定化していますね。社会全体が山谷化しました」

安田「今は闘いの基盤が全体として失われています。山谷では目の前に矛盾が広がっていました。しかし、今はどこも山谷のような状況が当たり前になってしまっています。正規雇用者は安住し、非正規雇用者のために動こうともしません」

6人が死亡、14人が重軽傷を負った「新宿西口バス放火事件」の真相に迫る

岩上「大変有名な『新宿西口バス放火事件』がありました。底辺の労働者が怒りを覚えて放火した、と取り上げられました」

安田「警察とマスコミがそういう風に作り上げたんです」

岩上「しかし、安田さんの視座では、事実は違う」

岩上「1980年8月19日午後9時過ぎ、新宿駅西口で停車中だった車内に、建設作業員の“Mさん” (当時38歳)が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込み、6人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事に」

安田「第一報が流れたとき『犯人が日雇い労働者』といっていたので反応しました。また、逮捕は現行犯でなく、フラフラしていたところを職質し、火傷があったので捕まえた、ということだった。まさか山谷から誰かを連れてきたのではないかとも思ったし、冤罪の可能性を感じました」

岩上「1942年、北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたMさん。幼くして母を亡くし、父は定職を持たないアルコール依存症。小学2年生頃からほとんど登校していなかったといいます」

安田「母は台風で亡くなり、父の後妻も娘が死んで去っていったんです」

安田「何重にも不幸がふりかかり、困難を回避できるような状態ではなかったんです」

岩上「Mさんは父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。72年、山口県岩国市で出会った女性と結婚するも、妻は長男を出産した翌年頃から育児放棄し、離婚、ということです」

安田「奥さんも精神を病んで育児ができず、入院したんです」

岩上「子どもは施設に入ったんですよね」

安田「Mさん本人は、自分で子どもを育てたかったんですが、日雇い労働だったことで福祉が子どもを取り上げたんです。でも、彼は『福祉にお世話になっている』と思っていました。

 福祉施設は毎月5000円振込み、お酒も飲まないよう忠告しました。彼は真面目に毎月仕送りを続け、誕生日にはランドセルや服も送っていました。子どもに会いにも行っていましたが、自分には引き取る資格がない、と思っていた。さらに彼は福祉に借金していると考えていました。自分自身の力だけで生きてきたMさんは、福祉制度というものを理解できなかったんです。」

「どうして俺だけがこんな目に…」検察によって創られた虚偽のストーリー

岩上「安田さんはMさんに『押しかけ弁護』をしたそうですね」

安田「彼のお兄さんが私に連絡をしてきました。お兄さんの選任届けで動いたんです。Mさんの口からは『申し訳ないことをした』という言葉しか出てこなかったのですが、本人と話してみて、冤罪の可能性は強いと思いました。

 しかし、3人くらいの目撃証言があったんです。そのあたりから『ああ、やっぱり彼がやったんだな』と思いました。そう思ったときは弁護についてから2年くらい経っていたと思います。とにかく、何とかMさんの口から当時の模様を聞き出そうと思いました」

岩上「検察は『俺には寝ぐらもなければ、家族もいない。どうして俺だけがこんな目に…』という逆恨みが、Mさんの犯行動機であると主張したようです」

安田「『Mさんの妬み』という物語にしたんですね」

どこの飯場でも愛されたMさんは「福祉」から逃げ続け、全国を転々とする

岩上「こういう人は潜在的に危険な行動に出る、という差別的な視線も含まれていますね。判決も『世間に対して恨みや憤りの感情を持ったことが主たる要因』としましたが、実態は違うんですね。Mさんは『福祉』から逃げていました」

安田「彼は全国を転々としていました。どこの飯場でも『本当によく働いてくれる』と人気でしたが、突然いなくなっちゃうんです。背広姿の人が飯場にくるのを見ると、『福祉の人が自分を捕まえにきた』と勘違いし、その場を逃げちゃうんです。

 最後は東京に流れつきました。盆休みには世田谷・池尻の飯場が閉まったので、彼は一時的に荷物を持って簡易宿に向かったのですが、そこでも背広の人を見かけてしまい、やはり逃げ出したんです。

 そして路上生活をすることにしました。そしてまともに食べず、酒を飲み、かなり衰弱していました。鑑定では『複雑酩酊』状態。意識がぼやけて、自分がどういう状態なのか、理解さえできないという状態でした」

すべての不幸が重なった瞬間…Mさんを襲った「コインロッカーの悲劇」

岩上「追われているという恐怖や疲労が重なったんですね」

安田「そしてMさんは、コインロッカーに預けたはずの荷物が取り出せないことに気付く。預け期間を過ぎたことで、鍵を交換されていたんです。だから、手持ちの鍵ではコインロッカーが開かない。

 2日以上経てば荷物は別の保管場所に移動する、と書いてあったんですが、学校に行かなかった彼にはその文字が読めなかったんです。それでMさんは『福祉がここまで追いかけてきて自分を馬鹿にした』と思って、激高したんです」

岩上「なぜガソリンを持っていたのでしょう」

安田「翌日から職場に戻るので、お菓子代わりのお土産だったんです。池尻の現場では、削岩機などでよくガソリンを使っていたんです。

 そして憤ったMさんは新聞に火をつけて持ち、もう片手にガソリンを持ちます。そしてフラフラ歩き、バスの前に辿り着いた。手に火がかかり、熱くて捨てたが、目の前がバスだとは思っていなかったんです。私には『福祉をやっつけたかった』と言っていました」

岩上「Mさんは常に自罰的で、人のせいにするという様子など片鱗もなく、すべて自分のこととして受け入れる。人を惹きつけてやまないものがあった。にもかかわらず事件が発生し、多くの人が傷つき、苦しんだ、ということですが…」

安田「悲惨な結果になってしまったんです」

事件の背景にあった「貧困と福祉」の問題

岩上「安田さんは、事件の背景には貧困と福祉の問題があったとお書きになっていますね」

安田「様々な貧困の問題はありましたね。友達がいれば違ったかもしれませんし、当時はまだ福祉への理解も進んでいなかった。人権という概念が熟成していませんでした」

岩上「Mさんは事件後、事件そのものを覚えていなかった。東大のH教授の精神鑑定の結果、『事理弁識能力を失うほどの重篤な状態だった』と証言します。1984年、裁判所は死刑を選択したうえで、心神耗弱状態にあったとして無期懲役に減刑しました」

安田「バスの後部ドアが開いていたのもよくなかったんです。規則では開けてはいけなかったんですが、暑かったので運転手が気を利かせて開けていたんです。開けていなければ事件には至っていませんでした。いろんな偶然の不幸が重なって事件になったんです」

岩上「検察は無期懲役を不服として控訴。安田氏も無罪を主張し、Mさんの意思を無視して控訴したということです」

安田「殺人事件ですから殺意が必要ですが、それがなかったわけです。Mさんは『申し訳ないから控訴しない』と主張しましたが、私は控訴しました」

Mさんを支えた被害者・杉原美津子さんと、事件の悲しい結末

岩上「そんな中、『杉原美津子』さんとの出会いがあったんですね。いつも傍聴にきていた被害者・杉原美津子さん。杉原さんは事件で全身の80%に熱傷を負い、1年以上の闘病生活と、度重なる皮膚移植の末、ようやく外を歩けるようになった、といいます。

 杉原さんはMさんとの面会を希望し、その旨を手紙に書いたが返事はなく、面会もできなかった。安田氏は面会を勧めたが、Mさんは『被害者様とお会いするなどめっそうもない』と」

安田「はい。杉原さんが重い負傷をしたのは、逃げるのを躊躇ったからでもあるんです」

安田「杉原さんは事件のとき、ちょうど精神が疲労していて、死を受け入れようかと迷ったんです。杉原さんは裁判を傍聴し、Mさんを見て『支えたい』と考えるようになりました。Mさんが千葉刑務所に入ったときに面会が実現し、出所したらMさんの身元引受人になると申し出ました」

岩上「1993年夏、杉原さんとMさんの面会が実現したんですね。面会室には、嬉しそうに話すふたりの姿があったそうですね。手紙に返事ができないのも、Mさんが字を書けないためで、Mさんは杉原さんに字を書く練習をすると誓ったということです」

安田「杉原さんと面会したMさんは、本当に嬉しそうでした。看守にも『字を書く練習をします』と言っていました」

岩上「あまりに悲しい結末なんですが、Mさんは刑務所で自殺してしまいました。安田さんは『Mさんの刑が確定したことで、弁護は終わったと錯覚していた。

 Mさんにとって刑の確定は、いつ終わるともわからない長い受刑の始まりに過ぎなかった。長い受刑の期間こそ、弁護が、そして支えが必要だったのである』と、ご著書に書かれています」

安田「私は馬鹿でした。この事件で、その後を支えることも含めて弁護なのだと知りました」

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  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    「生きる」という権利に迫る〜岩上安身による「死刑弁護人」安田好弘弁護士インタビュー(動画) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/250390 … @iwakamiyasumi
    安田さんの語る事件からこの国の歪な社会が見えてくる。「切ったり貼ったり」しないIWJのインタビューならでは。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/614551170430820353

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