東日本大震災で多くの子どもが亡くなった宮城県石巻市立大川小学校の事故について、「情報公開制度が浮き彫りにした石巻市立大川小学校の空白の51分―学校管理下での津波被害を検証する」と題した講演が特定非営利法人情報公開クリアリングハウスの主催で5月26日(月)に専修大学で行われた。
この日、ゲストに招かれたジャーナリストの池上正樹氏は、現地に通って取材活動を続け、情報公開制度により開示された文書と、遺族への取材から明らかになった事実に基づいて講演した。
(取材・記事:IWJ・松井信篤、記事構成:IWJ・安斎さや香)
東日本大震災で多くの子どもが亡くなった宮城県石巻市立大川小学校の事故について、「情報公開制度が浮き彫りにした石巻市立大川小学校の空白の51分―学校管理下での津波被害を検証する」と題した講演が特定非営利法人情報公開クリアリングハウスの主催で5月26日(月)に専修大学で行われた。
この日、ゲストに招かれたジャーナリストの池上正樹氏は、現地に通って取材活動を続け、情報公開制度により開示された文書と、遺族への取材から明らかになった事実に基づいて講演した。
記事目次
■ハイライト
震災直後から石巻を取材した池上氏は、想像を絶する景色を目にし、更地となってしまった大川小学校の姿を見たという。「触れてはいけない感じで一年が過ぎた」が、地元の人から「小学校について触れて欲しい」との声があり、報道されていないこと、事実が明らかにされていないことがあったことから、自身で調べ始めたという。現地への取材は、フォトジャーナリストの加藤順子氏と行い、文科省への情報公開請求は、加藤氏が実質的に手続きを行った。
3月11日当時、14時46分に地震が発生してから、大川小では5分ほどで校庭整列している。14時49分には大津波警報が出ており、広報車が避難をよびかけている状況であったのが確認されている。その後、15時37分に時計が止まっていたことから、この時刻に津波が学校に到達したことが推測されている。
当時、校長は不在で教頭が事実上のトップという状況の中、大津波警報の情報は伝わっており、スクールバスも待機していた。さらに、学校のすぐ近くには裏山があり、校庭の真ん中から走っても1分ちょっとだという。体育館の裏と、校庭脇に山へ続く道があり、低学年の授業でも登っていた事実がある。
しかし、実際に裏山に避難して生還したのは生徒4人、A教諭1人のみであると池上氏は話し、当時、学校にいた生徒76人、教諭11人は津波に飲まれてしまったと語った。
2011年4月9日に行なわれた第一回遺族説明会での市教委の当初の説明では、生徒1人とともに生還したというA教諭が「(地震・津波等により)山は樹木が倒れていた」、「(自分は)津波で倒れた木に挟まれて動けなくなった」と証言しているという。
この証言は、遺族が撮影したビデオ動画から明らかになったものだが、この説明会の議事録は作成されておらず、議事録作成のためにと動画を提出しても、議事録が作成されることはなかった。
ところが、事実はA教諭の証言とは食い違っている。実際に山の樹木は一本も倒れておらず、裏山へ避難した住民、生徒らからA教諭は目撃されていないという。また、山向こうの整備工場から数ヶ月後に得た証言では、「(A教諭は)津波に濡れていなかった」、「(A教諭が)助けを求めてきたのは明るいうち」と述べられており、明らかな食い違いが生じている。
2011年5月14日の聞き取り調査においてA教諭は、生徒1人と山へ避難した後に「車のライトが見え、近くの車の中で夜を過ごした」と述べていることが情報公開請求で明らかになっている。
また、2011年6月4日の第二回遺族説明会文書には「『山さ逃げよう』という男子がいたが、そのまま引き渡しを続けた」、「津波はすごい勢いで子どもたちを飲み込んだり水圧で飛ばしたりした」、「学校前は波と波がぶつかるように渦をまいていた」と書いてあるが、誰の発言かは不明だという。
池上氏はこの発言をA教諭の証言と推測している。この説明会は一時間程で打ち切られ、市教委は「説明会終了。遺族から異論はなかった」とメディアに発表していた。
池上氏は、子どもたちの証言が市教委の聞き取り記録書に盛り込まれておらず、聞き取ったメモは「一斉破棄」されたと述べた。さらに、A教諭の震災直後の携帯メールを校長が削除しているという事実もあるという。子どもたちが聞き取り調査で証言している事実がなかったことにされているというのだ。
ちなみにA教諭は、4月9日の説明会以来、姿を見せずに自宅で休職しているという。市教委は3年間にわたり、A教諭は面会謝絶で『主治医によってドクターストップ』がかかっており、市教委も本人には会えないとしている。情報開示を請求したA教諭の休職理由についても黒塗りであった。
(…会員ページにつづく)