「被曝することよりも、外を歩くのが辛い。あなたに、この気持ちは分からないでしょう」
視察の2日目、福島県いわき市で、市議を務める佐藤和良さんが、私にこうつぶやいた。
初日に訪れた浪江町請戸地区では、本来、水の上にあるべき漁船が陸の上に打ち上がっていた。浪江駅前では、2011年3月12日付けの朝刊が、誰の手に渡ることもなく積み上げられたままだった。子どもたちの明るい声が今にも聞こえてきそうな校舎には、ネズミの糞が散乱する机が並んでいた。隅々まで物悲しく映る避難指示区域のこうした光景の数々は、私の心に重々しくのしかかった。
それでも、福島は私が生まれ育った場所ではない。私は震災前の被災地の風景を見たこともなければ、生活の音を聞いたこともない。かつての町の姿を知らない私には、佐藤さんの気持ちは確かに計り知れない。その通りである。
佐藤さんのこの言葉は、震災前の、人が息づいていた頃の町を知る者の、本音なのだろうと思う。ユーモアを交えて被災地の現状を話してくれた佐藤さんだったが、この日、バスを降りて外を歩くことはほとんどなかった。
▲富岡第一小学校近くの商店街に貼られていたポスターには、ちょうど3年前の桜まつりの告知が…。「夜の森」は双葉郡一の桜の名所だ
▲津波で駅舎が流された富岡駅周辺は除染が進まず、雑草が茫々と生えている。モニタリングポストの表示は、「0.389μSv/h」
視察2日目
首都圏反原発連合(以下、反原連)による、避難指示区域視察2日目(4月20日)、一行を乗せたバスは宿泊した旅館を後にし、いわき市役所へ向かった。この日、一日を共にする地元の協力者4人と落ち合うためだ。
いわき市議の佐藤さんが、その一人だった。佐藤さんは20年以上前から、原発の安全性について東京電力と交渉を続けてきた、根っからの「脱原発」市民の一人である。2004年に初当選し、福島原発事故後は、事故の責任を明らかにするため、東電会長ら33人を刑事告訴する福島原発告訴団を発起。他にも、市民による放射能測定室「たらちね」を立ち上げるなど、常に原発事故の不安を強いられた市民を前線で勇気づけてきた。
そして、佐藤さんと一緒にバスに乗り込んだのは、「TEAMママベク」の3人。いわき市内で、子どもたちを被曝から守ろうと活動する母親たちだ。この日は、普段、足を踏み入れることができない避難指示区域内に入り、測定を行なった。
▲視察2日目、楢葉町と富岡町を案内してくれた佐藤和良いわき市議
帰還の実態
2日目の視察ルートは、福島第一原発から南に約10キロにある富岡町と、隣接する楢葉町だ。いわき市を出発したバスは国道6号線を北上し、目的地を目指した。楢葉町手前の広野町に差し掛かったとき、佐藤さんがマイクを取り、口を開いた。
「ここ広野町は5000人強の人口のうち、約1200人が帰還しているそうです。学校も再開していますが、子どもたちは、避難先からここまでスクールバスで通学しています。町に戻りたいのは、望郷の念が強い60代以上。子育て世代は避難先から戻りません。どこでもその傾向は同じですね」
広野町は、2012年3月に避難指示が解除されてから、町民の帰還が始まった。しかし、解除から2年が経った今も、町へ戻ったのは住民の1/4にも満たないという。昨年12月、町民対象に実施したアンケート結果(※注1)では、戻らない理由に、原発の状態が未だ不安定であることや、放射線の影響に対する不安をあげる住民が多く見られた。
19日に私たちを案内してくれた、馬場いさお浪江町議も、浪江町民の4割が帰町しないと決めていること、別の4割は帰還の判断がつかないこと、戻りたいと考えているのは2割に満たないことを教えてくれた。
現在、政府は、住民帰還を目指し、原発事故被災地の復興を加速させようとしているが、地震と津波に加え、放射線被曝と、それによる避難生活の長期化という四重の被害に苦しむ住民の本音は、政府の思惑と一致してはいない。
▲楢葉町は国直轄による除染をほぼ終え、帰町時期を近々判断するとされている。仮置き場には、除染土が入った大量のフレコンバッグが並ぶ
▲仮置き場の向こうに見えるのは、稼働中の東電・広野火力発電所。東京へ電力を送電している
「原発事故さえなかったら」
私たちは楢葉町に到着した。楢葉町は、佐藤さんが15歳まで育った町だ。この町に、佐藤さんの叔母が住んでいた。
「私の叔母は、津波で亡くなりました」
3月11日の大震災で、楢葉町に住んでいた佐藤さんの叔母の家が、津波に襲われた。翌日12日には避難勧告が出され、立入りが禁じられたため、ただちに捜索に乗り出すことはできなかった。地震から2ヶ月後、叔母は変わり果てた姿で発見された。DNA鑑定により遺体として確認されたという。
「叔母は足が不自由で、隣の方におぶってもらいながら逃げたそうですが、結局、津波にのまれてしまいました。12日には避難指示が出たので、叔母を探せませんでした。助かったかもしれないのに、助けられなかった。原発事故さえなかったら、次の日の朝から捜索できたのに…」
原発事故さえなかったら、助かった命があったかもしれない。瓦礫が放射線で汚染されていなければ、瓦礫はすでに撤去され、復興はもっと進んでいたはずだ。佐藤さんは、「原発事故さえなかったら」という言葉を何度も繰り返した。
▲楢葉町前原地区でバスを降りた反原連のメンバーたち。この辺りは、10メートルを越える津波が襲った
誰が避難指示を解除するのか
楢葉町は、町のほぼ全体が「避難指示解除準備区域」に指定されている。国直轄で除染を進めたこともあり、私たちが歩いた前原地区の空間線量も、毎時0.1マイクロシーベルトと高くはない。
楢葉町の避難指示が解除される日も、近いのだろうか。そもそも、避難指示は、誰がいつ、「解除」の決定を判断するのか、佐藤さんに聞いた。
「住民が、『はい』と言ったらですよ」
佐藤さんは、続けた。
「『年間20ミリシーベルト』という基準を受け入れるかどうかです。この数値は、科学的、医学的に安全かどうか、という基準ではありません。(被曝することを)我慢できるかどうかということだけです」
避難指示解除準備区域が、「追加被曝線量が年間20ミリシーベルト以下であることが政府により確認されている地域」であることは前編で記述したが、避難指示の解除には3つの要件を満たす必要があると、内閣府被災者支援チームの担当者は説明する。
1) 空間線量率が、年間20ミリシーベルト以下であること
2) 日常生活に必要なインフラや、生活関連サービスがおおむね復旧し、子どもの生活環境を中心として除染作業が十分に進捗していること
3) 解除にあたっては、県と、市町村の住民との協議を踏まえること
これらを満たそうにも、「おおむね」や「十分に」などと基準は曖昧で、明確な答えがないから困難なのだ。国、県、自治体、住民それぞれの思惑が交錯し、住民の間に軋轢や分断が生じることもある。
年間20ミリシーベルトという数値も、事故前の被曝限度と比べて20倍であることを考えれば、形式的に基準値以下だからといって、「安全」と認める住民はいないだろう。放射線の健康被害を案ずる子育て世代の多くが、避難先から戻らないケースが多いという現実も、容易く想像できる。
5月下旬、帰町時期を判断する楢葉町
2012年4月に再編され、避難指示区域に設定された11市町村のうち、この2年の間に避難指示が解除されたのは、田村市の1市のみ。線量の低い楢葉町も有力候補に名乗りを上げ、5月下旬にも、帰町時期を判断すると言われている。しかし、除染の効果や福島第一原発の安全性を危惧する声がいまだ根強く、帰還に慎重な声も多い。町内には、行き先の分からない大量の除染廃棄物が積まれたまま、仮置き場もあちこちに点在したままだ。
「決定を延期するかもしれないね…」
除染の効果や賠償の問題、3年間機能していなかった町のインフラ整備など、線量が低いというだけではクリアできない、帰還の難しさを佐藤さんは代弁した。
▲楢葉町天神岬に建てられた原発作業員の宿舎。佐藤さんによると、毎日約5,000人の作業員が働いているという
「TEAMママベク 子どもの環境守り隊」
【IWJルポルタージュ】「事故が忘れられていく」〜福島原発事故から3年と1ヶ月、立入りが制限された20km圏内の今(後編)━ぎぎまき記者 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/139492 … @iwakamiyasumi
知らされないまま、忘れさられようとしている原発事故の悲惨さ。
https://twitter.com/55kurosuke/status/585066799013593091