70年代「伊方原発訴訟」、原告主張は完全的中した ~気骨の熊取四人「原子力ムラは猛省せよ!」 2013.11.22

記事公開日:2013.11.22取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・富田/奥松)

 フクシマショックのような、原発過酷事故はいつか起こると、警鐘を鳴らし続けてきた学者グループが存在する。川野眞治氏、海老澤徹氏、小林圭二氏、今中哲二氏、小出裕章氏、そして1994年にがんで逝去した瀬尾健氏の6人だ。彼らは全員、京都大学原子炉実験所の(元)研究員で、同実験所の所在地、大阪府泉南郡熊取町にちなんで「熊取六人衆」と呼ばれてきた。

 2013年11月22日、京都大学北部キャンパス農学部総合館。京大学生有志の企画による「熊取六人衆講演会 in 京都大学 熊取の学者たち~学問のあり方を問う~」で、その川野氏、海老澤氏、小林氏、今中氏が演壇に立ち、マイクを握った。

 海老澤氏は、1970年代の「伊方原発訴訟」で、いち早く原発過酷事故の危険性を指摘した当時の住民側の主張は、その後の日本で、どれも的中したと強調し、正論に耳を貸そうとしなかった裁判所の姿勢を改めて断じた。「日本の原発は『過酷事故は絶対に起きない』という前提で開発されているため、ひとたび事故が起きたら対処法がわからず、現場は大混乱に陥る」。

記事目次

■ハイライト

  • 内容 10:00~ 講演会1 川野眞治氏(元京大原子炉実験所助教授、2005年退職)、11:20~ 講演会2 海老澤徹氏(元京大原子炉実験所助教授、2002年退職)、13:35~ 講演会3 小林圭二氏(元京大原子炉実験所講師、2003年退職)、14:55~ 講演会4 今中哲二氏(京大原子炉実験所助教)

 「伊方の原発訴訟では、現地の住民と交流を深めながら、原発のことをずいぶん勉強した」。最初に登壇した川野氏(元京大原子炉実験所助教授、2005年退職)はこう語り、自身が原発の危険性を訴える立場を貫いてきたことを表明した。「若い時分に、原発関連の市民運動と関係できたことが、とても良かった」。

 伊方の反原発訴訟とは、愛媛県西宇和郡にある四国電力の「伊方原子力発電所」の安全性を巡り争われた行政訴訟。1978年に請求棄却となり、最終的には1992年に、最高裁が上告を棄却し、建設に反対する住民側の敗訴が決まるも、原発の「メルトダウン(炉心溶融)」リスクが初めて指摘された訴訟として名をはせることになる。

 「70年代は、国策として軽水炉原発(冷却材に純水を使う一般的な原発)の建設が推し進められた時代。原告団からの、専門知識の面でサポートしてほしいという要請に応じ、私は(反原発運動家であった)故・久米三四郎氏(大阪大講師)ら原告側補佐人を手助けする役割を引き受けた。現地で合宿を行い、弁護士ともかなり議論を重ねた。訴訟のための書類づくりにも協力した」。

 川野氏は「一昨年3月の福島原発事故が起こる前までは、原発推進派の学者は皆、『炉心が溶融するような過酷事故は起きない』と断言していた」と指摘。伊方原発訴訟の裁判でも、推進派の言い分はその一点張りだった、とした。

 しかし、「過酷事故」は現に起こっている。1957年のウインズケール火災(英国)を皮切りに、1979年のスリーマイル島事故(米国)、1986年のチェルノブイリ事故(旧ソ連)、1999年のJCO臨界事故(日本)、そして2011年の福島事故。川野氏は言う。「およそ10年に1度のペースで『過酷事故』が発生しており、そのうち2回は日本で起こっている」。

原告団の主張に先見性あり

 川野氏は、伊方訴訟の裁判には不可解な点があったと述べる。「1973年8月に松山地裁に提訴し、1978年4月に請求が棄却されているが、判決前に裁判官が2度も交代している」。

 1審の判決は、専門性の高い科学論争の現場に立ち会っていない裁判官によって下されたというのである。「思い出すだけで腹が立つ」と語気を強めた川野氏は、その折の判決文は、原発を推進する国側の主張を引き写した内容だったと指摘した。

 原告団はその後、高松高裁に上告するも1984年に請求が棄却され、1992年の最高裁による上告棄却で、住民側は完全に負けた。

 川野氏は、裁判で敗れはしたものの、当時の住民側の主張は、今の時代にも十分通用すると言明。その内容を、次のように読み上げた。「重大(過酷)事故は、人々の環境と健康に取り返しのつかない被害をもたらす」「原発の煙突からは、平時でも処理できない核分裂生成物が一定量排出されており、環境汚染と健康被害をもたらす恐れがある」「核廃棄物の処分の見通しが立っていない」「核燃料サイクルで作られるプルトニウムは軍事転用されやすく、核兵器の拡散につながる」──。

 これらに加え、原子力推進のための「情報統制」を巡る懸念が、住民側から提示されていたという。川野氏は「当時、私たち原告団が発した警告は、その後の日本にすべて起きている」と強調し、「伊方原発訴訟の原告団には先見の明があった」と結んだ。

 「震災翌日の昼のテレビで、枝野幸男官房長官が、福島第一原発1号機の水位が下がっていることを報告していた。それで、ことの重大さを知った」。川野氏の次にマイクを握った海老澤氏(元京大原子炉実験所助教授、2002年退職)は、一昨年の3月12日のことを話した。

専門性なき首相が「事故対応」する非常識

 「炉心溶融は、もはや時間の問題だとすぐに確信した」と続けた海老澤氏は、そのニュースを見るまでは、福島第一原発がそこまで危機的状況にあることは、まったく気づいていなかったと明かした。

 海老澤氏は、後になって知ることとなる、前日の11日の流れをさらった。津波に襲われた約1時間後の16時45分に、同発電所所長の吉田昌郎氏(2013年7月に他界)が、2000年に施行された「原子力災害対策特別措置法」に基づき、炉心溶融が不可避であることを伝える「15条通報」を国に出しており、15条通報を受けた国は、直ちに「原子力災害対策本部」を設置するのだが、同本部では菅直人首相が責任者になる(特別措置法第17条は 「原子力災害対策本部の長は、原子力災害対策本部長とし、内閣総理大臣をもって充てる」としている)──。

 海老澤氏は、次のように力を込めた。

 「菅さんは、原発に関してはまったく素人だった。確かに、東工大出身ということで、理系の知識は備わってはいただろう。だが、そういった点を考慮しても、菅さんが素人であったことに変わりない。そういった素人が、原発事故対応に従事するというのは、常識では考えられないことだ」。

 海老沢氏は、米国だったら、同様のケースでは、炉心溶融が起こる手前ぐらいまでは現場の運転作業員らが対応するが、そこから先は、必要な技術を蓄積している規制当局が、すべての責任を持って事態に対応するルールになっていると語った。

 「福島事故が起こるまで、日本の原発推進派の間には『原発事故は絶対に起こらない』という安全神話が横たわっていた。1999年のJCO臨界事故を教訓に、原子力災害対策特別措置法が作られるまで、原発事故対応の法律が日本に皆無だったことが、その証拠といえる」。

米英仏独は高速増殖炉からすでに撤退

 海老澤氏へは、客席からこんな質問が飛んだ。「3月12日に、枝野官房長官が1号機の水位低下を発表した後で、東大の教授らがテレビで『原子炉は停止し冷やされているので安全だ』と発言しているが、あれは、彼らの知識不足によるものなのか、あるいは、ある種の情報操作の意図が込められていたのか」。

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