広河隆一氏「窮状を訴える人たちに『自分はジャーナリストだから取材しかしない』とは言えない」 ~講演会「原発事故と子どもたち」 2013.11.2

記事公開日:2013.11.2取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・富田/奥松)

 2013年11月2日、京都府宇治市の京都文教大弘誓館で、フォトジャーナリスト、広河隆一氏の講演会「原発事故と子どもたち ─報道と保養キャンプの現場から考える」が行われた。

 「生涯、現場主義」にこだわる広河氏は、被災地の取材には「救援活動」を伴って当然、との持論を展開。原発事故後の対応については、「今の日本政府より、旧ソ連政府の方がよほど人道的」との見方を示した。

■ハイライト

 「最初に、私が手掛けている雑誌のことを話してみようと思う」。マイクに向かった広河隆一氏は、月刊『デイズジャパン』について語り始めた。

 同誌は、1980年代のバブル期の終盤に、講談社から創刊された出自を持つ。世界各地の戦場や環境破壊の現場に取材し、写真を大胆に活用するビジュアル重視の誌面づくりが特徴だ。広瀬隆氏(作家)と広河氏による創刊号記事「4番目の恐怖」は、チェルノブイリ、スリーマイル島、青森県六ヶ所村などで起こった、放射能汚染の危険を訴える内容だった。

 「講談社時代、『デイズジャパン』の姿勢を電通や博報堂が怖がった。広島・長崎の核問題だったらまだしも、原発というテーマを、広告が入る雑誌が(批判的に)扱うというのは、ある種のタブーだったからだ」。海外に進出した日本メーカーが現地にもたらした環境問題なども報じたため、同誌は、講談社の広告収入を圧迫する要因となる。一方では、誤報問題も生じさせており、「結果的には、講談社内にもだいぶ敵を作ってしまった」。結果的に『デイズジャパン』は2年弱で廃刊に追い込まれた。

 それから10余年。同誌に関わった人が中心となり、同じ呼称の法人を設立、『デイズジャパン』を復活させている。再創刊は2004年のことで、広河氏が新編集長に就任した。

 新『デイズジャパン』は、来春で創刊10周年を迎える。広河氏はすでに、編集長の座を若い世代に譲ることを宣言しており、この日のスピーチでは辞任の理由を、「私の健康上の問題だが、『ここまでしかできなかった』という落胆も響いている」と説明した。「根強い購読ニーズなどに支えられ、赤字は経験していない。ただ、私は『デイズジャパン』を、原発の再稼動や輸出の流れを阻む、力のある媒体にまでは育て上げられなかった」。

ペンとカメラと「救援物資」で被災地を再訪問

 「デイズジャパン(会社)の定款には、出版とそれに関連する広告宣伝活動以外に、もうひとつ、救援活動がある」。こう話す広河氏は、「チェルノブイリを取材すると、その窮状がよくわかる。つまり、現地の人たちに対し『われわれはジャーナリストだから、取材しかしない』とは言えないのだ」と強調した。

 救援活動は、旧『デイズジャパン』時代に、チェルノブイリ原発事故の被災者支援から始まった。広河氏は「われわれは、現地でどういう病気が広がり始めているかを把握している。ならば、日本から、必要とされる薬などを持っていくのが筋だと考えた。また、食材用の放射能測定室が必要とされていることもわかっていたため、それに必要な機器も運び入れることにした」と述べた。

 「救援物資に関しては、その後はコンテナで日本から大量に届けることになったものの、被災地域が広大だったため、全部をカバーすることはできず、対象を子どもたちに絞り込んだ」。広河氏らは、汚染地域の子どもたちに抵抗力のある身体を取り戻させようと、安全な場所への「保養所」の設置を計画する。「現地の大学の先生、ドイツとベラルーシのNGO(国際協力組織)、それとチェルノブイリ子ども基金(広河氏が1991年に設立したNGO)の協業で、1994年には建設が無事終了。その後は、われわれが施設の運営を受け持っている」。

お母さんたちは「被曝した私が悪い」と自責しがち

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