「原発事故が忘れられていく」——。
原発事故から3年と1ヶ月の間、手入れされず朽ちていく我が家を、想像したことがあるだろうか。家の主がいなくなった部屋は、降り積もった埃で灰色に染まり、割れた窓ガラスからはみ出したカーテンが、物悲しく揺れている。そんな嘘のような日常が、福島県内のあちらこちらで今もなお、広がっている。
2011年末から、官邸前を中心に、反原発抗議行動を続けている首都圏反原発連合(以下、反原連)は、2014年4月19日と20日の2日間、東京からマイクロバスをチャーターし、福島県に向かった。避難指示区域を視察するためだ。
2011年3月に発災した、東京電力による福島第一原発事故は、未だ収束しないまま、現在に至る。高線量に汚染された地域は「避難指示区域」に設定され、そこで暮らしていた住民、約80,000人が、現在も自分の家に戻ることができず、避難を強いられている。
IWJ(私とカメラマン)は反原連のメンバー約20人に同行し、避難指示区域の視察に同行。現地の様子をカメラに収め、取材中に出会った地元の方の声を記録した。
「福島」を後回しにした政府
4月11日、自民党の安倍政権は、新エネルギー基本計画を閣議決定した。原発を「重要なベースロード電源」に位置づけ、民主党の野田政権が打ち出した「2030年までに原発ゼロ」という方針を完全に撤回。決定的な原発回帰を宣言した。
閣議決定直前の4月上旬、自民・公明両党が、福島原発事故に対する「深い反省」を謳った一文を、基本計画の前文から削除したことも発覚。党内からの批判が相次いだことから、該当部分は再び記載されたものの、原発事故を軽視する与党の本音が明るみになり、原発事故被災者の気持ちを逆なでした。
原発事故から3年、脱原発世論は約8割
事故から3年経った今、脱原発世論は、どうなっているのだろうか。
ピーク時、反原連が主催する官邸前抗議行動は、約20万人の参加者で埋め尽くされた。現在、その数は2,000人程度に落ち着いている。人数の減少傾向から、反原発世論の低迷を指摘する声もある。しかし、反原発運動は、東京のみならず、この3年間で全国に飛び火し、今でも、全国各地で定期的に行なわれており、その不撓不屈の思いは、世論調査の数字に明確に現れている。
3月中旬の朝日新聞が実施した世論調査(※注1)によると、77%が脱原発を支持、原発再稼働の賛否については、反対が59%で、賛成の28%を大きく上回った。安倍政権の方針は、国民の支持を得ていない。この点だけははっきりしている。
- (注1)原発再稼働「反対」59% 朝日新聞世論調査(ページ削除)
小泉元総理も「脱原発」
「脱原発の世論の土台は、過去3年間の市民運動で培われてきた。(先の都知事選で)小泉元総理があれだけ堂々と脱原発を打ち出せたのも、土台があってこそ」
反原連のミサオ・レッドウルフさんはそう語る。
「それでも私たちは、どうしても日々の暮らしに流されてしまう。事故が起こったらどうなるのか、私たちは、思い出さないといけない。実際は自分の目で見るのが一番だが、(画面を通して)原発事故の被害の実態そのものを、見てもらいたい」
これまで市民の手で反原発運動を築きあげてきたことに誇りを抱いているミサオ・レッドウルフさんだが、世論に耳を傾けない、政府の挑発的な姿勢に、強い危機感も覚えている。福島入りの目的について答えるミサオさんからは、原発事故の被害の実態を今一度胸に刻み、伝えたいという、焦り混じりの気迫のようなものが感じられた。
全町民が避難している、双葉郡浪江町
ミサオさんに話を聞いたのは、福島県南相馬の道の駅。そこで反原連一行は、この日の案内役、双葉郡浪江町の町議、馬場いさおさんと合流した。
▲浪江町に向かうバスの中で、町民の避難の現状を説明する馬場いさお町議
馬場町議は8期という経歴を持つベテラン議員だ。昨年4月に行なわれた浪江町議選では、23人の候補者の中でトップ当選を果たしている。馬場さんは、被害の状況を伝えるため、要請があれば、できるかぎり視察に同行し、案内役を買って出ているという。
福島県双葉郡浪江町(なみえまち)は、福島県浜通りに位置し、福島第一原発からは約9kmの距離にある。3月11日の午後7時、政府は原子力緊急宣言を出し、翌朝5時44分、半径10km圏内の住民に避難指示を発令。圏内の住民らは、避難指示に従い、まさに、財布も箸も持たない状態で家を出た。
「数日、避難すれば大丈夫だろう」——。
多くの人がそう思ったに違いない。それから3年と1ヶ月もの間、自分の家に戻ることができないなどと、誰が予測しただろうか。浪江町民は今現在も、全員が避難を余儀なくされ、その数は、20,320人にのぼるという。
『避難指示区域』の基本的考え方
▲避難指示区域の概念図と各区域の人口及び世帯数(平成25年12月末時点)
(出典:経済産業省)
「避難指示区域」について、おさらいしたい。
2012年4月1日、福島第一原発周辺の市町村の避難区域は再編され、「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の3つに区分された。
・「帰還困難区域」—―5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50 ミリシーベルト超の地域
・「居住制限区域」—―年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、住民の被曝線量を低減する観点から、引き続き避難の継続が求められる地域
・「避難指示解除準備区域」—―年間積算線量20ミリシーベルト以下となることが確実であることが、確認された地域
現在、帰還困難区域で約24,700人、居住制限区域で約23,300人、避難指示解除準備区域で約32,900人と、福島県内の約80,000人の県民が、自宅に帰還できていない。
▲雑草で覆われたJR常磐線の線路。無人の町である。ここが避難区域であることは、ぱっと見ただけでは分からない
南北への道が閉ざされた線路
「私はここに立つ度に、行く手を遮られていることを実感します」
私たちを乗せたバスは、JR常磐線の線路が見下ろせる場所で停車した。立入りが制限されているJR常磐線の広野駅と原ノ町駅の区間は、現在も不通となっている。馬場さんは、南北への道が閉ざされてしまった町の閉塞感を、こう表現した。
目では見えない、放射線被害の無残さ
「この景色だけを見ると、『何でもないじゃないか』と思うかもしれませんが、以前は、家の中を豚や牛が野放し状態でした。大動物は処分されましたが、今は、ネズミやハクビシンなどの小動物が歩き回っています。家の形がそっくりそのままでも、もう住むことはできません」
馬場さんは、ひと目で目視だけでは分からない被害の実態を説明した。確かに、目の前に広がる風景は、雑草が荒々しく伸びていること以外、特段、悲惨さを物語ってはいない。馬場さんが、目に見えない被害の実態をよりリアルに伝えるために、あえてそう説明する理由が分かる。
人の温もりを失った街の異様さは、しばらくただずんでいるうちに、ひたひたと迫っている。生活の音がない。人の声がしない。景色の中に、動くものが全くといっていいほど、いないのである。段々と、ここは無人の町なのだ、ということが全身で了解されてくる。物悲しさが充満してきて、息が詰まりそうになった。
「みなさんが息を止めても、残念ながら被曝します」
馬場さんが手にしたHORIBAの線量計は毎時約1.7マイクロシーベルトを表示した。年間に換算すると、約8.7ミリシーベルト(※注2)。私が暮らす東京都世田谷区の毎時約0.1マイクロシーベルトと比較すると、約17倍。
馬場さんのこの言葉に、この日初めて、被曝することへの恐怖感を味わった。
年間50ミリシーベルト超えの「帰還困難区域」へ
【IWJルポルタージュ】「事故が忘れられていく」〜福島原発事故から3年と1ヶ月、立入りが制限された20km圏内の今(前編)━ぎぎまき記者 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/138308 … @iwakamiyasumi
テレビが伝えない「避難指示区域」の今。これで、復興だって?
https://twitter.com/55kurosuke/status/585066450706046976