「町民は、慣れない土地での生活に、肉体的、精神的にも蝕まれている。憲法13条の、幸せになる権利は、どうして私どもにはないのか」──。
2014年1月25日、青森県の八戸市福祉公民館で、八戸医療生活協同組合創立24周年記念学習講演会「ふくしまの現状と浪江町の取り組み」が開催された。講師は、福島県双葉郡浪江町の馬場有(たもつ)町長。浪江町では、2万人を超える全町民が全国に避難しており、その現状と問題点、今後の取り組みなどが報告された。
(IWJテキストスタッフ・阿部玲/奥松)
「町民は、慣れない土地での生活に、肉体的、精神的にも蝕まれている。憲法13条の、幸せになる権利は、どうして私どもにはないのか」──。
2014年1月25日、青森県の八戸市福祉公民館で、八戸医療生活協同組合創立24周年記念学習講演会「ふくしまの現状と浪江町の取り組み」が開催された。講師は、福島県双葉郡浪江町の馬場有(たもつ)町長。浪江町では、2万人を超える全町民が全国に避難しており、その現状と問題点、今後の取り組みなどが報告された。
■ハイライト
「3.11以来、私どもの基本的人権は、すべて失われている」と、冒頭で馬場町長は訴えた。「私自身、90歳の母親と妻と3人で暮らしているが、35歳の長男の嫁と子どもは福島市に避難して、世帯が別々になっている。こういう世帯は、普通の状況だと7700世帯だったが、現在は11000世帯となっており、家族が離ればなれの生活を余儀なくされている。仮設住宅では、浪江町民、他地域の避難者、地元の人たちなどがバラバラに住んでおり、あまり会話をすることもない。家族の絆、社会の絆、学校の旧友の絆、全部が失われている」と現状を報告した。
「憲法第13条に謳われている、幸せになる権利は、どうして私どもにはないのか?」と嘆き、さらに、「津波では182名が亡くなったが、この1052日間で震災関連死が315名。孤立感、慣れない土地での生活、肉体的、精神的にも蝕まれている。憲法第25条の生存権すらも失われている」と、語気を強めた。
「介護認定審査会での、要支援1と2の方が、普通の年の約2倍。一方、要介護は現状維持。なぜかというと、そのクラスの人が亡くなっているからだ。そして、1と2の方は3と4へと状態が悪化している。浪江町からの避難者は、46都道府県と外国にまで及んでいる。全国の避難先に心の支援をお願いしているが、十分ではなく、悩みの種となっている」。
続けて、浪江町の紹介をした。「2011年3月11日の住民基本台帳に基づく人口は2万1434人だったが、現在は2000人減っている。町の面積223.3平方キロメートルのうち、山林が70%で、海、川、山があり、自然が豊かな、ありふれた日本の光景だった。魚介類は年間20億円の水揚げがあり、アイナメ、メバル、伊勢エビ、秋には鮭が遡上してきた。酒の醸造元は3つあったが、寿酒造は山形県寒河江市に移転し、残り2つは後継者不足もあり、廃業した」と述べた。
「一方、全国グルメイベントの『B-1グランプリ』では、『浪江焼きそば』が2013年のグランプリをいただいた。避難先の二本松市東和町の道の駅で、浪江焼きそばの再興をしてくれたのが、皆さんの地元、青森・八戸のせんべい汁研究所。こんなに支援をいただいて、頑張らないとわれわれが笑われてしまう、という思いだった。テレビ番組の『DASH村』は、浪江町の赤宇木(あこうぎ)地区にあったが、放射線量が高く、今は休村。避難者の数は、福島県内が1万4659人、県外が6455人。被災直後と現在とで、状況はほぼ変わっていない」。
原発事故当初の状況について、馬場町長は「浪江町は、1997年に原子力防災連絡協定を国と結んでおり、たとえば、建屋内で『絆創膏を落とした』とか、とても小さいことでも連絡することになっている。しかし、原発事故が起きた時、立地町(大熊町・双葉町)には連絡が行ったが、隣接地であるわれわれの町には、何も来なかった」と振り返った。
「当時は、津波被害の対応に追われ、恥ずかしいことだが、180人の町職員の誰も、原発事故に思い至らなかった。テレビしか情報がないので、役場の非常用電源でテレビを点けっぱなしにしていた。3月12日の5時44分、首相官邸から原発10キロ圏内の避難指示が出された時は、『やられた』と思った」。
その後の避難先でのさまざまな出来事についても、馬場町長はため息をつく。「病気を抱えた避難者の多くは、心臓病とか糖尿病の薬を飲んでいるとはいっても、薬の名前までは覚えていなかったので、治療はほとんどやり直しとなった。浪江町の医者は、法的に二本松市で診療できず、役所にお願いに行っても、彼らは平時の法律を使って断ってくる。当時は非常時、野戦病院のような状態なのに。仕方がないので診療を強行したが、それで文句を言って来た人はいない。終わってから、『よくやったね』とまで言ってくる。ばかばかしい話だ」と、役所の紋切り型の対応に憤りを見せた。
さらに、「仮設住宅も3年目に入り、床が抜けて来たり、さまざまな不具合が出てくる。しかし、修理を依頼すると『いや、まだ3年しか経ってない』と言う。『まず現状を、現場を見てくれ』と担当者を引っ張ってきて、『あんた、ここで生活できる?』と訊いても、『いや。もうちょっと…』などと言う。そこで、『うちの予算でやって、あとで県の方に請求書を回します。それでいいですか』と脅しをかけると、ようやく、やる」と実例を紹介し、「平時ではないのだから、特別法でやっていくべきだ」と主張した。
「浪江町が、たとえば(避難先の)茨城県のどこどこ町に言っても、聞いてくれない。県が言わないとダメ。でも、県はやらない。自分は人が良い方だが、だんだんと(性格が)悪くなってくる。自分の目の前で、担当者に確認の電話させたりすると、『そこまでしなくても』と言われるが、『あんた達は、やるやると言って、いつまでもやらないから』と言い返す」。馬場町長は、時に会場の笑いを誘いながらも、苦労したエピソードを紹介した。その上で、「こうした、寝る暇もない日々が、50日も続いた。おかしくもなってくる」と本音を漏らした。
最後に、馬場町長は「ホームページ上で、浪江町内に設置された40台のカメラを用いて、『ふるさとの今』をリアルタイムで流している。いつでも故郷が見える安心感を提供することにより、避難民のきずなを再生、維持する狙いがある。カメラによって、町内の火災が2件発見されたこともある」と話した。
さらに、「ホールボディカウンターによる被曝検査や、甲状腺検査の結果も発表。全国で避難者の『しゃべり場』を作ったり、スポーツ大会を企画したりもしている。山形、新潟、埼玉、千葉、京都には、復興支援委員を配置しているが、今年はさらに5ヵ所、増やして行く。放射線測定器やガラスバッジを、町民全員に配布もしている」と、現在の取り組みを紹介した。